第二章以降のプロットはあるけどストックがない…
鋭意執筆中
午後の広間で書付を揃えながら、リシェルは壁際に座る人々へ目を向けた。
証言の順を待つ男は膝の布を握り、隣の女は閉じた扉を何度も見ている。
昨日は軍勢を呑む炎と氷の渦が遠くからでも見えたのに、この人々が今も恐れるのは捕らえられた侯爵だった。
リシェルは会見の場で自分へ飛んできた石を受け止め、そのまま侯爵を黙らせたレオンの手を思い出した。
妾として差し出せと値踏みされたときも、レオンはリシェルとシオンの拒絶を覆さず、臣下を取引の品にはしないと言い切った。
身体に危害を加えさせなかっただけでなく、拒絶する意思まで尊重してくれたのだと、今なら分かる。
(今度は、私がこの人たちの言葉を残さなければ)
言葉を途中で詰まらせる者にも続けられるまで待ち、声の小ささを理由に訴えを捨ててはならない。
けれどレオンを正しく見せたいからと確かめていない罪を加えれば、陛下の名で嘘が残る。
リシェルは証言と命令書を別々の束へ揃え、まだ誰の言葉も書かれていない紙を手元に置いた。
この先にレオンが何を命じようと、耳にした言葉を勝手に整えるまいと決めて筆を取る。
レオンは広間の椅子で肘掛けに触れていた手を膝へ移し、閉じた扉を見据えた。
窓からの光が卓の書付を照らし、その脇ではリシェルが筆を手に待っている。
午前に人々の話を聞いていたとき、レオンはこの城へ迎えられた日のことを何度も思い出していた。
あの日は自分の名さえ知らず、頭を下げる者たちへ何を言えばよいのか考えるだけで精いっぱいだった。
(五日しか経っていないのか)
そのわずかな間に人を殺し、軍を崩し、今は捕らえた相手を裁く場所に座っている。
前の世界で見た歴史の本には、王が命令を下したと一行だけで書かれていた。
その一行を口にするまで何を考えたのかも、言い終えたあと誰がどんな顔をしたのかも、紙の上にはほとんど残っていなかった。
「陛下、支度が整いました」
ヴァルガスの声に頷くと扉が開き、両腕を拘束された侯爵が二人の兵に挟まれて歩いてきた。
侯爵は二重顎に汗を溜め、張り出した腹を鎖から逃がすように身をよじって足を止めた。
侯爵は広間を見回してから傍らの兵へ鼻をひくつかせ、自分の腕を支える手を引き剥がそうとした。
「放せ、汗臭い。私に触るな!」
壁際には証言のために来た人々が腰掛け、オルドがその近くに控えていた。
顔を上げられず膝の布を握る者もいると気づき、レオンは先にそちらへ声をかけた。
「席を外してよい。ここに残らなければ話を聞かぬということはない」
立ち上がった女をオルドが戸口まで送り、壁際に残った男は一度だけ目でその背を追ってから座り直した。
侯爵は女が出ていくのを見て鼻を鳴らし、兵が足元を示しても膝をつこうとはしない。
「立たせたままでよい」
(跪かせるために呼んだわけじゃない。何をしたか、何を認めるかを聞くんだ)
ヴァルガスは短く応じて侯爵の斜め後ろへ移り、レオンの正面に侯爵を立たせたまま警戒を続けた。
鎖の音が収まると、リシェルが卓へ歩み寄って命令書を取り上げる。
「鉱山から帰りたいと願い出た者を留め、働けない者の食事を減らしたこと。帰還を認めぬ指示を監督へ届けさせたこと。この二点について、まずお答えください」
「金を払って集めた働き手だ。契約の途中で逃がしては仕事が成り立たん」
「帰るには許しが必要だと、働き始める前に知らせたのか」
レオンが問うと侯爵は苛立ったように肩を上げ、読み書きのできぬ者へ紙を見せても同じだと吐き捨てた。
壁際の男が腰掛けから立ちかけたが、オルドが隣に戻ったのを見て、膝へついた手に力を込めて座り続ける。
