荒れ地の南にある小高い丘で、侯爵は折り畳み椅子から腹を揺すって身を起こした。
眼下を埋める六千の兵の向こうに紫の人影が見え、薄く開いた唇から湿った笑いが漏れる。
「フヒッ。本当に一人で出てきおった」
あの目を思い出すだけで首の汗が冷えたが、今日は手を伸ばせば届く距離にあの化物はいない。
侯爵と魔王の間には盾と槍が幾重にも並び、金を積んで雇った術者たちが杖を地面へ据えていた。
障壁の維持を担う者を正面へ集め、攻撃役は左右へ分けてある。
侯爵が求めたのは勝てるという返事だけだった。
「守りは破られんのだな」
「正面には三重に張ります。前の列が弱れば後ろの組が引き受けますので」
白い眉の術者が戦列を示すと、長衣の裾が擦り切れた弟子たちも慌てて頷いた。
侯爵は白い眉の術者の肩へ太い指を置き、逃げる場所を塞ぐように椅子の脇へ立たせる。
「金は払った。できぬとなれば、お前の家の者に返させるぞ」
正面で青い光が重なり、兵が盾を打つ音が丘まで届いた。
杖を支えに膝をついた術者の脇へ別の術者が立ち、詠唱の途切れかけた一角を補っている。
荷を止め、金を借りてまで揃えた人数だ。
銀髪と黒髪の二人を目の前へ引き据えたとき、どちらから会見での無礼を詫びさせるかを考えながら侯爵は片手を上げた。
「射ろ。腕でも脚でも構わん。動かなくなるまで射続けろ」
旗が振られると弦の音が荒れ地を渡り、昇り始めた日を覆うほどの矢が北へ流れていった。
空を埋める矢を見上げ、レオンは足を止めた。
一本一本の矢尻が見える。
身をかわすこともできたが、背後の東の尾根には救護の荷車がいる。
南の敵陣の先にあるのは人家のない荒れ地と岩山で、返すならそちらだった。
(通すわけないだろう)
右手をかざすと、迫っていた矢が一斉に止まった。
頭上にも胸の高さにも、傾いた矢が隙間なく浮いている。
掌への手応えは軽く、力を込める必要さえなかった。
レオンが南へ手を振ると、全ての矢が矢尻を敵陣へ揃えた。
静止していた矢の雨が、そのまま射手たちへ戻った。
正面の障壁が矢を弾いたが、その両脇の射手へは束のまま降り注いだ。
弓を持ち上げていた兵が喉や胸を射抜かれて盾の陰へ倒れ込む。
盾の下から突き出した脚が二度地面を蹴り、そのまま伸びた。
「火よ、集いて焼き尽くせ──火球!」
障壁の側方へ進んだ術者たちの杖に火が灯った。
続く詠唱で白い槍も生まれ、炎と氷がレオンへ飛んでくる。
軌道は見えていたが、レオンは先頭の火球を避けずに待った。
(刃は通らなかった。魔法なら、どうなる)
胸で炎が爆ぜ、外套の端が焦げ落ちた。
炎が引いても胸に火傷はなかった。
続いて肩へ当たった氷槍も白く砕け、払った指先に血はつかない。
「直撃だぞ! なぜ倒れん!」
声に応じて次の火球が膨らむ。
レオンは焦げた布を摘まんで放した。
(もう分かった。鬱陶しいな)
手を横へ払うと、空気を歪める波が広がった。
迫る火球も氷槍も波に呑まれ、形を失って消える。
それでも止まらない詠唱へ顔を向けたとき、目の前に青い光が立ち上がった。
透き通る結晶を幾枚も繋いだような壁だった。
火はその表面で潰れて散り、氷は細かな粉となって落ちる。
届くものはなくなったが、破裂音だけは耳を打った。
(うるさい。撃つなら、自分たちで受けてみろ)
掌の奥で力の流れが変わった。
青い面が鏡のように澄み、知らないはずの名が、思い出しかけた言葉のように意識へ浮かぶ。
冥鏡反照
次に届いた火球は砕けなかった。
青い面に触れた瞬間、炎を保ったまま来た道を引き返す。
氷槍も、後から続いた魔法も、一つ残らず敵へ戻った。
