翌朝に鉱山の下段へ着くと、荷を出す門の脇で空の荷車が向きを変えていた。
「戻りの車を先に通します。今度は寝かせたままで運ぶ方がおりますので」
御者が帽子を取って指し示した荷車には負傷者が並び、その隙間に座る治療係が荷台の揺れに合わせて負傷者の肩を支えている。
レオンが門の内側から脇へ退いて車の通過を待っていると、布の下から出た細い手が車の縁をつかみ、力尽きたようにゆっくり離れた。
(昨日も運べた。今朝も出られる人がいる。それなのに、あの上にはまだ残ってる)
坂の途中には前に来たときにはなかった太い木が横たえられ、その向こうを歩く侯爵の兵がこちらを見下ろしていた。
下段を守る兵は追って上がろうとせず、選り分けた石の山を挟んで盾を置き、見張りを交代させている。
レオンが近づくとヴァルガスがその列から離れてきて、夜の間に大きな攻撃はなかったと告げた。
「上へ呼びかけた者は戻りました。出たい者もいると返事がありましたが、兵が間に入って戸を閉めております」
「食べ物は渡せたか」
「坂の途中までは。向こうの兵が運び上げたので、全て本人たちへ届いたとは言えませぬ」
レオンは目の前の木をどかし坂を上がる自分を思い浮かべたが、そこから先で人がどこへ閉じ込められているのか分からなかった。
「別の出口は、見つかったのか」
「夜明けに報告が戻っております。こちらへ」
門を離れて救護に使う小屋へ入るとリシェルが卓の上を空け、濡れた外套を脱いでいたシオンが地図の脇へ立った。
シオンは会見を終えた昨日の夕方に関所を出て見張りの者と合流し、今朝まで外側の道を確かめていたのだという。
「上段の裏へ回る道がございます。水を流す溝に沿って下りる細い道です。途中から東の尾根の裏へ出れば、こちらの門へ戻れます」
「そこを通れば、今からでも出られるか」
「出口には柵と見張りがあり、中から近づく者は止められています。柵の内側で労働者の姿を見た者はおりますが、どの坑道へつながっているかはまだ確かめきれておりません」
レオンはまず裏の柵を壊したいと思ったが、音を聞いた見張りが中の労働者へ刃を向けるかもしれず、すぐには命じられなかった。
「中を知る者にも聞きたい。ここまで出られた者の中にいないか」
「探しております。以前に水路の掃除へ出されたという方が、昼に話せるかもしれません」
「話せるようなら頼む。歩いて確かめろとは言うな」
シオンの返事を聞いてから地図へ目を戻すと、ヴァルガスが道に置く兵と担架を受け取る場所をリシェルへ伝え始めた。
(上へ行けるかだけ考えてた。担架を持つ人が、戻ってこられなきゃ駄目なんだ)
「今出られる者が見つかったら、戦が始まるまで待たせるな。下で受け取れるようにしておけ」
「はい。裏にも交代の者を回します」
レオンの言葉を受けたシオンが戸口の部下へ合図し、兵の列とは別に小さな一団が荷車道を離れていった。
同じ頃、城の執務室でメルハは昨日の会見に付き添った護衛の話を聞いていた。
報告の途中で止めた筆の先から墨が落ち、侯爵が投げた石を陛下が受け止めたと聞くと、戸口に立つオルドの笑みも消えた。
「リシェルに怪我は」
「ございません。侯爵は陛下に睨まれた途端、腰が抜けたようになりまして」
護衛が語る侯爵の醜態に胸がすく思いはしたものの、メルハは笑う代わりに金勘定へ目を戻した。
あの男は通行を妨げて金を取るだけでなく、値をつり上げる商人にも便宜を与えてきた。
腹立ちに任せて縁を切れば塩も薬も足りなくなると知っていたからこそ、これまでは不愉快な要求にも頭を下げてきたのだ。