「知らせたかと聞いている」
「必要なことは監督に任せていた。食事も寝床も与えたのだ。働くのは当然だろう」
リシェルは別の紙を手に取り、帰還を願い出た者の名前と、その願いを退けた指示が記された日を読んだ。
リシェルが家令だけでなく書状を受け取った監督と写しを取った書記にも確かめたと告げると、侯爵の視線が初めて紙へ止まった。
「下の者の言葉を私に突きつける気か。監督も家令も好きに処罰してよい。あいつらが欲を出して、余計なことをしたのだ」
「それぞれの責任は別に確かめる。お前が命じたかどうかを聞いている」
「留めろとは命じた。食わせて使えと言っただけだ! 手加減を知らぬ下郎どもの不始末まで、なぜ私が引き受けねばならん」
声が広間の壁で返る間、リシェルの筆だけが紙の上を進んだ。
侯爵は自分の言葉を書き留める手を睨み、その目つきのままレオンへ向き直る。
「いくら救い出したところで、お前はあの連中をいつまで食わせる。欲しいだけ食わせ、休みたいだけ休ませてみろ。すぐに城の蔵を空にするぞ」
(食わせるのが大変なのは知ってる。朝から何人が走り回っていたと思ってるんだ)
オルドの運ぶ寝床もメルハの数える麦も、命じれば際限なく増えるものではない。
けれど足りなくなる恐れを口実にして、人を閉じ込めてよいことにはならなかった。
「足りぬものは私たちが考える。お前の鉱山へ戻す理由にはしない」
壁際の男が顔を上げたので、レオンは視線で続きを促した。
壁際の男は戸惑いながら立ち上がり、侯爵を見ずに足元へ目を落とす。
「俺の隣で石を運んでいた者は、熱があっても休ませてもらえませんでした。動かなければ飯を渡さないと言われて、仕事に出て……そのまま倒れました」
そこから先が声にならず、壁際の男は腰掛けの背を握った。
オルドが差し出した水にも壁際の男は口をつけられず、レオンは周囲に待つよう片手で合図した。
侯爵が退屈そうに目を逸らしたのを見たとき、朝から抑えていた怒りが喉まで上がった。
「倒れた者がいたことを知っていたか」
「毎日誰が寝込んだかまで、いちいち私に届くと思うか。監督が働かせられると考えたなら働かせる。死ぬほど弱っていたなら、いずれ同じことだ」
壁際の男は膝から力が抜けたように座り込み、腰掛けが床を擦って鈍い音を立てた。
レオンは立ち上がりかけて思いとどまり、オルドが壁際の男の背へ手を添えるのを見届けてから侯爵へ目を戻す。
(ここで怒鳴るな。この人をもう一度怖がらせるな)
「食事を減らせと命じたとき、働けぬ者がどうなると考えた」
「働く気になる。実際、仕事に戻ったではないか」
侯爵は唾で濡れた唇を舐め、食事を減らして働かせたことを誇るように顎を突き出した。
都合の悪い死は監督の責任にし、仕事へ戻ったことだけを自分の手柄にする口からは、死んだ者への一言も出てこない。
倒れた者がいてもやり方を変えず、その利益だけは受け取っていたのだとレオンにもはっきり分かった。
「この城へ逃れた者を、お前のもとへは戻さぬ。鉱山で働いていた者に課した支払いも、言うとおりには取り立てさせない」
「他人の財産を勝手に扱うな!」
「人の話をしている」
自分の声が思ったより低く響いたが、今度は言い直さなかった。
侯爵は息を荒くしながらリシェルと壁際のシオンを見回し、助け舟の来ないことを確かめると、ようやく別の名を持ち出した。
「王都へは使者を送ってある。私をここへ閉じ込めておけば、いずれ誰が迎えに来るか分かっているのか」
先ほどまで書付に目を落としていたメルハが顔を上げたが、レオンは侯爵を見据えたまま問い返した。
