▼ 共有グラウンド 放課後
模擬レースから、一週間ほどが経過した。
俺たちは毎日のように練習に励んでいる。
「ハル、そこまでにしよう」
「はいっ!」
合図と同時に、ハルが速度を落とす。
三百メートル。走って、映像を見て、一箇所を直して、また走る。やっていることは相変わらず地味だ。でも間違いなく効果はある。
「今のどうでした?」
「前よりいい。ただ、最後の方で少し上体が起きてたな。その影響で腰の位置も少しズレてたし、顔が上がってる」
「あぁ……」
ハルが腰へ手を当て、さっきの走りを思い返す。
「前見ようとすると、つい……」
「ちょっとそのまま立ってみろ」
「はい」
ハルの肩へ手を置き、姿勢を確認する。そこから背中へ軽く触れ、さっき走っていた時より少しだけ上体を戻した。
「この辺」
俺はハルの背中の中心を押す。
「疲れてくると、ここから後ろへ逃げるんだよ。勿論、腰も一緒についていくから重心がブレる」
「なるほど……」
ハルがその姿勢のまま、何度か小さく身体を揺らして感覚を確かめる。
「あと顔な」
顎の辺りを指差す。
「息が切れてくると、顎が上がってるな」
「そこもまだ直ってないかぁ」
「前よりはマシ。だから次は、重心を真ん中に置くのと、顔を上げすぎないこと。今はその二つだけ気をつけろ」
「分かりました!」
素直に頷いて、もう一度スタート位置へ戻っていく。
タブレットの映像を巻き戻す。模擬レースで一度崩れ、それでも自分で立て直せたのが良かったのか、最近は走っている最中にも自分の違和感へ気づけるようになってきた。
まだ直すところは多い。それでも、一つ直して次へ進む。その繰り返しはちゃんと形になっている。それに、少しずつ自信もついてきたようだった。
「兄さーん!」
グラウンドの反対側から声が飛んできた。
顔を上げれば、リーベが大きく手を振っている。
「見てたー!?」
「見てた見てた」
「絶対見てなかった!」
誤魔化しがバレた。
頬を膨らませたリーベが、そのままこちらへ駆けてくる。
「ハルちゃんばっかり見てる!」
「同時に見れるわけないだろうが」
納得はいかないらしい。
「兄さん、次のレースいつ? 早くまた走りたいなぁ」
「考えてるから今は練習しろ」
「はーい」
模擬レースがよほど楽しかったらしく、最近はこんな調子だ。
「黒瀬」
今度は別の方向から名前を呼ばれた。——振り向く。
「おハナさん?」
共有グラウンドの入口から、見覚えのある姿が見える。その半歩後ろにはクロノの姿もあった。
「クロノちゃん!」
リーベが今度はそちらへ向き直る。
「今日はどうしたの? 練習しよっ!」
「それもいいですが、その前に皆さんに報告がありまして」
ハルも練習を止めて戻ってきた。
クロノは俺たちの前まで来ると、一度姿勢を正す。胸に手を置き、一拍置く。
「私——〈リギル〉に所属することになりました」
一瞬の間。
「ええっ!?」
リーベの声がグラウンドに響いた。
「リギルって、会長さんとかいるチーム!?」
「はい」
「すごい!」
「クロノちゃん、おめでとう!」
二人に続けて祝われ、クロノの口元が僅かに緩んだ。隣にいる女性はそのチームのトレーナーなんだが……リーベは知らなかった。
「ありがとうございます」
でも、リギルは中央トレセンでも有数の実力者が集まるチームだ。入りたいと言えば誰でも入れる場所じゃない。
「模擬レースで?」
「ああ」
俺が言葉少なく尋ねると、おハナさんが頷いた。
「中等部の頃から目はつけていた。この前のレースを見てやっと声をかけたわけだ」
「なるほど」
あのレースでクロノは、スマートに実力を示して勝利した。おハナさんが好みそうなタイプのウマ娘だった。
