春――出会いと別れの季節。
俺が一番好きな季節だ。
満開の桜が風に揺れ、舞い散る花びらがトレセン学園の正門前を薄桃色に染めている。
「兄さん、見て!」
明るく弾む声に釣られて、俺はそちらへ目を向けた。
真新しい制服に身を包んだ少女が、正門を指差している。――俺の一張羅の袖を引っ張りながら。
青みを帯びた深い紫の髪は腰のあたりまで流れ、春風が吹くたびに毛先が淡く揺れる。その前髪には、一枚だけ桜の花びらが付いていた。
彼女は『アストラリーベ』
その名に込められた意味は――『星の愛』
俺の義妹。そして、
「ついに来たぞぅ! トレセンがっくえーん!」
「やめてくれリーベ……恥ずかしいから」
「何年楽しみにしてたと思ってるの! 我慢できるわけないでしょ!!」
リーベは少しだけ頬を膨らませる。近くに来たついでに髪に付いていた桜をつまみ取ってやった。さらりとした髪が指の間をすり抜ける。
「まぁ……俺だってリーベが入学できて嬉しいよ」
「……うん。やっとだもんね」
リーベの紫紺の瞳が、正門の向こうを忙しなく行き来する。
——友達と笑い合うウマ娘
——校舎へ向かうウマ娘
——朝練を終えてジャージ姿で寮へ戻っていくウマ娘。
俺にとっては見慣れたトレセンの日常だ。けれど、リーベにとっては違う。こんなごく普通の光景を十年以上も待ち望んできたんだ。
「みんな同じ制服着てる!」
「学校だからそりゃそうさ。お前だって今日からその仲間だし、ついでに——ライバルでもあるわけだ」
そこで俺は、らしくもなく少し芝居がかった声をわざとらしく出す。
「ようこそ、アストラリーベ。日本ウマ娘トレーニングセンター学園はキミを待っていた!」
一瞬きょとんとしたリーベが、すぐに吹き出す。
「なにそれ! 似合わない!」
……笑えたなら、それでいい。リーベの肩を軽く叩き、俺は誤魔化すように歩き出した。
「ほら。時間もないし行くぞ」
「うん!」
二人で正門をくぐる。
今日から、やっと始まるんだ。
俺たちがずっと待ち望んできた、トレセン学園での生活が。
♦︎
▼ 栗東寮
「フジキセキ、朝早くからありがとう。改めてコイツをよろしく頼む」
俺はリーベの荷物を持ちながら先導してくれたフジキセキに礼を言う。
「黒瀬くんにはいつもお世話になってるからこれぐらい当たり前だよ! 妹ちゃんなんだろう?」
フジキセキは俺とリーベの事情をある程度知っていた。世話焼きな彼女なら、リーベのことも気に掛けてくれるだろう。
「これからよろしくね、リーベちゃん」
「は、はい! ヨロシクオネガイシマス!」
正門前での勢いはどこへやら。フジキセキに案内されて指定された部屋へ向かう間、リーベの両耳はぴんと立ちっぱなし。右耳の銀色の星飾りと濃紫のリボンも、歩くたびに小さく揺れていた。
「…………兄さん。ルームメイトって絶対いるんだよね」
「ほぼ二人一部屋だからいるだろうな」
「私に……仲良くなれるかな……?」
「さっきまでの勢いはどこにいった?」
同年代と日常的に接する機会に恵まれてこなかったリーベだ。不安になるのも無理はない。
「家から通うのって……」
「ん?」
「いや、なんでもない」
聞こえてはいたが、それ以上は追及しなかった。
少し前まで病院で過ごし、俺の家で暮らすようになったのもまだ数か月前。家族以外の誰かと同じ部屋で生活するのはもちろん、毎日学校へ通うことすら初めて。
競技への参加も含め、トレセンで生活していいと認められたのだってほんの数ヶ月ほど前だった。
「きっと仲良くなれるさ。リーベならな」
及び腰だったリーベの肩を軽く押す。
しばらく扉の前で迷っていたリーベだったが、やがて意を決して3回扉をノックした。
「あ! ちょっと待っててね!」
すぐに部屋の中から声が返り、ドタドタとこちらへ駆けてくる音が続く。
ガチャ
