魔王に救いを求めた人間たち
車輪が石を踏むたび荷台の縁が掌へ突き上げ、レオンはそのたびに握り込んだ指を緩めていた。
敷かれた厚い布だけでは揺れを吸いきれず、城門を出てからというもの腰の位置を直すにも隣へ座るリシェルを押さないかと気を遣う。
城の窓から見下ろした畑は車の両側へ広がり、こちらに気づいた働き手が鍬を持ったまま動きを止めるのが見えた。
(さっきまで棺にいたんだぞ。何で今はこんな所へ向かってるんだ)
人の身体とは違う手も、肩から流れる銀白の髪も、すっかり見慣れたもののように扱われている。
自分が誰なのかを確かめる時間をくれとも言えず、レオンは道の先を見た。
先に出た救護の車はもう見えないが、護衛を率いるヴァルガスの黒い背が前方で揺れ続けている。
「道が狭くなります。関所の内側へ着くまではお降りにならず」
ヴァルガスの注意に頷くと、隣ではリシェルが外套の合わせを押さえながら書類を包んだ布を抱え直した。
風に乱れた髪を耳へ掛けても指はすぐ書類へ戻り、リシェルもまた景色を眺めるために乗っているわけではないのだと分かる。
「城への連絡は」
「ここでの状況をまとめてから伝令を戻します。オルドが受け、メルハと必要な支度を進めます」
(そうだ、全員で出てきたわけじゃない。城に残した人にも話を返さないといけないんだ)
分かったとだけ答えたところで道が折れ、斜面と斜面の間に渡された壁が姿を現した。
車は城側から門へ近づいており、壁の内側にある詰所の戸口を人々が慌ただしく行き来している。
壁の上には槍を持つ兵が並び、誰も城へ続く道には目を向けていなかった。
車が止まるより早くヴァルガスが声をかけ、詰所から出てきた兵がヴァルガスの黒い甲冑を見て背を伸ばす。
兵はレオンの姿に息を呑んで膝を折りかけたが、ヴァルガスが肩を押さえて止めた。
「持ち場へ戻れ。報告は歩きながら聞く」
荷台を降りたレオンも頷き、跪こうとする者が増える前に詰所へ向かった。
詰所の戸口は思ったより低く、レオンが梁をくぐろうと頭を下げると髭が胸へ触れた。
身を屈めたその先で、床に広げられた毛布が目に入った。
足首を負傷した男が横たわっている。
頬に残る泥は乾いて白く浮き、膝から下を露わにした片脚だけが畳んだ布の上へ載せられていた。
レオンが足首へ目を向けると、傍らの治療係が灯りを遮らないよう身体をずらした。
鉄の輪は、まだ外れていなかった。
足輪が残っているとは聞いていたが、皮膚に食い込む鉄を目の前にするとレオンは言葉を失った。
輪の上下で皮膚の色が変わり、その縁へ当てられた布には薄く血が滲んでいる。
鍛冶場から来たらしい職人が膝をついて道具を並べ、治療係と声を交わしながら留め金の周りを確かめていた。
(俺が壊せば……いや駄目だ。石に指の跡をつけるような手で、ここだけ外せるわけない)
伸びかけた指を握らずに下ろし、通り道を塞がぬよう壁へ寄った。
その動きに気づいた負傷者が顔を上げ、レオンの姿を見た途端に肘をついて身体を起こそうとする。
「動かないでください」
治療係が男の肩へ手を添え、足首を支える者も脚が動かぬよう両腕に力を込めた。
負傷した男は治療係とレオンの顔を交互に見て、何か言おうと乾いた唇を動かしている。
(挨拶なんかしなくていい。こっちを見るから動くんだろ。どう言えば……)
「そのままでよい。手当てを受けよ」
声を落として告げると負傷した男の肘からゆっくり力が抜け、浮きかけた背が毛布へ戻った。
治療係は短く礼を述べて仕事へ目を戻し、職人も留め金へ当てる道具を持ち替える。
レオンは何か手伝えることがないかと周りを見たが、水の桶にも布の束にもすでに誰かの手が伸びていた。
リシェルは詰所を預かる兵から保護の状況を聞き、空いている寝場所と町へ戻す車の支度を確かめている。
歩ける者を先に町の一時保護宿舎へ移す話が出ると、壁際で椀を抱えていた男が小さく首を振った。
「あいつを置いてはいけません」
布の上へ横たわる男を指す手の爪は欠け、指の間に黒いものが詰まっている。
助けを拒むのかと聞き返す者はなく、リシェルは椀を持つ男の前へ膝を折った。
「置いていくのではありません。こちらで傷を診てから運びます」
「でも、門が」
椀を持つ男の声が途切れたのと重なって外から怒鳴り声が届き、別の避難民が両手で椀を抱き寄せた。
