第二組の六人がスタート位置につく。
リーベは内から四番。ハルは大外の六番。
俺から出した指示は何もない。
ただ二人の走りを観察することに徹する。
スタート。
リーベは少し遅れてゲートを飛び出し、前へ出た二人の後ろへ自然と収まった。
――が、内から一人が並びかける。
リーベは半歩外へずれ、相手が前へ出れば、また少しだけ場所を空けた。
「明らかに譲ったな」
沖野先輩が言う。
「ですね」
接触を避ける意識が強い。まだ十分に間隔はあるのに、相手が近づくたびに自分から場所を空けている。
最初のコーナーでは、とうとう他のウマ娘に押し出され、明らかに外を回る形になった。
「あちゃー」
「かなり遠回りですね」
テイオーが声を漏らし、スズカも僅かに眉を下げる。
しかも前が少しペースを落とせば詰まるのを避けようとして、リーベまで合わせて速度を落とした。
身体そのものは間違いなく速い。
ただ、レースの中でどう走ればいいのかをまだ知らない。
誰かが来れば譲り、前に誰かがいればついていく。
練習ではあれだけ奔放に走るくせに、レースになった途端、目の前で起きることへ律儀に反応しすぎていた。
持ち味の自由な走りが、周りを気にするたびに窮屈になっていく。
このレースで勝つことだけを考えるなら、俺は逃げを指示していたことだろう。実は周りの走りに依らないスズカのアドバイスは的を射ているのだ……言い方が問題ではあるが。
俺は眉を顰めながらも、視線を後ろへ移す。
ハルは六番手、最後尾を走っていた。
スタート時の出遅れが響き、大外から前に出られず、先行集団を追う形になっていた。
——少しずつ集団と差が開き始める。
それを見た瞬間、ハルの走りが変わった。
腕振りが大きくなり、肩にも力が入る。少しでも前へ進もうと歩幅まで無理に伸ばしたせいで、上半身にも余計な揺れが出始めた。
「……前の癖が出たな」
練習を始めた頃のハルは、ずっとああやって走っていた。
速く走ろうとするほど力を入れる。
力を入れるほど、身体のあちこちが噛み合わなくなる。
焦りが走りに歪みを生み、余計な力ばかり使ってしまう——そんな悪癖だ。
ここ最近はインターバル走を何度も繰り返して、少しずつ直してかなり改善した。
それでも、焦れば昔の癖は顔を出すもの。
今日は何も言わない。
俺が横から直すレースじゃない。
そのまま数十メートル、ハルは不格好に走り続ける。
前との差は縮まらない。
それでも、ハルは諦めなかった。
一度、大きく息を吐く。
大きく振りすぎていた腕を少し戻す。上がっていた肩から力を抜こうとする。
上手くいかない。
それでも、もう一度。
苦しくなったからといって、そのまま崩れて終わるような性格じゃない。
何度も崩して、間違って、直して、また崩してきた。
その
腕の振幅が収まり、肩の力が抜けていく。無理に伸ばしていた歩幅も、少しずつ元へ戻った。
完璧じゃない。まだところどころに力みは残っている。
それでも、さっきまでとは違う。
前を走るウマ娘に、もう一度追い縋り始めた。
なんとか……持ち直したか。
「やるな」
隣で沖野先輩も呟いた。
「分かります?」
「そりゃな」
沖野先輩は走るハルを目で追ったまま、少し感心したように続ける。
「癖を癖で上書きしたってとこか……お前にしては随分強引だ」
何度も走って、映像を見て、直して、また走る。そうやって身体に覚え込ませてきた形へ、少しずつ戻っている。
「無茶に耐えられる丈夫な体……ってことですよ」
立て直してからのハルは、前を走る一人との差を少しずつ詰めていた。
派手な加速じゃない。
一気に追いつくわけでもない。
それでも崩れずに走り続け、最後のコーナーへ入る手前で並ぶと、そのまま五番手へ上がった。
「地味だけど、悪くないな」
「そうですね」
まだ速くなったわけじゃない。
ただ、前なら崩れたままだった走りを、今日は自分で戻すことができた。
ハルはゆっくりと成長している。
——残り六〇〇。
前の集団が動く。
リーベは一拍遅れた。
相手が速度を上げたのを見てから自分も追い始める。それでも地力で差を詰め、第四コーナーへ入る頃には一人抜いて四番手まで上がっていた。
だが――。
「あっ」
前に二人。
内側にも一人。
外からも別のウマ娘が上がってくる。
進路がない。
リーベの首が動く。
前。内。外。
迷っている。
「……詰まったね」
テイオーが呟く。
身体はまだ走れるのに、どこへ行けばいいのか分からない。全力を出せない。そんな袋小路にリーベは追い込まれていた。
その間にも、もうじきコーナーは終わる。
リーベの耳が忙しなく動く。
前。
内。
外。
——今、どうする?
