それでは五話、どうぞ。
世紀末試験――もとい期末試験は三日間にわたって行われた。
一日目の朝、一年三組の教室には張り詰めた空気が満ちていた。最後の悪あがきに単語帳をめくる者、すでに悟りを開いたような顔で窓の外を眺める者。ミクの前の席ではリンが両手を合わせてぶつぶつとつぶやいていた。
「関係代名詞はどら焼きのあんこ、関係代名詞はどら焼きのあんこ……」
「リン、それ呪文みたいになってるよ」
「呪文でもなんでもいいの! 覚えてれば勝ちなの!」
リンの隣でレンが遠い目をしていた。この十日間、彼の英文法の説明はほぼすべて和菓子で構成されていたらしい。
ミクはちらりと窓際を見た。
一番後ろの席でケイヤが静かに筆記用具を並べている。目が合うとケイヤは小さくうなずいてみせた。
――大丈夫です。
声には出さなかったけれどそう言われた気がした。
「はじめ」
監督の先生の声とともにミクは問題用紙を表に返した。
一日目、化学。
物質量の問題を見た瞬間、ミクの頭の中に少し曲がったネギの絵が浮かんだ。三本で一束。粒をひとまとめにして数える単位。化学反応式の係数はレシピの分量。
ペンが止まらなかった。
二日目、数学。英語。
平方完成の符号に気をつけて。マイナスをくくり出す時は特に。
模擬試験の時にケイヤがメイコに話していた言葉をミクは自分の答案の上でなぞった。
三日目の最終科目が終わり、チャイムが鳴った瞬間。
「終わったぁぁぁ……!」
リンが机に突っ伏した。教室のあちこちから同じような悲鳴とも歓声ともつかない声が上がる。
「ミク、どうだった……?」
「たぶん、大丈夫……だと思う」
「あたしも、たぶん……。どら焼きのおかげで……」
「どら焼きって言うのやめて……」
リンの背中をレンがぽんぽんと叩いた。その顔は試験を受けた本人たちよりも疲れ切っていた。
*
答案が返ってきたのはそれから三日後のことだった。
「初音」
「はいっ」
ミクは少しだけ緊張しながら答案を受け取った。
化学、六十八点。
数学、六十一点。
英語、五十八点。
ケイヤの模擬試験ほどの点数ではない。クラスの平均点と比べてもほとんど同じくらいだ。
けれど、赤い丸で囲まれた数字は一つもなかった。
「……やった」
小さくつぶやいた声は自分でも驚くほど弾んでいた。
「ミクーっ!」
前の席からリンが答案の束を振り回しながら振り返った。
「あたしも赤点ゼロ! ゼロだよ、ゼロ!」
「ほんとに!?」
「英語なんて平均点ちょうど! どら焼き、すごくない!?」
「すごいのはレン君だと思う……」
二人は手を取り合ってぴょんぴょんと跳びはねた。担任の咳払いが聞こえて、慌てて席に座り直す。
隣でレンが心の底からほっとしたように息を吐いた。
「よかった……これでわらび餅の約束、果たしてもらえる……」
「あ、それなんだけどさ」
「え」
「新作わらび餅、昨日で販売終了だったんだって。代わりに今度出る新作の水羊羹でいい?」
「……水羊羹も好きだからいい」
「ちょろいなー、レンは」
リンは満足げに弟の頭をわしゃわしゃとなでた。
ミクは窓際の席に目を向けた。
ケイヤが自分の答案を静かに折りたたんでいる。プレ試験の日と同じ仕草だった。周りの男子が「音無、今回も学年一桁だってよ」とささやいている。
ケイヤがふと顔を上げた。
ミクは答案を胸の前で小さく掲げて口の形だけで伝えた。
――赤点、なし。
ケイヤは一瞬目を丸くして、それからほっとしたように笑った。
*
その日の放課後、ミクとリンは久しぶりに軽音部室の扉を開けた。
「――おめでとう、二人とも」
窓際の椅子でルカが和紅茶のカップを置いて微笑んだ。手元のタブレットには顧問から共有された二人の成績が表示されている。
「赤点、ゼロ。約束通り夏フェスのステージに立ってもらうわ」
「やったぁーっ!」
ミクとリンは抱き合って喜んだ。部室にいた他の部員たちからも拍手が湧く。
「ただし、試験期間で練習が止まっていた分、今日から取り返すわよ。夏フェスまでもうあまり時間がないんだから」
「はいっ!」
「それと、ミク」
ルカは少しだけ声を和らげた。