勢いよく開いた扉から顔を覗かせたのは、栗色の髪を短く切り揃えたウマ娘だった。毛先は少し外へ跳ね、くりっとした茶色の瞳も相まって、随分と親しみやすそうな印象を受ける。
「もしかしなくても、今日から同室の子?」
「は、はい! アストラリーベです!」
「だよね! 待ってたよー! 私はハルノオト。ハルちゃんって呼んでね!」
「よろしくお願いします!」
ハルノオトはガチガチのリーベの様子を見て軽やかに笑う。
「そんな固くならなくて大丈夫だよ。同級生だし!」
「……同じ高等部一年?」
「うん。私は中等部からいるから、分かんないことあったら何でも聞いてね」
「本当に!?」
「高等部から入ってくる子ってそんなに多くないし、最初は大変でしょ?」
「ありがと!とっても助かる……!」
…………これはいい子に違いない。
既に俺が口を挟まなくても会話が進み始めている。これは邪魔しちゃいけないな……
俺は気配を消し、そっとその場を離れた。
♦︎
▼ 中央トレセン学園 講堂
新学期初日ということはつまり入学式が行われる。
俺は講堂に並べられた保護者用の席に腰を下ろし、新入生たちが入ってくるのを待っていた。リーベは今頃ハルノオトと共に初のホームルームを終え、ここに向かっていることだろう。
スマホを見ると、母さんからメッセージが何件も届いていた。
『写真ちゃんと撮ってね!』
『制服姿も! 式の看板の前も忘れないで!』
その下には父さんから一言。
『友達との写真も送ってこい』
二人とも、本当は来たがっていた。今は仕事で海外にいるためどうしても都合がつかなかっただけで、来られないと決まった時は母さんの方がリーベ本人より落ち込んでいたくらいだ。
今日ここにいるのが俺だけなのは、少し寂しかった。
やがて新入生たちが入ってくる。
その中に真新しい制服を着た深紫の髪を見つけた瞬間、胸の奥が少しだけ詰まった。
——十一年前
病室の窓から外を眺めていた、小さな女の子がいた。走るどころか、学校へ通うことさえ当たり前ではなかった。
その子が今、同年代のウマ娘たちと同じ列に並んで歩く——ただそれだけの光景なのに、しばらく目を逸らせなかった。
リーベの耳が何度か周囲を探すように動く。
やがてこちらを見つけた。
目が合う。
俺が小さく手を振ると、リーベは一瞬だけ驚いて、それから嬉しそうに笑った。……写真、ちゃんと撮っておかないとな———母さんに怒られるのは勘弁だ。
♦︎
▼ トレーナー棟 昼前
入学式を最後まで見届けてから、俺はトレーナー棟へ戻った。リーベにとっては待ちに待った入学初日だが、俺にとっては普通に年度初めの労働日であり忙しいわけだ。どうにか半休を捩じ込んだが、その分仕事に皺寄せはきている。
これまではチーム〈リギル〉で東条ハナ――おハナさんのサブトレーナーとして働いてきた。練習の補助だけでなく、スケジュール調整、施設利用の申請、備品管理、経費関係。細かい仕事も嫌というほどやっているし、それなりにやることはわかっている。
だが、独立して変わるのは、仕事の種類より最後に責任を持つ人間だ。
以前なら俺が作った書類でも、最終的にはリギルの申請としておハナさんの確認を通していた。これからは自分の判断で担当の予定を組み、自分の名前で送り出す。
少し変な感覚だ。
「ハァ…………」
もっとも今は、それ以前の問題があるわけだが。
「汚すぎるだろ、この部屋」
埃。埃。そして埃、たまにゴミ。掃除だけで何時間かかるんだ、これ。いっそ小言を言われる覚悟でエアグルーヴにでも手伝って――。
机の上のスマホが震えた。
『写真撮った!』
送られてきたのは、制服姿のリーベとハルノオト、それから眼鏡を掛けた見覚えのないウマ娘の三人だった。
続けてもう一件。
『ハルちゃんにウマスタ教えてもらった!』
『日記みたいに使えばいいんだって!』
