▼ 事務棟 始業直後
入学式から二日目。
始業のチャイムが鳴って間もない事務棟では、既に職員たちが忙しく行き交っている。
俺は朝一番で、たづなさんのいる事務室を訪れていた。
「アストラリーベさんとの専属契約ですね」
「はい。書類も一通り揃えてきました」
差し出した書類に、たづなさんが順番に目を通していく。
書類仕事自体には慣れている。リギルのサブトレーナー時代には、練習の補助だけでなく、施設利用の申請や予定の調整、備品関係の細かい仕事まで散々やってきた。
それでも、たづなさんの視線が書類を追うたびに妙に落ち着かない。
違うのは、これが俺自身の担当のための書類だということくらいだ。
「はい――不備はありません」
たづなさんは慣れた手つきで、新たな書類をこちらに差し出す。
「あとはこちらの書面にアストラリーベさんご本人の署名があれば、正式に専属契約となります」
「分かりました。放課後に書いてもらいます」
「お願いします。……それと、恐縮なのですが」
トン、トン……と書類の端を揃えながら、たづなさんの声がほんの少しだけ改まった。
「契約完了前に一つ、私からお伝えしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「アストラリーベさんとは、長いお付き合いなんですよね」
「十一年になります。家族として一緒に暮らすようになったのは、もっと後ですけど」
「でしたら今後、ご家族としての黒瀬さんなら止めたい。でも、トレーナーとしての黒瀬さんなら挑戦させるべき――そんな場面が出てくるかもしれません」
思い当たることなら、いくらでもあった。
今日は休め。もうやめろ。走るな。無茶をするな。
これまで俺は、走りたがるリーベにブレーキをかける側でいることの方が多かった。
「もちろん、危険を承知で無理をさせろという意味ではありません」
分かっている。たづなさんがそんなことを言うわけがない。
「ただ、守ることと、挑戦させないことは同じではありません」
たづなさんは真っ直ぐ俺の瞳を見つめている。
「——これからはアストラリーベさんが目指す場所へ送り出すことも、黒瀬トレーナーのお仕事になります」
ハルとクロノの間で、楽しそうに走っていたリーベの姿が頭をよぎった。
病室の窓から、外を走るウマ娘たちを眺めることしかできなかった少女が、今は同年代の二人と並んで、自分の脚で走っている。
ここまで来るのに、随分かかった。
なら、その先へ進むのを俺が怖がってどうする。
「……そのつもりです」
迷いはなかった。
ただ、兄としてやってきたことと、トレーナーとしてこれからやるべきことは、完全に同じではない。
「でしたら大丈夫ですね」
たづなさんが、いつもの柔らかな笑顔に戻る。
「改めて、これから頑張ってくださいね。私、リーベちゃんに注目してるんです……もちろん黒瀬さんもですよ?」
その笑顔に軽く頭を下げ、署名用の書類を受け取った。
♦︎
▼ 黒瀬トレーナー室 放課後
数日前まで埃まみれだった部屋も、ようやく人が使える程度には片付いた。
とはいえ、壁際にはまだ開けていない段ボールが積まれ、冷蔵庫を置く予定の場所だけがぽっかり空いている。
「専属契約の書類、必要なところ書いてくれ」
「やっと?」
放課後、俺の部屋へやって来たリーベは、机の上に置いた書類を見るなり椅子へ座った。
「だって最初から兄さんが担当なんて、決まってたようなもんじゃん」
「……手続きってものがあるんだよ」
「ここ書けばいい?」
「そう。そこの名前と、その下に今日の日付」
リーベがペンを取る。
しかし、すぐには書き始めなかった。紙の上へ視線を落とし、やけに慎重な手つきでペン先を動かしていく。
「……何をそんな丁寧に書いてるんだ」
「記念だから」
「契約書だぞ?」
「だから記念なんでしょ」
そういうものなのだろうか。
いつもより時間をかけて名前を書き終えると、リーベは満足そうに俺へ書類を返した。
「できた!」
「どれどれ……よし。これで正式に俺の担当だな」
