封印魔王は語らない   作:かにぱん。

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幕間
幕間: 王の知らない午後


 侯爵への裁定から三日が過ぎた午後、リシェルは執務室の戸口で立ち止まった。

 机へ戻るつもりで抱えていた書類を、オルドの大きな手が下から支えている。

 

「急ぎの返事は済んだのじゃろう」

 

「はい。ですから明日の分を先に」

 

「それは明日の分じゃな」

 

 言い返そうとしてリシェルは口を閉じた。

 廊下の窓から差す光は明るく、外では洗濯物を取り込む声がする。

 午後の鐘までにはまだ少し間があった。

 

「陛下からお呼びがあればすぐ伺えるようにしておきたいのです」

 

「居場所は伝えておく。わしも一緒じゃ」

 

 オルドは書類を奪わず、リシェルが指を離すまで待っていた。

 幼いころ夜更かしをして文字の練習を続けたときも、こうして脇へ来ていたものだ。

 あのころと同じように諦めて紙を渡すと、オルドは満足そうに頷いた。

 

「今日は陛下にも休んだと申し上げられるのう」

 

「昨日のことはもう結構です」

 

 リシェルは背筋を伸ばし先に廊下へ出た。

 後ろで小さく笑う声が聞こえても振り向かなかった。

 

 裁定の翌日には約束どおり領内の暮らしをレオンへ説明した。

 町や集落の位置、蓄え、働く者の数を順に話し、分からないところは確かめてから改めて伝えた。

 昨日もその続きをまとめていたのだが、書類を見に来たレオンの前で同じ一行を二度読んでしまった。

 

 間違えてはいない。

 ただ読み終わったことを一瞬忘れただけだった。

 それでもレオンは紙から目を上げ、リシェルの手元に置かれた茶を見た。

 

「その茶はいつからある」

 

 答えられずにいると、レオンは給仕に温かいものを頼んだ。

 慌てて椅子を離れようとしたリシェルへ、低い声が降ってきた。

 

「まず座れ。話はそれからでよい」

 

 疲れているとは申し上げていなかった。

 務めを続けられないほどでもなく、少し眠れば済むことだと思っていた。

 なのに椅子へ腰を戻した途端、張っていた肩から力が抜けた。

 

(見苦しいところをお見せした)

 

 そう思う一方で、温かい茶を待つ間は次に何をしなければならないかを考えずにいられた。

 レオンが近くに立っているだけで何かあっても大丈夫だと思えたのだ。

 

 廊下を歩きながらリシェルは袖口を直すふりをして指を握った。

 あの安心を今日も少し惜しんでいる。

 


 

 リシェルがオルドと入った中庭では、石の縁に腰掛けた給仕が破れた前掛けを縫っていた。

 顔を上げて立とうとするのをオルドが止め、空いている木の椅子へリシェルを促す。

 卓には茶の入った小さな壺と薄く焼いたパンが布をかけて置いてあった。

 

「昼の残りじゃが、少し炙り直してもろうた」

 

 布をめくると焦げた粉の匂いがした。

 リシェルは一枚を取り、端を折って口へ運んだ。

 薄い皮が軽い音を立て、噛むと内側にはまだ温かさが残っていた。

 

「……おいしい」

 

「昼にも出したものじゃよ」

 

「それは分かっています」

 

 昼食のときは帳面を閉じなかった。

 食べたことは覚えていても、こんな匂いだったかどうかは思い出せない。

 リシェルが次の一口を小さくかじると、オルドは何も言わずに茶を注いだ。

 

 中庭の向こうを洗濯籠が行き交い、干し竿を抱えた兵が壁にぶつけそうになって持ち直した。

 廊下の奥からはメルハが誰かに数字を確かめる声が聞こえる。

 レオンも今はメルハの説明を受けているはずだった。

 

「メルハのところへ行って書類の整理だけでも」

 

 リシェルが茶を置くと、オルドはパンの皿を少し近づけた。

 

「陛下への説明はメルハに任せておけばよい。ほかに急な用が来たらまずわしが話を聞こう」

 

「私がお答えしなければならないこともあります」

 

「そのときは隣のお前に声をかける。鐘が鳴るまではわしを頼って休んでおくれ」

 