アカウントへのリンクが送られてきた。
アカウント名はそのまま『アストラリーベ』
リテラシーが無いように思えるが今どきこんなものだろうか……しかし、俺が埃と格闘している間に、随分と学生生活を満喫しているようだ。
さらに通知が続く。
『クロノちゃん!』
「いや誰だ?」
リーベとハルノオト。そして、もう一人。濃い青緑の髪を低い位置でまとめ、細い眼鏡を掛けたウマ娘だった。
二人が笑っている横で、一人だけ妙に姿勢がよく、表情も少し硬い。
『クロノアークちゃん。同じクラスなんだ! ハルちゃんと一緒で中等部からいるんだって!』
「クロノアーク……」
名前なら聞いたことがある。
中等部の頃から走りを評価されていたウマ娘だったはず。
入学初日の午前中だけで友達二人……
俺よりよっぽどコミュ力高いじゃないか………………
《ピコン》
再度通知が鳴る。ポップアップした表示には。
『ハルちゃんとクロノちゃんと走ることになったから練習場に来て!』
♦︎
▼ 中央トレセン学園 共有グラウンド 放課後
リーベに振り回されながらも共有グラウンドへ向かうと、写真に写っていた二人も揃っていた。リーベの無茶振りによって、入学早々、三人で共同トレーニングを行うことになったのだ。
「初めまして、黒瀬トレーナー。クロノアークと申します。本日は練習を見ていただけるとのことで、ありがとうございます」
「ああ黒瀬だ。よろしく頼む。……入学式終わって早々、コイツに付き合わせて悪いな」
「いえ。私もついでに見ていただけると嬉しいですし」
見た目通り、随分と真面目らしい。メガネを直す姿はまさに委員長そのものだった。
「私はハルノオトです。朝はご挨拶できずすいませんでした」
「気にしないでくれ、寧ろ俺が勝手に帰った方が悪い。すまなかった」
ハルノオトに頭を下げられるも、どう考えても俺が悪い。改めて2人にリーベをよろしく頼むと伝え、本題に入ることにする
「3人のトレーニングを見るわけだが……2人とも、担当トレーナーはいないってことでいいんだな? 勝手に指導するのは流石にまずい」
「「はい」」
トレーナーとして、最低限そこは確認しておく必要があった。担当付きのウマ娘へ別のトレーナーが勝手に指導するのは、不文律として避けられている。
「それと、黒瀬トレーナー」
「ん?」
「私はクロノで構いません」
「そうか?」
「リーベさんもそう呼んでいますし、毎回フルネームでは長いでしょう」
「じゃあ、クロノと呼ばせてもらう」
思ったよりも距離の詰め方が急で意外だった。この調子でリーベとあっさり仲良くなったのだろうか。
「私はハルでお願いします!」
隣から元気よく手が上がる。
「分かった。クロノ、ハル。よろしく頼む」
「はい」
「こちらこそです!」
二人とも中等部からこの学園にいる。高等部から入ってきたばかりのリーベにとっては、頼れる友達になってくれそうだ。
「それにしても黒瀬さんって、リーベちゃんのお兄さんなんですよね?」
ハルが興味津々といった様子で俺を見る。
「まあ、そんなところだ」
「じゃあ……もしかして、リーベちゃんのためにトレーナーになったとかですか!?」
……図星だった。
こうも的確に本心を突かれると、凄まじく恥ずかしい。
何と返したものか考えていると、思いがけずリーベから救いの手が伸びた。
「二人とも兄さんと話してないで、早く走ろうよ~!」
よほど楽しみなのか、リーベの尻尾がぶんぶん揺れている。
朝までは、ルームメイトと仲良くなれるか不安がっていたというのに、入学式を終えた頃には友達が二人できて、放課後には一緒に走ろうとしている。
随分と忙しい一日だ。
「兄さん、早く!」
「分かった分かった」
急かされながら、先にコースへ向かう三人の後を追う。
――まあ。入学初日なんて、これくらい忙しい方がいいのかもしれない。
三冠馬誕生祈念