何度見ても、今すぐ抜けられる場所はない。
それでも前へ出ようとしていた脚が、不意に僅かに緩んだ。
「……?」
諦めたわけじゃない。
リーベの視線が、前を走るウマ娘たちのさらに向こうへ移る。
第四コーナーの先。
——もうすぐ、最後の直線が始まる。
そこで何かに気づいたのか、さっきまで落ち着きなく動いていた耳が止まった。少し焦りを見せていたリーベが薄く笑ったように見えた。
無理にここで抜かなくてもいい。
今は一度下がって、走れる場所を作ればいい。
そう考えたかのように、リーベがほんの少し速度を落とす。
敢えて外から上がってきたウマ娘を先へ行かせた。
そのまま後ろへつく――のではなく、空いた外側へゆっくりと身体を持ち出していく。
「……そこを選ぶか」
大きく回る分、効率がいいとは言えない。
けれど、直線へ向いた時。
リーベの目の前には、もう誰もいなかった。
あとは――追い抜くだけだ。
リーベが芝を踏み込んだ。
一歩。
二歩。
「……速っ」
「っ……! これほどとは——」
テイオーとクロノの声が漏れる。
周りに合わせていた歩幅が一気に広がる。
前傾が深くなり、耳が伏せられる。大気をかき分けるように、両腕が鋭く前後した。
その時々の身体と感覚に合わせて変わる、リーベの自由なフォーム。
どうにか、いつもの走りを取り戻した。
一人。
二人。
前を抜いていく。
残り一〇〇。
先頭との差は一馬身ほど。
相手も横を見て、リーベに気づき、もう一度脚を伸ばす。
リーベも伸びる。
その顔は、笑っていた。
二人が並ぶ——残り数十メートル。
最後に半歩、明確にリーベが前へ出た。
一着。
半馬身差で、ゴールを駆け抜けた。
「勝った!」
テイオーが声を上げる。
「……すごい」
スズカの視線は、ゴールしたあとも楽しそうに速度を落としていくリーベを追っていた。
俺も息を吐く。
能力だけ見れば、世代トップクラス。
そんなことはステータスでも、普段の練習でも分かっている。
だが、今日見たかったのはそこだけじゃない。
進路を誰かに譲ってしまう。
前を走る相手のペースに合わせてしまう。
先を塞がれば迷う。
そして、落ち着けば冷静に対処できる。
そんな、本当のレースだからこそわかる課題。
——後ろでは、ハルもまだ走り続けていた。
五番手。
前との差を一気に詰めるような脚はない。それでも立て直してからは崩れず、一歩ずつ前との差を削っている。
残り数メートル。
——前の一人に並び、そのまま少しだけ前へ出た。
アタマ差で四着。
派手な追い込みじゃない。
それでも、立て直した走りを最後まで崩さず、ひとつ順位を上げてゴールまで運んだ。
二人は少しずつ前進している。
♦︎
「兄さん!」
クールダウンを終えたリーベが、俺を見つけるなり駆け寄ってくる。
「楽しかった!」
第一声。実に端的でリーベらしかった。
尻尾が忙しなく揺れている。
「どうだった!?」
「最後まで勝ち筋を追えたのは良かったな」
「ほんと!?」
ぱっと顔が明るくなり、尻尾がひときわ大きく揺れる。
「ただ、最初のコーナーは外を回りすぎだ。あれだけ膨らめば、その分余計に走ることになる」
「…………」
今度は肩まで分かりやすく落ちた。
「初めてだから仕方ないけどな」
「もうちょっと褒めてから言ってよー!」
「リーベ!」
そこへテイオーが駆け寄ってきた。
「最後すっごかったよ!」
「ほ、ほんとですか!?」
さっきまで萎れていた耳が勢いよく起きる。
俺の時より反応がいい。
「うん! 外に出てから『絶対抜く!』って気迫で、一気に伸びてたもん!」
「えへへ……」
頬が緩み、尻尾まで忙しなく左右へ振れ始める。
「あの最後のスパートだったらG1だって勝てちゃうかもよ!」
「言い過ぎですよ〜テイオーさん〜」
身体をくねらせながら、隠す気もなく嬉しそうに笑う。
数秒前まで落ち込んでいたのは嘘のようだった。
「ただ、最初はちょっと優しすぎたかも」
「……優しすぎ?」
笑顔がぴたりと止まる。
「横に来られるたびに『どうぞ!』ってしてたじゃん」