「うん!」
そこでリーベが一つ咳払いをする。
何をするのかと思えば、椅子の上でわざわざ背筋まで伸ばした。
「それでは黒瀬トレーナー、これからよろしくお願いします!」
「……なんだ急に」
「よろしくお願いしまぁす!」
「聞こえてるよ」
妙に澄ました顔を維持しているが、口元はすでに震えている。
「何笑ってんだ?」
「だって兄さん、入学の日にやったじゃん」
「何を」
「『ようこそ、アストラリーベ。日本ウマ娘トレーニングセンター学園はキミを待っていた!』」
「やめろ」
しかも声色まで真似する始末。
「ふふっ……やっぱり似合わないね!」
「お前、それやりたかっただけだろ」
「あははっ!」
とうとう我慢できなくなったらしく、リーベが机に突っ伏して笑い出す。
こっちはあの日なりに気を遣ったんだが。
「はいはい。改めてよろしく、アストラリーベ」
「うん。よろしくね、兄さん!」
トレーナー呼びは十秒も保たなかった。
「で、兄さん。お腹空いた」
「無理。まだ冷蔵庫届いてない」
「えー」
「調理器具も持ってきてないんだぞ。今日は食堂」
「兄さんのご飯食べたかったのに」
「冷蔵庫来たら作ってやるよ」
「約束だよ?」
「はいはい」
リーベの食事を気にするようになったのは、もう随分前のことだ。
身体を作るなら、走らせ方だけ知っていても仕方がない。何をどれだけ食べるのかまで自分で理解したくて、栄養についても随分勉強した。
家で過ごせる時間が増えてからは、俺が食事を作ることも増えた。今では仕事にも役立っているが、始まりは全部こいつだ。
「じゃあ今日はオムライスにしようかな」
「バランスはある程度考えて食えよ」
「分かってるって」
「本当か?」
「今日はちゃんと考える!」
「今日『は』って言ったな?」
専属契約を結んだところで、俺たちの関係が変わるわけではなさそうだった。
♦︎
▼ 入学から一週間後
入学式の日に満開だった桜も、少しずつ葉を覗かせ始めていた。
そんな季節の変化より早く、リーベは学園生活へ馴染んでいる。
入学前に心配していたのが馬鹿らしくなるくらいだった。
『今日ハルちゃんと食堂!』
昼休みに届いた写真には、料理を前に笑うリーベとハルが写っている。
『食べすぎるなよ』
『これハルちゃんの!』
『じゃあお前のは?』
『もう食べた!』
やっぱり食べすぎてるじゃないか。
別の日には、
『クロノちゃんに数学教えてもらった!』
『分かったのか?』
『全然!』
何の報告だったんだ、それは。
ハルに聞いて始めたウマスタにも、食堂や教室、寮の机、友達との写真が少しずつ増えているらしい。
どれも傍から見れば大したものではない。
だからこそ、リーベには嬉しいのだろう。
制服を着て学校へ行き、授業を受けて、友達と昼飯を食べて、放課後になれば走る。
今まで出来なかった「普通」が、毎日一つずつ増えている。
「今日はどうだった?」
「楽しかった!」
「それ毎日聞いてる」
「じゃあ昨日より楽しかった!」
「昨日も同じこと言ってたぞ」
「じゃあ過去最高更新!」
放課後は、ほぼ毎日俺とトレーニングに励んでいる。
走る日もあれば、ストレッチや筋トレだけで終わる日もある。本人は毎日でも走りたそうにしているが、練習の約束はきちんと守っていた。
「今日は共有グラウンドで走るぞ」
「ほんと!?」
リーベは上機嫌に尻尾を揺らしながら、部屋を飛び出していった。
♦︎
▼ 中央トレセン学園 共有グラウンド 午後四時過ぎ
放課後の共有グラウンドは賑やかだった。
コースからは一定のリズムで蹄音が響き、少し離れた場所ではトレーナーの声が飛んでいる。
春とはいえ傾き始めた陽射しはまだ明るく、あちこちで練習着姿のウマ娘たちが汗を流していた。
疲労の推移を『視ても』問題はなく、身体の動きもいい。
ここ数日の練習でも、リーベは決めたことをきちんと守っている。ならばタイミングだろう。
「今日は少し負荷上げるぞ」
「ほんと!?」
「ああ。今日はペースも任せる。ただ、きついと思ったらすぐ落とせ」
「……いいの?」
