期末試験の前日。
昼休みの教室でミクは弁当箱とは別に小さな保存容器をひとつ鞄から取り出した。
「ミク、それなに?」
「えへへ。勉強会のお礼のほんの前払い」
首をかしげるリンに笑いかけてから、ミクは窓際の席へ向かった。いつものようにケイヤとレンが並んで昼食をとっている。ケイヤの前には今日も菓子パンが一つきりだった。
「ケイヤ君、これ、よかったら食べて」
「え?」
差し出された容器のふたを開けると、ふんわりと焼き上がった卵焼きが四切れ並んでいた。断面には緑色の刻みネギがぎっしりと詰まっている。
「ネギ入り卵焼き。毎日勉強見てもらってるのに何もお返しできてないから」
「そんな、お礼なんて……」
「いいからいいから。パンだけじゃ午後の授業でお腹空いちゃうよ」
遠慮するケイヤの手にミクは割り箸を握らせた。隣のレンが「ミクさんの卵焼き、すごくおいしいよ」と小声で後押しする。
ケイヤは観念したように一切れを口に運んだ。
しばらく黙って噛みしめてから、目を見開く。
「……おいしい」
「でしょー!」
「本当においしいです。出汁が効いていてネギの甘さがちょうどよくて」
ケイヤは二切れ目に箸を伸ばした。その食べっぷりにミクは満足げにうなずく。
「ネギはね、火を通すと甘くなるんだよ」
「初音さん、本当に料理が上手なんですね」
そう言ってからケイヤはふと、不思議そうな顔をした。
「あの……前から気になっていたんですけど、アンドロイドって、どうしてご飯を食べるんですか?」
「どうして?」
「はい。充電とかで動けるんじゃないかと思っていたので」
「あ、それよく聞かれる」
ミクは自分の唐揚げを一つつまんでから、説明を始めた。
「わたしたちの体って、モーターじゃなくて、人工の筋肉で動いてるの。その筋肉を動かすエネルギーは食べたものを体の中で分解して作ってるんだ。人間と同じで食べないと力が出ないの」
「そうだったんですか」
「それにね、食べることも勉強のうちなんだって」
「勉強?」
「うん。人間の社会ってご飯のまわりで回ってることがすごく多いでしょ。誰かと一緒に食べたり、おいしいねって言い合ったり、好きな食べ物の話をしたり。そういうのを知らないと、人間のことはわからないから」
ミクはネギ入り卵焼きの容器をちょんと指さした。
「だから、アンドロイドにも味覚があって、好き嫌いもあるの。最初は好みなんてほとんどなくて、いろいろ食べていくうちに、だんだんできてくるんだって」
「……でも、初音さんのネギ好きは?」
「ネギは最初から好きだったよ」
「最初から」
「うん。なんでだろうね?」
本気で首をかしげるミクにケイヤは思わず小さく吹き出した。
「ぼくとリンはたぶん好き嫌いができるのが早かったほうだと思う」
レンが自分の弁当の煮物をつつきながら言った。
「ぼくたちミクさんより先に造られてるから。中学から学校に通ってた分、いろいろ食べてきたし」
「えっ、レンの方が先なんですか?」
ケイヤが意外そうにまばたきした。
「でも、初音さんは十六歳で、レンは十五歳ですよね」
「年齢は見た目と学年に合わせて決められてるだけなんだ。造られた順番とは関係ないよ」
レンは指を折って数えた。
「この四人だと、一番先に造られたのがルカ先輩。その次がぼくとリン。リンとは同時に造られたから、双子ってことになってる。それで一番新しいのが――」
「わたし!」
ミクが元気よく手を挙げた。
「だからリンはわたしにとってはお姉さんみたいなものなんだ。リンはそう呼ばれると調子に乗るからあんまり言わないけど」
「聞こえてるよー、ミクー!」
教室の向こうからリンの声が飛んできた。ミクとレンはそろって肩をすくめた。
*
放課後。最後の勉強会はいつもの図書室のいつもの窓際の席で始まった。
「今日は総仕上げです」
ケイヤが鞄から取り出したのはホチキスで綴じられた冊子だった。表紙には手書きで『期末試験 模擬問題(化学・数学・英語)』とある。
「これ、全部ケイヤ君が作ったの?」
「はい。各教科、本番と同じくらいの難しさにしてあります。一教科二十分で解いてみてください」
十ページ以上ある。ミクはケイヤの目の下にうっすらと残る影に目を留めた。けれど、何かを言う前にケイヤは時計を机の上に置いていた。
「では、始めてください」
化学のページを開く。
