わたしが『ボーカロイド』になるまで   作:雪田琉摩

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夏休みといえばのプール回です。
なお、この回より1投稿あたりの文字数が増えています。
では、どうぞ。


第九話 スライダーは別の意味で危険です

 ケイヤがネストを後にしたその日の夜。

 ネストの廊下の自販機の前でリンはばったりミクと出くわした。もちろん偶然を装って待ち構えていたのである。

「あ、ミク。今日すっごい雨だったね。一日なにしてたの?」

 さりげなく。あくまでさりげなく。リンは缶ジュースのボタンを押しながら、横目でミクの様子をうかがった。

「えっとね、ケイヤ君と水族館に行く予定だったんだけど雨で行けなくなっちゃって。だからわたしの部屋に来てもらったの」

「……へえ」

「自家製ネギでね、ぶっかけうどん作ったんだよ! ケイヤ君、おいしいって言ってくれた。午後はゲームして十八時までずっとおしゃべりしてたの」

 ミクはにこにこと楽しそうに話し続けた。

 ――隠す気、ゼロ!?

 リンは心の中で盛大にツッコんだ。缶ジュースを取り出す手がわずかに震える。

「ふ、ふーん。よかったじゃん」

「うん! 楽しかった!」

 何のためらいもなく答えるミクの顔をリンはじっと見つめた。

 夕方、ガラス扉の向こうで見たあの名残惜しそうな横顔。それと今のこの屈託のない笑顔。

 ――本人、ぜんぜん自覚してないやつだ、これ。

 問い詰めたところできっと「お礼のおでかけの続きだよ?」と辞書みたいな答えが返ってくるだけだろう。

 だったら。

「ねえミク。来週、みんなでプール行かない?」

「プール! 行きたい!」

「じゃあ決まりね。メンバーはあたしと、レンと、ミクと――ケイヤ君」

 リンはにんまりと笑った。

 この目で確かめてやる。

 

  *

 

「というわけで、作戦会議を始めます」

「……どういうわけで?」

 十分後。リンの部屋に呼び出されたレンはパジャマ姿のまま正座させられていた。

「来週の土曜日、市民プールに行きます。メンバーは四人。目的はミクとケイヤ君の関係の調査」

「調査って……」

「あの二人、絶対なにかあるよ。あたしの勘が言ってる。でもミクは自覚ゼロだし、ケイヤ君は何も言わないし。だからこの目で直接確かめるの」

「それ、ただの覗き見じゃ……」

「調査!」

 リンはびしっと人差し指を突きつけた。

「レンの任務はケイヤ君を誘い出すこと。報酬はプールの売店の特大かき氷。宇治金時、白玉トッピング」

 いつもならもう少し渋るところだった。

 だがレンの脳裏にはルカとの「二人だけの秘密」がよぎった。

 あの日以来、ピクセル堂のことをケイヤに黙っている。いい店を見つけたら真っ先に教え合う。それが二人の間の暗黙の約束だったのに。

 それにケイヤはこの夏休み家族がほとんど留守で一人きりで過ごしているはずだ。

 ――秘密の埋め合わせにせめてケイヤに楽しい一日をプレゼントしよう。

 四人でプールならきっとケイヤも喜ぶ。かき氷はそのついでだ。

「……わかった。誘ってみる」

「え、素直。どしたの?」

「べ、別に。かき氷が食べたいだけだよ」

 レンはそっぽを向いた。リンは首をかしげたがすぐに作戦の続きに夢中になった。

 

  *

 

 翌日の夜。レンはネストの自室でスマートフォンを握りしめていた。

 画面にはケイヤの名前。通話ボタンの上で親指が迷っている。

 ――ピクセル堂のこと、黙ってるのに。

 胸の奥がちくりと痛んだ。けれどだからこそ今日の誘いはちゃんと成功させたかった。レンは意を決して通話ボタンを押した。

『はい、音無です』

「あ、ケイヤ? ぼく。あのさ、来週の土曜日、空いてる?」

『土曜日ですか? 特に予定は……』

「市民プール、行かない?」

『プール、ですか』

 電話の向こうでケイヤが少し考える気配がした。

『レンと、二人で?』

「ううん。リンとミクさんも一緒。四人で」

 一瞬、電話の向こうが静かになった。

『……初音さんも来るんですか』

「うん。リンが誘ったって」

 ケイヤの声が心なしか軽くなった。

『四人なら行きます』

「ほんと? よかった」

『あの、レン』

「なに?」

『……いえ、なんでもありません。誘ってくれて、ありがとうございます』

 通話が切れた。レンはスマートフォンを胸に当ててほっと息をついた。

 ――ありがとう、だって。

 お礼を言わなきゃいけないのは本当はこっちのほうなのに。レンはベッドに倒れ込んで天井を見上げた。

 