「最近ちゃんと指示を守ってただろ」
「やった!」
嬉しそうに返事をして、リーベはコースへ駆け出していった。
これまでは距離もペースも、ほとんど俺が決めていた。
でも、いつまでもそれじゃいけない。
しばらくして一本走り終えたリーベが戻ってくる。呼吸は弾んでいるが、脚取りに乱れはない。
「どうだ?」
「まだいける!」
「じゃあ五分休憩。その後もう一本」
「うん!」
ボトルを受け取ったリーベが、コース脇へ腰を下ろす。
今のこいつなら、もう少し任せても大丈夫だと思った。
「おーい、黒瀬!」
そんなところへ、聞き覚えのある声が飛んできた。
振り返ると、飴を咥えた見慣れた男がこちらへ歩いてくる。
「……沖野先輩」
「なんだよ、その微妙な顔」
「…………別に嫌そうな顔してないでしょう」
「今ちょっと間があったぞ」
チーム〈スピカ〉のトレーナー、沖野先輩。
リギルにいた頃から練習場で顔を合わせることが多く、他チームのトレーナーの中ではかなり気楽に話せる相手だ。こんな態度を取ってはいるが、何かと世話になってきた先輩でもある。
「独立してから会うの初めてか?」
「そうですね」
「どうだ、自分で担当持つってのは」
「昔から面倒見てる奴なんで、あんまり変わらないですよ。凄く手がかかるのは変わりませんが」
「兄さん、人を面倒な子みたいに言わないでよ」
「違うのか?」
「違いますー」
リーベが横から抗議する。
沖野先輩はそんなリーベを見て、軽く目を細めた。
「で、その子が噂の担当か」
「はい。アストラリーベです! 初めまして!」
「沖野だ。よろしくな」
「よろしくお願いします!」
沖野先輩の視線が、肩から腰、脚へと下がっていく。
「にしても細いな。トモの方は――」
手を伸ばしたところで、俺はその手首を掴んだ。
「沖野先輩」
「なんだよ」
「だからそれ、セクハラになるからやめた方がいいって何回も言ってるでしょう」
「張りを見るだけだって! 触らなきゃわからんこともあるだろう?」
「その言い訳も何回も聞きました。そのうち本当に捕まりますよ」
「お前、リギルにいた頃より当たり強くなってない?」
「強く当たらなければいけない先輩に非があるとは思いませんか?」
リーベが俺と沖野先輩を交互に見る。これはじゃれあいのようなものだが、少しリーベは意外に思ったらしい。
「兄さん、この人いつもこうなの?」
「大体」
「おい黒瀬、余計なこと教えるな」
沖野先輩の悪癖は、いつまで経っても治らない。
これさえなければ、何人もの名ウマ娘を育てたトレーナーとして素直に尊敬できるんだが。
「あははっ! トレーナーまたやったのぉ〜?」
少し後ろから飛んできた声に、リーベの耳がぴんと立った。
振り返ると、練習着姿の二人がこちらへ歩いてくるところだった。どうやらスピカも同じグラウンドを使うらしい。
「テイオー。笑ってないでなんとか言ってやってくれ」
「無理だよー。だってトレーナーが悪いもん」
トウカイテイオー。
その隣には、サイレンススズカの姿もある。
「久しぶり、黒瀬!」
「ああ。久しぶり。脚は?」
「会って一言目がそれ!?」
「…………元気そうだな」
「それ、足見て言ってるでしょ!」
沖野先輩が隣で苦笑する。
「相変わらずだな、お前」
「癖みたいなもんですよ」
テイオーが俺と沖野先輩を交互に見て、妙に納得したような顔をしている。
何を納得したのかは、あまり聞きたくない。
「黒瀬さん、お久しぶりです」
「スズカも久しぶり。元気か?」
「はい。最近は言われたとおり、無茶はしていないですよ」
「脚は消耗品だからな。大切にしろよ」
「フフッ……相変わらずですね」
なぜかまた笑われた。
リギルにいた頃から、スピカの面々とは何度も顔を合わせてきた。
リーベの身体を長く見てきたせいか、歩様や疲れ方の小さな違いがどうにも目につく。スピカの練習中にも気になるところを見つければ、余計なお世話だと思いつつ沖野先輩へ伝え、本人たちにも何度か口を出した。
そのせいか、いつの間にか顔見知りと呼ぶには少し気安い関係になっていた。
