翌朝の宿舎では昨日より多くの洗い桶が並び、汚れた布を運ぶ者と食事を配る者が戸口ですれ違っていた。
レオンの乗る荷車が通りかかると窓の内側から顔を上げた男が見えたが、こちらへ頭を下げようとして治療係に肩を押さえられる。
レオンが座ったままでよいと手で示しても男は窓から離れず、荷車が角を曲がるまでこちらを見送っていた。
(昨日、連れ出せた人だ。あの人はここにいる。それは確かなんだ)
目を閉じると鉱山の門で倒れた兵の姿まで戻ってくるため、レオンは流れていく町並みから視線を外さなかった。
救い出せた人を見て安堵しても、自分が兵を殺したことまで消えるわけではない。
レオンは窓辺の男の顔を覚えておこうと思い、書状の筒を差し出すリシェルへ目を向けた。
「侯爵は昼に関所の外で会うと申しております。付き添う兵の人数も、昨夜の使者を通して合わせました」
レオンが昨夜読んだ返書を広げても、答えは変わっていなかった。
鉱山に残る者の解放には一言も触れず、境を乱した件について話すという文だけが整った字で並んでいる。
「下の小屋からは、今朝も人を運べるのだな」
「はい。ヴァルガスが交代の護衛を置いています。荷車は関所を通るたびに状態を確かめ、町まで運べる方だけをお連れします」
「ならば、面会のために荷車を止めるな」
「別の出入り口へ誘導いたします。侯爵側にも、救護の列へ近づかぬよう申し伝えております」
手配を済ませていたリシェルへ頷いて返書を戻すと、荷車の揺れに合わせて筒の留め紐が掌をこすった。
会社で難しい相手との打ち合わせに出たことはあるが、断ったあとに兵を向けてくる相手と何をどこまで話せばよいのかは分からない。
(先に決めておけ。返せないものを、その場の勢いで返すなんて言うな)
人を返さないという答えだけを胸の内で確かめているうちに、木々の間から関所の壁が現れた。
門の内側ではヴァルガスが荷車の進路を空け、レオンが降りるのを待ってから一礼した。
黒い甲冑の膝には乾いた泥がこびりつき、夜の間も鉱山を守り続けていたことが窺えた。
「鉱山の下段は副官へ任せました。上から兵が下りてくる道を見張り、搬送の列と分けております」
「休めたか」
「交代で。ワシも少しは横になりました」
少しという言葉が気になったが、ヴァルガスは既に会見の場所を確かめるため門の外へ目を向けていた。
レオンが後で交代を取るよう告げると短い返事があり、今度は頭巾を外したシオンが壁際から進み出る。
黒髪を肩の後ろへ払ったシオンの外套には土埃が残り、留め紐を直す指にも小さな擦れが見えた。
「夜の見張りは引き継いでまいりました。今日は現地の様子をお答えする役として、私もこちらへ」
「中に残った者は」
「上の小屋へ水を運ぶ列を見ました。人の声もあります。ただ、外から見えた数だけでは全員の無事を申し上げられません」
シオンが開いた略図には上段へ続く坂と増やされた見張りの位置が記されていたが、残る人々の状態までは分からなかった。
「中に食料を運び込む者とは、話せるか」
「探しております。荷を渡す場所が変わっており、前の商人は中へ入れなくなりました」
「無理に入り込ませるな。こちらから運び出す道も、調べ続けてくれ」
シオンが頷いて紙を畳むと門上から合図があり、街道の向こうに幾本もの槍の穂が浮かんだ。
先頭の馬車は関所へ直接寄らず、門から離れた広い地面に用意された天幕の前で止まる。
ヴァルガスは天幕の周囲に立つ護衛の数を確かめてから歩きだし、レオンも左右にリシェルとシオンを伴って門を出た。
天幕へ入ったレオンは卓を挟んで置かれた椅子のうち、一方だけに厚い敷物が広げられているのを見た。
馬車の戸口から重い腹を突き出した侯爵は従者の肩を掴んで踏み台を下り、地面へ立つとその従者を邪魔そうに押しのけた。
汗と脂で光る頬が首の肉へ続き、襟元の金糸は詰め込まれた身体に引かれている。
侯爵は歩いただけで乱れた息を鼻から吐き、紫がかったレオンの顔を見るなり喉を鳴らした。
「グフフ……本当に紫色とはな。もう少し人に似た姿かと思ったぞ」
リシェルが半歩進んで会見の礼と魔王の名を述べても、侯爵は返礼する前にその胸元へ目を落とした。
