『酒寄彩葉』の人生を奪った紛い物。
それが私だ。
目が覚めたら、『酒寄彩葉』という女の子になっていた。
この子が中2の冬のことだ。
憑依転生、ってやつなんだろうか。
そのわりに、前世のことはほとんど覚えていない。
女だったこと、人と話すのが苦手で、教室の隅で縮こまって誰とも目を合わせられなかったこと、そんな自分が嫌いだったこと。
そして、最後に微かな浮遊感、身体がバラバラになりそうな痛み、それぐらいしか覚えていなかった。
目が覚めてすぐ、部屋の隅の姿見を覗いた。
そこには、まっすぐな目をしたきれいな女の子が映っていて、私が瞬きをすると、鏡の中の子も同じように瞬きをした。
たったそれだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
もう一回、生きられる。
今度は、違うふうに生きられるかもしれない。
……なんて、おめでたいことを考えて、はしゃいでいた気がする。
そうして、私の『酒寄彩葉』としての生活が始まった。
この子の14年分の記憶は、ひとつも残っていなかった。
身体から記憶が流れ込んでくるなんて都合のいいこともなく、友達の名前も、家のどこに何があるかも、教科書の中身も、何ひとつわからない。
だから最初の何日かは、追いつくだけで精一杯だった。
名前を呼ばれても振り向くまでに一拍遅れるし、話しかけてくる子の名前は、SNSのチャット名や誰かが呼ぶ声から必死に拾うしかない。
家では自分の箸やタオルがどれなのかをいちいち確かめてから手を伸ばし、勉強にもついていけず、夜中まで教科書を最初のページからやり直した。
『酒寄彩葉』ならなんて答えるのかもわからないまま、それっぽい顔で、それっぽい返事をして毎日をしのいでいた。
息をつく暇もなかったから、自分の置かれた状況をちゃんと考えずに済んでいた。
……今思えば、都合のいい言い訳だ。
一日を乗り切るたびに、今日もなんとかなった、とだけ思って眠った。
もう一回生きられる、それだけで嬉しかったのだ。
手がかりは、ひとつだけあった。
頭の中の、霧の向こうから、ときどき誰かの声が聞こえてくる。
――彩葉ってさ、全然弱音吐かないの。頼ればいいのに、何でも一人で抱え込んじゃって。でもさ、そういうとこもいいんだよね。
誰の声なのかは思い出せないのに、その名前だけはやけにはっきり聞こえた。
周りがこの身体を呼ぶのと、同じ名前だ。
だから私は、その声を頼りに、自分なりの理想もこっそり重ねながら『酒寄彩葉』を演じることにした。
学校はそれでどうにかなったけれど、厄介なのは家のほうだった。
この子の母は、弱さを一切見せない人だ。
夜遅くに帰ってきても疲れた顔ひとつせず、そして、同じ強さを当然のように娘にも求める。
それに気づいたのは、目が覚めて最初のテストが返ってきた日だった。
平均点はどうにか超えていて、何も知らないところから始めたにしては上出来だと、私は少しほっとしていた。
夕食のあとで答案を渡すと、母は一度だけ目を落とした。
「この点で、悔しないんか」
答えられなかった。
悔しいどころか、ほっとしていたのだから。
「黙ってるいうことは、そういうことやな。いつからこんな点で満足するようになったん」
ああ、この子にとってこれは、ほっとしていい点じゃなかったんだ。
「…ごめん」
母はそれ以上何も言わずに答案を返し、しばらく私の顔を見ていた。
その日から、母は夕食のときにふと箸を止めて、何かを待つような目で私を見るようになった。
目が覚めて1ヶ月ほど経った夜、黙って箸を動かしている私に、母が言った。
「黙って逃げるんは、一番あかんやり方や。言いたいことあるんやったら、言うてみ」
その瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。
「逃げてへんわ」
口が勝手に動いていた。
考えるより先に、言い慣れた言葉みたいに喉の奥からするっと出てきて、自分の声に自分でびっくりした。
そこから先は、何を言ったのかよく覚えていない。
口をついて出る言い分は母の正しさの前ではあまりに頼りなかったのに、それでもなぜか引けなかった。
一度上げた声の下ろし方が、わからなかったのだ。
言い合いはどんどん熱を帯びて、その途中で、母の口からぽろりと言葉がこぼれた。
「…あんた、ほんまに彩葉か?」
言った母のほうが、はっとした顔をしていた。
たぶん売り言葉に買い言葉の、勢いだけの一言だったんだと思う。
母はすぐに口をつぐんで、それきり何も言わなかった。
●