消すために散らしていた力が、今は形を崩さず折り返している。
その違いだけが掌を通して分かった。
(今の名前は……俺が考えたのか? いや、知らない。どうして分かった)
答えを掴む前に敵陣が爆ぜた。
側方の術者たちを炎が包み、逃げようとした背に氷槍が突き立つ。
三重の障壁に守られた中央へ逃げ込もうと、燃える長衣を引きずる者もいた。
「撃つな! 懐へ入れ、囲め!」
掌を下ろすと、青い壁は薄れて消えた。
旗が振られ、西の騎兵が焼けた地面を回り込んできた。
レオンがそちらへ数歩進むと先頭の馬が脚を折り、乗り手を振り落として頭を地面へ伏せる。
後続の馬も耳を倒して止まる中、落ちた騎手は槍を拾ってなお突き進んできた。
穂先を見てもレオンは避けず、胸で受けたまま両手を前へ出した。
空気が破れるような音とともに地面の砂が壁になり、騎手も盾も馬もまとめて後方へ吹き飛ぶ。
念力を矢に使ったときよりずっと広く力が走り、倒れた旗を踏み越えてくる兵の足元まで大地が削られた。
砂が薄れると、裏返った盾の脇で騎手の首が不自然に折れていた。
兜の縁から血が広がり、槍を握っていた手は開いたままだった。
敵陣の中央で青い障壁が重なり直した。
杖を支える術者の背後から、さらに槍の列が送り出されてくる。
レオンは中央へ向き直って両足を踏みしめた。
撃ち始めれば身体ごと向きを変えることもできない。
東の尾根を射線から外したまま掌を向け、石切り場で放った力を押し出す。
白い奔流が、三重の障壁を貫いた。
青い光が順に窪んで重なり、ひとつに押し潰されたところへ白さが流れ込む。
砕けた障壁の奥で盾が舞い、旗の列が人もろとも呑まれた。
光の縁に触れた兵の上半身が消え、残った脚が溝の脇へ倒れる。
白い奔流はその先の戦列も貫き、地面を裂く溝を敵陣の後ろまで伸ばした。
岩山の裾が白く爆ぜても、光を放つ腕も踏みしめた足も動かせなかった。
押し出すのをやめると白い光が細って消え、ようやく腕を下ろせる。
(あれだけ出して、まだあるのか)
角笛が鳴り、残る列が左右へ広がった。
東の尾根へ向かう兵もいる。
あちらには味方がいるため掌を向けられず、正面から後続を送り込ませないようにするほかなかった。
「ここから先へは通さぬ。」
両腕を広げると右の掌に熱が集まり、左の指先では吐く息に似た白い霧が渦を巻いた。
何を唱えるのかも、なぜ左右で違うものが生まれるのかも分からない。
それでも熱を集める感覚も冷えを押し広げる感覚も、握った剣が手に馴染んだときのように迷いがなかった。
右手から炎が噴き上がり、左手の霧が膨らむほどに足元の石が霜に覆われる。
(火と、氷……ここへ落とすな。前へ送れ)
両腕を南へ向けると、背後から吹き出した風が外套を鳴らした。
炎と白い霧が掌を離れ、地面の砂を吸い上げながら敵陣へ走る。
細くまとめるつもりで寄せた両手の前で、渦はかえって膨れ上がった。
東の尾根へ取りついた敵兵を盾で弾き返したヴァルガスは、空の色が変わったことに気づいても持ち場を離れなかった。
この細い道を抜かれれば、その背後で守られるはずの者が死ぬ。
「槍を追うな。盾を揃えろ!」
敵の穂先を盾の縁へ滑らせて踏み込むと、ヴァルガスの剣が革鎧の継ぎ目を貫いた。
引き抜く間に隣の盾が前へ出て次の一撃を受け、膝をついた味方は後列の兵が肩を掴んで引き戻す。
無傷で立つ王と違い、盾を外した自分たちは一本の槍でも死ぬのだ。
腕の痛みを押し込めて盾を立て直すと、背後からリシェルの声が届いた。
「この兵を岩の陰へ! 荷車はさらに奥へ下げなさい!」
