侯爵への裁定から八日が過ぎた午後、シオンは外から届いた報告をリシェルへ渡した。
街道で確かめられた事実とまだ伝聞に留まる話を分けて説明し、二つの問いに答えてから外套を脱ぐ。
報告を終えた二人が入ったのは、レオンの執務室に近い談話室だった。
側近たちが仕事の合間に使う小部屋の窓辺には茶の用意ができている。
「陛下はまだ執務室に?」
「メルハの説明を聞いておられます。終わりましたらこちらでお休みいただく予定です」
リシェルが書付を棚へ収める間にシオンは卓の端の皿へ手を伸ばした。
小さな焼き菓子の中から縁の薄いものを選び、レオンの分に取っておこうと摘み上げた。
「そちらは陛下の分ですか」
「ええ。昨日はこちらの方を召し上がっていたから」
言ってからシオンは菓子を摘んだまま止まった。
リシェルは別の皿と見比べている。
「私には同じに見えますが」
「薄い縁が香ばしいそうよ。柔らかいところは最後に召し上がっていたわ」
「よく見ていらっしゃるのですね」
シオンは手にした菓子を小皿へ載せ、レオンのために空けてある席の前へ置いた。
人の手や視線を見るのは仕事の癖だ。
そう説明すれば済むはずなのに、焼き色まで確かめていた手元を見られると言い訳めいて聞こえそうだった。
「あなたこそ陛下のお茶だけ先に注いでいるでしょう」
「前に少し熱かったと仰せでしたので」
「ほら。同じことよ」
リシェルは納得したように頷き、シオンの杯も卓へ置いた。
勝ち負けを決める話ではないのに、シオンはなぜか一息つけた気がした。
戸が開き、湯の入った器を持つオルドが入ってきた。
人数分を確かめると向かいの椅子へ腰を下ろし、卓に残っていた菓子を一つ取る。
「今日はようやく揃って座れたのう」
「リシェルが書類を持ち込まなかったおかげです」
「棚には置きました」
「手の届くところにあっては休めているか怪しいわね」
シオンが棚へ目をやるとリシェルは杯を両手で持ったまま小さく笑った。
以前なら返事の途中で仕事の話に戻っていたのに、今日は次の一口をゆっくり飲んでいる。
「陛下には申し上げる前に見抜かれてしまいますから」
リシェルはそう言って冷めた茶を残したまま同じ書付を読み直していた日のことを話した。
疲れているとは口にしていなかったのに、レオンは報告を続ける前に座らせ、休むよう促したという。
シオンは湯気の向こうの空席を見た。
敵の魔法を返したという戦場からの報告を思い返すたび、膝を折りたくなるほどの畏れが胸によみがえる。
それなのに昨日報告を終えたシオンへ向けられたのは、帰り道で雨に遭わなかったかという問いだった。
袖口の濡れた外套に気づいていたのだろう。
急いで着替えるほどではないと答えたら、乾いたものがあるなら替えよと言われた。
(私が雨に濡れたくらいのことまで、覚えていてくださるのかしら)
次にお会いしたらちゃんと着替えたと伝えようと思い、シオンは杯へ目を落とした。
街道の話ならいくらでも報告できるのに、それだけを言いに執務室へ伺うのはおかしい。
今日のお茶の席が少し待ち遠しかった理由に気づきかけたところで、オルドの声がした。
「陛下のお話になるとよう笑うようになったな」
シオンは唇の端へ指を当てた。
「そんな顔をしていました?」
「さっきからな。陛下のお席ばかり気にしておるし、いっそお后にでもなるつもりかと思うたわ」
茶を飲みかけたシオンは杯を口から離した。
杯の底が卓に当たって小さく鳴り、その音にまで慌てて指を添える。
「お后、ですか。私が?」
「ほかに誰の話をしておる」
オルドの目元には穏やかな皺が寄っている。
冗談だと分かるのに、いつものように笑って返すより先に空席へ目が向いた。
レオンを迎える椅子はシオンのすぐ隣にある。
仕事の報告がなくてもここへ座り、明日の予定を聞いてよいのだろうか。
好みの菓子を選んでも理由を取り繕わず、召し上がるところを見ていられるのだろうか。
