関所の兵が盾を構えて片側の扉を開けると、門の外で待つ追手の先頭の男がレオンの顔を見上げた。
革の上に金属の板を重ねた鎧を着ており、腰の剣には手をかけていない。
後ろに控える追手の兵が銀白の髭から紫の肌へ目を移すのを見て、レオンは足元へ落としていた視線をどうにか先頭の男へ戻す。
レオンの脇にはヴァルガスが立ち、盾を構えた関所の兵が二人の左右を固めている。
(近いな。話をするだけなんだよな。こっちから手を出すなとは言ったけど、向こうがそうするとは限らないんだ)
レオンがその場で踏みとどまっていると、先頭の男はレオンの肩越しにリシェルの姿を見つけて口を開いた。
「城の執政官はおられぬのか」
「政務は私がお預かりしております。陛下が直接お聞きになります」
「……その方が城の主だと」
「レオン陛下です」
男の眉がわずかに寄ったが、それ以上確かめようとはせず剣帯から手を離して胸の前へ揃えた。
「侯爵閣下の命を受け、鉱山から逃亡した者を追ってまいりました。この者たちを率いております」
「何を求める」
(分かってる。引き渡せって話だろ。でも、どう聞き始めればいいんだ)
「逃亡者の引き渡しを。鉱山の物を盗んだ者も含まれております。匿われれば城の方々にもご迷惑が及びましょう」
迷惑という言葉に足首へ食い込んだ鉄の跡が重なり、レオンは追手の隊長の顔を見たまま返事を遅らせた。
怒鳴って追い返せば済むのかもしれないが、それでは鉱山で何があったか分からないままだ。
「誰が何を盗んだ」
隊長は門の奥を見ようと首を傾けたものの、ヴァルガスが立つ位置を変えるとレオンへ向き直った。
「監督官より申し渡されております。まずは全員を戻していただきたい」
「全員が盗んだのか」
「逃げたのは全員です」
(そこは聞いた。いや、俺の聞き方が悪いのか)
逃げた者と何かを持ち出した者が同じなのかさえ分からず隣へ目を向けると、リシェルが半歩だけ進み出た。
「盗まれた品とその持ち主、持ち出したとされる方のお名前を伺えますか。お持ちの書面があれば確認いたします」
「書き付けは鉱山にあります。我々は追跡を命じられたのです」
「ではそちらもお届けください。こちらでも一人ずつ事情を確かめます」
リシェルが書き留めた紙から顔を上げてこちらを見たので、レオンは人を引き渡すかどうかを自分が答える番だと気づいた。
「傷を負った者がいる。手当てが済むまで動かさぬ」
「逃げる際に負った傷でありましょう。こちらで引き取れば済むことです」
「足に鉄を食い込ませたのも、逃げたあとか」
言った途端に自分の声の低さが耳へ返り、隊長の肩越しで誰かが息を吸った。
声を荒らげたつもりはなかったのに、隊長の後ろの兵たちは槍を握ったまま動きを止めた。
(言い方がきつかったか。けど、あの足を見て連れて帰っていいとは言えないだろ)
「逃亡を防ぐための措置です。放せば働く者がおらなくなる」
「働けぬほど傷ついてもか」
「鉱山の管理は我々の役目ではありません。逃げた者を連れ戻せと命じられております」
同じ返事を繰り返した隊長は腰へ手を伸ばしたが、ヴァルガスに手元を見据えられると剣の柄へ触れる前に止めた。
ここへ来た隊長にすべてを答えさせようとしても分からないことはあるのだろう。
しかし今ここで逃げてきた者を全員連れ戻されれば、鉱山で受けた仕打ちを本人たちから聞くこともできなくなる。
「ならば戻って伝えよ。この者たちは私が預かる。事情を確かめる前に引き渡すことはない」
(預かるって、俺が言っていいんだよな。ここまで来てまだ誰かに聞きたいのかよ)
隊長はすぐには返事をせず、レオンの後ろで紙を押さえるリシェルと門口のヴァルガスを交互に見た。
「こちらの訴えより、逃げた者の言葉を信じられると」
「だからお前たちの話も聞いている」
言葉を選ぶ間に風が門を抜け、背後から薬を煮る匂いがかすかに届いた。
いま詰所で横になっている者のうち何人がまた歩けるのか、レオンにはそれさえ分からない。
「罪があると言うなら何をしたのか示せ。傷ついた者を連れ戻すだけでは、何も確かめられぬ」
リシェルが筆を止めてレオンへ目を向けたが、頷く暇もなく門の内側で掠れた声が上がった。
「戻ったら、話なんかさせてもらえない」
詰所から門口へ出てきた片腕に布を巻いた男を、関所の兵が盾の列の内側で肩を押さえて止めていた。
肩を押さえる兵の手を退けようとはせず、片腕に布を巻いた男は盾の向こうにいる追手たちを見ながら言葉を絞り出した。
「連れ戻された奴を見たんだ。口をきくなって、それだけで殴られて……」
「そいつだ」
隊長の後ろにいた兵が声を上げた途端、布を巻いた男の肩が跳ねた。
顎に傷のある兵は門の内側を指さし、自分に道を空けるような手つきで仲間の肩を押し退ける。
「そいつは俺の預かりだ。余計なことを喋る前に連れ戻す」
「止まれ」
ヴァルガスの声で門口の兵が盾を寄せたが、顎に傷のある兵は盾の縁へ片手をかけて身を乗り出し、片腕に布を巻いた男の襟を掴もうとした。
襟を掴み損ねた顎に傷のある兵が、もう一方の手を腰の剣へ伸ばした。
剣の柄を握る指が妙にはっきりと見え、レオンは考えるより早く片腕に布を巻いた男の前へ踏み出していた。
「手を出すな。」
顎に傷のある兵が剣を抜いて横に振るい、レオンが反射的にかざした左腕の袖を裂いた。
「陛下ッ!!!! 」
耳のすぐ後ろでリシェルの声が裂け、レオンは刃の当たった腕よりもその悲鳴に息を詰めた。
ぶつかった感触はあったのに痛みは来ず、レオンは左腕へ押しつけられた剣を見下ろした。
紫がかった皮膚には細い跡さえなく、裂けた布から覗く腕に食い込めない刃が斜めに押しつけられている。
(当たった。いま斬られたよな。……血は?)
