目が覚めたらあるはずの体温が消えていた。
隣に誰もいない。
…全部、夢だったのかもしれない。
よかった。
これで元通りだ。
部屋が静かだった。
三日ぶりの静けさだった。
二年間、毎朝こうだったはずなのに。
どうしてか、狭いワンルームがすごく広く感じた。
そんなことを考え動かないでいると、かたん、と流しの下の収納が開いた。
「ココダヨー」
三角座りで収まっていたのは、私と同じくらいの年に育ったあの子だった。
…どうやら現実だったようだ。
時計は七時十二分。火曜日。
三連休は昨日で終わっていた。
●
牛乳も卵もない。小麦粉を水で溶いて、パンケーキを何枚か焼いた。
あまりに味気ないので、戸棚の奥の蜂蜜をかけておく。
後ろで、女の子が私のタブレットをいじっている。
「ねーねー、彩葉のこれ、この人ばっかり出てくる!」
おすすめの欄が、ヤチヨの動画で埋まっていた。
配信なんて、もうほとんど観ていないはずなのに。なぜ?
「この人誰ー?」
「…月見ヤチヨ。AIライバー。歌って踊れて分身できて、八千歳…って設定」
「えーあい? ロボットってこと? ヴェー、おもしろー!…あ、この歌、彩葉が歌ってくれたやつ!」
それから、くるっとこっちを振り向いた。
「彩葉、この人好きなの?」
「…それより、ご飯。お腹すいたら、そこのパンケーキ食べて」
女の子はさっそく、一枚にかぶりついた。
「ん!」
一瞬、目がきらっと光った。
噛む。
噛む。
顔がぐねぐねと歪んだ。
「…くそまじぃ」
…正直だな。
でも、これ以上高価なご飯は今家にない。許して欲しい。
味に抗議してくるかぐやを尻目に、私は鞄を持ち、玄関のノブに手をかける。
…ものすごい勢いで飛びつかれた。
「え?彩葉どっか行っちゃうの?やだやだ!一緒いて!」
この子はほんっとうに…
気を強く持たないと無条件に頷いてしまいそうだ。
でも…
「学校は休めないよ。…あなたも、月に帰る方法を思い出して。それが一番いいから」
「帰り方わかんないしー。ここ、おもしろそうだしー」
「とにかく思い出して。あと、家から出ないこと。わかった?」
閉めたドアの向こうで、ぶー、と不満そうな声がした。
〇
放課後、職員室で立花先生が進路希望の調査票をめくった。
「第一志望、東大で変わらずか?」
「はい」
「うん。酒寄の成績なら、十分狙える位置にいると思う。あと少し伸びると安心かな」
それから、と顔を上げる。
「無理はしないように。身体もそうだけど、心も壊しちゃ意味がないから」
「…ありがとうございます」
笑って頭を下げた。
あの子なら、きっと「あと少し」なんて言われなかった。馬鹿な自分が心底嫌になる。
職員室を出て昇降口に向かうと、私に声をかけてくれる人たちがいた。
「あ、彩葉来た」
「やっと終わったー」
芦花と真実、こんな私の数少ない友人だ。
…待っててくれたのか。
「先帰っててくれてよかったのに。」
そう言いつつも嬉しくて、小走りで2人の元へ急いだ。
●
「彩葉、三連休なにしてた?」
「えっと…勉強、かな」
「またー?ちゃんと休んだ?」
「…今回は、ほんとにそんなにやってないよ」
「ほんとかなー」
真実が、じっと私の顔を覗き込んでくる。
赤ちゃんを拾って育ててました、なんて言えるわけがない。
それにしても、あの子大丈夫だろうか。
扇風機はつけてきたものの、最近急に暑くなってきた。熱中症で倒れたりしていないだろうか。コップの場所は伝えたんだけど…。
そんなふうに悶々と考えていると、ふと普段の帰り道とは違う方向に向かっていることに気づく。
「あ、あれ?今日どこか行く約束してたっけ?」
「いやー?でも、本日は特別に彩葉さんをカフェにごあんなーい」
2人が私の手を取る。
「今日バイトない日なの、知ってるからね。」
「パンケーキが美味しいんだってー、れっちごー」
弱い私は断れず、カフェに連行されるのだった。
●
三枚重ねのふわふわのパンケーキが、私の前に置かれた。
芦花と真実がこっちを向く。