「じゃあクロノちゃん、これからリギルで練習するの?」
「基本的にはそうなります」
「そっかぁ……」
リーベの耳が少し下がる。
「一緒に走れなくなるわけではありませんよ」
「ほんと?」
「時間が合えば」
「じゃあまた走ろうね!」
「はい」
今度は迷わず返事が返ってきた。
「そういえば黒瀬」
おハナさんがこちらを見る。
「クロノは本格化も始まっている。このまま順調なら、秋にはデビューさせるつもりだ」
「秋、ですか」
「能力は足りている。あとは実戦へ向けて詰めていけばいい」
隣に立つクロノを見る。
初めて見た時から数ヶ月しか経過していないが、身体つきもしっかりしているように見える。元々高かった完成度に、これから競走ウマ娘としての身体まで追いついてくるわけだ。
「お前の担当はどうする」
「まだそこまでは考えてないですね」
「随分のんびりしているな」
「色々あるんですよ。そのうち説明に伺います」
おハナさんもそれ以上は言わなかった。
「黒瀬トレーナー」
クロノがこちらを向く。
「今後はリギルの練習が中心になりますので、こちらへ来られる日は減ると思います」
「ああ。勿論だ。おハナさんの指示をよく聞くといい」
「ありがとうございます」
「えー……」
横から露骨に不満そうな声がした。
「リーベさん、学校では会えます」
「分かってるけどー」
「私もいるよ、リーベちゃん」
「ハルちゃんはいて当然だから!」
「それはそれで扱い雑じゃない?」
そんな二人を見て、クロノが小さく息を漏らす。
環境は変わり、これまでのように、放課後になれば三人揃って走る――そんな時間は、きっと少なくなっていく。
それでも。
「クロノちゃん、今度また一緒に走ろうね!」
「はい。時間が合えば、ぜひ」
共に走った時間はリーベの一生の宝になるんだろう。
♦︎
▼ 共有グラウンド 六月
六月に入り、放課後のグラウンドには以前より長く陽が残るようになった。
クロノがリギルへ入ってから、三人で一緒に走ることはめっきり減っていた。授業では顔を合わせるし、休み時間には話もする。けれど放課後になれば、クロノはリギルの練習へ向かう。
「クロノちゃん、最近全然こっち来ないね」
「精鋭チームのリギルだし忙しいんじゃない?」
「分かってるけどー」
リーベが不満そうに口を尖らせる。
「今日は久々に走れるぞ」
「えっ?」
「おハナさんがクロノ連れて、こっちで練習見るらしい」
「ほんと!?」
耳が一気に立った。
ほどなくして、おハナさんがグラウンドへ入ってくる。その隣にはクロノの姿があった。
「クロノちゃーん!」
リーベが大きく手を振る。
クロノもこちらに気づき、軽く片手を上げた。
「今日はクロノだけなんですね」
「ああ。他はそれぞれ予定が入っている。今日はこいつを直接見ておきたくてな」
「よろしくお願いします」
クロノが小さく頭を下げる。
リギルは学園でも有数の実力者が集まるチームだ。生徒会の仕事を抱えているメンバーも多く、練習の参加者は日によってまちまちだった。
「じゃあ今日は個別トレーニングですか」
「そんなところだ」
リーベがクロノの方へ行きたそうにしているが、その場から動こうとはしない。
「行かないの?」
「練習中だから邪魔しちゃ駄目」
「そこはちゃんとしてるんだ」
「私をなんだと思ってるの!?」
ハルの疑問にリーベが怒る。これが日頃の行いということは黙っておいた。
時間も限られている。そろそろ練習を始めよう。
ハルは距離を伸ばして四百メートル。リーベは千メートルのペース走だ。
「お前達、早く行ってこい」
二人を送り出し、その合間に、クロノの走りへ目を向ける。