背後で片腕に布を巻いた男が引き戻される気配を感じたとき、目の前で剣を握る顎に傷のある兵は唇を震わせていた。
隊長が何かを叫ぶより早くヴァルガスが盾を差し入れ、顎に傷のある兵の後ろから続こうとした追手たちの接近を遮った。
「負傷者を下げろ。槍は構えたまま、門を離れるな」
ヴァルガスは髭の奥で顎を固く結んでいても声を乱さず、指示した兵が動く間も追手の剣から目を外さない。
レオンにはどの声から聞けばよいのか分からず、もう一度振られたら困ると右手で目の前の刃を掴んだ。
鉄が短く軋んだ。
レオンの掌の中で刀身が曲がり、剣先が柄とは違う向きへ傾いた。
顎に傷のある兵が両手で柄を引いても、剣はレオンの手から抜けなくなっている。
(まずい。強く握りすぎた。いや離したら、また──)
「陛下、そのままで結構です」
ヴァルガスの声がすぐ脇で届き、こちらの兵が片腕に布を巻いた男を詰所へ戻す姿が見えた。
門口の盾は揃って前を向いたままで追手を押し倒そうとはせず、隊長も半ば抜いた剣をそれ以上動かさずに立っている。
ヴァルガスたちが追手と負傷者を引き離してくれたのを見て、レオンはようやく息を吐いた。
ただ、握っている剣を離せば目の前の兵がまた斬りかかってくるかもしれず、右手を開くことができない。
「……握りを放せ」
顎に傷のある兵が剣から両手を離したのを見届け、レオンは刃を掴んだまま腕を下ろした。
薄い鉄の縁が掌に触れていても痛みはなく、手首から肘まで見直しても血はどこにも流れていない。
(本当に、何ともないのか)
ひとまず剣を道の端へ置こうと腰をかがめると、顎に傷のある兵が大きく後ずさった。
レオンはそれ以上身を寄せずに剣から手を離し、曲がった刃を道端の石へ落とした。
鉄の音が消えぬうちに背後から足音が迫り、リシェルがレオンの脇を抜けようとした。
書類を押さえていた手は紙の端を握り潰し、その横顔には先ほどまで相手の返事を待っていた静けさがない。
「おのれ……この下郎がぁぁぁ!!!! 」
顎に傷のある兵へ怒鳴りながら向かうリシェルに肩を跳ねさせ、レオンは空いた左手を差し出して行く手を遮った。
(リシェル? 待て、ほかの兵はまだ剣を持ってる。前へ行くな)
「待て、私に傷はない」
「ですが……! 陛下に刃を向けたのです! この者は、陛下を……!」
言い切れなかった息が喉で震え、リシェルの視線が顎に傷のある兵から裂けた袖へ移った。
レオンは掌を開いて無傷の腕を見せたが、リシェルはそこへ手を伸ばしかけても触れずに止め、もう一度追手へ顔を向けようとする。
(俺の腕よりそいつを見てる。無事だって言うだけじゃ駄目なのか。頼むから、これ以上誰も傷つくなよ)
「私を見よ。何ともない。だから、ここにいろ」
どうにか自分の脇へ留まらせるとリシェルは唇を噛み、握り締めた紙を胸へ押しつけたまま一歩だけ下がった。
門外では追手の一人が自分の剣の柄を見下ろしてからゆっくりと手を離した。
別の追手兵は顎に傷のある兵の腕を取り、自分たちの列の方へ引き戻している。
追手が一斉に襲ってくる様子はなかったが、腕へ向かってきた刃を思い出すだけで身体が強張り、もう一度誰かの前へ飛び出せる自信はなかった。
(怪我はしなかった。でも、あの人に当たっていたらどうなった)
詰所の戸口へ目を戻すと腕に布を巻いた男が壁へ背をつけており、レオンと視線が合うと口を引き結んだ。
助かったと思っているのか、目の前で剣を曲げた者が恐ろしいのか、その顔からは読み取れない。
「こちらへ来ようとする者を止めよ。詰所には近づけるな」
「承知いたしました」
ヴァルガスは返事をしてから隊長を見据えた。
「今の者を下げろ。これ以上は通さん」
「……命令したわけではない」
隊長は顎に傷のある兵へ一度顔を向けてから、剣を鞘へ納める手元をこちらにも見えるようにした。
「連れ戻すように命じられていた。城の主に斬りかかれとは言っておらぬ」
レオンへの攻撃は命令ではなかったとしても、逃げてきた者を斬ろうとしたことまで許せるわけではない。
