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前日譚: 魔王の帰還を信じた者たち
扉を叩く音が二度響き、リシェルが返事をするより早く廊下から押し殺した声が届いた。
「封印の間に、異変が」
書きかけの文字の上で筆が止まり、穂先に溜まった墨が紙へ落ちるのを見てからリシェルはようやく顔を上げた。
戸口に立つ若い兵は息を切らし、何か言い足そうとしては唇を動かすばかりで槍を握った指の節まで白くなっている。
「扉が開いたのですか」
「いえ、まだ。ですが、光が……いつもとは違って」
鼓動が速まるのを感じながら筆を置き、リシェルは机の端に積んだ書類へ重しを載せて廊下に出た。
報せに来た兵が足を速めたので横へ並び、何を見たのか順に話すよう求める。
見張りの交代を終えたあとに扉の縁を伝う光が急に強まり、消えたと思えばまた浮かんだのだという。
中から声は聞こえず石の扉も動いてはいないと聞いて、リシェルは頷くまでにわずかな間を要した。
「ほかに見た者は」
「自分と、交代したばかりの者です。そちらが残っております」
「分かりました。オルドにも知らせてください」
兵を送り出して角を曲がると、奥へ続く廊下の手前で桶を抱えた女と火箸を持つ下働きが立ち止まっていた。
何事かと尋ねられたが、自分の目で確かめる前に封印の異変を広めるのはためらわれた。
リシェルは二人に道を空けてもらい、扉へ向かって先を急ぐ。
衣擦れの音が思ったより大きく耳に届き、走ってしまいそうな足を抑えた。
封印の間へ通じる扉は幼い頃から変わらない場所にある。
廊下の壁は何度か直され燭台も取り替えられてきたのに、突き当たりの石扉だけは覚えている限り何も変わらない。
初めてここへ連れてこられたときに顔を上げ続けて首が痛くなり、オルドの指を握ったことまで不意に思い出した。
扉の前に残っていた兵はリシェルに気づくと姿勢を正し、石の縁を指そうとした手を止めた。
報告にあった強い光は見えず、細い溝にいつもの淡い光が宿っているだけだった。
「先ほどは、確かに」
「見ていましょう」
報告した光は確かに見たのだと言い募る兵の隣へ立ち、リシェルは扉を見つめた。
待つことには慣れているつもりだったが、何も変わらないまま息を重ねるうち、握った手の中で爪が掌へ食い込んでくる。
今ここで見えないからといって彼らが嘘をついたことにはならない。
そう自分に言い聞かせたときに扉の下端に滲んでいた光が縁を駆け上がり、壁に映る長耳の影が揺れた。
思わず一歩踏み出したところで、光はまた薄くなる。
けれど、今度は見間違えようがなかった。
「……触れた者はいませんね」
「はい」
兵の返事を聞きながらリシェルは手を伸ばしかけた自分の指を袖の中へ戻した。
外から開かぬ扉にできることがないのは知っている。
それでも目覚めを待っていた相手がすぐ向こうでこちらの声を聞いているかもしれないと思うと、いつもの調子で話を続けるのが難しかった。
足音に振り向けば、肩で息をするオルドが廊下の角から姿を現した。
駆けてきたオルドの身体を支えたくなったが、リシェルはオルドが息を整えるのを待ってから、さきほど見た光の変化を伝えた。
聞き終えたオルドは扉へ向き直り、両手を胸の前で固く握り合わせた。
「お前も見たのか」
「はい。私も、この目で」
その答えを聞くとオルドは何度も小さく頷いたが、次の言葉はすぐには出てこなかった。
リシェルも急かさずその隣で再び光が走るのを待った。
封印の異変を聞いたときにヴァルガスが最初に確かめたのは、城門と外壁の見張りに変わりがないかということだった。
待ち望んだ報せであればこそ、そちらへ目を奪われた隙に城を脅かす者がいないと確かめるまでは、持ち場から兵を集める気にはなれない。
黒い甲冑を鳴らして廊下へ入ると、封印の間へ向かおうとしていた若い兵二人がヴァルガスに気づいて道を譲った。
片方は狼の耳をぴんと立て、毛に覆われた喉を動かしながら封印の間を一目だけ見たいと申し出る。
「交代は済んだのか」
問いかけると耳が伏せられ、もう一人も視線を床へ落とした。
「陛下がお目覚めになるのなら、我々も」
「戻られる城を、誰が守る」
二人が背筋を伸ばして詰所へ引き返すのを、ヴァルガスはその場に立って見届けた。
叱り飛ばしたいわけではない。
自分の足も鎧の重さなど忘れてあの扉へ向かおうとしているからこそ、若い者だけを責めることはできなかった。
オルドとリシェルはすでに扉の前におり、見張りの兵が話をするたび二人とも石の縁へ顔を向けていた。
床にも壁にも新しく傷つけられた様子はなく、外の見張りから届いた返事も今のところ異常なしというものだ。
それで何もかも安心したつもりにはならず、兵を残してきた場所を頭の中で確かめながらヴァルガスは一歩ずつ距離を詰めた。
言葉を挟む間もなく扉の縁に沿って明るさが増し、厚い胸当てに淡い筋を映して消える。
長年変わらなかった扉に光が走るのを見て、ヴァルガスは息を止めていた。
光が薄れてからようやく口を引き結び、大きく鼻から息を吐いた。
「ワシにも見えた」
それ以上を言おうとしても喉の奥につかえて形にならない。
王が目覚めしとき、安寧が訪れる。