「使者を出したのはいつだ」
「お前が会見で私の条件を蹴った晩だ。あの軍は何のために集めたと思う。私に損をさせれば、王都で困る者がどれほどいるか」
侯爵の言うとおりなら使者は三晩も前に鉱山を離れている。
昨日の戦場を見れば勝ち負けは明らかでも、その知らせが王都へ届く前に侯爵の訴えだけが聞かれているかもしれなかった。
レオンはリシェルへ目を向けた。
「使者が出たかは家令にも確かめよ。王都へ送る書状の支度を頼む。こちらで何を見て、なぜ戦ったかを残す」
「証言者の名を伏せた写しを添えます。侯爵の釈放や、人々の返還を求めてきた場合は」
(勝ったから終わり、とはいかないのか。それでも答えは変えられない)
「誰が求めようと、人は渡さぬ。」
リシェルが深く一礼する向こうで侯爵の口が開いたが、レオンは言葉を挟ませずに続けた。
「お前の名で残る兵が動けば、逃れた者とその家族がまた襲われる。追うなと命じる書状を出せ。鉱山の者を連れ戻すために、これ以上人を傷つけるな」
「フヒッ……ようやく分かったか」
侯爵は脂の浮いた頬を緩め、鎖に繋がれた腕を腹の上まで持ち上げた。
書状を出せという命令を、王国を恐れた頼み事にでも聞き違えたらしい。
「そうして王都へ申し開きをするつもりか。ならば私を解放しろ。兵も返せ。私の家が何代この土地を治めてきたと思っている。お前が力任せに壊してよいものではないぞ。それから、私の望んだものを差し出せば考えてやる」
その目がリシェルへ向かった瞬間にヴァルガスが半歩動き、侯爵の視線を黒い肩で遮った。
リシェルは筆を置いて姿勢を正したが、侯爵へ言葉を返すより早くレオンが口を開く。
「まだ、人を渡す取引ができると思うのか」
「何も差し出さずに済むと思う方がおかしい。私の取り分を勝手に奪っておいて――」
「お前へ渡す者はいない」
侯爵は唇を曲げ、今度は壁際の人々へ顔を向けた。
視線を受けた壁際の男が肩を強張らせたのを見て、レオンは侯爵へ顔を向けた。
「好きに囲っておけ。王国が来れば全て取り戻す。逃げた連中は繋ぎ直して、二度と門まで辿り着けぬようにしてやる」
リシェルが卓に片手をつき、身を乗り出しかけた。
それでも侯爵は止まらず、声を上げるほど自分の力が戻るとでもいうように、顎を突き出して叫んだ。
「働けぬ者は皆の前で捨てればよい。次に泣くのが自分の家族だと分かれば、あの連中も少しは働くだろう!」
レオンの手の下で肘掛けが乾いた音を立てた。
握り込んだ指を離すと裂けた木の筋が見え、広間の誰もが口を閉じていることに気づく。
朝の宿舎で兄の死を語った女が差し出した椀と、昨夜の荷台で互いの名を確かめていた人々の顔が、侯爵の声と重なった。
侯爵は戻れるなら同じことをする。
兵も金も失ってなお、怖がる人間を目の前にすれば、その怯えを取り戻すべき財産のように扱う。
(もう言わせたくない。この口で、あの人たちの明日を語らせたくない)
立ち上がると侯爵が一歩退き、背後の兵に当たって止まった。
レオンはすぐには近づかず、裂けた肘掛けから手を離したまま侯爵を見下ろす。
殴れば死ぬと分かっていたが、レオンは怒りのまま拳を振るわず、拘束された侯爵を見つめた。
あのときは刃を向ける相手を止めなければ、背後の者が殺された。
今の侯爵は捕らえられており、このまま牢へ戻すこともできる。
それでも、食事を与えられて王国の迎えを待つ侯爵を思うと、レオンの中で収まらないものがあった。
暮らしを奪われた人々はこれからも苦しむのに、侯爵だけが何の痛みも負わずに済むことを許したくなかった。
(苦しめたいと思っているのは、俺だ)