「私に当たらねばよかったのか」
隊長の目が上がりかけて止まる。
同じ刃が片腕に布を巻いた男へ当たっていればどうなっていたかと思うと、自分が無傷だっただけで済ませる気にはなれなかった。
「ここへ逃れた者を傷つけることは許さぬ」
(声は震えてない。大丈夫だ。あとは戻ってもらえばいい)
「侯爵に伝えよ。私はこの者たちを保護し、鉱山で何があったかを確かめる。訴えがあるなら、話を確かめられる者と記録を寄越せ」
「このまま帰れば、閣下はお怒りになる」
隊長がようやく口にした言葉に後ろの兵が顔を伏せた。
帰る場所にも恐ろしい相手がいるのかもしれないと思ったが、そのために門の内側から誰かを差し出すことはできない。
「今見たことも、そのまま伝えればよい」
隊長は落ちた剣を見てからレオンの顔を見直し、しばらくして背後へ短く手を振った。
追手たちが互いを促しながら道の方へ下がり始めると、レオンは離れていく背中を目で追いながらヴァルガスへ声を落とした。
「追うな。門の守りを続けろ」
「御意。見張りは残します」
関所の兵は槍と盾を構えて門口に留まり、追手の足音だけが道の向こうへ遠ざかっていった。
ヴァルガスは見張りの報告を聞いてから片側の扉を閉じさせ、詰所へ戻した者に新たな傷がないことまで確かめると、ようやく盾を下ろした。
門の内側へ退いたレオンが顔を向けるとヴァルガスは膝をつき、黒い甲冑が石床を打つ音が響いた。
「陛下をお守りする身でありながら、敵の刃を御身に届かせました。申し開きもございませぬ」
低く伏せられた頭を前にレオンは返事を失い、ヴァルガスの手が盾の縁から離れるのを見た。
「いかなる罰もお受けいたします。どうか、お命じください」
(罰って……俺が飛び出したんだろ。止める暇もなかったのに、この人が悪いことになるのか)
伏せた頭が動かないことに落ち着かなくなり、隣へ目を向けてもリシェルまで紙を握ったまま顔を伏せている。
レオンはつられて自分の袖を見たが、布の裂け目を寄せても隠すべき傷などどこにもなかった。
「私に傷はない。罰など要らぬ」
「傷の有無で済むことではございませぬ。お止めすることもできず……」
そこまで言ってヴァルガスが口を閉じると、門の向こうを窺う兵の足音だけが聞こえた。
ヴァルガスが悔いているのは王に刃を届かせたことなのだと分かり、レオンは開いていた掌を下ろして返す言葉を探した。
(俺だって、斬られて平気だなんて知らなかった。謝るならこっちだ。でも今ここで何も分からず動いたなんて言ったら……)
「飛び出したのは私だ。お前は後ろの者を守った。それで罰を与えるつもりはない」
ヴァルガスの頭はなお上がらず、レオンは立ってほしいと続ける前にその背の向こうの門を見た。
「これからも守りを頼む。……立て」
短い沈黙のあとで低い返事があり、盾を取って立ち上がったヴァルガスがこちらを見る。
ヴァルガスは眉間に皺を残したまま深く頭を下げたが、処罰を求める言葉はもう続かなかった。
隣ではリシェルが潰れた紙の端を指で伸ばし、裂けた袖へ向いた目をすぐには戻せずにいる。
「取り乱しました。お許しください」
「お前にも、何も咎めることはない」
(リシェルは怒らせないようにしよう……)
リシェルがあれほど取り乱したのは、自分が目の前で斬られたからだ。
傷はなくてもリシェルに怖い思いをさせたことには変わりなく、レオンは「もう平気だ」と言いかけて口をつぐんだ。
レオンが次の言葉を探しているところへ詰所から低い呻きが届き、三人とも詰所へ顔を向けた。
詰所ではまだ負傷者の手当てが続き、汚れた布を抱えた治療係が通り過ぎると、中から鍛冶の道具が触れ合う音が聞こえた。
裂けた袖の下に傷はないが、あの部屋ではまだ誰かが痛みに耐えている。
「運べる者から宿舎へ。ここで診る必要のある者は急がせるな」
リシェルの返事を聞きながらレオンは左手を一度握り、痛みもなく開く指を見下ろしてから詰所の戸口をくぐった。