  *

 

 土曜日。雲ひとつない、夏らしい快晴だった。

 ネストから歩いて十分ほどの場所にある市民プールは夏休みの家族連れや学生たちでにぎわっていた。流れるプールに波のプール、子ども用の浅いプール。そして敷地の奥にそびえ立つ、巨大な青いチューブ。

「ケイヤ君、おはよう!」

「おはようございます、初音さん。鏡音さんも」

「おはよー、ケイヤ君! 来てくれてありがとね!」

 ケイヤはどこかほっとした顔をしていた。電話で「四人で」と聞いた時から、ずっと安心していたのだ。この前のように二人きりでは心臓がいくつあっても足りない。

 ――今日は四人。四人だから大丈夫だ。

 その安心がほんの数十分で打ち砕かれることを、ケイヤはまだ知らなかった。

 

 更衣室の前でケイヤとレンは先に着替えを終えて待っていた。

「お待たせー!」

 リンの元気な声とともに二人の少女が姿を現した。

 リンはオレンジ色のスポーティな水着。そしてその後ろから現れたミクは白地に淡い青緑の縁取りがついた水着姿だった。いつものツインテールを水に濡れないよう高い位置でまとめ直している。

 ケイヤは一瞬だけミクを見て――次の瞬間、首が折れるのではないかという勢いでぐりんっと真横を向いた。

 ごきっ、と首の骨が鳴った気がした。

 視線の先にはプールの監視台と日焼けした監視員のおじさんしかいなかった。

「ケイヤ君?」

 ミクが首をかしげて回り込む。ケイヤはさらに反対側を向いた。

「どうしたの?」

「い、いえ、なんでも。……いい天気ですね」

「うん、いい天気だけど……」

 ミクはしょんぼりと自分の水着を見下ろした。

「ケイヤ君、わたしのこと見てくれない。似合わないのかな」

「そ、そういうわけでは……!」

 慌てるケイヤの横でレンが小さく咳払いをした。

「ミクさん。男のぼくから言わせてもらうと――ちょっと、刺激が強いかな」

「そうかな?」

 ミクはきょとんと首をかしげた。ケイヤは耳まで真っ赤になってレンの脇腹を肘でつついた。

 その一部始終をリンはにやにやしながら眺めていた。

 ――第一段階、良好。

 

  *

 

「ねえねえ、あれ乗ろうよ!」

 準備運動を終えるなり、リンが指さしたのは敷地の奥にそびえる、あの巨大な青いチューブだった。

 入り口の看板には炎のような書体で、こう書かれていた。

『超絶鬼スーパーウォータースライダー極みプレミアムW』

「……名前、盛りすぎじゃないですか?」

「このプールの目玉なんだって! 県内最大級、最大傾斜五十度!」

「五十度……」

 ケイヤははるか上空の発着台を見上げた。ほとんど崖である。

「わたし、乗ってみたい!」

 ミクが目を輝かせた。アンドロイドの体は多少の衝撃ではびくともしない。純粋に楽しそうだと思ったのだ。

「じゃ、決まり! 二人乗りの浮き輪だからペアで乗るんだって。あたしはレンと乗るから、ミクはケイヤ君とね!」

「え」

 ケイヤが口を開くより早く、リンはレンの腕を引っ張ってさっさと階段を上り始めていた。

 

