Fate/mille fiore-フェイト ミルフィオレ-【完結】 作:おるか人
「はぁっ、は……ぁっ、は、っ……………!」
唇を噛みしめる。
両の手の平に八枚の爪を突き立てる。
戦闘能力に支障が出ない範囲で、衛宮士郎は痛ましい程の自傷行為を繰り返す。
(目を閉じるな、意識を飛ばすな! 分かるんだ、ここで目を閉じたら、俺はもう二度と戻って来れないッ………!)
だがそれでも、睡魔にも似た感覚が意識を端から埋めていく。
士郎の全身を覆う泥は、じわじわと彼の体内に染み込んでくる。外も内も分け隔てなく黒く黒く染めてゆく。
「千、花…………!」
少しでも意識を保とうと、そこに居るはずの人物へと声を張り上げる。
「なに?」
ひどく曖昧な返事だった。
まるで壁一枚を隔てて話しているかのような声だ。
いや、おかしいのは耳だけではない。士郎の眼には、すぐそばにいるはずの千花の姿さえ朧に溶けていた。
「勘違いって言ったな………? じゅっ、…十年前の事は、俺の罪じゃあない……って」
「うん、言った」
「どういう意味、だ? お前は、…あの時、俺が見捨てたから、俺を恨んで、ここまで。あれが俺の罪でなければ、何だ? お前は………俺の、何を恨んでいるって、言うんだ?」
息も絶え絶えの問いかけは、それでも正確に伝わったのだろう。
千花は黙って首を横に振ってみせた。
「確かに、始まりはそれだ。わたしは君に見捨てられた事を恨んだ。十年間………その気持ちだけが『わたし』を証明する縁だった。今だってそうさ」
「ならっ」
「――――でもね、士郎。
士郎は一瞬、苦しみを忘れた。
今の発言を理解できないのは、自分の耳がおかしくなったからか? と。
そんな困惑を知ってか知らずか、千花の主張は続く。
「だって、そうだろう? どんな形であれ、わたしは今この瞬間も生きているじゃないか。
理解が追いついた時、士郎はまた言葉を失った。
「同じ災害に遭ったにも関わらず、正義の魔法使いはもちろん、悪の魔術師にすら手を差し伸べてもらえなかった。そんな彼らを思えば、生き延びたわたしが救われた事を嘆くなんて――――死んだ彼らに申し訳ない」
士郎は思う。
それを、お前が言うのか――――と。
「お前は………」
十年間、拷問に等しい暗闇に閉じ込められて。
ただ、誰かを憎むことでしか自我を保てなくなって。
薄れゆく自意識の中で、それでもより良い結末を求めて抗い続けて。
それでも、結局は何一つ報われない最期を目前にしているというのに。
「自分が、幸せだって言うのか。自分より辛い人がいるから、自分はまだマシなんだって………そう、言うのか」
「うん」
相変わらず目は見えない。
けれど士郎には、不思議と分かった。
いま、目の前にいる誰かが――――それを本心から口にしている事が。
「あのまま棺の中で死んでいたならまだしも、こうして立って喋ってが出来る立場になった今、十年前の事で君を糾そうとは思わないよ。いや………むしろ本来なら、お礼を言うべきなんだろうね。君を憎んでいないわたしが、あの十年を耐える事は出来なかっただろうし」
士郎はこの日、生まれて初めて神を呪った。
「今なら言える。見捨ててくれてありがとう――――なんて。ふふ、何だかおかしいね?」
何故、彼なんだ。
何故、他の誰でもない彼だったんだ。
何故、彼のような人間を、こんな境遇に落とした―――――――!
「だからね、士郎。十年前じゃないんだ。わたしが憎むのは
透明に澄み切った声が、途端に熱く、泥のような粘質を帯びた。
そう。今までの話は全て前置きに過ぎない。
十年前ではなく、現在。士郎の犯した罪は其処にあるのだから。
「ねえ、士郎。結果的にわたしは救われた。君に見捨てられたからこそ、わたしは生き延びた。それについては、今言ったように感謝しているよ。恨むなんてとんでもない。けれど君は、わたしという命を、あの日、君に助けを求めた人たち全てを見殺しにして生き延びた。それもまた、覆しようのない事実だ。
なのに――――――――士郎。ねえ、士郎?