銀髪の下から衣の合わせ目へと視線が下がり、隣のシオンを見ると舌先が唇を湿らせる。
「まあ座れ。そちらに椅子の使い方くらいは伝わっておるのだろう」
(ああ。最初から、そういう相手か)
レオンが腰を下ろすとヴァルガスは背後へ立ち、リシェルが卓へ書状の写しを置いた。
向かいでは侯爵の従者が紙の束に丸い石の重しを載せ、主人の肥えた指が届く位置へ寄せている。
「私の兵を殺し、鉱山へ押し入り、働き手まで盗んだ。何を差し出して詫びるつもりだ」
「助けを求めた者へ刃を向けた兵は、私が殺した。人々は帰りたいと言ったから連れ出した」
「帰る許しなど出しておらん。食わせて寝かせてやった金も返さずに出ていく。盗人を庇って王を名乗るとはな」
リシェルがエドの書付を写した紙を開き、約束より少ない支払いと後から差し引かれた食事や道具の代金を説明した。
侯爵は話を聞き終える前に鼻を鳴らし、自分の従者へ書付を見せるよう指を振る。
「監督が勝手に決めたのなら、監督を罰してやる。それで済む話だろう。鉱山を荒らしたお前の罪まで消えはせんぞ」
「誰が決めたかも帳面と本人の話で確かめる。まず残る者を帰らせよ」
「下働きの愚痴を聞くたびに主人の財布を覗くのか。フヒッ、ずいぶん暇な王だ」
侯爵はまだ読みもしない書付を押し返し、今度は関所へ顎を向けた。
「街道へ荷を通せるのは誰のおかげだと思う。行く当てのない連中を集めて暮らせたのも、私が見逃してやったからだ」
「鉱山が侯爵領にあることは承知しております。ですが、我らの領地は王国の封土ではございません。通行に求められた額は支払っております。人の身柄まで差し出す取り決めはございません」
リシェルが答えると侯爵は卓を指で叩き、話の途中でも黙れと合図するように手を振った。
「荷が来なくなれば、その紙を食わせるのか。鉄も塩も今までどおり入ると思うなよ」
レオンが目を向けるとリシェルは声を落とし、すぐには代えられない品もあるが別の商人と運び賃を調べると答えた。
断った先に困る人がいることは分かっても、その暮らしを守るために窓辺で見送っていた男を鉱山へ戻すことはできない。
「そちらの求めには従わぬ。今後の荷の話は、私の者と改めてする」
侯爵の頬がひくりと動くと天幕の外で革が軋み、ヴァルガスが盾を持つ腕をわずかに上げた。
侯爵はその盾を見てから笑いを作り、肥えた身体を椅子へ押し戻す。
「意地を張るな。こちらにも面子がある。逃げた者を戻し、今後は私の求めに従え。それから──その二人だ」
指輪のある指がリシェルとシオンを順に示し、侯爵の目が二人の胸から腰へ滑った。
「屋敷へ寄越せ。妾として可愛がってやろう。私と親しくなれば、お前の領地も飢えずに済むぞ」
リシェルの手が紙から離れ、シオンの口元から笑みが消えた。
「お断りします。私は陛下よりお預かりした務めを果たします」
「私も参りません。私の行き先をお決めになる権利は、あなたにはございませんので」
「主人同士が決める話だ。お前たちは黙っておれ」
侯爵は椅子を軋ませて立つと卓の端を回り、シオンのすぐ横へ来て外套の裾から覗く腰に目を落とした。
「こちらはよく育っておる。グフフ、そうつれなくするな」
尻へ伸びてきた手をシオン自身が強くはたき、乾いた音が天幕の中へ響いた。
「触らないで」
シオンは一歩退いて侯爵を見据え、ヴァルガスも卓の脇へ進んで盾を二人の間へ入れた。
はたかれた手を抱えた侯爵の口が開いたままになり、やがて頬から耳まで赤く染まっていく。
「この売女め! 誰に手を上げたか分かっておるのか!」
「拒絶する者へ手を出したのは、あなたです」
リシェルの言葉に侯爵は振り向き、唾を飛ばして卓を叩いた。
「黙れ、角の生えた出来損ないが! お前の主も同じだ。墓から這い出した化物が王の真似事など──」
「貴様、陛下へのその口を閉じろ! 」
リシェルの鋭い声に重なってヴァルガスの剣が鞘を離れかけ、シオンも前へ出た。
レオンは立ち上がって片手を上げ、こちらを見る三人を止めた。
「二人の答えは聞いたはずだ。この者たちは私の臣下だ。お前との取引に使う品ではない」
(俺への悪口なら好きに言え。だが、嫌だと言ってる相手に何をしてる)