(それは……少し、いいかもしれない)
浮かんだ言葉にシオンは息を詰めた。
少しどころか、なぜこんなにはっきり想像しているのか。
見もしない明日の茶卓にまで自分の杯を並べてしまった。
「私など恐れ多いことです。お側でお役に立てれば、それで」
言い終える前に声が上ずり、シオンは喉を整えるふりをした。
三十を幾つか過ぎているのに、相手の冗談一つも受け流せない。
宰相の方がお似合いでは、とリシェルへ話を振る言葉も思いついたが、その光景を想像するのは嫌だった。
(お役に立てれば十分よ。それは本当でしょう)
胸の中で言い直しても、レオンの隣を別の誰かへ譲る気にはなれなかった。
シオンは膝の上で衣服の皺を伸ばした。
伸ばすほどの皺もないのに手が止まらない。
「すまんすまん。今のはわしが余計なことを言うた」
オルドはそれ以上からかわず茶を口へ運んだ。
隣のリシェルも菓子へ手を伸ばしたが、シオンと目が合うと口元を隠すように杯を持ち上げた。
「リシェル」
「何も申し上げておりません」
「顔に出ているわ」
「それは……シオンも」
否定しようとしたシオンの手が自分の頬へ触れた。
冷たい指先に熱が移るのを感じ、触らなければよかったと今度は耳の後ろへ髪を払う。
戸の開く音に気づいたときにはレオンが戸口に立っており、シオンは慌てて椅子から立ち上がった。
「陛下。今のは、そのようなつもりでは」
自分が何を言い始めたのか、口にしてから気づいた。
レオンは戸へ掛けた手を止めている。
「何の話だ」
聞こえていなかったのだと安堵しかけ、もし聞こえていたら今の言葉はどんなふうに伝わっただろうと思った。
陛下のお側にいたくないと言ったわけではない。
それだけは違うと申し上げたいのに、説明すれば后の話から始めなければならなかった。
(違うんです。違わないところもありますけれど、そうではなくて)
申し上げる前に見抜かれる。
先ほどのリシェルの声が浮かび、シオンはますます顔を上げられなくなった。
談話室の戸口でレオンは困っていた。
メルハとの話を終え、誘われていた休憩に来ただけなのに、シオンが顔を赤くして立っている。
隣のリシェルまで下を向き、オルドは茶を飲んだまま助けてくれそうにない。
(入る前に声をかけた方がよかったのか。今何か大事な話をしてた?)
「……お茶の話をしておりました」
シオンの返事を聞き、レオンは卓へ目を向けた。
空けてある席には杯と菓子の皿が用意されている。
昨日縁のところがうまいと言った焼き菓子だった。
「そうか。私の分まで、すまぬな」
「いえ。その、陛下はこちらをお好みかと」
「覚えていてくれたのか」
シオンが頷いてから口元を緩め、すぐに唇を結んだ。
レオンが椅子へ座ると用意してあった杯を手元へ移してくれたが、目が合うとまた視線を逸らす。
(何か気を悪くさせたか。いや、そういう感じでも……分からん)
話が分からないまま口を開けば余計に困らせそうだった。
茶を一口飲むと熱すぎず、すぐに喉へ通った。
「ちょうどよいな。ありがとう」
シオンがようやく顔を上げた。
今度は笑みを消さなかったのでレオンも少し安心して杯を置いた。
「お前も座れ。せっかく淹れた茶が冷める」
「お隣でよろしいのですか」
「そこがお前の席であろう」
シオンは自分の杯と椅子を見て、小さく頷いてから腰を下ろした。
オルドが何かを言いかけたが、シオンが顔を向けると咳払いをして残りの菓子をリシェルへ勧めた。
(絶対、俺の来る前に何かあっただろ)
聞き返そうか迷う間にシオンが皿をレオンの方へ少し寄せた。
菓子を一つ取ると隣から声がした。
「明日もこちらにお持ちしますね」
レオンが礼を言うより早く、シオンは「お休みになるようでしたら」と付け足した。
頬はまだ赤いが、今度は目が合っても逸らされなかった。
レオンは頷いて菓子を齧り、今だけその話を聞かないことにした。