「……改善してるな」
何本か、その走りを目で追う。
以前からフォームは整っていた。だが、今は速度を上げても身体の軸が浮かず、踏み込む力も明らかに増していた。
それなのに、走りそのものは前より静かに流れるようだった。余計な部分を一つずつ削ぎ落とし、最適化した機能美すら感じる。
リギルに入ってまだそれほど経っていない。それでも、クロノが元から持っていたものは確実に磨かれている。隣に立つ先輩は流石の手腕を見せていた。
「黒瀬」
「はい?」
「リーベもペース走だったな」
「そうですけど」
「次の一本、クロノと合わせてみるか」
思わずおハナさんを見る。
「競わせるんですか?」
「違う。同じ設定で走らせるだけだ。クロノにも丁度いい機会だろう」
「なるほど」
リーベへ目を向ける。
本人はこっちの会話が聞こえたらしく、既に期待に満ちた顔をしていた。
「やる!クロノちゃんと走るんでしょ?」
「並走だからな!」
「分かってるって!」
最近は指示に従うようになったが、念の為リーベには念を押しておく。
リーベがすぐさまクロノの隣へ向かう。
「よろしくね、クロノちゃん!」
「はい。よろしくお願いします」
クロノの方はいつも通り落ち着いた様子だった。少しばかりおハナさんを羨ましく思う。
「クロノ、お前がペースを作れ。途中から少し上げる」
「はい」
「リーベはそれに合わせろ。勝手に前へ出るなよ」
「はーい」
俺とおハナさんそれぞれから指示を聞いた二人が並んでスタート位置へつく。
合図と同時に走り出した。
最初に目につくのは、やはりクロノだった。
指定された速度へ滑らかに乗せ、そこからほとんどブレない。腕の振り、歩幅、身体の軸。どこを見ても落ち着いている。
その横をリーベが走る。
最初は同じような速度だった。
おハナさんの指示で、クロノが一段ペースを上げる。
リーベも遅れず着いていく。
歩幅が変わる。腕の振りが変わる。重心も僅かに前へ移った。どこか一つだけを無理に変えたわけじゃない。速度が上がるのに合わせてフォームが自然に切り替わっていく。まるで、一段ずつギアを上げていくかのように。
クロノの走りが、一つの形を磨き上げたものだとするならば、リーベは状況に合わせて変わっていく。
言うなれば、クラシックとジャズ。
磨き上げた技巧で完成形を奏でるクロノと、その瞬間ごとに音を変えるリーベ。同じ速度で並んでいるのに、二人の走りはまるで違っていた。
――横を走るリーベを、クロノが一瞬だけ見る。
ほんの僅かに、その目が見開かれた。
だが、その意味までは俺には分からない。
そのまま二人は設定された区間を走り切った。
「クロノちゃん、すごい! 前より速くなってる!」
「……リーベさんも」
速度を落としたリーベが嬉しそうにクロノの隣へ寄る。
クロノは言葉少なにリーベを見つめていた。
「リーベ、こっち来い」
「はーい!」
クロノと別れ、こちらへ戻ってくる。
「身体は?」
「平気!」
毎度のように俺は聞く。
息は上がっている。額にも汗が浮いていた。
疲労を『視る』。
設定自体、普段のペース走より少し強度は高めだった。疲労の推移は、予想よりも落ち着いている。
案の定リーベの呼吸は水を飲んでいる間にも落ち着いた。
「もう一本いけるか?」
「いける!」
以前なら、今くらい走ればもう少し休ませていた。
「じゃあ五分休憩。次は元のメニューに戻して継続だ」
「はーい!」
水を片手にハルの方へ歩いていくリーベを目で追う。
少し前から、リーベの余裕が増えてきた気がする。練習を続けていれば身体は変わる。体力だってつく。——だが、それだけの話だろうか?