「…………兄さん」
隣から低い声がした。
「ん?」
「なんでトウカイテイオーさんとサイレンススズカさんと普通に喋ってるの?」
「リギルにいた頃、少し沖野先輩のところを手伝ってた時期があるんだよ。その関係で二人の調整も何度か手伝った」
「聞いてない!」
「聞かれてないからな」
「そういうところだよ!」
なぜ怒られているのだろう。
「もしかして、その子が黒瀬の担当?」
テイオーが興味津々でリーベを見る。
「ああ」
「へえー! キミ、名前は?」
「ア、アストラリーベです! よろしくお願いします!」
「そんな緊張しなくていいって! よろしく、リーベ!」
テイオーが笑って手を差し出す。
リーベは一瞬その手を凝視してから、恐る恐る握った。
「よ、よろしくお願いします……」
「黒瀬の担当なら、ボクたちの可愛い後輩ちゃんだからね!」
「後輩……!」
耳がさらに立つ。
そこへ沖野先輩が口を挟んだ。
「いや、学年はアストラリーベの方が上じゃなかったか?」
「えっ?」
「え?」
二人が同時に固まった。しばらく顔を見合わせる。
「……先輩?」
「や、やめてください! テイオーさんに先輩扱いされるのは無理です!」
「じゃあ、リーベさん?」
「もっと無理です!」
「どうすればいいの!?」
「そのままリーベでいいだろ」
「兄さんは黙ってて!」
なぜ俺が怒られる。
スズカは隣で二人のやり取りを見ながら、小さく笑っていた。
グラウンドから吹いてきた風に、三人の尻尾がそれぞれ揺れる。さっきまで俺の隣にいたリーベが、いつの間にか二人の輪の中に混ざっていた。
「それで黒瀬。今日はどんなメニューだ?」
「状態いいんでいつもより距離とペース上げてます」
「へえ。体第一のお前からすりゃ攻めてるな」
「やれる時はやらせますよ」
沖野先輩は一度だけリーベへ視線を向け、それ以上は何も言わなかった。
「リーベって、走るの好き?」
テイオーが尋ねる。
「大好きです!」
そこだけは一切迷わない。
「そっか! じゃあトレセン楽しいでしょ?」
「すっごく楽しいです! 寮もあるし、授業もあるし、友達と食堂行けるし、みんなと一緒に走れるし!」
「授業まで入るんだ……」
「はい!」
「そこまで学校そのものを楽しんでる子……珍しいかも!」
テイオーが楽しそうに笑う。つられてリーベも笑った。
普段からよく笑う奴ではあるが、いつも以上に嬉しそうに見える。
「そういえば沖野先輩」
「なんだ?」
「来週、高等部一年生向けの模擬レースあるでしょう?」
「ああ」
「リーベも出す予定なんで、時間空いてたら見に来ません?」
「…………え?」
沖野先輩より先に反応したのは、俺の隣のウマ娘だった。
「兄さん…………今なんて言った!?」
「来週、模擬レース出るって」
「聞いてない!!」
「今日言うつもりだったんだよ」
「なんで私より先に沖野さんに言うの!?」
「いや、お前も今横で聞いてるだろ」
「そういう問題じゃない!」
「……お前、先に担当へ説明しろよ」
「あとでします」
「順番おかしいだろ……俺のことを言えた義理かぁ〜?」
正論だった。
「初めて他のウマ娘と競わせるんで、先輩の意見も聞きたいんですよ」
「そういうことなら行くよ。せっかくだし一年の走りも見たいしな」
「リーベちゃん走るの!?」
テイオーの目が輝く。
「模擬だけどな」
「じゃあボクも見に行く!」
「私も予定が合えば」
スズカまで続く。
「…………」
リーベが固まった。
さっきまでぴんと立っていた耳が、今度は少しずつ横へ倒れていく。
「リーベ?」
「……兄さん…………増えた」
「なにが?」
「見に来る人が増えた……!」
♦︎
▼ 栗東寮への帰り道 夕方
練習を終え、リーベと並んで栗東寮へ向かう。
西の空は少しずつ橙色に染まり始め、校舎の影も長く伸びていた。昼間より少し冷たくなった春風が、練習後の火照った頬に心地いい。
しばらく黙って歩いていたリーベが、やがて口を開く。
「兄さん……!模擬レースの話。なんで私が最後に知るの!?」