―――――――――――どうして、
…………それは。
あまりにも抽象的な一言だった。
具体性に欠け、意図を読み取るのが難しい。
けれど、今の士郎には分かった。分かってしまった。
万条千花が抱える、衛宮士郎への復讐心――――その根幹。
ああ、そうだ。千花は常々言っていたではないか。
わたしは
それは―――――つまり。
「…………正義の、味方…………」
衛宮切嗣が死んだ日から、衛宮士郎に宿命づけられた生き様。
それこそが万条千花の憎悪の根源だったのだ。
「初めはね、聖杯戦争に参加する気なんて無かったよ。この地下室で、誰にも知られずに死んでゆくつもりだった。残り一ヶ月の寿命………それを引き延ばし得る唯一の希望である聖杯が欠陥品である事は、目覚めた時から知っていたんだから」
当たり前だ。
ああ。当たり前じゃないか。
「それに、一度でも私欲で他人を害してしまえば、この身の内に巣食うフォレスティの意思と‟
士郎は自分より他人が大事だと思っている。
その生き方が間違いだと分かっていながら、それでも走り続けている。
「でも、わたしには一つだけ心残りがあった。………そう、君だよ士郎。どうせ死ぬのなら、たった二言、君に伝えたい言葉があったんだ。………『よくもあの時見捨ててくれたな』って恨み言と………『生きててくれてありがとう』って感謝の言葉。わたしは、それだけを伝えたくて、痩せこけた身体を引きずって歩いた」
士郎はそれで良いだろう。
自己満足の末に果てたとしても、きっと最期まで満足気に笑って逝ける。
「せめて、意味が欲しかったんだよ。十年間苦しんで、やっと自由を手にしたと思ったら、残りの寿命は一ヶ月。さっきはああ言ったけど、わたしだって、そんな境遇に思うところが無かったわけじゃない。だからせめて、わたしが苦しんだ事には意味があったんだって。わたしがあんなに苦しい思いをしたからこそ、士郎は幸せに暮らせてるんだって………そう、自分を納得させたかったんだ」
だが、その生き方は――――万条千花にどう映る?
自分を見殺しにして永らえた命を、軽々に投げ出そうとする士郎の姿を見て、何を思う?
「君の家に辿り着いたのは、真夜中だった。ちょうど日付が変わった頃。わたしは
それも、ただ一度ではない。
何度も、何度も。当たり前のように死へ向かおうとする姿を見て、何を思う?
「次の日も、次の日も、次の日も次の日も次の日も次の日も。半月続いたあたりで、理解せざるを得なかったよ。君が今日まで生き延びてこられたのは、ただの偶然。わたしを踏み台に生き延びた命は、今までも、これからも、いつ無為に喪われていてもおかしくない程度のモノに過ぎないんだって」
その命が自分にあれば!………そう渇望した彼を、一体誰が責められよう。
衛宮士郎が望んで犠牲にする自己は、万条千花が、そしてきっと十年前に死んだ五〇〇余人が狂おしいほどに欲した明日なのだから。
「わたしが過ごした十年間は、全くの無意味だった。――――いや、違うね。わたしの過ごした十年間は、この日この時、この光景を見て絶望するためだけにあったんだ………って」
ああ。きっと、その瞬間だった。
万条千花が、本当の意味で‟
「士郎。ねえ、士郎―――――
千花の十指が士郎の首に絡みつき、内に流れる血液を寸断してゆく。
ガラクタ同然の眼にも見える。血涙を流す『誰か』の狂貌。
「返して、返して…………返せ! 返せ!! 返せッ!!! ふざけるな、お前は誰だ!? 誰だよお前!? お前なんか士郎じゃない! だって、士郎はわたしを見捨てたじゃないか! みんな、みんな見捨てて逃げたじゃないか! わたしたちより、自分の命が大事だったんだろ!? だから逃げたんだろ!? そうじゃないのかよ!?」
指先にかかる力が強くなっていく。
強く、強く士郎の首を締め上げる。
「なら、何で正義の味方なんて目指してんだよ!?………ねえ、何で? 何であんなコトするの? もしかして、責任とか感じちゃった? あは。それは、仕方ないかもね。たまにある話だって聞くよ。サバイバーズ・ギルトだっけ? でもほら、わたしは恨んでなんかいないよ? むしろ、君のお陰で今も生きてる。ね? だからいいんだよ、君は自分の事を許してあげたっていいの。君に責任なんかない。災害だもの、自分の事で精一杯なのは仕方ないよ。きっと、他の人だって同じ気持ちだよ。他ならぬわたしが言うんだもの、君だって信じられるでしょう?」
強く、強く、強く………千花の指は限界まで強張った。
千花はこれ以上ないほどに、両手に力を込めた。
「………分かってるよ。
なのに、その指は士郎の息の根を止められない。
それどころか、血流を鈍らせる事すら出来なかった。
全身全霊の力を込めたのに、それでも千花は士郎の命を脅かすことが出来ない。
「くそっ、何でだ。ちくしょう、何でだ、ふざけるな! お前なんか知らない。赤の他人だ、他人の空似だ、別人だ! 士郎は何処だ。何処へやった?