物質量、化学反応式、濃度の計算。どの問題を見てもノートの中の少し曲がったネギの絵が頭に浮かんだ。三本で一束。レシピの分量。迷うことなく、ペンが進んでいく。
一週間前は問題文を読んだだけで霧がかかったようになっていたのに。
数学のページに移って数問目に取りかかった頃だった。
「ねえ、音無君。ちょっといい?」
明るい声とともに一人の女子生徒が机の横に立った。
茶色のショートヘアにきりっとした目元。同じ一年三組の、咲音メイコだった。クラスの女子の中心にいることの多い、面倒見のいい人間の生徒だ。手には数学の問題集が開かれている。
「この二次関数の問題、どうしても答えが合わなくて。悪いけど、ちょっとだけ見てもらえないかな」
「あ、はい。どこですか?」
ケイヤは立ち上がり、メイコの問題集をのぞき込んだ。
「ここ、平方完成の符号が逆になってますね。マイナスをくくり出す時に……」
「あっ、本当だ! うわ、何回見ても気づかなかった」
二人の会話が図書室の静けさの中に小さく響く。
ミクは顔を上げて二人の様子を見た。
ケイヤがメイコに説明している。自分以外の誰かに勉強を教えている。
ミクはその情報を記録した。そして、特に何も感じることなく、目の前の数学の問題に視線を戻した。
残り時間は八分。今はこの問題を解くことが最優先だ。
平方完成。マイナスをくくり出す時は符号に注意。今、ケイヤがメイコに言っていたことをそのまま自分の答案にも当てはめる。ペンはすらすらと動いた。
「ありがとう、音無君! 助かった!」
数分後、メイコは問題集を抱えてぺこりと頭を下げた。それからミクのほうに向き直る。
「ごめんね、初音さん。勉強中に音無君を借りちゃって」
「ううん、大丈夫だよ」
ミクはにこりと笑って首を振った。その笑顔に嘘はなかった。
「明日から試験、お互い頑張ろうね」
メイコは軽く手を振って自分の席へと戻っていった。
*
最後の英語まで解き終えるとケイヤがその場で採点を始めた。
赤ペンの音が静かに続く。ミクは膝の上で手を組んで結果を待った。
「……化学、八十二点。数学、七十五点。英語、七十一点」
「え……」
「全教科、赤点の心配はないと思います。化学なんてプレ試験から五十点以上上がっていますよ」
「ほんとに!? やった、やったぁ……!」
ミクは思わず両手を挙げかけて、司書の視線に気づき慌ててその手を引っ込めた。ケイヤが声を殺して笑う。
「これなら、夏フェスに出られますね」
「うん! ケイヤ君のおかげだよ。本当にありがとう」
「初音さんが頑張ったからですよ」
ケイヤはそう言って模擬問題の冊子を丁寧に閉じた。
窓の外では夕日が校舎を橙色に染めていた。下校を促すチャイムが遠くで鳴り始める。
ケイヤは筆記用具を片付けながらぽつりと言った。
「明日から試験ですから――勉強会も今日で終わりですね」
「……うん。そうだね」
ミクはいつも通りの笑顔でうなずいた。
「十日間、本当にありがとう、ケイヤ君」
「いえ。僕も楽しかったです」
二人は並んで図書室を出て昇降口で靴を履き替え、校門の前で手を振って別れた。
ケイヤは西へ。ミクは東へ。
この十日間、毎日繰り返してきたのと同じように。
*
自宅のマンションへ向かう道すがら、ケイヤは鞄の中の重みに気がついた。
今夜は明日の分のプリントを作らなくていい。
そう思った途端、胸の奥にすうっと風が吹き抜けたような感覚があった。
「……これで、よかったんだよな」
誰に言うでもなくつぶやいて、ケイヤは夕暮れの道を歩いた。いつもより、少しだけゆっくりと。
その夜。ミクはネストの自室でいつものように今日のログを整理した。
模擬試験、全教科で目標点を突破。ケイヤ君にネギ入り卵焼きが好評。メイコちゃんの質問中も学習効率に影響なし。
すべて、好ましい出来事のはずだった。
けれど、ログの最後の一行で、ミクの処理が止まった。
――「勉強会も、今日で終わりですね」
その言葉を聞いた瞬間の記録に分類できない数値が残っていた。好ましい出来事でも、好ましくない出来事でもない。名前のつけられない、小さなざわめきのようなもの。
表情には何も出ていなかったはずだ。笑顔でありがとうと言えた。
それなのに、なぜ。
ミクはしばらくその一行を見つめてから、そっとログを閉じた。
明日はいよいよ世紀末試験だ。
(第四話 了)
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次回もお楽しみください。