念のため病院に駆け込んだ結果は、俺の予想通りのものだった。
——リーベに、本格化の兆候がある。
行きつけの病院で心肺機能や運動直後の血中ヘモグロビン濃度など精密検査を受けた結果、本格化へ向かい始めている可能性が高いと判断が下された。
もちろん、本格化したからといって虚弱体質が変わるわけでは無いそうだ。
今まで通り定期的な検査は必要だし、体調管理だって続ける。実際、『視る』限りでも健康はE+のままだった。
急に頑丈になったわけでもなければ、今まで出来なかったことが何でも出来るようになったわけでもない。
ただ――身体は、確実に変わり始めていた。
▼ トレーナー室 放課後
部屋の扉が開いた。
「ただいまー」
リーベは慣れたように鞄をいつもの場所へ放り出す。今日の練習は休みだった。
「落ち着くわぁ〜」
冷蔵庫を開け、冷やしておいた麦茶をグラスに注ぎ、豪快に呷った。
入学直後には机と椅子と棚くらいしかなかった部屋も、この二か月ですっかり様変わりしていた。
電気ケトルにマグカップ。冷蔵庫には飲み物とリーベが持ち込んだデザートの数々。ソファにはいつの間にか専用のクッションまで置かれている。
棚の端にある菓子袋は、多分ハルのものだ。
半休の日に一人で埃を払っていた頃の殺風景さは、もうほとんど残っていない。生活感が漂っている。
「プリン食べていい?」
「夕飯前だからやめとけよ」
冷蔵庫の中を覗いていたリーベが、名残惜しそうに扉を閉じた。
俺は机の上に広げていた書類をまとめ、その横に置いてあった巻き尺を手に取る。
「リーベ。ちょっと測るぞ」
「何を?」
「そりゃ体だよ」
それだけで察したらしい。
壁際へ立つよう促すと、リーベは素直に背中をつけた。床から垂直に伸ばした巻き尺で、頭頂の位置を確認する。
「伸びた?」
「1ミリくらい」
「誤差じゃん」
「一日で何センチも伸びてたまるか」
本格化と聞いて、どうやら一晩で急成長するくらいの想像をしていたらしい。念の為確認はしたが、昨日病院で計測しているのだ。ほぼ誤差でしか無い。
胸囲、腰囲、背丈、背幅……次々と数字を控えた後、脚周りを測っていく。
昨日触れた時に気になった太腿は、以前より僅かに厚みを増していた。ただ体重が増えただけではなく、筋肉そのものの付き方が少し変わってきている。
「太った?」
「筋肉だから気にすんな」
そう答えると、リーベは安心したように自分の脚を見下ろした。数字だけを見れば小さな変化だ。
けれど、今は身体そのものが変わろうとしている時期。体重や筋肉量、関節の動きも含めて、一つずつ見ていく必要がある。
俺自身、細かすぎる自覚はある……それでも、こういう小さな変化を拾い続けてきたからこそ、今のリーベがいると思っている。
「次、足」
ソファへ座ったリーベからトレーニングシューズを受け取り、足長と足幅も測っていく。
こちらは大きな変化なし。
「今すぐ蹄鉄を替える必要はなさそうだな」
身体が大きく変わる時期なら、今まで合っていた道具が突然合わなくなることもある。
特に足回りは誤魔化せないし、時には致命的になる。
「サイズは親父にも送っとく」
「パパに?」
「ああ。足と靴に関しては、俺よりあの人の方が詳しいだろ? ……本当は型まで取るべきなんだろうが」
父――黒瀬修は、靴職人だ。ウマ娘の蹄鉄まで対応できることもあって、今では世界各国を飛び回っている。
俺が少し気になる程度の写真を送っただけでも、接地の癖から足首の使い方まで長々と返してくるような人だ。知見もこだわりも一流と言ったところか。
「ウェアも、一度見直した方がいいな」
「新しいの買う?」
「身体が変わってるならサイズも確認した方がいい。ちょうど暑くなってきたし衣替えだと思え」
リーベの顔が一気に明るくなる。
「え〜!服買ってくれるの!? 早く行こうよ!」
めっちゃ買っちゃうもんね〜!! なんて言いながら、勢いよく飛びつかれ、腕を掴まれる。
「俺はまだ仕事中なんだが」
「終わったら?」
「まぁ……いいか」
その答えだけで満足したらしい。リーベは機嫌よくソファへ腰を下ろし、寝そべった。
トレーニングウェアを買うだけの話なのに、随分楽しそうだ。……これは余計なものまで買わされそうだ。