レオンの声は静かに通ったが、侯爵は後ずさりしながら自分の椅子へぶつかり、その脇にある卓の石を掴んだ。
「私に怒鳴りおって! その顔を──」
振り上げられた腕から石が飛び、リシェルの顔へ届く前にレオンの右手が横から受け止めた。
握った手の中で石が砕ける音がして、開いた指から細かな砂が卓へ落ちる。
「次は許さぬ。」
もう一度手を出されたら止めるだけでは済ませないと思ったとき、胸の奥に沈んでいた熱が身体の外へ広がった。
侯爵が喉を押さえて息を吸い、守ろうと進み出た護衛まで足を止める。
天幕の外では馬が首を低く伏せ、従者の持っていた紙が地面へ散った。
「な、何をしておる。守れ! 私を守らんか!」
鎧に細い紐を巻いた兵が低く詠唱すると薄い光の壁が立ち、侯爵はその背後へ身体を押し込んだ。
先ほどまで人を指していた手が兵の肩を掴み、光を隔ててからようやく声が戻る。
「門番を殺した程度で思い上がるなよ。軍を相手に、同じことができるものか! 術者も矢もいくらでもある。私は王国の侯爵だぞ!」
リシェルがレオンの横へ戻ってくるのを確かめると胸の熱が少しずつ鎮まり、馬を引く従者の声も天幕の外へ戻ってきた。
レオンは侯爵だけを見て口を開く。
「鉱山から兵を引け。残る者を帰らせよ。武器を置く者へは手を出さぬ」
「王都へ訴えてやる。王国の貴族を襲い、その領地へ兵を入れて、ただで済むと思うな! 明後日の夜明けまでに逃亡者を揃えて門を開けろ。さもなくば軍を進める!」
「人を返せという意味なら、門は開けぬ」
侯爵は返事を聞き終えるより先に兵の袖を引き、光の壁の陰から馬車へ逃げ込んだ。
置き去りにされた従者が書付を拾い集める間にも御者へ怒鳴る声が響き、踏み台を片づけるのも待たず馬車が動き出す。
レオンは救護の荷車が関所の別の入口へ進むのを見てから、石を受け止めた手を下ろした。
「リシェル。城へ戻ったら蓄えを確かめてくれ。別の商人から何を運べるか、メルハとも相談を頼む」
リシェルが承知しましたと答え、レオンは帰ったあとにも困らせる人が増えるのだと胸の内で息をついた。
関所が見えなくなっても侯爵は馬車の窓を閉ざしたままで、喉へ張りついた息を何度も吐き直していた。
あの一瞬は息の仕方さえ分からなくなり、紫色の手が伸びれば自分の首も石のように潰れるとしか思えなかった。
いま少しでも窓を開けたら、あの手が中へ伸びてきそうでならなかった。
(不意を突かれただけだ。あんな近くへ寄せた護衛が悪い)
そう考えて窓を叩くと馬車の脇へ騎馬の伝令が寄り、侯爵は隙間だけを開けて命じた。
「近くに集めた隊を揃えろ。麦と飼葉の車も回せ。明後日の朝には主力を並べるぞ」
鉱山や街道沿いの村々で未納を取り立てるため、三週間ほど前から近隣へ兵を集めていた。
各地の駐屯兵に雇兵と領内から召し出した兵を加え、宿営地へ送り込んである。
人足と荷車を徴発し、麦や飼葉、矢束も運ばせた。
逃亡者が出てから変えたのは、集まった兵を向かわせる先だった。
あの化物がどれほど腕力を誇ろうと、離れた場所から矢を浴びせて魔法で囲めばよい。
父も祖父も軍を持つ家の名で領民を従わせてきたのであり、自分の代だけが頭を下げる理由はなかった。
「会見で襲われたと記せ。こちらの者にも、そう証言させるのだ」
伝令が口を開きかけたので侯爵は指輪のある手で窓枠を叩いた。
「返事は」
「……承知いたしました」
忠義を確かめる必要はない。
父から受け継いだ地位と俸給を払う財布があれば、兵は従わざるを得ないのだから。
鉱山の不始末は監督へ被せ、足りなければ帳面をつけた者も差し出せばよい。
自分が手を汚したと示す紙さえ残らなければ、王国で金を受け取っている者たちも深くは調べまい。
「今夜のうちに王都へ使者を出せ。王国の貴族が襲われ、領内の鉱山も攻められたと伝えろ。こちらの荷が止まれば、向こうも困るとな」
返事を聞いて窓を閉ざすと侯爵はようやく口元を歪め、はたかれた手の甲を腹の上へ載せた。
逆らった女どもを連れてこさせればよい。
あの王と名乗る化物の目の前で自分に頭を下げさせれば、今日の出来事を笑い話へ変えられる。
侯爵はそう考えることでしか、まだ胸の奥を圧している恐怖を追い払えなかった。