リシェルは負傷兵の腕を肩へ回し、空いた手を斜面へ向けて短く唱えた。
「この身に続く者を守れ──防壁」
二人の脇に浮かんだ薄い光へ矢がぶつかり、リシェルは歯を食いしばりながら負傷兵を岩の陰へ引き入れた。
光が消えるまで進めたのは数歩でしかなかったが、代わって入った兵がヴァルガスの脇を塞ぐ。
岩陰から治療係の詠唱が聞こえた。
「傷ついた身よ、癒えよ──治癒」
先ほど呻いていた兵が息をつくと、治療係は手当てを手伝う兵に冷やす水を求めた。
「痛みは抑えましたが腫れは残っています。このまま寝かせてください」
道の先では御者が馬を宥めて荷車を動かし、一台ずつ尾根の向こうへ姿を消していく。
「陛下は、あれほどの力をお持ちで……なぜ我らを」
隣の兵の声を聞き、ヴァルガスは盾の上から北の斜面を見た。
王は矢を空に留め、魔法を身に受けても傷一つ負わなかった。
なお撃たせたのは、敵自身の力で戦列を崩すためだったのではないか。
接近する兵を吹き飛ばし、奥の障壁まで貫かれた。
昨日の「私が前へ出る」という言葉には、ここまでの戦い方が含まれていたのだとヴァルガスは思った。
「陛下が守らせてくださった道だ。ここを通すな!」
返る声とともに盾が一歩進むとヴァルガスは剣を高く掲げ、迫る敵兵の胸へ狙いを定めた。
「刃に宿れ。立ち塞がるものを砕け──震撃!」
剣身が白く輝くやヴァルガスは盾で正面の槍を弾き、敵が踏み直すより早く剣を振り下ろした。
轟音とともに衝撃が斜面を駆け下り、最前列の三人を盾ごと跳ね飛ばす。
折れた槍が宙を舞い、後ろに詰めていた敵兵まで転がり落ちる仲間に押し倒された。
斬撃を放った肩が痺れても深追いはせず、後列から出た兵が空いた間合いへ盾を進める間に短く息を吐いて剣の光を消した。
陛下のように続けざまに放てば、先にこちらの身体が力に耐えられなくなる。
敵の足が止まる間に呼吸を整えた。
その向こうで赤と白の渦が立ち上がり、ヴァルガスの頬まで熱い風が届く。
王が敵を打ち砕く間に、最後の荷車をこの坂の向こうへ送り出す。
ヴァルガスはそれだけを考えて再び盾を押し出した。
侯爵は丘の上で椅子にしがみつき、地面へ膝をついた白い眉の術者を蹴りつけた。
「止めろ! 金を払っただろうが、あれを止めろ!」
術者は杖を握り直して立とうとしたものの、眼下の青い光が消えた場所から目を離さなかった。
額から流れる汗を拭いもせず、唇を何度動かしても意味のある言葉にはならなかった。
「三重とも……あの一撃で。まだ、次を放てるはずが」
赤い火柱の中を白い霧が螺旋を描いて走り、巻き上がる盾や石の周りで氷が砕けた。
火の帯に呑まれた旗が黒く崩れ、逃れようとした兵の足元を白さが覆う。
脚を凍りつかせたまま炎に包まれる者もいた。
振り上げられた腕が落ち、黒く焼けた身体が地面へ崩れても、後ろの兵は、その身体を踏み越えて逃げた。
炎に照らされた氷の塊が空を横切った次の瞬間、両方を抱えた巨大な竜巻が残る戦列へ突き込んだ。
地面に打ち込まれた杭が抜け、弩を据えた台ごと宙へ引き上げられ、密集していた槍の列が根こそぎ散らされた。
「化物……」
誰が言ったのか分からず、侯爵は自分の口元を押さえた。
丘へ来るまで六千の兵は確かにいた。
勝つために集めた兵が今は逃げ道を塞ぎ、後ろの列まで渦へ巻き込まれている。
あれほどの力なら人のいる場所ごと消せるのだと分かった途端、会見で石を投げた自分の手が椅子から滑った。
「鉱山へ戻る。馬車を、早く!」
「まだ前の隊が戻っておりません。退却の合図を」
「踏みとどまらせろ! お前が指揮を取れ!」