幼い頃から聞かされてきた言葉を疑ったことはなくとも、開かぬ扉に変化が訪れる日はどこか遠い先のことだと思っていたのかもしれぬ。
先代もそのまた前の守り手も、今日と同じように鎧の帯を締めて開かぬ扉の前を通ったはずだ。
「兵を替わらせてよろしいか」
オルドに尋ねると、扉を見つめていたオルドは少し遅れて振り向き、深く頷いた。
「そうしておくれ。いつまでとは、まだ分からぬ」
封印が何を告げているのか、ここにいる誰にも言い切れない以上、今日のうちに開くと決めて待つわけにはいかなかった。
ヴァルガスは交代の兵を呼び、見えた変化は小さなものでも次の者へ伝えるよう命じてから廊下の入口を空けさせる。
知らせを聞いて集まった者たちの間を、メルハが燭台を抱えた下働きとともに抜けてきた。
「灯りを増やします。この奥は長く人が立つようには整えてありませんから」
メルハは眼鏡を押し上げると持ち込ませた燭台を壁際へ置かせた。
高さも形も揃っていなかったが、扉へ向かう道を塞がず端に立つ兵の足元まで照らすには足りる。
「祝いの支度かと思ったぞ」
「お迎えする前に誰かが暗がりで転んでは困ります」
いつも通りの返事に頷こうとしたヴァルガスは、その長い指が眼鏡から離れたあとも何度か同じ場所へ戻るのを見た。
平静に話すメルハも、やはり王の目覚めを待ちきれないのだろう。
自分と同じなのだと思うとヴァルガスも少し肩の力が抜け、壁際へ下がった兵に次の当番までは座って休めと声をかけた。
王を迎える日が来るなら、その日まで城を守り切らねばならぬ。
ヴァルガスは扉をもう一度見てから外壁の見張りを確かめるために踵を返した。
それから数日、オルドは朝に帳簿を開いても夜に寝台へ横になっても、廊下を走る足音を聞くたび身を起こした。
扉の光は時折強まるものの、ほかにどんな変化が起きれば開くのかは分からず、過去の記録を読み返しても手掛かりは見つからない。
それでも城で交わされる挨拶には、封印の異変が起きる前にはなかった問いが必ず添えられるようになった。
──何か、お変わりは。
首を横に振るときにも皆は落胆した顔を長くは見せず、次に扉の前へ立つ者へ温めた飲み物や肩に掛ける布を渡していく。
その手が止まらないのを眺めているうち、オルドもまた待つ間に済ませておくべき仕事へ目を戻すのだった。
机の隅に置いた小箱を開くと、代々の執政官が使ってきた印が敷かれた布の窪みに収まっている。
木の握りを掌へ載せれば磨き減ったところへ指が馴染み、先代から受け取った日に比べてずいぶん軽くなったように感じる。
実際の重さが変わったわけではあるまい。
返す日のことを考えながら持つのは、あの日以来初めてだった。
先代はこの印を手放すときに守るべき者の名を一つずつ挙げた。
城に生まれた者もあとから辿り着いた者もその中に交じっており、若かったオルドは印を受け取りながら、挙げられた名前をすべて覚えようと必死になったものだ。
今はもう、呼んでも返事のない名がいくつもある。
印を箱へ戻すとオルドは深く息を吐き、曲がった背をゆっくり伸ばした。
この城を預かった者として王に申し上げることは数え切れないほどあるのに、いざ挨拶を口にしてみようとすると、何から話せばよいのか分からなくなる。
「オルド」
戸口から呼ばれて振り向くとリシェルが片手を扉に添えて立っており、その表情を見ただけで今度は食事や休息の催促ではないと分かった。
「光が、さっきから途切れません」
立ち上がりかけた拍子に膝が卓へ当たり、小箱がわずかにずれた。
リシェルが卓の小箱を支えてくれたので礼を言い、蓋が閉じているのを確かめてから廊下へ出た。
オルドが急ごうとしても足を速められずにいると、隣を歩くリシェルが黙って歩幅を緩めてくれる。
リシェルが礼服を身につけているのに気づき、オルドは袖口の目立たない繕いにも目を留めた。
「似合っておるよ」
何のことかとオルドを見たリシェルは、その視線を追って自分の袖へ目を落とし、少しだけ指で布を整えた。
「これしか、間に合わなくて」
「十分じゃ。よう来てくれた」
もっとよい衣装を用意してやりたくはあったが、服が古いからといってリシェルに引け目を感じてほしくはなかった。
幼い指で自分の手を掴んでいた娘が城の仕事を分け持つまでになり、ともにこの廊下を進んでいる。
そのことを王へ話せるのなら、まずはそれでよい。
奥へ近づくにつれて燭台の炎が増え、黒い甲冑の肩越しに光を宿した扉の縁が見えてきた。
ヴァルガスはオルドに気づくと身をずらし、城門と外壁の守りには必要な者を残していると低い声で伝える。
後ろに控えた兵たちも道を空け、廊下の端に立つ灰色の毛の兵が、狼に似た顔をわずかに上げて扉を見た。
この場に来られぬ者たちのことも忘れてはならぬ。
オルドは頷いて前へ出るとリシェルが隣に並び、ヴァルガスが少し後ろへ下がるのを待った。
誰も扉へ手をかけようとはせず、外からは開かぬ石を前に衣擦れの音まで静まっていく。
父も、その父も、ここへ立ったことだろう。
けれど、いま扉を見つめているのは彼らから城を託された自分たちであり、受け継いだものを返す役目まで代わってもらうことはできない。
オルドは襟元を整えようとした手を胸の前で重ね、震えが収まるのを待ちながら石の縁を伝う光から目を離さなかった。