強化の魔術を使わなければ、他者を害する事すら出来ない。
それをするには、彼の肉体は十年の幽閉生活であまりにも弱くなりすぎた………。
「返して。わたしの士郎を返してよ……………………」
絞り出すような声と同時に、千花の両腕がだらりと落ちた。千花は膝を突いて項垂れ、士郎は支えが無くなった事で倒れ伏す。
あとにはただ、一人の子供がしゃくりあげる声だけが残った。
「…………今更、どうしようもない話だね」
俯いた顔を上げた時、千花の目に涙は無かった。
痕すら残っておらず、泣いていた事自体がウソのようだった。
「わたしは過去を変える。この十年を無に帰す。それが例え『わたし』の死を意味するとしても………もう、躊躇わない。後悔も罪悪感も………全部、あの教会地下で焼いてきた」
それを合図に、士郎を覆う泥が活性化を始めた。
全身にその手を伸ばし、士郎を覆いつくそうとする。
「さようなら士郎。変わった世界で、また逢おうね」
士郎は言葉も無く抗い続ける。
唇を食い千切り、右の手のひらに四枚の爪を突き刺して。
(―――――馬鹿野郎―――――この、大馬鹿野郎――――――)
頭の中に罵声が響く。
その通り、己はどうしようもない大馬鹿野郎だ。
だから馬鹿は馬鹿らしく、ただ、ただひたすらに抗い続ける。
ここで終わる事だけはしたくない。
大聖杯へと歩み寄っていく千花の背中を見据えながら。
そんな気持ちだけが、強く、強く――――士郎を突き動かす。
泥から這い出るように。
或いは、泥から逃れるように。
全霊の力を込めて、左腕を前方へと伸ばす。
(ああ、そうだ。馬鹿にできる事なんざ、それしかねえだろ?)
泥が左腕を追ってくる。
隙を突くように、口を覆いつつあった泥を右手で拭った。
(そら、
左腕の令呪に力を込める。
血と胃液に塗れた喉から、あらん限りの声を絞り出す。
「―――――――、」
駄目だ。これじゃ足りない。
もっと、もっと、もっと、もっと!
この気持ちを、余すところなく叫びに乗せろ!
「―――――――て」
黒い泥が、俺の頭の中を汚してゆく。
フォレスティの意思が、俺の思い出を消してゆく。
ああ。『俺』が塗り潰されてゆく。『俺』が端から崩れ落ちてゆく。
「―――――――てッ」
それでも俺はもう、衛宮士郎を止められない。止めるわけにはいかない。
正義の味方でいたいからじゃない。他でもない『衛宮』士郎にしか手を伸ばせない子に出会ってしまったから。
だから、俺はお前を倒す。俺のエゴで―――お前の夢を、完膚なきまでに打ち砕く!
「―――――――撃てッ」
霞んだ視界の向こうで、千花が振り返る姿が見える。
ああ、そうだ。お前の言う通り、今更どうしようもない話。
全ては過去。終わってしまった事。とっくに過ぎ去ってしまった事だから。
「撃て、ランサァァァァァァァァァァァァァ―――――――――ッ!!!」
だから俺も迷わない。
お前が過去を変えると決めたように。
俺もあの月夜に、抗う事を決めたのだから――――――!
「あばよ、坊主」
最後の令呪が消え失せたその時。
ほんの僅かな遺言と血の飛沫だけを残して、士郎の眼前を、青色の豹が駆け抜けた。
TO BE CONTINUED・・・
【作中捕捉】
■総括
結局のところ、話がここまでややこしくなったのは『災害以前の●●士郎』と『災害以後の衛宮士郎』が起源レベルで別人になっていた事が原因。『見捨てた士郎』が死んで『見捨てられた千花』が生き延びたという逆転現象(別名、遠野シキ問題)が起きてしまったのが、この物語の始まりです。
千花が本当に『よくもあの時見捨ててくれたな』って恨み言を吐いてやりたかった士郎は、
千花が本当に『生きててくれてありがとう』と感謝を伝えたかった士郎は、もうこの世にいない。
復讐相手を失った復讐者。それが万条千花の本質です。