厚い壁に阻まれて言葉までは聞き取れないのに、ここにいる者たちには何を求める声か分かるらしい。
「戻せと言っているのか」
レオンが尋ねると椀を持つ男は頷くより先に頭を下げた。
「逃げたのは、俺たちです。ですからその人たちまで、罰せられることは……」
椀を持つ男が目を向けた先にいたのは、水を配る関所の兵だった。
長い鼻先の下から牙が覗いているその兵も、椀を渡しかけた姿勢で手を止める。
(助けられたら、その相手まで罰せられると思うのか。このままじゃ戻るって言い出すぞ)
「追手を中へは入れぬ。お前たちは今ここにいればよい」
言い切ったあとで本当に守れるのかと不安になったが、戸口のヴァルガスへ目を向けると静かな頷きが返ってきた。
「先に送った兵は配置についております。外から近づく者も見えておりますので、動きがあればすぐに」
「頼む」
それだけを返しレオンは椀を持つ男へ目を戻した。
安心したかどうかは分からないが、少なくとも身を起こして門へ向かおうとはしなかった。
リシェルは椀を握る手の震えが収まるのを待って声をかける。
「話せるところからで構いません。鉱山から来たことと、その方が途中で歩けなくなったことは伺いました」
「鉱山からです。そこは間違いありません」
椀を持つ男は急いで答えたあと、まだ何を疑われたわけでもないのに椀の中へ目を落とした。
レオンは近くの椅子へ座ろうとして脚の細さに気づき、その背へ手を置くに留める。
見下ろしていると話しづらいかもしれないと思いながら、それ以上どうすればよいか分からなかった。
「帰ることは、できなかったのか」
「帰してくれません。歩けるうちは働けと言われて、歩けなくなったら……」
椀を持つ男の目が毛布の上へ移り、レオンもそれを追った。
毛布に横たわる仲間は布を握り締め、声を漏らすのをこらえるように短い息を繰り返している。
「あいつは休ませてくれと言ったんです。足が腫れて、もう靴も履けなくて。それでも働けと」
その言葉だけでいつ誰が何をしたのかすべて分かるわけではない。
それでも足を痛めて歩けない者に仕事を続けさせていたのなら、逃げた者だけを責める話では済まない。
(何か言ってやらないと。でも大丈夫なんて、今の俺が軽く言っていいのか)
迷っているうちに、リシェルがなぜ一緒に逃げたのかを尋ねた。
椀を持つ男は布を握り締める仲間の手を眺めながら、一人で逃げて助けを連れて戻っても、そのときには仲間がどこにいるか分からないと思ったのだと答えた。
一緒に連れて逃げるしかなかったのかと、レオンは毛布の上の男を見た。
リシェルが逃げてきた道を尋ねると、椀を持つ男は坂の途中にある小屋を避けて通ったと答えた。
「灯りがついていて、前に兵がいたんです。見つからないよう道を外れました」
その話に奥の壁へもたれていた短髪の男が顔を上げ、戸惑ったように口を挟む。
「あそこは使われていないはずです。俺が通ったときは誰もいませんでした」
「いたんだよ。だから遠回りしたんだ」
椀を持つ男が振り返ると短髪の男も言い返しかけ、リシェルが手を上げて二人を制した。
レオンには二人がいつその小屋を見たのか分からず、どちらの話を信じればよいのか判断がつかなかった。
職場でも作業が済んだという報告とまだ終わっていないという報告が続けて届き、どちらがいつの話なのか聞き直したことがある。
(待て。同じときに通った話なのか? 俺が聞き落としただけかもしれないが)
「その小屋を見たのは、いつだ」
二人の視線が一度に向いてきたため、レオンは短髪の男へ目を向けた。
「まず、誰もいなかったというのは」
「鉱山へ連れていかれたときです。そのあとは奥へ移されて、あの道は通っていません」
続いて椀を持つ男に尋ねると、こちらは逃げてくる途中で兵を見たのだと答えた。
短髪の男が見たのは鉱山へ連れていかれた頃で、椀を持つ男が通ったのは逃げ出した晩だと分かり、レオンはようやく息をついた。
(何だ、見た時期が違うのか。途中から兵が来たのかもしれないな)
リシェルは二人から聞いた内容の脇にそれぞれ見た時期を書き添え、レオンを見上げた。
「見た時期も一緒に残します。これなら、どちらかが嘘をついていると疑われずに済みます」
(そういう心配もあるのか。俺はいつの話か分からなくなっただけなんだが)
先ほどまで互いを睨んでいた二人が黙って頷いたので、レオンも話を先へ進めようと口を開いた。
