いま頷けば引き受けることになる命の数も知らないまま、レオンは跪く兵を見下ろしていた。
レオンが返答を探す間にも兵の濡れた外套から雫が落ち、石床の黒い染みを少しずつ広げてゆく。
(何から聞けばいい。まず場所か。今どこで揉めてるんだ)
「今その者たちはどこにいる」
「関所の内側です。怪我人を詰所へ入れ、残りは壁際へ」
「追手は」
「門外におります。今のところ押し入っては来ませんが、逃亡者を匿えば同罪だと」
逃げた側の話だけで追う側のすべてを決めるわけにはいかない。
だからといって門の内にいる怪我人をいったん放り出し、そのあとで事情を確かめるという順番は選べなかった。
「怪我の具合は」
兵は少し顔を上げたが、すぐには答えられずに唇を動かした。
「歩けぬ者は仲間に担がれて来ました。足首には……鉄の輪が残っておりました」
細くなった声がそこで途切れたためレオンは先を促したが、乾いた唇から続いた言葉はなお重かった。
「食い込んでおり、関所にある道具では外せませんでした」
レオンは肘掛けへ戻しかけた手を膝に置き、知らず握りしめていた指を開いた。
ここで石を砕いたところでその足を助けられるわけではない。
「引き渡すな。まず傷の手当てをしろ」
張り詰めていた兵の肩が下がるのとほとんど同時に、傍らに控えていた黒い甲冑の男が前へ出た。
「陛下、守りを増やす必要がございます」
背の低い男が一歩踏み出すと甲冑の金具がかすかに鳴り、胸当てにかかる太い髭がその厚い肩の動きにつれて揺れた。
「ワシはヴァルガスと申します。兵の指揮をお預かりしております。関所の者だけでは怪我人を守りながら門も支えねばなりません」
「増援は出せるか」
「出せます。ただし城を空にするわけにはまいりません」
(城にも人がいるんだった。何人残せばいいかなんて俺に分かるわけないぞ)
「城の守りは残せ。そのうえで必要な兵を選べ」
(人数は任せていいんだよな。……待て。これで攻めに行かれたら困る)
ヴァルガスが身を引くより先に口を開き、足りなかった言葉を継ぎ足した。
「追手を攻めに行くのではない。門と内側にいる者を守れ。押し入るなら止めろ。退く者は追うな」
「承知いたしました」
ヴァルガスは怒鳴ることも剣を抜くこともなく短い返事とともに扉際へ手を振った。
その合図で兵が走り出すのを見送りレオンはまだ跪いたままの急使へ目を戻す。
門を守る者が増えても足首に食い込んだ鉄の輪は外れない。
「傷を診られる者と運ぶ車を出せるか」
問いを受けたリシェルはオルドへ一度視線を送りすぐに手配すべきものを挙げ始めた。
「城の治療係を呼びます。詰所で動かせない方はその場で診させ、運べる方は車で一時保護の宿舎へ。鉄の輪を外す道具も鍛冶場で揃えさせます。構いませんか」
(そこまで手配できるのか。俺が余計な口を出すより、その方が……)
「いつもの受け入れ場所があるのか」
「はい、町にございます」
「ならばそこを使え。動かすかどうかは傷を診た者に決めさせろ」
頷いたリシェルは急使に向き直り、到着時の人数と歩けなくなった者の数、詰所に残る水や食料を尋ねては紙に書き留めていく。
兵がまだ確かめていない数は無理に答えさせず、リシェルは紙のその欄を空けて次の問いへ移る。
答えを思い出そうとしているときには急かさず、兵が口を開くのを待った。
レオンはリシェルが書き込んでいく紙へ目を向けたが、何を確かめるべきなのかさえ次の問いを聞くまで思いつかない。
(人数も水も聞いてなかった。俺の言ったこと、本当にこれで足りるのか)
分かった顔で頷くのもためらわれ、急使とリシェルのやり取りを黙って追うしかなかった。
「これを先に届けます」
リシェルが命令を読み上げるのを聞き、余計な攻撃の指示がないと確かめてレオンは頷いた。
そのとき急使の膝が震えているのに気づき、休ませなければと口を開く。
「伝令は替えろ。この者には水と休息を」
兵は休めと言われる方が困るかのように顔を上げた。
「まだ走れます」
(いや休んでくれよ。頼むだけじゃ駄目なのか)
「道の様子も聞く。ここに残れ」
残れと命じてようやく急使が頭を下げると、リシェルは急使の泥だらけの靴を見てからレオンへ顔を向けた。
「現地を見た者を手元に置かれるのですね」
(そういう意味じゃ……いや話は聞くけど。何で今ので納得したんだ)
頷いてよいものか迷った末、レオンは近くの者へ水を運ぶよう告げるに留めた。
命を受けた者たちの足音が扉の向こうへ遠ざかり広間が少し静まったところで、オルドが卓を運ばせる。
