朝の宿舎では鍋が空になるより早く次の鍋が運び込まれ、昨夜まで荷台に横たわっていた人々が湯気の立つ椀を両手で包んでいた。
戸口に立つレオンへ一斉に顔が向くと、オルドは立ち上がりかけた男の肩を大きな手でそっと押さえ、そのまま食べるよう言い添える。
腰掛けへ戻った男が隣へ席を詰めたため、レオンも身を屈めて差し出された場所へ座った。
「眠れたか」
「何度か目が覚めました。外で車の音がすると、また運ばれるのかと思って」
隣の男は椀へ目を落とし、せっかく助けてもらったのにと付け足した。
レオンは椀を置こうとする手を制したが、安心させる言葉は見つからなかった。
(ここに着けば安心できる。俺がそう思っていただけか)
「そうか。食事を急ぐ必要はない」
せめて今すぐ立たなくてよいことだけでも伝えたくて口にすると、隣の男はもう一度椀を持ち直し、冷めかけた粥をゆっくり飲んだ。
向かいではエドが杖を腰掛けへ預け、昨夜運び込まれた者へパンの籠を回している。
誰かの名が呼ばれるたびに返事があり、それを聞いて笑う顔もあれば、戸口を見たまま食事に手をつけない顔もあった。
給仕が二つ目のパンを置くと隣の男はレオンへ顔を向け、自分にはまだ仕事ができないと小さな声で告げた。
「食べるために働けと言われたか」
「いえ。でも、こんなに」
「お前の分だ。食べられるなら遠慮はいらぬ」
給仕が頷くのを見た男はようやくパンを取り、ちぎった一片を口へ運ぶと目を閉じて噛みしめた。
椀が空いたころには夜中の物音を語っていた眉間の皺も緩み、向かいのエドへパンが柔らかいなと話しかけている。
それだけのやり取りを聞きながら、レオンは昨日の戦いで何を守れたのかをようやく実感した。
オルドに伴われて奥へ進むと、窓の下の女が隣へ置いた空の椀を撫でていた。
細い腕には包帯が巻かれ、昨日まで石の粉を吸っていた髪にも洗った跡がある。
給仕が椀を下げようと声をかけても窓際の女はすぐに離さず、縁を撫でたまま小さく口を開いた。
「椀を二つ受け取ってしまいました。いつも兄の分も一緒にもらっていたものですから」
レオンが足を止めると窓際の女は顔を上げ、礼を言おうとしたのか唇を動かしたが、その前に息が詰まった。
オルドが空いた腰掛けを近づけ、レオンは隣に座って言葉を待つ。
「昨日、一緒に働いていた人が帰ってきて……兄はもう死んだと教えてくれました。奥へ連れていかれてから会えなかったので、今度の車には乗っているかと思って」
「……そうか」
それより先の言葉が見つからなかった。
窓際の女は空の椀を差し出しかけ、もう一度膝へ戻した。
縁に掛けた爪の先が白くなっている。
やがて窓際の女は指を一本ずつ離し、給仕の盆へ椀を置いた。
戻した両手は、何もない膝の上でまた椀を包む形になった。
「最後にどこにいたのか、分かったら教えていただけますか。誰も知らないままにはしたくないんです」
「調べさせる。分からぬことは分からぬと伝えるが、分かったことをお前に隠しはしない」
窓際の女が頷くのを見てから目を向けると、リシェルは既に兄の名を尋ねるため膝を折っていた。
急いで答えなくてよいというリシェルの声を背に廊下へ出ても、レオンの耳には椀を盆へ戻した小さな音が残る。
(あれだけの力があっても、間に合わなかった人は戻らないんだな)
窓の外では交代の御者が荷車へ登り、夜通し運んできた御者が手綱を渡して肩を回していた。
鉱山からの搬送は終わっても関所や下段の拠点には警備が必要で、休む者の代わりに食料や布を届ける仕事が続いている。
オルドが寝床の増設を説明する間に、レオンは廊下の端で空の桶を持って立つ給仕へ道を譲った。
「こちらへ残ると決めていない者にも、寝床はあるな」
「はい。ご家族を探す者、故郷へ便りを頼む者もおります。行く先を伺うのは身体が落ち着いてからにいたします」
「それでよい。働けるかどうかも、今ここで答えさせるな」
オルドが深く頭を下げたので、レオンは当然のことしか言っていないと口にしかけた。
けれど今朝もパンを受け取るだけで、働けないことを詫びようとした男がいた。
当たり前だと思ったことほど、ここでは言葉にしておく必要があった。
戸口では頬に傷のある男が見張りへ外に出てもよいかと尋ね、誰も止めないと知ってからも敷居を跨げずにいた。
レオンが見守るうちに頬に傷のある男は靴先を外へ出し、朝日に目を細めると宿舎の中を振り返った。
「外へ出られるぞ。戻っても、飯はなくならないんだって」
寝床から顔を上げた者へ手を振る姿を見て、レオンはようやく宿舎を離れる気になった。
助けた人々の行き先を決めるのは侯爵でも自分でもないと、今ははっきり思えた。
城へ戻るとメルハが卓いっぱいに紙を広げて待ち、まだ確かめていない束を脇へ寄せた。