 リシェルは浮かせかけた腰を椅子へ戻した。

 自分の判断が必要なときにはオルドが知らせてくれる。

 そう思うと仕事の声が聞こえるたびに立ち上がらなくてもよい気がした。

 休むように言い渡されるより、頼ってほしいと言われる方が断りにくい。

 オルドは知っていて言ったのだろう。

 

「……では、お願いします」

 

「うむ」

 

 茶を飲むと喉の奥まで温かくなった。

 前掛けを繕う針が日を受けて光り、ひと針ごとに布の裂け目が小さくなる。

 リシェルはしばらくその手元を眺めていたが、糸を長く引く仕草が気になった。

 

「糸が絡まりませんか」

 

「短くすると結び直すのが面倒でして」

 

 給仕が苦笑して針を引いた途端、糸の途中に小さな輪ができた。

 引っ張れば固く結ばれてしまいそうで、リシェルは思わず身を乗り出した。

 

「そこを持っていてください」

 

 給仕に糸を緩めてもらい、爪の先で輪を広げる。

 細い糸がほどけると、給仕はほっと息をついた。

 

「助かりました。宰相様に、こんなことを」

 

「見ていると気になるのです」

 

 そう答えてからリシェルはオルドに顔を向けた。

 

「仕事を始めたわけではありませんから」

 

「何も言うておらんよ」

 

 オルドの牙の見える笑い方に給仕まで口元を押さえる。

 リシェルも堪えきれずに笑い、冷める前に茶を飲んだ。

 その隣でオルドが肩を回し、背もたれへ身体を預けた。

 大きな手は膝の上で休んでいる。

 リシェルを休ませに来たオルドも疲れていたのだろう。

 

「お茶、まだありますよ」

 

 リシェルが壺を持ち上げると、オルドは器を差し出した。

 

「ありがたい。もう一杯もらおうか」

 

 いつもは注がれる側なので少し慎重に傾けた。

 礼を言う声を聞き、リシェルは残っていたパンを二つに割って一方をオルドの皿へ置いた。

 静かな午後だった。

 この先の備えもまだ決まっていないこともあるが、今ここで自分の手を待っているものはなかった。

 

「陛下もお休みになれるでしょうか」

 

「お茶はお持ちしておる。あとで様子を伺おう」

 

 オルドの返事に頷きながら、リシェルは昨日レオンが茶の器を手元へ寄せてくれたことを思い出した。

 あの大きな手が書類を脇へ避け、ここに座っていてよいと示してくれた。

 宰相として役に立つ前にリシェル自身を気にかけてもらえたようで嬉しかった。

 

(父というものは、ああいうふうに……)

 

 思い浮かんだ言葉にリシェルは茶の器を両手で握り直した。

 幼いころに失った父の記憶はおぼろげで、比べられるほど残っていない。

 それでも少し甘えても受け止めてもらえるのではと思った。

 主君に対して抱くにはあまりに勝手な願いだった。

 

(陛下に、何を求めているの)

 

 頬の熱を隠すように茶へ口をつけると、オルドが空いた皿へパンを一枚足した。

 リシェルは断らずに受け取った。

 

 やがて午後の鐘が鳴り、給仕は繕い終えた前掛けを膝の上で広げた。

 

「私も戻ります。今日はお茶が冷めませんでしたね」

 

「昨日は陛下にお気づきいただいてしまいましたから」

 

「お疲れだと申し上げたのですか」

 

「いいえ。何も申し上げる前に」

 

 答えながらリシェルは茶の器の底に残った茶を飲みきった。

 執務室へ戻ったら誰かに茶を置いてもらうだけで済ませず、一度は手を止めよう。

 昨日と同じことをしてレオンを煩わせたくはなかった。

 

 給仕が感心したように頷き、前掛けを抱えて廊下へ出ていく。

 入れ違いに来た別の給仕へ少し弾んだ声で話すのが聞こえた。

 

「陛下は申し上げる前にお疲れを見抜かれるのですって」

 

 リシェルは椅子を戻す手を止め、オルドと目を合わせた。

 リシェルには何も間違っていないように思えた。

 隣のオルドも何も言わず給仕を見送っていた。

 

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