「陛下は、荷について何か仰いましたか」
「これからの荷は配下と話すように、と。戻る際には別の商人と蓄えを確かめておけとも」
メルハは筆を置いた。
臣下へ手を出した男をその場で殺せるのに生かして帰し、荷の手配は別に進める。
侯爵の顔色をうかがわず商いのできる道を開くところまで、王は既に考えているのではないか。
「会見の勝ち負けだけを見ておられたのではないのですな」
オルドがそう言うと護衛は大きく頷き、扉の外で待つ伝令も背筋を伸ばした。
メルハはまだ推測にすぎないと断ろうとしたが、侯爵の脅しを聞いたあとにも王が落ち着いていたという報告が、その考えをさらに確かなものに思わせる。
少なくとも今までどおりには戻らぬと見て、先に支度を進めるべきだった。
「備蓄は実数を確かめます。別の商人へは在庫と運び賃の照会だけを。契約は陛下のご判断を待ちましょう」
伝令が書状を受け取ると、護衛が扉を開けながら声を落とした。
「侯爵は追い返されただけじゃない。陛下は、そのあとの商いまでお決めなのだ」
メルハは顔を上げたが、伝令は既に廊下を走り出していた。
昼を過ぎて関所から届いた紙束には、街道を通った荷の数と昨日までに見えた旗が書き留められていた。
ヴァルガスはシオンが商人から集めた話も確かめ、紙に記された隊ごとに卓の上へ石を並べていく。
「この一隊が昨夜合流したなら、こちらで集まる主力は六千ほどになりましょう」
「六千」
レオンは下段の門を守る味方の兵を思い出したが、六千人が並ぶ光景はあまりに大きく、すぐには思い描けなかった。
(六千人が同じ方へ走ってくるのか。俺は、何人分の前に立つつもりなんだ)
「それで全てか」
「各所の守備と雇った兵を合わせれば八千前後と見ております。残りは侯爵領の守備などに置かれております」
リシェルは商人の荷渡し控えを開き、三週間ほど前の日付を指した。
麦と飼葉の届け先は街道沿いの宿営地だった。
別の荷運びの話にも、矢束と天幕を積んだ車が出てくる。
「昨日から集めた兵ではないのだな」
「鉱山や村々から未納を取り立てるため、先に近隣へ集めていたと。逃亡者が出たあと、その隊がこちらへ向きを変えています」
(俺が目覚めるより前から、兵も食料も集めていたのか)
「会見も、最後の隊が合流するまでの時稼ぎだったのでしょう」
「そのつもりだったかは分からぬ。兵を集めながら来たのは確かだ」
リシェルは頷き、荷渡しの日付と旗の目撃を地図へ書き添えた。
「私が前へ出る。それで後ろにどれだけ守りが要るか、教えてくれ」
ヴァルガスはすぐには答えず、地図から顔を上げてレオンを見た。
「陛下の御力をお借りするなら、ぶつかる場所を選ばねばなりませぬ。鉱山の下では上にいる者を巻き込みます。関所まで引けば救護の車が通れません」
ヴァルガスの指が地図の西側へ動き、街道に沿う荒れ地の上で止まる。
「ここなら南から来る軍の前へ出られます。東には鉱山へ続く尾根があり、その裏へ人を下げられる。北の関所とも離れております」
(俺が詳しい顔をして聞いている場合じゃない。分からない場所は、今見ておけ)
「実際に見せてくれ。力を向けた先に何があるかも確かめたい」
ヴァルガスが兵へ指示する間にリシェルは救護の車を止める場所を確認し、シオンは鉱山に残る部下へ続報の届け先を伝えた。
西へ折れて荒れ地の縁に立つと、南の低い丘の向こうへ幾つもの旗が見えた。
風のたびに色の違う布が重なり合い、その下では車と人の列が途切れずに動いている。
