最後の曲が終わって、ステージの照明がゆっくりと落ちていく。
客席から届く拍手が、まだ耳の奥で鳴っていた。
結局、今日の私は何もしていない。
ペンライトをかぐやの後ろで振っていただけだった。伴奏の代わりに頼まれたことがこれだったわけだが、本当にこれだけでよかったのだろうか?
…いや、かぐやがご満悦だったからこれでよかったのだろう。
そんなことを考えてステージ袖に戻る。
「彩葉、手出して」
ステージ袖に戻るなり、かぐやが言った。
頬は真っ赤で、息はまだ弾んでいる。それでも目だけはきらきらしていた。
「ピースからのー、チョッキンからのー、こんっ!」
ライブ前にかぐやが決めた、二人だけの合図。
手をチョキの形で突き出し、指をくっつけてからお互い挟みあう。そして最後に手を狐の形にして口の部分を合わせる。
「えへへ、最高だったね!」
「…うん」
かぐやの笑顔がいつもより輝いて見えた。
●
ライブでのかぐやの姿。何よりもあの時の言葉がずっと胸の中に残っている。
『伴奏できなくなっちゃっても、それでも彩葉と一緒にライブしたい』
『いこ?彩葉』
何度思い返しても胸が温かくなる。
今まで、私が頑張るのは全部彩葉のためだった。
彩葉の人生を、私が台無しにしないために。
でも今は、ほんの少しだけ違う。
かぐやが「一緒にいたい」と言ってくれた私を、私も好きになりたい。そう思えた。
包帯が取れてからは、また前の毎日が戻ってきた。
バイトに行って、かぐやの配信を手伝って、そのあと机に向かう。
同じことの繰り返しのはずなのに、前とは少しだけ違って見える。
前向きに頑張るのは、思っていたよりずっと楽しかった。
そんなことを考えながら勉強をしていると、背中にじっとりした視線を感じた。
「彩葉ー、もう寝よー?」
布団から顔だけ出して、かぐやが言う。
「あとちょっとだけ」
「それ昨日も言ってたよ?」
かぐやから痛い指摘が飛んでくる。…確かに言ってたな。と言うか最近結構な頻度でそう言う会話をしてる気がする。
「…今日は本当にもうちょっとだけだから。」
「むー」
そんな言い訳じみた言葉を聞いたかぐやは、しばらく恨めしそうにこっちを見ていたけど、やがて諦めて布団にもぐっていった。
●
「彩葉!お引っ越し、しよ!」
朝ごはんの席で、かぐやが急に言い出した。
お味噌汁のお椀を持ったまま、私は固まる。
「…引っ越し?」
「そう!だってほら、見てよこの部屋!」
かぐやが両手を広げて、部屋をぐるりと示した。
…言われてみれば、確かに限界だった。
かぐやの服、配信の機材、100均の小道具の山。私一人で住んでいたはずのワンルームは、気づけばかぐやのもので埋め尽くされている。
クローゼットは閉まらないし、ローテーブルの半分はケーブルに占領されてるし、足の踏み場を探しながら歩くのがすっかり日課になっていた。
「…まあ、狭いのは確かだけど」
「でしょ!かぐや、もっと広いとこで配信したい!彩葉の机ももっと大きいのにしよ!」
「そんな簡単に引っ越せないでしょ…。というか、かぐやが片付ければ解決するじゃん。」
「えぇー?これでも昨日片付けたんだよ?」
見回すと確かに昨日より床が少しだけ見えている。…少しだけ。間違い探しレベルの違いだけど。
「ねぇ彩葉、おねがーい」
「…見るだけだよ?」
結局、朝食の後すぐにかぐやに手を引かれて家を出た。
…私、最近断れたことあったっけ。
●
駅前の不動産屋の前でかぐやが足を止めた。
ガラス戸いっぱいに物件の広告が貼り出されている。
「彩葉、これは?」
かぐやが指さしたのは、ひときわ大きな広告だった。
〈極上空間を味わうデザイナーズタワーマンション 3LDK 家賃三十五万円〉
その数字を見て目を疑った。
「…高いよ」
「えー、そうなの?でも払えそうだよ?」
かぐやは自分の口座額を見せてくる。
…え、かぐや今こんなお金持ってるの!?
確かに、これなら払えなくもない…。いやいやいや、配信者の収入は水物。今ここでしっかり言っておかないと、後でかぐやが困っちゃう。
「…これからもずっとその収入が続くかわからないの。今払えそうだからってダメ。」
「えー!」
「もっと現実的なの探そう。駅から遠くてもいいから、家賃が…」
言いながら歩き出して、一歩、二歩。
少し歩いたところで、地面がぐらりと揺れた。
…違う。揺れてるのは、私だ。
視界の端が白く滲んでいく。足に力が入らない。膝が、自分のものじゃないみたいに折れていく。
立っていられなくなって、その場にしゃがみ込んだ。
「彩葉?どうしたの?なんかみつけた?」
かぐやが不思議そうに声をかけてくる。だめだ、早く立たないとかぐやを心配させちゃう。この子に曇った顔はさせたくない。立て立て、早く立たないと。
「大丈夫?彩葉、身体アツアツだよ?」
かぐやが焦ったように声を上げる。
「大丈夫…。大丈夫だから。」
そう強がってみても、力はどんどん抜けて行く。視界がぼやけ音が、かぐやの声が遠くに聞こえた。
●
夢を見た。
知らない和室だった。障子越しの光がやわらかく部屋を満たしている。
「でね、彩葉ってさ、全然弱音吐かないの」
向かいに誰かが座っている。
膝を崩して、楽しそうに私に話しかけている。
ああ、この声だ。
霧の向こうからずっと聞こえていた声。
私が、彩葉について指針にしていた声。
そんな声が今日は明瞭に聞こえた。私は声の主を知りたくて顔を上げた。
「頼ればいいのに、何でも一人で抱え込んじゃって。でもさ、そういうとこもいいんだよね。…だから、余計に頼ってほしくなっちゃう」
長い金髪。
桜みたいな、淡いピンク色の着物。
…かぐや?
