成り行きとは言え、2回目のデートがお家デートです。
では、どうぞ。
夏休みに入って一週間が過ぎた。
商店街の入り口、時計台広場。その時計台の下でケイヤはスマートフォンの画面を何度も確かめていた。
『九時半に時計台の下で! 今日は水族館に行こうね』
ミクから届いたメッセージ。今日はあの日の「夏休みも会わない?」が初めて形になる日だった。
隣の市にある水族館までは駅から電車で一時間近くかかる。二人にとってはちょっとした遠出だった。
今回は三十分前ではなく二十分前に着いた。少しは進歩したと思いたい。
空を見上げると灰色の雲が低く垂れこめていた。天気予報では降水確率は三十パーセント。きっと大丈夫だろう。
そう思った矢先、頬にぽつりと冷たいものが当たった。
ぽつ、ぽつ、と石畳に黒い染みが広がり、あっという間に本降りになった。
ケイヤは慌てて時計台の小さな屋根の下に逃げ込んだ。傘は持ってきていない。
「ケイヤくーん!」
雨音の向こうから声がした。
水色の傘を差したミクが水たまりを避けながら駆けてくる。今日は白いTシャツに、淡い黄色のスカート。
「おはよう! すごい雨だね!」
「おはようございます。……この雨だと水族館は厳しいですね」
「うん。駅まで歩くだけで二人ともびしょびしょになっちゃう」
ミクはスマートフォンで雨雲の様子を確かめた。画面の上では赤や黄色の雨雲が街の上にどっしりと居座っている。少なくとも夕方まではやみそうにない。
「水族館はまた今度にしよっか」
「そうですね。……今日は解散ですかね」
ケイヤが少し残念そうに笑った。
解散。その言葉を聞いた瞬間、ミクの判断回路がいくつもの選択肢を並べ始めた。
――商店街の喫茶店。雨の日の午前中は混み合う。開店まであと三十分。
――学院の図書室。夏休み中は十時から開館。でも、おしゃべりはできない。
――ケイヤ君の家。歩いて七分。でも今日は家族の人がいるかもしれないし急に押しかけるのは迷惑になる。
――それとも、このまま解散。
最後の選択肢の上でなぜか処理が止まった。理由はわからない。けれどそれだけは選びたくなかった。
ミクはもう一度スマートフォンの地図を見た。時計台広場からいちばん近い屋根のある場所。お茶が出せて、お昼ご飯も作れて、ゆっくり話ができる場所。
条件に合う場所は一つしかなかった。
ミクはぽんと手を打った。
「そうだ! ここからネスト、すぐ近くなんだ。歩いて五分くらい。わたしの部屋に来る?」
「……え?」
ケイヤの思考が完全に停止した。
「へ、部屋、ですか。初音さんの」
「うん。雨宿りもできるし、お茶も出せるし。お昼ご飯も作れるよ」
「いや、でも、その……ネストって勝手に入っていいものなんですか?」
「大丈夫。ピアプロ学院の生徒なら受付で学生証を見せるだけで入れるの。スマホの学生証で平気だよ」
ミクはまったく屈託のない顔で言った。友達を家に招く。それ以上でもそれ以下でもない、という顔だった。
ケイヤは雨に煙る通りとミクの顔とを見比べた。
――いやいやいや。
頭の中でもう一人の自分が全力で首を振っていた。
ちゃんと話すようになってまだ一か月も経っていない。休みの日に会うのだって、今日でやっと二回目だ。そんな相手のしかも女の子の部屋に二人きりで上がり込む。普通に考えていろいろと順番がおかしい。
別に自分が特別に真面目だとか、品行方正だとか思っているわけではない。ただ、なんというか――気恥ずかしい。考えただけで顔が熱くなる。
「あの、初音さん。やっぱり、それはちょっと……」
「ちょっと?」
「その……知り合ってまだ日も浅いのに、いきなり女の子の部屋で二人きりというのはどうなのかな、と」
言いながらケイヤは自分の声がだんだん小さくなっていくのを感じた。
ミクは、きょとんと首をかしげた。
「どうして? リンだってしょっちゅう遊びに来るよ?」
「鏡音さんは女の子じゃないですか」
「ケイヤ君は男の子だからダメなの?」
「ダメというか、その……」