 スライダーの階段には長い行列ができていた。

 一段上がるごとに地面が遠ざかっていく。そして頭上のチューブの奥から数十秒おきに悲鳴が降ってきた。

「きゃああああっ!」

「うわあああああっ!」

 悲鳴が聞こえるたびにケイヤの顔色が一段階ずつ悪くなっていった。

「ケイヤ君、大丈夫? 顔、白いよ?」

「だ、大丈夫です。……初音さんは怖くないんですか」

「全然! わくわくする!」

 ミクは手すりから身を乗り出して、遠ざかる地面を楽しそうに眺めていた。

「アンドロイドって怖いって感じないんですか?」

「落ちたら危ないって知識はあるよ。でも安全基準は満たしてるし事故の確率はすごく低いの。怖がる理由がないでしょ?」

「理屈はわかるんですけど……」

 理屈でわかっていても、怖いものは怖い。ケイヤは手すりを握りしめた。

 階段の途中に大きな看板が掲げられていた。

『ご利用のお客様へ 当スライダーは二人乗り専用の浮き輪を使用します。安全のため、係員の指示に従って乗車してください』

「……二人乗り」

 ケイヤはその文字をもう一度読んだ。

 二人乗り。つまり、一つの浮き輪に二人で乗る。前と後ろにくっついて。

 さっきから怖いのは高さだけではなかったのだと、ケイヤはようやく気づいた。

「ケイヤ君、どうしたの? 顔、白いのに赤くなってきたよ?」

「な、なんでもありません……」

 さらに一段上がる。前のほうでリンが「レン、次あたしたちだよ!」とはしゃぎ、レンが「やっぱりやめない……?」と力なく抵抗しているのが聞こえた。

 

 長い階段を上りきった発着台は想像以上の高さだった。眼下にはプール全体が小さな箱庭のように広がっている。

 先に滑ったリンとレンの悲鳴がチューブの奥へと遠ざかっていった。

「次の方、どうぞー」

 係員のお兄さんが二人用の大きな浮き輪を水面に浮かべた。前後に一人ずつ座る、八の字のような形をしている。

「では、女性の方が前、男性の方が後ろにお座りください」

 言われるままにミクが前の席に座った。ケイヤはその後ろに腰を下ろす。

「男性の方は前の女性を後ろから支えてください。両腕を前に回して、こう、しっかりと」

「し、しっかり……ですか」

「はい。カーブで体が振られますので、しっかり。しっかりと、お願いします」

 係員は、なぜか「しっかり」を三回言った。

 ケイヤはおそるおそる両腕を前に回した。

 ミクの背中が自分の胸にぴたりと触れる。濡れた肩の冷たさと、その奥のほのかな温かさ。高い位置でまとめた髪からふわりと甘い香りがした。腕の中にミクがすっぽりと収まっている。

 ――これは、マズい。いろいろと、マズい。

 ケイヤの頭の中で何かがぐらぐらと煮え立ち始めた。「頭がフットーしそうだよぉ」とはこういうことを言うのだろう。いや、もう沸騰しているかもしれない。

「ケイヤ君、ちゃんと支えててね」

 ミクがくるりと振り返った。至近距離で目が合う。

「は、はい……」

 かすれた声しか出なかった。

「では、いってらっしゃーい!」

 係員が浮き輪を勢いよく押し出した。

 

 次の瞬間、世界が落下した。

「きゃああああああっ!」

 ミクの歓声とほぼ垂直の急降下。水しぶきが顔を打ち、青いチューブの中で浮き輪が右へ、左へと激しく振られる。

 カーブのたびに腕の中のミクの体がぐっと押しつけられた。ケイヤは振り落とさないよう必死でしがみつく。しっかり。しっかり支えなければ。だがその義務を果たそうとする度に両の腕にやわらかい何か、プレミアムなモノがWで当たっている気がした。

 ――怖い。いや、怖いのはスライダーじゃなくて、そのやわらかいモノの正体を確かめるのが怖い。

 急勾配のスリルとまったく別のスリル。二つの恐怖が同時に襲いかかってきて、ケイヤはもう、自分が何に悲鳴を上げているのかわからなかった。

「あはははっ! すごーい!」

 前方でミクが心の底から楽しそうに笑っていた。

 

 ざっぱーん、と盛大な水しぶきを上げて浮き輪は着水プールに飛び込んだ。

 水面に顔を出したミクは髪からぽたぽたと水を滴らせながら満面の笑みで振り返った。

「楽しかったーっ! ケイヤ君、もう一回乗ろう!」

「……い、いえ……僕は、少し、休憩を……」

 ケイヤは浮き輪にぐったりと突っ伏したまま片手だけを上げた。その顔はプールの水では冷やしきれないほど真っ赤だった。

 

  *

 