兵たちが放つ掛け声かと思った低い響きは途中で同じ節を繰り返し、ヴァルガスが敵の術者の詠唱だと教えた。
「今から、何かを撃ってくるのか」
「これだけでは分かりませぬ。守りを整えているかもしれません。見張りは下げずに置きます」
レオンは南を示しかけた手を下ろし、隣へ寄ってきた護衛を振り返った。
石切り場に残った穴を見た兵は限られており、手を上げた自分の近くへ味方が集まるだけで胸の内が冷える。
(駄目だ。いつ出るかも分からない手を、人のいる方へ向けるな)
「私がここに立つときは、前を空けよ。横へ並ぶこともしなくてよい」
ヴァルガスが振り返って命じ直すと兵が後ろへ下がり、レオンと南の丘の間にある地面がようやく見渡せた。
荒れ地は南にある浅い涸れ谷へ向かって下り、対岸の斜面を登った先にも人家はなく、その奥には木の少ない岩山がそびえていた。
「奥に村や畑はないのだな」
「確かめております。この荒れ地へ住む者もおりませぬ。東の道を使う荷は関所で止め、救護の車は尾根の裏へ回します」
ヴァルガスが示した東側へ目を向けると荒れ地と鉱山の間には低い尾根が続き、岩の陰をたどって北へ戻る道が見えた。
その道を使えば担架の列はレオンの前を横切らずに済むが、敵が尾根の裏へ回り込めば関所へ戻る道を塞がれてしまう。
「そこを守る兵も要るな。全員を私の後ろへ寄せるわけにはいかぬ」
「尾根の道と関所、鉱山の下段に分けて残します。ここでの指揮はワシが。先へ出す者は増やしませぬ」
レオンは頷き、戦いを止めるときのことも確かめた。
「武器を捨てた者が出たら、私の前を通さず後ろへ回せるか」
「合図を送らせます。陛下が力を止められてから兵を出し、武装を解かせましょう。戦いが続いている間は近づけません」
「頼む。敵を追うために救護の道の見張りを離れるな」
「心得ました。まずはここを通さぬことに専念いたします」
レオンが頷くとヴァルガスは盾の縁を拳で叩き、返事を待っていた兵たちへ向き直った。
「陛下が前を支えられる。我らは救護の道を守るぞ。そこを通る者は、全員生きて帰す」
兵たちは盾を持ち直して持ち場へ散り、誰も六千という数を言い直さなかった。
レオンはその背を見送りながら、胸の内だけで繰り返した。
(俺が止める。あの軍を、この人たちまで行かせない)
夕暮れ前に荒れ地の北側へ設けた指揮用の天幕へ入ると、城から来た伝令がメルハの書状を差し出した。
備蓄と商人への照会について読んでいるレオンへ、伝令は戦のあとの商いまで見通された御意向に沿って支度を進めていると告げる。
(戦のあと? 塩が来なくなったら困るから、ほかで買えるか聞いてほしかったんだが)
「まだ買い付けるな。まず値と量を確かめよ」
「はっ。侯爵の兵が退くまで、値を決めぬということでございますね」
「届いた話を私にも見せよ、ということだ」
伝令が深く頭を下げたところへ敵陣から帰った使者が通され、レオンはメルハへの返事をリシェルに託した。
使者は差し出した書状をそのまま持ち帰り、兵を引くよう求める呼びかけも退けられたと告げた。
武器を置けば受け入れるという言葉には、明朝そちらが降ればよいという返事しかなかったという。
「言葉は、向こうの兵にも届いたか」
「門前で読みましたので、近くにいた者には」
「分かった。戻ってくれてよかった。休め」
使者が退出してからもレオンは切られた封を見つめていたが、次の報告を持ったシオンが入ってきたため書状を脇へ寄せた。
水路の掃除をしたという男の話から裏の出口につながる通路が分かり、外側の道も担架を運ぶ幅を確保するために下草を払ったという。