うまく説明できない。説明しようとすればするほど、自分が余計なことを意識しているのがばれてしまう気がする。
そして困ったことに心のどこかではほんの少しだけ――行ってみたい、とも思っていた。
初音さんは普段どんな部屋で暮らしているんだろう。学校では見られない、どんな顔をするんだろう。
そんなことを考えてしまった自分に気づいて、ケイヤはますます赤くなった。
「それに、ご迷惑じゃないですか。急に押しかけるなんて」
「誘ったのはわたしだよ?」
「……そうでした」
逃げ道が一つずつ塞がれていく。
「雨、まだまだやまないみたいだよ」
ミクはスマートフォンの雨雲レーダーをケイヤの目の前に差し出した。画面の上では真っ赤な雨雲がこの街の上にどっしりと居座っている。
「ここで夕方まで雨宿りする? ケイヤ君の家まで走って、びしょびしょになる? それともわたしの部屋であったかいお茶を飲む?」
三択だった。いや、実質的には一択だった。
「それにね」
ミクは少しだけ声を落とした。
「せっかく会えたのにこのまま解散するの、もったいないなって。わたし今日すごく楽しみにしてたんだよ」
まっすぐに見上げてくる瞳には何の下心も駆け引きもなかった。ただ、思ったことをそのまま口にしている。だからこそ断る言葉が見つからない。
ケイヤは長い長いため息をついた。
「……じゃあ、雨がやむまで少しだけ。お邪魔させてください」
――結局、その「少しだけ」は、面会時間ぎりぎりまで続くことになるのだが。
「やったぁ!」
ミクはぱっと顔を輝かせた。
「ほら、行こう! 傘、入って!」
ミクが自分の傘をケイヤのほうへ差し出した。一本の傘の下で二人の肩がわずかに触れる。
――少しだけ、だから。雨宿りだから。
自分に言い聞かせながらケイヤはミクと並んで雨の中を歩き出した。傘を打つ雨音よりも、自分の心臓の音のほうがずっとうるさかった。
*
ネスト――正式名称『アンドロイド学習生居住施設』は、白い外壁の四階建ての建物だった。
ガラス張りのエントランスを入るとすぐ横に受付があり、人間の女性職員が座っていた。
「あら、ミクさん。もう帰ってきたの? さっき出かけたばかりなのに」
「雨で水族館に行けなくなっちゃって」
「まあ、それは残念ね。この降り方じゃ仕方ないわ」
職員は気の毒そうに眉を下げてからミクの隣に立つケイヤに目を留めた。
「そちらは、お客様?」
「はい! 同じクラスの、音無ケイヤ君です」
「は、はじめまして。音無です」
ケイヤは慌てて頭を下げた。濡れた前髪から、しずくがぽたりと落ちる。
「では学生証の提示と、こちらへの記帳をお願いしますね」
ケイヤが差し出したスマートフォンの画面を確認すると、職員は来客用のカードを手渡しながら、にこやかに付け加えた。
「面会は十八時までです。ごゆっくりどうぞ」
「はーい、ありがとうございます!」
ミクは元気よく返事をしてケイヤの腕を引いた。
あまりにもあっさりとした手続きにケイヤは拍子抜けした。男子が女子の部屋を訪ねるというのに職員は眉ひとつ動かさない。アンドロイドの施設ではこれが普通なのだろうか。
三階の一番奥がミクの部屋だった。
「どうぞ! ちょっと狭いけど」
ミクに招き入れられケイヤは一歩、部屋の中へ足を踏み入れた。
背後でドアがぱたんと閉まった。
その小さな音がやけに大きく耳に残った。
六畳ほどの部屋だった。窓際にベッドと勉強机、壁際に本棚。部屋の隅には小さなキッチンが付いている。料理好きなアンドロイドのためにネストの個室にはすべて簡易キッチンが備えられているのだという。
想像していたよりもずっと物が少なかった。
その代わり、目を引くものがいくつかあった。本棚にぎっしりと並んだ楽譜のファイル。机の上に置かれた使い込まれたヘッドホン。ベッドの上のデフォルメされたネギのぬいぐるみ。そして窓辺には小さな植木鉢が三つ並んでいた。
「これ、もしかして……」
「ネギ! 育ててるの。もうすぐ食べ頃なんだよ」
「育ててるんですか……」