「してないです!」
「してたよー!」
「してません!」
「すっごくしてた!」
「テイオーさんまで!」
今度は尻尾まで力なく垂れた。テイオーは一線級のウマ娘なのだ。正直なところ、拙い走りの括りに入ることだろう。
「リーベさん」
スズカが柔らかく声を掛ける。
「最後の直線、とても良かったですよ」
「スズカさん……!」
顔を上げる速度が露骨に早い。
「最後の直線でようやくリーベさん自身の走りになっていましたね」
「分かりました?」
「はい。それまでより、ずっと楽しそうでしたから」
「えへへ……」
口元がすぐに緩む。
「ただ、少し残念なところもあります」
「スズカさんも!?」
今度は耳が横へ寝た。
「前のウマ娘が速度を落とした時に、一緒に減速していましたよね? 自分のリズムまで相手に預けてしまうと、せっかくの走りが窮屈になってしまいます」
「うぅ……」
顔だけでなく、背中まで丸くなる。
「お前、分かりやすすぎない?」
「兄さんは黙ってて!」
「リーベさん」
クロノまでやって来る。
「一着、おめでとうございます」
「ありがと……」
リーベが少し警戒するようにクロノを見る。
「最後に外へ切り替えた判断はとても良かったです」
「ほんと!?」
警戒は一瞬で消えた。
「前が塞がったあと、無理に内へ入らなかったのは正解ですから」
「クロノちゃん……!」
両手を胸元で組み、救いを見るような目を向ける。
「ただ、判断が一拍遅いです」
「クロノちゃん!?」
その手がすぐに落ちた。
「第四コーナーへ入る前には、前が塞がる可能性に気づけたはずです」
「急に具体的!」
「私なら、その時点で進路を確保します」
「知ってる! さっきやってたもん!」
「でしたら次は出来ますね」
「簡単に言う……」
最後には、耳も尻尾もまとめて力を失っていた。
「みんな褒めたあと、絶対言ってくる……」
ぼそりと呟く。
「直すところがあるからだろ」
「兄さんは一番言うから嫌!」
理不尽だ。
「リーベちゃん!」
そこへ追いついたハルがやって来た。
「すっごかったよ! 追いつけなかった!」
「…………ほんと?」
リーベが恐る恐る顔を上げる。
「うん! 最後はいつものリーベちゃんだった! すっごく速くてカッコいいよ!」
「ハルちゃん……」
沈んでいた表情が、ゆっくりと明るくなっていく。
「ほんとに?」
「ほんと!」
「他に何かある?」
「え?」
「でも、とか。ただ、とか……」
「ないよ?」
ハルがきょとんとする。
「すごかったって言いたかっただけ!」
「ハルちゃーん!」
「わっ!?」
次の瞬間、リーベが勢いよくハルへ抱きついた。
「ちょ、リーベちゃん!?」
「味方はハルちゃんだけだよー!」
「何の話!?」
ハルの肩へ顔を埋めたまま、こっちを睨む。
「ハルちゃんは優しい……」
「そ、そう?」
「うん。大好き。ハルちゃんの走りは見えてなかったけど、絶対いい走りだったよ! ……一生一緒にいてね」
「急に重いよ!?」
ハルは困ったように笑いながらも、リーベの背中を軽く叩いた。
「でも本当にすごかったよ」
「えへへ……」
今度こそ完全復活。
ハルに抱きついたまま、満足そうに頬を緩めている。
「単純ですね」
「クロノちゃんは静かに!」
クロノが僅かに首を傾げる。
「事実を言っただけなのですが」
テイオーが声を上げて笑い、スズカも楽しそうに口元を緩めていた。
「ハルはどうだった?」
俺はハルに尋ねる。
ハルは少し考えてから、自分の腕を見る。
「途中で前が離れていくの見て焦っちゃって、また変な走りになって……。でも、このままじゃ駄目だって思って、一回力を抜いてみたらちょっと楽になりました」
「ああ。自分で立て直せていた——これまでの努力の結果だろう」
ハルの顔がぱっと明るくなる。
「ハルちゃんすごい!」
リーベが抱きついたまま顔を上げる。
「頑張ったかいがあったんだね!」
四着だったことよりも、そっちの方が嬉しいらしい。
ハルはやはりすごくいい子だった。