「内側にはまだ兵がおります。人を出せる機会があれば直ちに知らせるよう、見張りを交代させます」
「侯爵の兵が上から人を連れ出したら、その行き先も追えるか」
「見える範囲では。全てを追えるとは申せませんが、下へ戻る道と裏の出口は見ておきます」
シオンは鉱山の下段へ戻ると告げ、届け先と合図をヴァルガスに確かめてから部下を伴い出ていく。
外では食事を受け取った兵が交代の者へ場所を譲り、火の近くには濡れた手袋が並べられていた。
レオンへ用意された椀も温かかったが、匙を入れたまましばらく止めているとリシェルが何も言わずパンを小さく分けて置いた。
「お前も食べてから休め。明日は東の尾根で連絡を頼む」
「陛下のお近くには、ヴァルガスがつきます。私は退避の確認が済み次第そちらへ」
「私の方へ戻ってこなくてよい。前を見る者と後ろを見る者が、両方要る」
リシェルは少し口を結んだあとに頭を下げ、ようやく向かいの椅子へ腰を下ろした。
「お背中をお預かりします」
(そう言われると、ますます怖いんだよな。明日の俺がどこへ立つかまで、もう信じてる)
レオンは椀を持ち直し、明日もこの兵たちがここで食べられるようにと、火の周りに集まる顔を見渡した。
南の丘に張られた天幕では、侯爵が葡萄酒の杯を空けるたびに従者が瓶を傾けていた。
襟を緩めても太い首には汗が浮き、揺れる灯りを見ているだけで会見のときの紫の顔が脳裏へ戻ってくる。
腹を押さえて椅子へ座り直すと、侯爵は酒の滴が残った唇を舌で舐めた。
(不意を突かれただけだ。あんなもの、軍勢の前で通るものか)
「六千、揃ったのだな」
「はい。ただ、相手の力が報告どおりなら、先鋒を当てて様子を見るべきかと」
卓の向こうで進言した指揮役へ侯爵は杯を突きつけ、こぼれた酒が地図を濡らした。
「あの化けた石ころ一つに怯えた、と兵に触れ回るつもりか。貴様の代わりなら幾らでもいるぞ」
指揮役が唇を結んだのを見て、侯爵は杯を置いた。
父から継いだ爵位も領地も、この程度の兵に値踏みされるものではない。
鉱山の帳面を幾ら書き換えようと王国で追及されなかったのは、訴えを握り潰せる相手へ欠かさず金を回してきたからだった。
「矢を集めろ。術者には壁を重ねさせる。近づかせずに削ればよい。フヒッ……あの女どもが、いつまで強がれるかな」
指揮役が退出するのを待ち、侯爵は脇に控えた家令を手招きした。
「先鋒には雇った連中を使わせろ。損が出ても約束した賃金から引ける。もし揉めたら鉱山の監督が勝手に兵を動かしたことにする。そちらの書付も用意しておけ」
「監督への御命令の控えは」
「残すな。いちいち言わせるな」
家令が頭を下げるのを見届けると、侯爵はようやく新しい杯へ口をつけた。
王都へ使者を出せという命令も、昨夜のうちに渡してある。
勝てば鉱山を取り戻し、二人の女も手に入る。
万一しくじっても責任を負わせる相手はいる。
杯を持つ指が滑ったのは汗のせいだと決めつけ、侯爵は従者へ布を投げた。
夜が明ける頃には風が止み、荒れ地へ薄い霧が下りていた。
レオンが北側の斜面に立つと背後の足音が一つずつ遠ざかり、そばに残ったヴァルガスが東の尾根から届く合図を待っていた。
袖口を引いて掌を外へ出したところで南から角笛が響き、霧の向こうから進み始めた旗の列が遠い詠唱の声とともに涸れ谷の向かいへ迫ってきた。
見渡す限りの槍と盾を前にしても、レオンは下がらなかった。
兵たちが踏み鳴らす地面の振動を靴底に感じながら右手を開くと、あの白い光の熱が掌へ集まり始めていた。