ネギへの愛情はどうやら本物らしい。
「はい、タオル。肩、ちょっと濡れちゃってるよ」
「あ、ありがとうございます」
受け取ったタオルからは石けんの優しい香りがした。ケイヤはなるべく何も考えないようにしながら肩を拭いた。
ミクは小さなキッチンでお湯を沸かし、二つのカップに麦茶を注いだ。それから床のクッションの一つをケイヤに勧め、自分はもう一つに座る。
閉め切った部屋に窓を打つ雨の音だけが響いていた。
クッション一つ分の距離。手を伸ばせば届いてしまう場所にミクが座っている。湿った髪を指で整える仕草。部屋に満ちる、ほのかに甘い香り。教室では一度も意識したことのなかったものがここでは一つ一つ、やけにはっきりと感じられた。
――ここは初音さんの部屋で。今、二人きりで。
そう考えた途端、心臓の音が雨音に負けないくらい大きくなった気がして、ケイヤは慌てて視線を麦茶のカップに落とした。
当のミクはそんなケイヤの様子にまったく気づいていない。楽しそうに窓の外の雨を眺めている。
「なんだか、変な感じですね」
「なにが?」
「学校以外の場所で、こうして初音さんと話しているのが」
「そうかな。わたしは楽しいよ」
ミクは何のためらいもなくそう言った。ケイヤは麦茶を一口飲んでどうにか動揺をごまかした。
*
雨は昼になってもやむ気配がなかった。
「お昼、作るね! 冷蔵庫にあるもので」
ミクは窓辺の植木鉢からいちばん元気そうなネギを一本収穫した。
「自家製ネギ、デビューだよ」
手際よく刻まれたネギがまな板の上で鮮やかな緑の山になる。茹でたうどんを冷水でしめ、大根おろしと揚げ玉、それから山盛りの刻みネギをのせ、冷たいつゆをかける。
あっという間に二人分の冷やしうどんができあがった。
「はい、どうぞ。ネギたっぷりの、ぶっかけうどん!」
「……いただきます」
ケイヤは箸を手に取った。
つるりとした麺にネギのしゃきしゃきとした歯ごたえと、さわやかな香りが絡む。冷たいつゆが雨の日のじっとりとした空気を吹き飛ばしてくれるようだった。
「おいしいです。本当に」
「でしょ? 自家製だもん」
ミクは得意げに胸を張った。ケイヤは二口、三口と箸を進めながら、ふと手を止めた。
「……誰かの作ったご飯を食べるの、久しぶりかもしれません」
「え?」
「母はほとんど父のところに行っているので。いつもコンビニの弁当かパンなんです」
何でもないことのように言って、ケイヤはまた麺をすすった。
ミクはその横顔をじっと見つめた。
――ケイヤ君は一人でご飯を食べている。毎日。
その情報を記録した時、ミクの中に小さく胸が痛むような感覚があった。これはたぶん、知識としては知っている「悲しい」に近い。けれど自分のことではないのになぜ悲しいのだろう。
「じゃあ、また作ってあげる」
「え?」
「ケイヤ君が来てくれたら、いつでも作るよ。ネギ料理ならレパートリーいっぱいあるから」
ケイヤは箸を持ったまま固まった。それからうつむいて小さな声で答えた。
「……ありがとうございます」
*
午後になるとミクは机の上のタブレットを手に取って写真フォルダを開いた。
「見て見て。わたしがネストに来てからの写真なんだ」
いちばん古い日付の一枚にはネストのエントランスの前に立つミクが写っていた。今と同じツインテール、同じ制服。けれどどこかが違う。
「これ、稼働して初めてここに来た日。職員さんが撮ってくれたの」
「……今と、少し雰囲気が違いますね」
「そうかな?」
ケイヤは写真の中のミクの笑顔を見つめた。口角はきちんと上がっている。目も細められている。ファッション誌に載せられそうなほど、整った笑顔。けれど、なぜだろう。その笑顔は少しだけ硬く見えた。
ミクが画面をスワイプするたびに写真は次々と切り替わっていった。初めてネギを食べた日の写真。リンとレンに挟まれてネストの食堂でケーキを囲む写真。軽音部の部室でルカの隣でマイクを握る写真。