「覚えていることを話せ。見ていないところまで、答える必要はない」
椀を持つ男は肩の力を抜き、椀の縁を強く握っていた指を緩めた。
リシェルは二人が見たものを一つずつ確かめながら聞き取りを続けた。
聞き取りが途切れたところで職人が作業を止め、影になった留め金を覗こうと顔を傾けた。
「もう少し明るくできませんか」
リシェルは書きかけの紙を伏せて負傷者の傍らへ寄ると、道具を持つ手の邪魔にならない位置で掌を開いた。
そこに小さな光が灯ったかと思うと指先を離れて宙に留まり、足首へ食い込んだ鉄の縁も、職人の指にこびりついた黒い汚れも浮かび上がる。
(浮いてる。何もないところに灯りが……これが魔法か)
レオンはリシェルの手と光の間へ目を走らせ、そこに支えるものも火を入れる器もないことを確かめずにはいられなかった。
足首を負傷した男が毛布を握り直すのを見て、レオンは魔法の仕組みを尋ねかけた口を閉じた。
リシェルが少し身を引いても光は足首の上に残り、職人は照らされた留め金の端へ細い刃を当てた。
「魔力を通す。足をそのままに」
職人が柄を握り直すと指の間から淡い光が洩れ、道具の先まで細く伸びてゆく。
治療係が足の向きをわずかに直し、刃と傷の間に隙間ができたのを見届けてから、職人は両手を動かし始めた。
職人の手元を見守りながらレオンも息を止める。
鉄を切り進む刃が傷へ触れはしないかと見入るうちに金属が小さく鳴り、切れた留め金から輪が開いた。
職人が道具を離して輪を足から遠ざけるあいだも、足首を支える者は手を動かさない。
毛布の上の男は声を上げず顔を横へ向け、長く吐いた息の終わりでようやく握っていた布を放した。
レオンも息を吐いたが、鉄の下に隠れていた傷が灯りの中へ露わになると安堵ばかりではいられなかった。
(外れたんだ。よかった。でも傷は……そうか、これで終わりじゃない)
輪の形に赤く擦れた皮膚からはまだ血が滲み、治療係は新しい布を受け取って傷へ当てると、今すぐ車へ載せないようにと告げた。
リシェルの光が照らす中で手当ては続き、レオンは治療係の手を見てから床に置かれた鉄へ目を落とした。
椀を持つ男が仲間へ近づこうとして立ち上がったが、治療係の邪魔になると気づいたらしく毛布の手前で膝をついた。
椀を持つ男が身を屈めて仲間の顔を覗くと、足首を負傷した男の唇がかすかに動いた。
声は小さく、レオンには初めの言葉が聞こえなかった。
「何と言った」
尋ねた途端に椀を持つ男は顔をこちらへ戻し、言ってよいものか迷うように一度だけ負傷した仲間を見た。
「まだ、残っていると」
レオンは詰所にいるほかの負傷者のことかと思い、椀を持つ男の言葉を待った。
「鉱山にはまだ人がおります。俺たちだけが逃げたんです。もっと奥の者には、知らせることもできませんでした」
レオンは答えかけて口を閉じた。
全員助けると言えば、ここにいる者たちはその言葉を信じるかもしれない。
城の蓄えも関所の守りもつい先ほど教わったばかりで、鉱山の場所さえ知らないレオンに全員を救うと約束する自信はなかった。
(でも、聞かなかったことにはできないだろ)
「その者たちのことも聞く。今日はまず、お前たちが休めるようにする」
椀を持つ男が何度も頭を下げる前でレオンは椅子の背から手を離し、何をするにもこの手だけでは届かないのだと思った。
道具を扱う職人と足を支える治療係が力を合わせ、ようやく一つの足輪が外れたところなのだ。
戸口の兵の報告を聞いたヴァルガスがこちらへ向き直り、詰所の中へ入ったところで足を止めた。
「門外の者が、判断のできる者を出せと申しております。侯爵の鉱山から逃げた罪人を庇うのかと」
椀の底が床へ触れる音がした。
レオンはそちらを見ず、ヴァルガスの髭の上にある厳しい目を見つめた。
(判断のできる者。俺のことか。さっきから何も分からないまま聞いてる俺が、出るのか)
リシェルが書類を閉じて立ち上がり、戸口への道を空ける。
その向こうに見えるのはまだ門の内側であり、追手の顔はここからは一つも見えない。
「私が聞く。案内せよ」
声が思っていたより静かに出たことを確かめ、レオンは詰所を出るためにもう一度頭を屈めた。
背後では水が注がれ、手当てのための布が裂かれる音が続いている。
追手と何を話すことになっても、ここにいる人々が手当てを受けられるように守らなければならなかった。