旗持ちへ指を突きつけ、侯爵は従者の肩を借りて丘の裏の馬車へ転がり込んだ。
追ってきた白い眉の術者が戸口へ掛けた手を扉で押し返し、御者へ東の搬入路を回れと喚く。
食料や道具を運ぶその道なら、魔王側の兵が押さえた下段を通らず上の小屋へ戻れる。
逃げる兵を退かせるために護衛が槍を振るう音を聞いても、侯爵は窓を開けなかった。
あの怪物と戦えるわけがない。
だが鉱山には、怪物が殺したくないものが残っている。
「上の小屋へ行け。中の連中を何人か前へ出せ。奴の目につくところへ並べるのだ!」
人間を助けるために軍へ刃向かったのなら、その人間を盾にすればよい。
侯爵は脂汗の浮いた頬を袖で拭い、背後の轟音を聞こえぬものとして窓の布を引き下ろした。
竜巻の縁から武器を放り出す者が見え、レオンは両手を引いて胸から流れ出す力を断った。
炎と冷気の勢いが弱まっても巻き上がった砂はすぐには落ちず、崩れていく渦を見ながら足を止める。
(止めたつもりでも、まだ飛んでる。誰も近づけるな)
「前へ出るな。落ちるものがある」
倒れた旗の向こうで槍が捨てられ、続いて盾を投げ出した兵が地面へ伏せた。
レオンはその方へ掌を向けず、まだ剣を握る者との間へ歩いて入る。
「武器を捨てろ。捨てた者には手を出さぬ。」
短剣まで遠くへ投げる音が続き、東の尾根へ取りついていた兵も盾の前から退いていった。
太鼓が止むと味方の列から勝ったという声が上がり、一人の叫びが隣へ伝わって尾根を満たした。
レオンは最後の荷車が岩の向こうへ消えるのを見届け、ようやく両腕を下ろす。
身体から膨大な力が出ていった感覚は残っているのに、歩く足も息も変わらず、掌の奥にはまだ熱があった。
(通さなかった。あとは、この力を人のいる方へ向けるな)
ヴァルガスは歓声を上げる兵へ持ち場を命じ、武器を集める者と退く敵を見張る者を分けた。
砂の落ちた場所から投降者を誘導し始めると、負傷した仲間を背負う敵兵へも手が差し伸べられる。
溝の近くでは、敵兵が上半身のない遺体の傍らに膝をついていた。
声を掛けられても立ち上がらず、土に埋もれた片方の靴を拾って遺体の足元へ置く。
レオンはその手元から目を離せなかった。
自分が放った光の通った場所だった。
助けに来た者たちを守れたという事実だけでは、あの兵へ向ける言葉が見つからなかった。
戻ってきたリシェルが焦げた外套を見て足を速めたため、レオンは先に無傷の腕を示した。
「こちらの者は」
「全員、退避場所におります。盾の列で打ち身を負った兵と、崩れた石で足を傷めた者が一人ずつ。治療係がついております」
レオンが頷くとリシェルは戦場を見渡し、言葉を選ぶように一度唇を結んだ。
「詠唱もなく次々と……最後まで、御力を抑えておられたのですね」
「止めることに気を取られた」
「はい。これ以上の犠牲を出されぬために」
(違う。どう止まるのか、俺にも分かってなかったんだよ)
説明しかけたところへ使いが駆け込み、侯爵が東の搬入路から上段へ戻り、労働者を縄で繋がせていると告げた。
西を見回ってきた兵も侯爵の旗が東の搬入路へ抜けたと報告し、ヴァルガスが地図を広げる。
「裏の出口を見張る者は無事か」
「シオン殿が合流しております。通れるように荷をどかし、陛下のお越しを待たず救出の支度を進めています」
レオンはまだ力の残る掌を外套へ収めた。
今度は人のいる場所へ行く。
あれだけのことができても、人を助ける手順までは身体が教えてくれなかった。
「行くぞ。残された者を迎えに行く」
レオンが歩き出すとヴァルガスが兵を呼び、守り抜かれた道へ救出に向かう足音が続いた。