俺たちが談笑を楽しんでいると、第二レース場に備え付けられたスピーカーからアナウンスが流れた。
『以上をもちまして、本日の模擬レースは全組終了となります。出走した生徒はクールダウンを済ませたのち、使用した備品の片付けにご協力ください』
周囲にいた生徒たちが一斉に動き始める。
ゼッケンを外す者。コース脇に置かれた備品を集める者。トレーナーへ今日の走りを聞きに行く者。
さっきまでレースの熱気に包まれていた第二レース場が、少しずつ普段の放課後へ戻っていく。
「じゃあハルちゃん、片付け行こ!」
「うん!」
「クロノちゃんも!」
「元々そのつもりですが」
「真面目!」
「普通だと思うよ、リーベちゃん」
ハルから離れたリーベが、今度は二人の背中を押して用具置き場の方へ向かい始める。
「あ、じゃあボクも手伝おっかな」
「私もお手伝いします」
テイオーとスズカまで、その後を追った。
「テイオーさんたちも!?」
「人数多い方が早く終わるでしょ?」
「それに、せっかく来たんですから」
五人になった途端、一気に賑やかになる。
歩きながら、今度はテイオーがハルの横へ並んだ。
「そういえばハルもさ、途中から走り変わってたよね」
「えっ、分かった?」
「分かるよー。最初めちゃくちゃ力入ってたもん」
「うっ……」
少し遅れてスズカも加わり、何か言葉を添える。
クロノまで振り返って話に入り始めた。
内容まではもう聞こえない。
ただ、ハルが最初こそ戸惑ったようにしていたのが、やがて何度も真剣に頷き始めたのだけは見えた。
リーベはというと、何故か自分までその輪に割り込んで、テイオーとじゃれ合っている。
随分と賑やかな片付けになりそうだ。
「兄さん!」
少し離れたところから、リーベが大きく手を振る。
「私たち片付け行ってくるね!」
「ああ。ちゃんと働けよー!」
「分かってるー!」
そう返した直後、少し先を歩くハルたちの方へ駆けていった。
五人の姿はそのまま用具置き場の方へ消えていく。
気づけば、残されたのは俺と沖野先輩だけだった。
「……置いてかれたな」
「ですね」
しみじみと髭を撫でながら、先輩がしたり顔で頷く。
「若いっていいなぁ」
「先輩、加齢臭とか気になるお年頃ですもんね」
「お前、先輩に言っていいことと悪いことがあるぞ」
真顔で睨まれた。
「……冗談ですよ」
「今の間は絶対本気だっただろ」
「気のせいですって」
「この野郎……」
沖野先輩が呆れたように頭を掻く。
俺も笑いながら、もう一度コースへ視線を戻した。
先ほどまで走っていた生徒たちも、今はそれぞれ片付けや反省に忙しいようだ。
サブトレーナー時代に顔を見たことのある一年生も何人かいた。実際にレース形式で走ってみれば、普段の練習だけでは分からない部分も見えてくる。
「でも、今年の一年は結構面白いかもな」
「そうですね」
沖野先輩が何気なく言う。
「何人か気になるのいたぞ」
「へえ」
「今度ちゃんと見てみろよ」
「そうします」
誰がこの先、リーベの前に立ちはだかるのか。
それを決めるには、まだ少し早い。
「で、今日はもう終わりか?」
「俺たちは終わりですね」
リーベに問題がないことは『視て』分かっている。細かいことは明日確かめればいい——珍しくそんな気分だった。
「じゃ、飲みに行くか」
「急ですね」
「お前が独立してから、まともに飲んでないだろ」
確かに、しばらく沖野先輩とゆっくり飲む機会もなかった。
「久々に行きますか」
「決まりだな」
俺はスマートフォンをポケットから取り出す。
「おハナさんも呼びますか?」
「……来ると思うか?」
「誘うだけ誘ってみましょうよ」
「じゃあ黒瀬から連絡してくれ」
「なんで俺なんですか」
「俺から誘うと説教までセットになりそうだから」
「俺からでも変わらないと思いますけどね」
むしろ『新人トレーナーが浮かれて飲み歩くな』くらいは言われそうだ。
「黒瀬、店どうする?」
「まだ連絡もしてないですよ」
「じゃあ歩きながら決めるか」
「はいはい」
久しぶりに、先輩たちと飲むのも悪くない。
今日はいい酒が飲めそうだった。