広げられた地図の折り目を目で追うレオンの前で卓の隅に小さな箱が置かれた。
「現在の領内でございます」
城と町を囲むように村や畑が描き込まれ南へ延びる道には小さな門の印が添えてある。
オルドが門の印へ指を置いて関所の位置を示したが、周囲に書かれた地名をレオンは一つも知らない。
地図を眺めるだけでは城の領地がどこまで続くのかも分からず、説明を求めた。
「この城が治めているのはどこまでだ」
オルドが指でなぞった境界の中には城と小さな町、それにいくつかの村が収まっていた。
レオンが漠然と思い浮かべていた大国とは違い、一つの城を中心に人々が暮らす領地なのだと分かる。
「皆、陛下のお目覚めを待ちながら暮らしてまいりました。魔族も獣人も、人間もおります」
「人間もか」
「他所で生きる場所を失った者たちにございます。今は畑を耕し、店を営み、ここを家としております」
レオンはオルドの牙から自分の紫がかった手へ目を移した。
人間がいない世界へ来たのではなく、人間の姿を失ったのは自分の方なのだと、改めて思い知らされる。
それなら城の窓から見えた煙の下にはかつての自分に似た顔をした者も暮らしているはずだ。
「ただ、今は来た者すべてにすぐに定住を認めることはいたしません」
リシェルは地図の端に置いた指を揃え先ほどの手配とは少し調子を変えて説明を継いだ。
「まず一時保護をいたします。身元と事情を確かめ危険がないかを調べたのち、住む場所を定めます」
「今回も同じか」
「はい。手当てを先に行い、聞き取りはその後にいたします」
レオンが頷きかけたところで、オルドは卓の小箱を開けたまま手を止めた。
中の品を取り出そうともせず俯いているので、レオンは何か言い残しているのかと尋ねた。
「何かあったのか」
「二十年ほど前のことでございます」
オルドは外した箱の蓋を卓へ伏せ、ゆっくりと話し始めた。
「救いを求める者に紛れ城の守りを調べた者がおりました。通路も、警備の手薄な時も、外へ流れました」
離れたところで鎧が鳴り目を向けると、出発の支度を終えたヴァルガスが卓の手前で立ち止まっている。
「襲われたのか」
「はい。城を守る者を、多く失いました」
「誰に」
「今も分かりませぬ」
顔を上げたオルドに涙はなく、その分だけ頬に刻まれた皺が深く見えた。
封印の扉の前で泣いていたときよりいまの方がずっと年老いて見えるのはなぜだろう。
「それから確かめるようにいたしました。救うことまでやめれば、あの日守ったものも失いますゆえ」
リシェルは卓の縁に置かれた蓋を少し奥へ寄せ、オルドの手元に揃えた。
二人が俯いたまま黙るのを見て、レオンは通ってきた廊下の壁を思い出す。
色の違う石を継ぎ足した跡も、あの襲撃で傷ついたところなのかもしれない。
多くの仲間を失ったと話すオルドと俯くリシェルを前にして、レオンには当時のことを詳しく尋ねる言葉が見つからなかった。
(俺が今、変えていい話じゃない。この人たちの方がずっと考えてきたんだ)
「今の手順は続けろ。今回来た者の事情も調べる」
ヴァルガスの目を見てからレオンはオルドへ向き直った。
「確かめる間、追手に渡すことは許さぬ」
「御意にございます」
箱から取り出された印はオルドの大きな掌に半ば隠れ、握りの木には繰り返し手が触れたらしい磨き減りが見えた。
「この城と町村の政は代々の執政官が預かってまいりました。兵を率いる者、蔵を守る者と相談しその日の暮らしを繋いでまいったのでございます」
差し出された両手の上でその小さな道具だけがレオンを待っている。
「お返しいたします。魔王レオン陛下」
自分が呼ばれたのは、ただの王ではなく魔王なのか。
重い石を持ち上げた力も、人とは違う姿の者たちが跪いたことも、その名を聞けば不思議ではなくなる。
目の前の印からは禍々しい光も放たれず封印室の線のような反応も起こらないが、これを受け取れば地図の中に暮らす人々まで背負わされるのだろう。
(そんなもの、起きたばかりの俺に渡すなよ……)
受け取らずに済ませる言葉を探したとき、レオンの目に急使の泥だらけの靴が入った。
休むように命じたのも、関所を守れと言ったのも自分なのだ。
王の責任は引き受けられないと断れば、その命令を実行する者たちに、結果の責任まで任せることになる。
「これまで守ったのは、お前たちだ」
印に触れる指の力を確かめながら受け取り壊さぬよう自分の掌へ載せると、磨き減った木の握りが指の間に収まった。
「引き続き力を貸せ。私一人でこの城のことを知ることはできぬ」
(お願いだから頼らせてくれ。俺にはこの印の使い方だって分からない)