「まだ根に持ってたのか」
「持つよ!」
実際、今日話すつもりだったのは本当だ。
ただ、順番が悪かったのは認める。
「悪かったよ。沖野先輩を誘ったのが急な思いつきだったんだ。」
「……ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ許す」
リーベはすぐに俺の少し前へ回り込んだ。
「それで、本当に出るの?」
「そのつもりだ。そこまでのコンディションを見て、最終判断はするけどな」
「みんなと走れる?クロノちゃんとかハルちゃんも?」
「同じ組になるかは分からないけど、一年生だから参加する可能性は高いな。……明日聞いて見るといい」
不満そうだった耳が、みるみる上がっていく。
「……レース。私、出れるんだ」
数歩進んで、また急に静かになった。
夕陽に伸びた二人分の影が、寮へ続く道の上を並んで揺れている。
「……テイオーさんも来るんだよね」
「来るらしいな」
「変な走りしたら恥ずかしい」
「お前でも気にするのか」
今日初めて会ったにしては、妙に意識している。
そこでようやく腑に落ちた。
「あぁ。お前、テイオー好きだったんだな」
「好きだよ?」
「知らなかった」
リーベが少し考えるように空を見る。
「病院にいた頃、よく見てたんだよ。テイオーさんのレース」
「そうだったのか」
「知らなくて当然だよね。兄さんはサブトレーナーのお仕事してたし」
それなら、何となく気になった。
「どのレースが一番好きだったんだ?」
皐月賞か。ダービーか。俺でも候補はいくつも浮かぶ。
けれどリーベは少し考えてから、
「有馬記念」
そう答えた。
「復帰した時の?」
「うん」
長い休養を経て、もう一度ターフへ戻ってきた有馬記念。
最後の直線で前を行くビワハヤヒデを追い、並び、競り合いながら前へ出る。競馬が好きだった前世の俺にとっても、忘れようのないレースだった。
「テイオーさん。怪我したのにすっごく頑張ってた」
あまりにも単純な答えだった。テイオーの努力は俺も近くにいたこともあり、それなりに知っている。
「ずっと走れなかったのに……あの日は、また走ってたでしょ?」
「……ああ」
「それに、すっごく苦しそうで……でも楽しそうだった」
リーベの歩幅が少しだけ大きくなる。
「——まだ人気とか、誰が強いとか、私には全然分かんなかったんだ」
そりゃそうだ。
対戦相手の強さも、長い休養を挟んで戻ってくることの難しさも。
病室でテレビを眺めていたリーベに、そんなものまで分かるはずがない。
「でも、それでも」
リーベは前を向いたまま笑った。
「……一回走れなくなっても、また走れるんだって。諦めなくていいんだって。——だから、あのレースが一番好き」
その一言だけで、十分だった。
俺にとってあの日のテイオーは、長い休養を越えてグランプリを制した名ウマ娘だった。
でも、リーベにとっては違う。
リーベが憧れたのは、走り方でも容姿でもない。
走れなくなっても諦めず、もう一度ターフへ戻ってきた、その姿だった。
……前世でその結末を知っていた俺と、何も知らずにあのレースを見ていたリーベでは、きっと見えていたものも違った。
「……なるほどな」
「変?」
「いや。お前らしいよ」
あの頃から、リーベにとって一番大切なものは何も変わっていなかった。
「兄さん。私、もっと走りたい」
「前から言ってるだろ」
「うん。でも今日、もっと思った」
数歩先へ出たリーベが、こちらを振り返る。
橙色の夕陽を背に、長い紫紺の髪と尻尾が春風に揺れた。
「これからも、もっといっぱいみんなと走りたい!」
昔なら、まず無茶するなと言っていただろう。
今だって、その言葉が必要なくなったわけじゃない。
ただ、朝たづなさんに言われたことが、少しだけ分かった気がした。
「じゃあ、まずは来週だな」
「うん!」
リーベの尻尾は楽しそうに揺れている。
長い時間をかけて、ようやく走れるところまで来た。
今度は、誰かと競って走ろうとしている。
来週。
アストラリーベにとって、初めての