 その様子を着水プールのそばの売店から二つの影がじっと見つめていた。

「見た!? ねえレン、今の見た!?」

 リンは特大かき氷のスプーンを握りしめ、身を乗り出していた。

「後ろから、ぎゅって! ぎゅってしてたよ! ケイヤ君、顔真っ赤だったよ!」

「リン、声大きい……。かき氷、こぼれてる……」

「これは事件だよ! 大事件!」

 リンは興奮のあまり、スプーンを振り回した。白玉が一つ、レンの宇治金時の上にぽとりと落ちる。

「でも、あれって係員さんの指示じゃ……」

「指示でも何でも、あの顔は本物だって!」

 リンは着水プールの二人をもう一度見た。

 ぐったりしているケイヤをミクが心配そうにのぞき込んでいる。それから何かを言って、ケイヤの手を引いて立ち上がらせた。ケイヤは困ったように笑いながらミクと並んでプールサイドを歩いていく。

 二人ともとても自然な顔をしていた。照れているのはケイヤだけで、ミクはただ楽しそうに笑っている。

「……うーん」

 リンはスプーンをくわえたまま唸った。

「やっぱり、もしかして……? でも、ミクのほうは、ぜんぜん普通なんだよなあ」

「ただ、仲がいいだけじゃないかな」

「レンはわかってない!」

 頬をつねられたレンは宇治金時の上の白玉を黙って口に運んだ。

 

  *

 

「よーし、次は波のプール! 全員集合!」

 かき氷を食べ終えたリンの号令で四人は波のプールに集まった。

 ブザーが鳴るとプールの奥からざぶん、ざぶんと大きな波が押し寄せてくる。子どもたちの歓声が上がった。

「くらえ、ケイヤ君!」

「わっ!?」

 リンが両手で思いきり水をすくってケイヤの顔にぶちまけた。

「な、なんで僕なんですか!」

「なんとなく!」

 二発目、三発目。リンの水しぶきはなぜか正確にケイヤだけを狙ってくる。調査対象へのただの八つ当たりである。

「ケイヤ君を守る!」

 ミクがケイヤとリンの間に割って入った。そして両手を水面に差し入れる。

「えいっ!」

 ミクが水をすくい上げた瞬間、人工筋肉が加減というものを忘れた。

 ざっぱあああん。

 波のプールの波よりも大きな水の壁が、リンを――そしてその隣で立っていたレンをまとめて飲み込んだ。

「わぶっ!?」

「ぶはっ……!」

 水しぶきが収まった時、リンはずぶ濡れの頭を振っていた。レンの姿はなかった。

「……あれ? レン君は?」

 少し離れた波の上をレンが浮き輪ごとゆっくりと流されていくのが見えた。遠い目をしていた。

「レーン!」

「ご、ごめんね、レン君! 力加減、間違えちゃった!」

 ケイヤは思わず声を上げて笑った。ずっと張りつめていた何かがふっとほどけた気がした。

 ミクもつられて笑った。リンも笑いながらレンを追いかけていった。

 夏の日差しの下、四人の笑い声が波の音に混ざっていった。

 

  *

 

 波のプールで遊び疲れたあと、ミクはケイヤを流れるプールに誘った。

「ここならゆっくりだから大丈夫だよ」

「……すみません。実は僕、あまり泳ぎが得意じゃなくて」

 ケイヤはレンタルの大きな浮き輪に腕を引っかけるようにしてつかまっていた。足がつく深さなのに浮き輪から手を離そうとしない。

「ケイヤ君、勉強もゲームもできるのに泳ぐのは苦手なんだ」

「水の中だと体が言うことを聞かないんです。……笑っていいですよ」

「笑わないよ。わたしも最初は全然泳げなかったもん」

「アンドロイドでもですか?」

「うん。泳ぎ方の知識は最初から持ってたんだけど、体はぜんぜん動かなくて。ネストの夏の水泳教室でリンに特訓してもらったの。三日目までずっと沈んでた」

「沈んで……」

「知ってるのとできるのは違うんだね。勉強と同じ」

 ミクは浮き輪の縁に片手を添えて、ケイヤの隣にぷかりと浮かんだ。流れに身を任せると、二人の体はゆっくりと同じ速さで運ばれていく。

 水面に反射した光がミクの頬で揺れていた。ケイヤはその横顔をちらりと見て、すぐに空へ視線を逃がした。

「ねえ、ケイヤ君」

「は、はい」

「今日、ずっとわたしのほう見ないね」

「……っ」

「やっぱりこの水着、変なのかな」

 ミクの声はさっきよりも少しだけ小さかった。ケイヤは浮き輪の上で固まった。

 違う。変なわけがない。ただ、まっすぐ見たら自分がどうなってしまうかわからないだけだ。

 けれど、そんなことは口が裂けても言えない。ケイヤは浮き輪に額を押しつけて、絞り出すように言った。

「……変じゃ、ないです。似合ってます。似合いすぎて、見られないだけです」

 ミクはぱちぱちとまばたきをした。

「似合いすぎると、見られないの?」

「……そういうものなんです」

「ふうん。人間って不思議だね」

 ミクはくすっと笑った。その笑顔をケイヤはやはり、まっすぐには見られなかった。

 