写真の中のミクは日付が新しくなるにつれて、少しずつ表情を変えていった。笑い方が柔らかくなっていく。
「これ、リンと初めてスイーツ巡りした日。クリームが鼻についてるのリンが黙って撮ったんだよ。ひどくない?」
ミクが頬をふくらませる。その顔は最初の一枚とはまるで別人のように生き生きとしていた。
「……いい写真ですね」
「ええー、恥ずかしいよ」
ミクは笑って、タブレットの画面を伏せた。ケイヤはなぜか最後に見たその笑顔をもう一度見たいと思った。
それから二人はケイヤの携帯ゲーム機で一緒に遊んだ。『スターダスト・ナイト』の携帯機移植版でミクは三回目の挑戦でようやく最初の敵を倒すことができた。
その間ずっとミクは小さな画面をのぞき込もうとケイヤの肩にくっつくほど身を寄せていた。ツインテールの先が時々ケイヤの腕をくすぐる。ケイヤは操作の説明をしながら、自分の声が上ずっていないかばかりを気にしていた。
「やった! 倒せた!」
「パターンを覚えればもっと先に行けますよ」
「ケイヤ君の教え方、ゲームでもわかりやすいね」
ミクは楽しそうに笑い、ふと本棚の楽譜に目をやったケイヤに気づいた。
「楽譜、気になる?」
「あ、いえ。すごい量だなと思って。……初音さんの歌、聴いてみたいな、とは少しだけ」
「だーめ」
ミクは人差し指を立ててくちびるに当てた。
「それは夏フェスまでのお楽しみ。初めて聴いてもらうのはステージの上がいいの」
「……そうですね。楽しみにしています」
「うん!」
気がつけば窓の外の雨は小降りになっていた。時計の針はもうすぐ十八時を指そうとしている。
「そろそろ面会時間は終わりですね」
「あ、ほんとだ。早いなあ」
ミクは少し名残惜しそうに時計を見上げた。
エントランスまでミクはケイヤを見送った。受付で来客用のカードを返し、ガラスの扉の前で振り返る。
「今日はありがとうございました。水族館は行けませんでしたけど……すごく、楽しかったです」
「わたしも! 水族館はまた今度行こうね」
「はい。また、今度」
外へ出ようとしたケイヤをミクが「あ、待って」と呼び止めた。差し出されたのは今朝の水色の傘だった。
「これ、使って。まだ降ってるから」
「でも、それだと初音さんが……」
「わたしはもうネストの中だもん。返すのは次に会う時でいいよ」
次に会う時。
その言葉が当たり前のように二人の間に置かれた。ケイヤは傘を受け取って、小さくうなずいた。
「……じゃあ、次に会う時に必ず返します」
「うん。約束ね」
ケイヤはミクから借りた傘を手に小雨の中へ出ていった。何度か振り返り、そのたびにミクが大きく手を振る。
*
ちょうどその時、ネストの前の通りを一人の少女が歩いてきた。
和菓子屋の紙袋を提げた鏡音リンだった。新作の水羊羹をレンへの報酬用と自分用に買い込んできた帰り道である。
「ん?」
リンはネストの入り口から出てきた人影に目を留めた。
見覚えのある、少し長めの前髪と眼鏡。見覚えのある水色の傘。
「……ケイヤ君?」
ケイヤはリンに気づかないまま、小雨の向こうへ歩いていった。手にしているのは間違いなくミクの傘だ。
リンはゆっくりとエントランスに視線を戻した。
ガラス扉の向こうで、ミクがまだ手を振っていた。ケイヤの背中が見えなくなっても、しばらくその場から動こうとしない。
その横顔はリンがこれまで見たことのない表情をしていた。
嬉しそうで、でも少しだけ寂しそうな。
まるで何かを惜しんでいるような。
「……もしかして?」
リンは紙袋を持つ手にぎゅっと力を込めた。
中学の頃からたくさんの人間を見てきた。たくさんのドラマも、映画も、少女漫画も見てきた。だから知っている。
ああいう顔をする女の子が何を考えているのか。
「これは……ちょっと、調べてみる必要がありそうだね」
リンの瞳がきらりと光った。
水羊羹の紙袋が雨粒を弾いて小さく揺れた。
(第八話 了)
ここまでお読みいただきありがとうございました。
次回「第九話 スライダーは別の意味で危険です」
夏休みです。当然プール回です!