誰かが望んだからでも、王らしく振る舞うためでもなく、自分が望んで下す罰だった。
その責任まで配下へ預けるつもりはなかったので、レオンは一人ひとりに聞こえる声で命じた。
「侯爵を牢へ移せ」
侯爵の肩がわずかに緩み、ほっと息を吐く音までレオンには聞こえた。
その息が終わる前に次の言葉を続ける。
「ただ閉じ込めておくのではない。苦痛を与え、その苦痛の中で生かし続けよ」
リシェルの筆が紙から離れ、黒い雫が一つ落ちた。
レオンは筆を持つリシェルの手がわずかに震えているのを見てから、ヴァルガスへ向き直る。
「人任せにはするな。誰が命令を受け、何をしたか、私へ報告せよ」
命令を伝えたあとで知らなかったと言う余地を、自分に残しておきたくなかった。
いずれこの刑罰の責任を問われても、実行した配下へ押しつけることはできない。
「私が許可するまで殺すな」
ヴァルガスはすぐには動かず、髭の下で一度だけ唇を引き結んだ。
やがて黒い胸へ拳を当てると、周囲の兵にも聞こえる声で命令を受ける。
「承知いたしました。ワシが身柄と執行を預かり、陛下へお伝えします」
「私も記録いたします」
リシェルは落ちた墨を拭う布へ手を伸ばさず、新しい紙を重ねて書き始めた。
誰も歓声を上げなかった。
レオンは自分の名でこの命令が残るのを見届け、侯爵へ視線を戻した。
「待て。何を言っている。私を誰だと思っているんだ」
笑おうとした侯爵の喉がひゅっと鳴り、二重顎を伝う汗が衣の襟へ落ちた。
兵に腕を取られても足を動かさず、王国の名を呼びかけてから、今度は金ならあると早口に言い直す。
「欲しいだけ渡す。鉱山もやる。そうだ、逃げた者も連れ戻さぬ。それでよいだろう。もう何もせんと言っているんだ!」
先ほどの言葉が間違いだったとは言わなかった。
被害を受けた者への詫びは一言もなく、侯爵は自分の刑を取り消す条件ばかり並べていた。
レオンは返事をせず、兵へ連れていくよう頷いた。
侯爵は壁際の人々にも顔を向けたが、先ほどまで膝の布を握っていた男は席を立たなかった。
オルドに肩を支えられた男が侯爵から目を逸らさずにいると、侯爵はその腰掛けへ近づこうとして兵に止められた。
もう侯爵の一声で誰かが鉱山へ引き戻されることはないのだと、レオンは椅子を離れて腰掛けと侯爵との間に立った。
「待て、待ってくれ!」
足を踏ん張った侯爵の身体が前へ傾き、両脇を支える兵の間で膝が崩れた。
鎖が床を打っても起き上がろうとはせず、這うようにこちらへ身を寄せて顔を上げる。
「殺せ……いや、違う。頼む、頼むから、こんなことはやめろ! 誰か、この者を止めろ! 私は侯爵だぞ!」
ヴァルガスが扉を開かせると、侯爵は今度こそ声を詰まらせた。
引き起こされる間にも逃れようと足をばたつかせ、先ほどまで他人の恐怖を笑っていた顔に涙が流れる。
「嫌だ! 放せ、放してくれ! おい、聞こえているんだろう! 助けてくれぇっ!」
誰の名も呼べないまま泣き叫ぶ侯爵を兵が両脇から抱え、床を擦る靴音と鎖の音を引きずって、広間の外へ連れ去っていった。
扉が閉じても、レオンはしばらくそこに立っていた。
自分が命じた刑は、この先も続く。
壁際の男は膝の布から手を離し、オルドに支えられて立ち上がった。
「宿舎へ戻ろう。夕飯の支度ができている」
男が頷き、二人は広間を出ていく。
失った命は戻らず、傷ついた身体にはまだ手当てが要る。
それでも今夜、この人たちを鉱山へ連れ戻す追手はいない。
レオンはリシェルへ向き直った。
「明日、領内のことを聞かせてくれ」
リシェルは頷き、裁定の記録を閉じた。
窓の外には、夕餉の煙がいくつも上がっていた。
バタバタの第一章なんとか一段落。