けれど、こういう普通の買い物を楽しめること自体、昔のリーベには出来なかったことである。
そう考えてしまい、ついリーベには甘くなり、俺の財布の紐は緩み切ってしまっている……財布にお金は入っていただろうか。
一息つくためにデスクに座ろうとした時、端に置いていたスポーツ用品のカタログが目に入る。リギルで馴染みとなった営業が置いていった物だった。
何気なくページをめくると、途中に競技用衣装の特集が載っていた。
色鮮やかな生地。機能性を優先したものから、ウイニングライブを重視し、観客の目を意識した華やかなものまで様々だ。
「そういやリーベ。勝負服着るなら、どんなのがいい?」
ただの雑談のつもりだった。
けれど、リーベは一瞬で食いついた。
「勝負服?」
ソファから立ち上がり、俺の手元のカタログを覗き込む。
「仮にだぞ」
そのままカタログを受け取ると、楽しそうにページをめくり始めた。本格化が近づく今、そのうち勝負服について考える時も来るだろう。
「まず紫がメインカラー! あと白も好き」
「まあ、お前らしいな」
「それから星!」
そこも予想通りだった。
入院していた頃、消灯前になると病室の窓から外を眺めていることがよくあった。街の明かりに隠れ、星が数えるほどしか見えない夜でも、星を見つけるたびに「あそこにもある」と俺へ教えてくる。
外へ出られない日が続くほどこいつはよく空を見ていた。
今も右耳につけている星の飾りも星が好きだからと俺がプレゼントした贈り物だった。
「どれぐらいつけて欲しいんだ?」
「んー……いっぱいじゃなくてもいいかな」
意外な答えだった。
リーベは少し考え、口に指を添える。
「……一個……一個だけすっごく綺麗なのがあればいい」
なるほど。星だらけの服を選びそうなものだと思っていた。流石に子供扱いしすぎだろうか。
「あと、こういうの好き」
指差したのは、腰から薄い布がたなびく、流れるようなデザインの服。
「ちょっと邪魔じゃないか?」
「邪魔じゃないよ! 可愛くてカッコいいの」
欲張りな注文だ。だが、走り出せば、その布は風を孕んで後ろへ流れるだろう。
——まるで、夜空を駆ける流星が、光の軌跡を残していくように。
そう想像すると、不思議なくらいリーベに似合う気がした。……恥ずかしくて、口には出せそうにないが。
「兄さんはどんなのが好き?」
「俺に聞くなよ。お前が着るんだぞ」
「でも兄さんとこれから走ってくんだしさー」
本人は何でもないことのように言って、再びカタログへ視線を落とした。
深く考えて出た言葉ではないのだろう。
「そうだな……お前が色んなしがらみを超えて自由に羽ばたけるような服……がいいかな」
「それ、兄さんの注文が1番抽象的で難しそうだね」
笑うリーベに釣られて笑う。咄嗟に言っただけだったが、確かに難しいなんてレベルじゃない。厄介クライアントの注文だった。
談笑していると扉が軽く叩かれた。
「失礼しまーす」
ハルが顔を覗かせる。そのまま慣れた様子で部屋に入り、リーベの隣に座る。
「あ、ハルちゃん」
「やっぱりいた。練習場にいなかったから」
ハルは棚の横へ自分の荷物を置き、冷蔵庫から飲み物を一本取る。
「もらいますね」
「勝手に飲んでいいぞ」
ここへ来る頻度が増えたせいか、ハルも随分馴染んできた。その視線が、リーベの広げているカタログへ向く。
「何見てるの?」
「勝負服。もし着るならどんなのがいいかなって」
リーベが隣を空けると、ハルもソファへ座った。
「ハルちゃんは?」
「私?」
突然話を振られ、ハルは少し困った顔をする。
「……考えたことないかも。まだそこまで想像したことなくて」
ハルらしい答えだった。
今は日々のトレーニングで、走りの一つ一つを直している途中だ。何をしたいのか。誰に勝ちたいのか。
そういうものが、まだ本人の中では形になっていない。
「焦って決めるもんでもない。そのうち欲しくなった時に考えればいいさ」
「そうですね」
ハルは小さく笑った。
一方でリーベは、早くもハルに似合いそうな服を勝手に探し始めている。しばらく二人を放っておくことにして、俺は残っていた書類に目を向けた。