その夜、布団の中で、私は母とどう向き合えばいいのかを考えていた。
どうすればうまくやっていけるのか、この子はどうやってあの人と接していたのか。
答えを探して端末に残っているものを片っ端から開いていくうちに、ひとつのアプリが目に留まった。
『ツクヨミ相談室』という、月見ヤチヨとチャットできるアプリだ。
──月見ヤチヨ
仮想世界ツクヨミの管理人で、分身できて、歌って踊れて、八千歳、という設定のAIライバー。
この子の推しであり、今では私の推しでもある。
目が覚めた最初の夜、壁のポスターが気になって、一曲だけのつもりで聴いてみた。
透き通っていて、柔らかいのにまっすぐな声で、誰かに手を差し出すみたいなその歌い方が私の心をそっと掬い上げてくれる気がして、気づけば窓の外が白んでいた。
それからの1ヶ月、知らないことだらけの毎日を、私はヤチヨの歌で乗り切ってきた。
でも、このアプリのことは知らなかった。
開くと、中学一年の春から、ほとんど毎晩分の履歴がずらりと並んでいた。
人の日記を覗くのと同じで、読んじゃいけないことはわかっている。
それでも指は止まらなかった。
この子を知る手がかりは、ここにしかなかったから。
最初のころは、今日のライブがよかったとか、新曲を三回聴いたとか、数学の小テストで一問落としたとか、他愛もない話ばかりだった。
それが、あるところから母の話ばかりになっていく。
言われたこと、言い返したこと、言い返したあとで本当はしんどかったこと。
スクロールする指が、何度も止まった。
ここには、この子が誰にも見せなかった弱音が全部あって、この子はそれを、画面の向こうのヤチヨにだけ見せていたのだ。
どれだけ母とぶつかっても、この子のメッセージの底には、いつも同じ気持ちが透けていた。
ケンカがしたいわけじゃない。
ただ、一度でいいから、お母さんに認めてほしい。
そして、私がここに来る前の日の夜に、最後の書き込みがあった。
『いつか、認めてくれるかな。そしたらお母さん、昔みたいに笑ってくれるかな。』
そこでようやく、馬鹿な私は理解した。
私は、彩葉がお母さんに認めてもらえる未来を――仲直りできる未来を、奪ってしまったんだ。
言い合って、すれ違って、それでもいつかどこかで、ちゃんと向き合えたはずなのに。
何年かかっても、親子なら、いつか。
でも、その『いつか』はもう来ない。
私がこの子の人生を奪った。
この子がこれから手にするはずだった幸せも、いつか笑い話になるはずだった不幸も、全部。
「ぁ…ぁああ……っ」
喉の奥から、何かがせり上がってくる。
「ごめ、ごめんなさい…ごめんなさいっ…。あなたの未来を、お母さんに認められる『いつか』を奪ってしまって、ごめんなさい。」
謝ったって許されるわけじゃないし、意味なんてない。
わかっているのに、謝るのをやめられなかった。
枕を濡らして、声を震わせて、自分が楽になりたいだけの浅ましい言葉を、ずっと吐き続けた。
その日から、『酒寄彩葉』をなぞることが、私の至上命題になった。
いつかこの身体を返せる日まで、私は彩葉を演じ続けなきゃいけない。
この子が歩くはずだった人生を、私のわがままで台無しにするわけにはいかない。
それが、私にできるたったひとつの償いだった。
毎晩その日あったことをノートに書くようになったのも、そのためだ。
季節がひと巡りしても、母は――紅葉さんは、相変わらずだった。
言うことはいつも正しくて、逃げ場がない。
順位がひとつ下がればどこで手を抜いたのかと詰められ、夜更かしが続けば、自分の管理もできん人間に何ができるんや、と言われた。
どれも冷たい言葉だった。
それでも、この人は一度だって、娘から目を離したことがなかった。
この子のための言葉も、時間も、厳しさも、それを全部、娘じゃない私が受け取っている。
この家にいる限り、この人はこの子に向けるはずのものを、私に向け続けるのだ。
それが、何より耐えられなかった。
だから私は、東京の高校に行きたいと告げて、進学を口実に家を出た。
紅葉さんは止めなかった。
条件はひとつだけ、仕送りはしない。
本物の『酒寄彩葉』ならそれくらい一人でやってのけるはずだと思って、私はその条件をのんだ。
●
あれから2年と少し。
今日は、世間が待ちに待った3連休前の金曜日だ。
私は、ちゃんと『酒寄彩葉』をやれているだろうか。
そんなことを考えながら、バイト帰りの道を歩いていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
こういう感じの主人公の話です。