「まだ照合できていない分でございます。先に確かめられたところからご覧ください」
卓の端には、物置から運び出した二人の遺体の記録もあった。
見つかった場所と、顔を確かめた者の名が分けてある。
レオンには黒い石粉の詰まった爪と、兵が瞼を閉じてやった顔が浮かんだ。
「名を取り違えるな。持ち物が残っていれば、それも誰のものか確かめよ」
リシェルが頷いて紙を別にすると、メルハは家令の帳簿とエドの書付を並べた。
荷の控えと別の労働者の受取書が続く。
紙を見比べたレオンは前に教わった欄へ目を運び、支払ったことになっている額と、本人の受け取った額が違う箇所で指を止めた。
「同じ日のものか」
「はい。本人にも日と仕事を確かめました。食事代として引かれた分には、実際に与えられなかった食事も含まれております」
リシェルが聞き取りの紙を差し出すと、食事を減らされた日と殴られた理由が、そのとき同じ小屋にいた者の話と並べて記されていた。
全員の言葉が細部まで揃っているわけではなく、時期の食い違う箇所には小さな印が付いている。
そこを尋ねると、リシェルはどこまで本人に確かめたかを順に答えた。
「まだ決められない部分は残しております。ただ、帰ると申し出ても許されなかったことと、働けない者から食事を取り上げたことは、別々に聞いた複数の者の話で一致しています」
レオンは昨日見た人々の傷を思い出し、誰の命令であの境遇へ追い込まれたのかを確かめようと顔を上げた。
「侯爵の命令だと分かるものは」
メルハが一枚の書状を広げると、扉の外で待たされていた家令が護衛に促されて入ってきた。
昨夜より衣服は整えられているが、椅子に掛けるよう言われても浅く腰を下ろしただけで、膝の上に置いた手は震えている。
「監督官へ出された指示でございます。帰還の願いを認めず、仕事へ戻すようにと。私が受け取り、届けました」
「お前があとから書いたものではないと、どう確かめればよい」
「受け取った監督官が……あの者も捕らえられております。封は開けていますが、控えを取った書記も」
隣のリシェルは監督官と書記へ確かめる内容を控え、家令の前では別の者から得た答えを読み上げなかった。
ほかの証言を先に教えず、家令が何を知っているのかを聞いてから照らし合わせるつもりなのだと、レオンにも分かる。
(自分を助けるために持ってきた紙だ。だから嘘とは限らない。でも、この人の言うままにはできない)
「持ち出したことで、お前が鉱山でしていたことまで消えるわけではない。知っていることを話せ。自分に都合の悪いこともだ」
家令は顔を引きつらせて頷き、食事を減らす命令を伝えたことがあると声を落とした。
誰がどこまで関わったかを一人ずつ分ける仕事は、侯爵を捕らえても残っている。
聞き取りを別室で続けさせたあと、メルハはまだ開いていなかった薄い束を卓へ置いた。
鉱石の売上から定期的に金を送った記録で、宛先の一部に王国の政務を扱う者と、その周辺の名があるという。
「全て賄賂とは限らぬのだな」
「はい。取り決めに従った正当な支払いも混じるはずです。ただ、家令は表の勘定とは別に届けた金があると申しております。こちらには荷と金を渡した者の名も」
読めるようになった文字を追っても、その名の持ち主をレオンは一人も知らない。
代わりに思い出したのは、侯爵が交渉の場で口にした王国の後ろ盾だった。
兵を失えば従うほかないと思っていたが、侯爵が頼みにしているものは、この城の外にも続いている。
「王国が動くとしたら、何を理由にする」
リシェルが侯爵から得た書状の写しを引き寄せ、その一節を示した。
「王国領への侵入と、王国の貴族を捕らえたことを責めるでしょう。鉱山で何が行われていたかより先に、こちらの武力行使を訴えるはずです」
(助けた人を返さないために戦った。それを説明すれば終わる話じゃないのか)
腹の底が冷えたが、今さら鉱山へ人々を戻す場面を思い浮かべることはできなかった。
「こちらで確かめたことを残せ。話した者の居場所を、むやみに外へ知らせるな」
「承知しました。証言者を脅して黙らせることは許しません」
そこまで具体的な危険を考えたわけではなかったが、言われてみれば名前が知られる怖さは、宿舎で戸口を振り返る人々の目に既に現れていた。
レオンは頷き、誰に見せる写しなのかを分けておくよう頼んだ。
城の通用門で商人から街道の様子を聞いていたシオンは、思わぬ話に顔を上げた。
「一万の兵を指一本で消したそうで。侯爵をおびき出すため、わざと逃げる時間まで与えたと聞きましたよ」
「数が増えていますね。投降した兵もいます。見ていないことまで、御自分の言葉になさらないように」
そう釘を刺しても商人は感心した顔を崩さず、生き残った者は王が選んで見逃したのだろうと頷いていた。
シオンは聞き返すのをやめ、誰から聞いた話かだけを確かめた。