オルドが深く頭を垂れるのを見て、助けてほしいという意味まで伝わったのか、レオンにはますます分からなくなった。
「私めでよろしければ、城務をお任せください。政務の取りまとめにはリシェルをお薦めいたします」
リシェルは驚いた様子を見せず、ただオルドを見る目に一瞬だけためらいが過ぎる。
「この者は長く私めを補佐してまいりました。町や村への手配も、担当者を集めて話を詰める仕事もすでに担っております」
レオンはまだ乾ききらない命令書の控えへ目を落とし、急使の話を聞きながら必要な手配をまとめていたリシェルを思い返した。
(オルドが薦めるなら大丈夫なのか。さっきも全部まとめてくれたし……頼るなら、この人だよな)
「リシェル。政務を取りまとめ、判断に必要なことを私に報告せよ。懸念も省くな」
「はい」
「宰相を命ずる。オルドは城務長として支えよ」
(宰相で合ってるよな。勝手に役目を増やしてないよな)
オルドとリシェルが揃って膝を折り、任命の礼を述べた。
立ち上がったリシェルはすぐに卓の紙を重ね、次の報告を始める。
「では、今のうちに一件。保護が長引けば関所へ送る食料を増やす必要がございます」
(早いな)
今の任命でよかったのか確かめる暇もなく、レオンは卓の紙へ目を落とした。
懸念を省くなと言ったのは自分なので、もう少し待ってくれとも言いづらい。
呼ばれて進み出た細身の男が黒い染みのついた長い指で眼鏡を押し上げると、その髪の間から小さな角が覗いた。
「財務を預かるメルハでございます。当面の食料と薬は出せます。ただ、普段の暮らしに必要な蓄えまで崩すなら、補う手立ても必要です」
開かれた帳簿には大きさの違う紙が綴じられ、余白へ継ぎ足された小片の上にまで細い字がびっしりと並んでいる。
そこへ目を走らせるメルハを見ても、細かく書き込まれた数字のどこから確かめればよいのか、レオンには見当もつかなかった。
(当面は出せるって言った。なら今日の分は大丈夫……なんだよな)
「今日必要な分は出せ。長引いた場合の見通しはリシェルとまとめて報告せよ」
「承知いたしました。まず出発する車へ積ませます」
手元の印を卓へ戻し、ようやく空いた掌を膝の上で開いた。
次の報告までには何を考えておけばよいのかと帳簿の細い字を見直してみたが、答えに繋がりそうなものは見つからない。
廊下の向こうから車輪の軋みが聞こえると、オルドは積み込みを見てくると告げて広間を出た。
レオンも少し遅れて謁見の間を離れ、荷支度の音を頼りに中庭へ向かう。
中庭では毛布が荷車へ積み込まれ、桶を運ぶ者と薬箱を抱えた者が道を譲り合っていた。
オルドが荷台から垂れた布を押し込んでいると、鍋を抱えた人間の女が小走りに現れた。
レオンに気づいて急に足を止めたせいで熱い中身が鍋の縁へ寄り、彼は反射的に手を差し出しかける。
「よい、そのまま運べ」
鍋を抱えた女は幾度も頭を下げながら荷車へ向かったが、そのたびに手元が揺れるので、レオンは礼をやめてもらおうと通り道から脇へ退いた。
かつての自分の顔なら手伝うと言って鍋の片側を持つこともできただろうに、今はただ立っているだけで仕事を止めてしまう。
「あの者もかつてここへ逃れてまいりました」
リシェルに言われてもう一度見ると、女は鍋を荷車へ据え、狼の顔をした兵に蓋の押さえ方を教えていた。
狼の兵は短く返事をして言われたとおり蓋へ手を添え、二人の傍らを次の荷が運ばれていく。
地図で説明されたときには、守るべき人々がどんな暮らしをしているのか分からなかった。
今は目の前でかつて逃れてきた女が、新たに逃れてきた人のために食事を運んでいる。
(行ってどうするんだよ。でも顔も見ないまま、次も俺が決めるのか)
「関所へ案内できる者を」
顔を上げたリシェルはすぐには手配に取りかからなかった。
「陛下ご自身が向かわれるのでしょうか」
「私も行く。手当てと増援は待たせるな」
「護衛を整えます」
ヴァルガスの即答に頷きながらレオンは自分の掌に目をやった。
(言ってしまった。怖くないわけないだろ。この身体で何ができるかも分かってないのに)
護衛を整えると聞いても胸の内は落ち着かず、力を試すような余裕など少しも湧いてこない。
それでも、まず守ると言った相手を見たかった。
傷があるなら自分の目で確かめ、話せる者がいるなら声を聞くところまではできるはずだと自分に言い聞かせたが、その先に何が待つかまでは考えられなかった。
鍋の蓋が閉じられ、動き出した荷車がレオンの脇を通り過ぎる。
鉄の輪を外すための道具が荷台で鈍く鳴る。