  *

 

 午後のシャワー室の前でケイヤは冷たい水を頭からかぶっていた。

 顔の熱がどうしても引かない。スライダーでも、流れるプールでも、自分はとんでもないことを口走った気がする。「似合いすぎて、見られない」なんだそれは。

「ケイヤ」

 隣のシャワーにレンがやってきた。波のプールからようやく生還したらしい。

「レン。……大丈夫でしたか」

「うん。ちょっと遠くまで流されただけ。それよりケイヤこそ大丈夫?」

「何がですか」

「首。朝、ごきって言ってたよ」

 ケイヤは無言で首筋に手を当てた。言われてみれば少し痛い。

「……聞こえてたんですか」

「聞こえてた。リンも聞いてた」

「…………」

 ケイヤはシャワーの水をさらに強くした。

「レン」

「なに?」

「今日のことは、全部、忘れてください」

「全部?」

「全部です。首も、スライダーも、全部」

 レンは少しだけ考えるようなそぶりを見せてから、にこりと笑った。

「……ぼくは忘れてもいいけど。リンはたぶん一生覚えてると思う」

「…………」

 ケイヤは両手で顔を覆った。

 

  *

 

 夕方。ミクはプールサイドのベンチに座って、首をかしげていた。

 スライダーを降りてからずっと、頭部の冷却が追いつかない。額にも首筋にも人工の汗が次々とにじんでくる。

 プールの水は冷たい。気温も朝から大きくは変わっていない。それなのに、なぜか頭だけが熱い。

 ミクは目を閉じて自己診断を走らせた。

 冷却系統、正常。

 人工筋肉、正常。

 演算処理、正常。

 結果はすべて「異常なし」。

「……なんで?」

 異常はない。それなのに温度だけが下がらない。

 ミクは今日一日のログを順番にさかのぼった。そして温度の記録の上にいくつかの山があることに気づいた。

 更衣室の前でケイヤが目をそらした時。スライダーの上でケイヤの腕が前に回された時。至近距離で目が合った時。流れるプールで「似合いすぎて、見られないだけです」と言われた時。

 温度が上がっているのは決まってケイヤが関わっている時だった。

 ――ケイヤ君が原因?

 ミクは仮説を確かめてみることにした。

 まず、プールのほうを見る。はしゃぐ子どもたち。水しぶき。温度、変化なし。

 次に隣を見る。ベンチの端でタオルを肩にかけて座っているケイヤ。まだほんのりと赤い横顔。

 温度、〇・二度上昇。

 慌てて、またプールのほうを見る。温度、ゆっくりと下降。

 もう一度、隣を見る。

 ちょうどその時、ケイヤもこちらを見た。目が合った。ケイヤはまた慌てて視線をそらした。

 温度、〇・三度上昇。

 相関あり。因果関係、不明。

 ミクは自分のお腹のあたりにそっと両手を重ねた。スライダーの上でケイヤの腕が回されていたところ。背中に触れていたケイヤの胸の温かさも思い出す。もうとっくに乾いているのに、そこだけまだ温度が残っているような気がした。

「プールなのにどうしてだろう?」

 小さくつぶやいた声は子どもたちの歓声にまぎれて誰にも届かなかった。

 ネストに帰ったら職員さんに相談したほうがいいのかもしれない。冷却系統の点検をしてもらえばこの熱もすぐに直るのかもしれない。

 そう考えた時、ミクの処理がほんの一瞬だけ止まった。

 ――直ったら、この感じもなくなっちゃうのかな。

 それはなんだかもったいない気がした。

 ミクは相談するかどうかの判断を保留にして、ログの片隅に小さな一行だけを書き加えた。

 ――原因不明の発熱。ケイヤ君と一緒にいる時、発生。今のところ、不快ではない。

 

(第九話 了)




ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次回「第十話 最適解は手のひらの中に」
夏休みといえばのもう一つのイベント、夏祭りです。
夏祭りといえば多くの来場者で混雑します、はぐれるかもしれません。
……もうおわかりですね?
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