「黒瀬」
おハナさんが俺と同じ方向を見ていた。
「あれがアストラリーベの走りか」
少しだけ目を細める。
メガネを外し、懐から取り出した
「どうでした?」
「手がかかりそうだ」
「ファーストインプレッションがそれですか」
あまりに端的な評価に俺苦笑したことだろう。
「能力は高い。だが、走りが本人の感覚に寄りすぎている。あれを型にはめようとすれば、むしろ長所を潰すだろうな」
「俺もそう思います」
「レース経験も足りん。それに、お前が以前話していた身体のことまで含めれば、他の子と同じようには扱えないだろう」
「まあ……そうですね」
「チームで見るには、あいつ一人に割く手間が多すぎる」
「言い方言い方」
だが、否定はできない。
練習量ひとつ取っても、その日の状態で変えている。身体の反応を見ながら負荷を上げ、少しでも気になるところがあれば予定を変える。
他のウマ娘と同じようにメニューを組んで、それで終わりというわけにはいかない。俺だって『視る』ことができなければ、今ほど細かく状態を追えてはいないだろう。
「だから、お前が一人で担当しているのは悪くない」
「珍しく褒めますね」
「……お前がこちらに残っていれば、話は別だったがな」
嫌な予感しかしない。
「勘弁してくださいよ」
「まだ何も言っていない」
「その続き知ってますから」
おハナさんが鼻を鳴らす。
「相変わらず人手が足りないんですか?」
「使える人間はいくらいても困らん」
「戻りませんよ」
「分かっている」
そう言いながらも、妙に残念そうなのが怖い。
「いずれ、クロノと同じレースを走ることになるだろう」
「でしょうね」
「その時は勝ちは譲らない」
「まだレースも決まってないのに気が早いですよ」
「トレーナーが先を考えずどうする」
「……まあ、その時はこっちも負けるつもりはないですけど」
「言うようになったな」
「誰の下で働いてたと思ってるんですか」
今度は僅かに口元を上げられた。
♦︎
▼ トレーナー室 練習後
「ハァ……効くぅ……」
「やっぱ張ってるな」
「いっぱい走ったから?」
「だろうな。今日はいつもより負荷を高めてる」
練習を終えたリーベをマットに座らせ、ストレッチとマッサージをまとめて行う。
入学式の日には埃だらけだったトレーナー室も、今では随分まともになった。棚にはタオルやテーピング、ケア用品。壁際にはストレッチ用のマットや簡単なトレーニング器具が置かれ、机にも書類や練習記録が増えている。
ようやく人が使っている部屋らしくなってきた。
「もうちょっと弱くして」
「これくらいか?」
「うん」
膝を支えながら、ゆっくりと脚を伸ばす。
今日の運動量を考えれば、張り方は普通だ。
そのまま細い太腿へ手を添える。
「……ん?」
「なに?」
「いや」
もう一度、同じ場所を押し、感覚を確かめる……以前より反発が強い。
「リーベ」
「んー?」
「昨日の計測、少し体重増えてたよな」
「うん。…………太った?」
勢いよく身体を起こそうとする。
「そういう意味じゃない」
「ほんと?」
焦るリーベを説得して、再び寝かせる。
脚を変え、同じように伸ばしていく。
体重が増えたといっても僅かだ。身体つきがしっかりしてきているのも、練習を始めてから少しずつ感じていた。
けれど、ここまで顕著に発達していただろうか?
今度はふくらはぎを軽く押す。
「ここは?」
「平気」
「こっちは?」
「ちょっと痛い」
張ってはいる。
けれど、今日の練習を考えれば思っていたより軽い。
——さっきの並走が頭に浮かぶ。
本格化が始まり、走りが一段変わったクロノ。
そのクロノに合わせて、普段より強いペースで走ったリーベ。それなのに、休憩へ入ってから呼吸が落ち着くまでが妙に早かった。
「……」
「兄さん?」
「明日、念のため診てもらうぞ」
「え? 私、元気だよ?」
「分かってる」
むしろ、元気だから気になった。
確かめるのは、明日でいい。