その子は、にっと笑った。
「ねえ、――もそう思うでしょ?」
名前を呼ばれた。
彩葉じゃない。私の、名前。
なのに、そこだけ音が抜け落ちたみたいに聞こえなかった。
待って。今なんて言ったの?
私は、私は誰なの?
手を伸ばそうとして、視界がぐにゃりと溶けた。
●
次に目を開けたとき、私はいつもの布団の中にいた。
どうやって帰ってきたのかよく覚えていない。かぐやが連れて帰ってくれたのかな。
頭を枕に預けたまま周りを見回すと、台所に立っているかぐやを見つけた。
かぐやの長く伸びた髪が西日を反射して綺麗に光っていた。…ん?
「やば!バイト!今何時!?」
慌ててはね起き、端末で時間を確認する。シフトの直前、走らないと間に合わない時間だった。急いで立ち上がったが、脚に力が入らない。身体がずしりと重く、そのまま布団の上に崩れ落ちてしまった。
「彩葉、しんどい?」
「大丈夫、平気だから」
駆け寄ってきてくれたかぐやにそう強がって見せたが、身体に力は入らない。
…でも、それでも行かなきゃ。ここで休んだら全部崩れてしまう気がした。
「バイト休む連絡入れといたから。彩葉、もう休んで」
「…え。かぐやが?」
「あと、ふかふかいっぱい置いといたから、いっぱいふかふかしてね!」
「…ありがと」
かぐやがこんなに気を回してくれるなんて、素直に嬉しかった。このふかふかも、かぐやなりの気遣いなんだろう。
「あ、あと病院!病院行こ?一緒に」
「…病院はやだ。お金かかるし」
「そんなもん、かぐやにまかしとき!」
かぐやが力こぶを作る
…頼もしい。頼もしいけど。
「…でも、やっぱり無理だよ」
これだけの熱だ。病院に行ったら、そのまま入院、なんてことだってあるかもしれない。
そうなったら。
「私、出来が悪いから…人の何倍も時間かけないと、追いつけないの。何日も休んだら、もう取り返せない…」
あの子に、追いつけなくなる。
ただでさえ足りないのに。もっと、頑張らなくちゃいけないのに。
「ねえ、彩葉」
いつもより、ずっと静かな声だった。
「なんで彩葉は、そんなに頑張るの?」
「…え」
「芦花と真実の前でも、頑張ってるふうに見えるよ。…かぐやの前だって」
心臓が、どくんと鳴った。
見抜かれていた。
かぐやには、嘘をつきたくない。
本当のことを全部話してしまいたい。
でも。
私はこの身体の本当の持ち主じゃないって言ったら?
あなたが「彩葉」って呼んでる人は紛い物なんだって言ったら?
もし、拒絶されたら。
もし、気持ち悪いって思われたら。
かぐやが私を見る目を変えて、あの笑顔を私に向けてくれなくなったら。
考えれば考えるほど、喉の奥が冷たくなっていく。
熱でぐちゃぐちゃの頭じゃ、うまく言葉を選べなかった。
「…かぐやには、わからないよ」
そんな言葉が口からこぼれていた。
言った瞬間、血の気が引いた。
なんで?なんで今、そんなこと言ったの?
かぐやは心配してくれただけなのに。私は、その手を振り払ってしまった。
かぐやの目が、ほんの少しだけ揺れたのが見えた。
「…ちが、違うの、今のは」
嫌わないで。
お願い、嫌わないで、かぐや。
「…ごめん」
部屋が、しんと静まり返った。台所で何かが煮える音がやけに大きく聞こえる。
かぐやは少しだけ目を伏せて、それから布団の上に出ていた私の手をそっと握った。
熱い私の手に、かぐやの手はひんやりと冷たかった。
「言いたくないなら、言わなくていいんだよ」
「かぐや、一緒にいるから」
見上げた先でかぐやが笑っていた。
いつものはしゃいだ笑顔じゃない。私を肯定してくれた時のような静かで、やわらかい顔だった。
その顔を見た途端、こらえていたものが一気にあふれた。
重たい身体を無理やり起こして、かぐやにしがみつく。熱のせいか涙のせいか、視界がぐちゃぐちゃになる。
「ごめんなさい…ごめんなさい…っ」
何に謝っているのか、自分でもよくわからなかった。
かぐやにひどいことを言ったこと。本当のことを言えないこと。全てないまぜになった言葉だったのかもしれない。
かぐやは何も言わずに私の背中をとん、とん、と叩いてくれた。
赤ちゃんだったかぐやを私が寝かしつけていたときと同じリズムだった。
そんなリズムが、かぐやの体温がすごく安心できて、気づけばしゃくりあげる声も小さくなっていた。
瞼が、重い。
もう少しだけこのままでいたい。
そう思ったところで、意識がふっと途切れた。