「彩葉ノートのおかげで、我ら二名、赤点を回避いたしました」
「つきましては、ささやかながらお礼の品でーす。」
「「どうぞ、ご査収くださーい!」」
二人そろって、両手のひらを私のお皿に向けてひらひらさせた。
「…そんな、大げさだよ」
「いやいや!ほんとにわかりやすいんだって、彩葉ノート。授業より頭に入るもーん」
「色分けとか、ここポイントってとことか、すごいわかりやかった。改めてありがとね、彩葉。」
謙遜した私の言葉への追撃に、少しだけ口元がゆるんだ。
ノートをわかりやすくまとめられることは、私が胸を張れる数少ない特技だった。
授業の要点も、つまずいたところも、全部まとめてある。
あれさえあれば、いつこの身体を返しても、あの子は困らない。
小さく笑って、パンケーキにフォークとナイフを運ぶ。
ひと口目に運ぼうとしたパンケーキが、横から伸びてきたフォークに奪われた。
「……え?」
「いただきまーす!あむ、もぐもぐ……うんまあああ!」
一口で、持っていかれた。
三枚重ねのパンケーキを一瞬で二枚に減らした犯人は、私の服を着て、口の端にクリームをつけていた。
「よっ、いろは!」
ばちん、と完璧なウインク。
「な、な、なん……っ!」
「えー、かわいい。誰この子」
芦花が目を丸くする。
「彩葉の服着てる。彩葉の友達?」
真実が首をかしげる。
「そ、そう!そうなの!いや、友達っていうか、その……」
なんて説明すればいいの。
っていうか、私の服、勝手に着てるし。
「パンケーキ好き?はい、これもどーぞ」
芦花が、自分のお皿を差し出した。
「パンケーキ?これが?彩葉のと全然ちがーう!」
…比べられても困るし、というか芦花も分けなくていいのに。
「なんでここにいるの。家から出ないでって言ったよね」
「いろはの服のマーク調べたら、学校出てきた!で、ついてきた!」
悪びれる様子は、ひとかけらもなかった。
「どこから来たの?」
真実に聞かれて、女の子は胸を張った。
「月からきたの!」
心臓が止まりかけた。
「ツキ……ジ!築地だよね!!」
なんとか誤魔化そうと付け足した。
「築地かー。おいしいお寿司屋さん教えてー」
「…………そう。築地!私の従兄弟!」
なんとか乗り越えられたようだ。
「お名前は?」
「なまえ?」
女の子が首をかしげて、私を見た。
とっさに浮かんだのは、昨日の夜の挿絵だった。
「…か、かぐや」
「かぐや?」
女の子は口の中で三回繰り返して、ぱあっと顔を輝かせた。
「かぐや!わたし、かぐや!」
なぜか自分の名前を初めて聞いたみたいにはしゃぐかぐやに、芦花と真実は顔を見合わせて笑った。
かぐやは、何度も何度も、自分の名前を口の中で転がしているのだろう。
ほっぺたがゆるんでいっている。
とっさに口から出ただけの名前なのに。
この子は、まるで宝物でももらったみたいに笑う。
…そんなに喜ぶなら、まあ、いいか。
その隙に、かぐやはもうひと口私のパンケーキを持っていった。
●
帰り道、オレンジの空の下で、かぐやが繋いだ手をぶんぶん振った。
あの後、この子を連れて急いで店を出てしまったけど、変に思われていないだろうか。
そんなことを考えていると、横から声がかかった。
「あ、いろは。これどうやって使うの?」
ポケットから出てきたのは、スマコンのケースだった。
「…私の、勝手に持ってきたの?」
彩葉のスマコン、引き出しの奥にしまっていたはずだ。あの冬から、一度も使っていない。
「ちがうよー?ウォレット?ってやつで買えた!ツクヨミに行けば、ヤチヨに会えるんだって!」
嫌な予感がして、端末を開いた。
タブレットは、私と同じアカウントにつながっている。
ウォレットの残高が、死んでいた。
スマコンだけじゃない。食料品の購入履歴が、画面の下までずらりと並んでいる。
仕送りなしで、一円単位で切り詰めて貯めてきたお金だった。彩葉のための貯金は別の口座にあるがこれは…
その場に、しゃがみ込んだ。
「…………お金、全部なくなった」