街道で荷を待つ間に交わされた話が、別の御者の口を通るうちに軍略へ変わっている。
帳簿の照合を終えたリシェルと廊下で会うと、シオンは一万の軍という部分から伝えた。
「捕虜を受け入れたことまで、敵の口で強さを伝えさせるためだと言われています」
「それは違います。陛下は戦う前から、武器を置く者には手を出さぬと仰せでした」
「ええ。ただ、家令が自分から帳簿を持ち出したのは事実です。軍を崩されても命は助かると知ったから、隠すより差し出す方を選んだのでしょうね」
シオンは鉱山で包みを抱えていた家令の姿を思い返した。
レオンは家令を探し回らず、兵と同じにされたくないという男の方から足元へ来た。
そう考えると武器を捨てた者を受け入れる一言にも、単なる慈悲では説明しきれないものが見えてくる。
「最初の書状でも、支払いの記録を求めておられました」
リシェルの言葉を聞き、シオンはゆっくり頷いた。
全部を焼き払う力がありながら帳簿の残る鉱山へは撃たず、侯爵も家令も生きたまま揃えたのだ。
そこまで初めから見通していたのなら、自分が追いつけているのはレオンの考えのどの辺りなのだろう。
リシェルを伴って牢へ向かう途中でシオンに呼び止められたレオンは、帳簿を自ら差し出させる御考えだったのですねと言われて足を止めた。
(いや、持って出てくれてよかったとは思ったが。どこでそんな話になったんだ)
「残っていてよかった。だが私の考えを推し量るより、紙に何が書いてあるかを確かめてくれ」
「承知いたしました。まずは書付の裏付けを確かめます」
(知らないところで、俺の考えたことになってる作戦がどれだけあるんだ)
レオンが次の言葉を探す間にシオンは一礼して戻っていき、廊下の先で待っていたヴァルガスが牢へ通じる戸を開けた。
格子の内側には水と食器が置かれ、侯爵は寝台の端へ腹を乗せるように腰を下ろしていた。
襟元には拭いきれない汗の染みが広がり、レオンを見ると脂の浮いた頬を歪めて笑う。
「グフフ……ようやく話の分かる者が来たか」
レオンが格子から一歩離れたところで足を止めると、侯爵は値を吊り上げる商人のように膝の上で指を開いた。
「鉱山の収益を分けてやる。兵も返せ。監督に不始末の責任を取らせれば済む話だ。王国へは私から穏便に伝えてやる。貴様もいつまでも、あの薄汚い連中に構っていたいわけではあるまい」
(この人は、まだ俺を買えると思ってるのか)
「帰ることを許さず働かせた者がいる。食事を奪われた者も、死んだ者もいる。その話をしに来た」
「鉱山で死人が出るのは珍しくもない。お前の兵とて人を殺しただろう」
レオンは返す言葉を探したが、自分が殺めた兵の顔を消して答えることはできなかった。
自分だけが潔白な顔で責めることはできないと思い、侯爵を見据えたまま口を開く。
「私は人を殺した。そのことを、お前のしたことが消してくれるとは思わぬ。お前も私のしたことを理由に、鉱山に閉じ込められていた者の話を消せると思うな」
侯爵の笑みが引きつったが、次には格子の外のリシェルへ視線が滑った。
「その女に計算させろ。私を失えば王国の誰が困るか、少しは分かるはずだ。欲をかいて全て奪えると思うなよ」
「奪うために来たのではない」
「ならば返せ。逃げた者も鉱山も、私の手を離れればまともに動きはせん。食わせてやった恩すら忘れた連中だ」
宿舎で二つ目の椀を手放した女の顔が浮かび、レオンは格子へ伸ばしかけた手を引き戻した。
格子を曲げることなら容易いが、怒鳴り合うだけでは侯爵が何を命じたのか確かめられないと思い、レオンは声を抑えた。
「人を返す取引はしない。お前が命じたことについて、改めて答えてもらう」
踵を返しても背後から金の額と王国の名が追いかけてきた。
侯爵の声が届かない場所まで離れてから、レオンはついてきたリシェルとヴァルガスへ向き直る。
「侯爵の言葉を理由に、宿舎の者へ何かを求める者が現れぬようにせよ。捕らえた兵の身柄とは分けて扱え」
「既に場所は分けております。ワシからも見張りに徹底させます」
「それから、侯爵を呼ぶ場に被害を受けた者を無理に立たせるな。聞いてほしい話がある者には、誰が聞くのかを先に知らせよ」
リシェルは自分が受けると答え、その場へ来たくない者の言葉も残すと続けた。
レオンは頷いて窓辺へ寄り、町の屋根の間から細く上がる炊事の煙を見る。
朝には食事の続きを勧めることしかできなかった自分が、このあと一人の命と、その先の扱いを決める。
(誰かに正解を聞けたら、どれだけ楽だろうな)
隣で待つリシェルが侯爵を引き出す支度を進めてよいか尋ね、レオンは答えを待つ顔へ目を向けた。
預かった城の中で何を許すかは、もう誰かの判断を待っているだけでは済まない。
レオンは町へ向けていた目を戻し、午後に侯爵を連れてくるよう命じた。