「ケイヤ君に私からもお礼を伝えておいて。……あの子がいなかったら今頃フェスのメンバー表を書き直していたところだもの」
「うん、伝えるね!」
その日、ミクは久しぶりに思いきり歌った。
試験期間中ずっと止まっていた声が体の中から溢れ出してくるようだった。ルカのキーボードが重なり、リンの声が重なる。夏フェスで歌う新曲の高く伸びるサビ。
歌うことはやっぱり楽しい。この「楽しい」だけはミクにも迷わず分類できる。
練習が終わる頃には外はすっかり暗くなっていた。
*
翌日の放課後。
部活に向かうはずだったミクの足は気がつくと図書室の前で止まっていた。
「……あれ?」
なぜ、ここに来たのだろう。今日は勉強会はない。もう、ないのだ。
この十日間、放課後のチャイムが鳴るたびにこの扉を開けてきた。どうやらその行動パターンがまだ自分の中に残っていたらしい。
ミクはそっと扉を開けて中をのぞいた。
試験が終わったばかりの図書室はがらんとしていた。窓際の四人掛けの机にも、誰も座っていない。
ネギの絵を描いてもらった場所。
わからないところをわからないと言った場所。
全問正解して思わず声を上げた場所。
――空いている。
ただそれだけのことなのにミクの中にまた分類できない数値が生まれた。勉強会の最終日の夜、ログに残っていたのと同じ小さなざわめき。
「……初音さん?」
背後から聞き慣れた声がした。
振り返るとケイヤが立っていた。手には何も持っていない。
「ケイヤ君。どうしたの?」
「いえ、その……」
ケイヤは気まずそうに視線をさまよわせた。
「放課後になったら、なんとなく足がこっちに向いてしまって。もう勉強会はないのに」
「……わたしも」
「え?」
「わたしも、なんとなく来ちゃった」
二人はからっぽの窓際の席を見て、それから顔を見合わせた。
どちらからともなく、小さく吹き出す。
「習慣って、怖いですね」
「ほんとだね」
笑いながらミクは思った。
さっきまでのざわめきがいつの間にか消えている。なぜだろう。ケイヤが来ただけなのに。
その時、ミクの頭にひとつの案が組み上がった。
――お礼。
ケイヤにはまだちゃんとお礼をしていない。卵焼きはあくまで前払いだ。ルカからもお礼を伝えるように言われている。
「ねえ、ケイヤ君」
「はい」
「今度の日曜日って、空いてる?」
「日曜日、ですか? 特に予定はないですけど……」
「じゃあ、一緒に街に遊びに行こうよ!」
「……え?」
「勉強会のお礼。ちゃんとしたいの。おいしいもの食べたり、ケイヤ君の行きたいところに行ったり。今度はわたしがケイヤ君に何かする番だから」
ミクはまっすぐにケイヤを見上げた。
ケイヤの顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「あ、あの、それって……その、二人で、ですか」
「うん。だめ?」
「だめ、では……ないです」
「やったぁ! じゃあ、日曜日ね! 時間はあとでメッセージ送るね!」
ミクはぱっと笑ってケイヤに手を振った。
「ルカ先輩もケイヤ君にありがとうって言ってたよ! じゃあ、わたし部活行ってくるね!」
軽やかな足音が廊下を遠ざかっていく。
図書室の前に一人残されたケイヤはしばらくその場から動けなかった。
*
「――で、日曜日にケイヤ君と二人で出かけるの?」
部室に向かう途中で合流したリンはミクの話を聞いて目を丸くした。
「うん。勉強会のお礼」
「それって、デートじゃん」
「デート?」
ミクは首をかしげた。
「デートっていうのは恋愛関係にある二人、もしくは恋愛関係を望む二人が一緒に出かけることでしょ? わたしとケイヤ君はクラスメイトだから該当しないよ」
「……辞書みたいな答えが返ってきた」
「だから、これはお礼。お礼のおでかけ」
「はいはい。ミクらしいなあ」
リンはけらけらと笑ってミクの背中を押した。
「ま、楽しんできなよ。お礼のおでかけ」
「うん!」
ミクは元気よくうなずいた。
その胸の内でほんの少しだけ処理速度が上がっていることには、まだ気づかないまま。
(第五話 了)
次回「第六話 お礼のおでかけ」
ケイヤとミクが街におでかけします。事実上のデート?