かぐやが画面を覗き込んで、さあっと青くなった。
「あ、あのね! ぎんこうのデータ書き換えたら、数字ふやせるみたいだったよ! かぐや、たぶんできる! やる?」
「絶対やらないで!!本当に捕まるやつだから!」
「…ごめんなさい」
しおれていく顔を見ていたら、叱る言葉が出てこなかった。
私、叱るの向いてないのかな、勝手に外出したことも結局許しちゃったし。
「…勝手に買うのは、もう、だめだよ?」
それだけ言うのが精一杯だった。
●
部屋の鍵は開いたままだった。
ドアを開けて、足が止まった。
いい匂いがする。
ローテーブルを目線を向けると、ご丁寧にラップがかかったお皿がいくつも並んでいた。
「…これ、なに」
「ごはん!いろはが帰ってきたら食べようと思って、作っといた!」
台所には、見たことのない量の洗い物が並んでいた。
咄嗟に見ないふりをした。
「…あなたが作ったの?」
「かぐや!」
「……かぐやが、作ったの?」
「うん!」
半信半疑で、コーンポタージュをひと口飲んだ。
「……」
おいしかった。
とろりとして、甘くて、あったかい。
誰かが、私のために作ってくれたごはん。
この部屋で、そんなものを食べるのは初めてだった。
この二年、パンケーキと栄養ブロック、バイト先の賄いで済ませてきた。
それで十分だと思っていた。
二口目を口に運ぼうとして、視界がにじんだ。
「…あれ」
ぽたっと、お皿の横に雫が落ちた。
「い、彩葉!?」
かぐやが、ぎょっとして身を乗り出す。
「まずかった!?かぐやまたダメなことしちゃった!?」
「…ちが、う」
止めようとしたのに、止まらなかった。
お金がなくなったときには、出なかったのに。
「…おいしい」
それだけ言って、私は泣きながら、スプーンを動かし続けた。
かぐやは、しばらくおろおろしていたけれど、ちょっとしたら嬉しそうにこちらを眺めていた。
●
その夜、かぐやはタブレットでずっとヤチヨの動画を観ていた。
昼間からずっと観ていたらしい。ときどき、覚えたばかりのメロディを小さく口ずさんでいる。
そんなことをしながら、急にパソコンをカタカタし始めた時はサイバー犯罪かと身構えたが、そんなこともなく『犬DOJE』というAI?を作っていただけだった。
技術力おかしくないか?
犬DOJEを作り終え、またヤチヨの映る画面に張りつくかぐやの横で、私は自分の端末を開いた。
返信画面が、開いたままになっていた。
【お詫び】先ほどのメールについて。
ミニライブへのご招待。本日、火曜日、夜八時開演。会場、ツクヨミ。
今日だった。
辞退のメールを、まだ一行も送っていない。
「…いろは、それなに?」
かぐやが、いつの間にか肩越しに画面を覗き込んでいた。
「ヤチヨって書いてある!ライブ!?」
隠すより先に読まれた。
「いくの!? いろは、ヤチヨに会いにいくの!?」
「…行かないよ。断るつもりだったから」
「なんで!?」
「勉強があるし。…それに、これは私が行っていいものじゃないから」
かぐやは、きょとんとした顔で私を見た。
「彩葉宛てなのに?」
「……」
答えられなかった。
かぐやは画面の小さな文字を指さした。
「ねえ、ここ。『同伴者一名様まで』って書いてある。一緒にいけるよね?」
まっすぐな目だった。昨日の夜、ハッピーエンドにすると言ったときと、同じ目。
私が行っていいものじゃない。
でも、この子は、ヤチヨに会いたいと言っている。
この子のためなら。
私のためじゃなくて、この子のためなら。
「…一回だけ、だからね」
「やったーーー!!」
かぐやが布団の上で跳ねた。
ヤチヨに会える。
その言葉が、自分の中でもほんの少しだけ跳ねたことには、気づかないふりをした。
●
時計は、七時三十分を回っていた。
引き出しの奥からスマコンを取り出す。
「彩葉!はやく!」
かぐやのためだ。
そう自分に言い聞かせて、かぐやと一緒に目を閉じ、ツクヨミへと向かった。
原作での推し活分の余剰資金は貯金していた主人公でした。
アクスタの神棚はありません。