町へ入った荷車が宿舎の前で止まると、開け放たれた戸口から湯気と煮炊きの匂いが流れてきた。
夕日に赤く染まった壁の下で待っていた者たちが荷台へ寄り、板を伝って下りる怪我人を支えたり、立てない者を毛布ごと宿舎へ運んだりしている。
手を貸そうと板へ近づいたレオンは下りてくる者の行く手を塞ぎかけ、慌てて脇へ退くと伸ばした手を外套の下へ引っ込めた。
(何なら手伝えるんだ。立っているだけでも邪魔になるのか)
ここまで来られたのは治療係が運んでもよいと判断した者だけで、動かせない怪我人はヴァルガスの守る関所に残っている。
荷台から関所に残した仲間の名前を呼ぶ声が上がるたびに迎えの者が仲間は関所で手当てを受けていると伝え、オルドの手配した寝床へ順に案内していた。
「食事の前にこちらでも傷を診ます。陛下は奥へ」
リシェルに頷いて袖を引き直すと指が裂け目にかかり、レオンは布の下の肌をもう一度確かめた。
刃を受けた跡はどこにもないのに、荷台へ置かれた金具が鳴ると剣を思い出して肩が強張る。
(切れなかった。さっきはそうだった。でも、この身体のことを俺は何も知らない)
屋内では湯の入った桶を抱えた治療係が寝床の間を行き来していた。
髪の短い女が自分の椀を隣の寝床へ差し出すと、給仕は「お隣の方の分もありますよ」と声をかけて椀を女の手元へ戻した。
奥の卓では手に古傷のある男もパンの半分を袖へ隠しかけたが、こちらに気づくと慌てて立ち上がる。
「そのままでよい。食事を続けろ」
男は腰を下ろしても食べようとせず、隠しかけたパンを卓へ戻した。
「関所に残った者の分にと思いまして」
「向こうにも用意しております。お名前を教えていただければ、届ける者に申し伝えます」
リシェルの返事を聞いてようやく男が椀を両手で包むと、レオンも向かいの腰掛けへ慎重に腰を下ろした。
食事を終えた男はエド・ミラーと名乗り、鉱山では石を運び荷車の積み下ろしをしていたと話し始める。
「働き手を集めると聞いて行ったんです。食事も寝るところもある、働いた分は払うと。それが帰るには許しが要ると言われて……仕事が残っているから次にしろと、何度も」
「断ればどうなる」
「食事を減らされます。それでも動かなければ殴られる。俺が見たのはそこまでです。奥へ連れていかれた者が、そのあとどうなったかは」
エドが言葉を切って入口へ目を向けると、戸口に立っていた兵が道を空けるように外へ半歩退いた。
戸口から外の道が見えるようになり、エドは卓の縁を押さえていた指をわずかに緩めた。
(帰れない場所へ連れてこられたと思ってるのか。ここでも)
「分からぬことまで答えなくてよい。残った者のことを聞かせてくれ」
「足を悪くした者がいました。石を選り分ける場所へ回されて、逃げる晩もそこに。俺たちは荷車の方へ出られたんですが、あの人は……」
別の寝床で頬にそばかすのある女が上体を起こし、洗い場にいた者たちも残っていると細い声で口を挟んだ。
洗い場の者たちは最後に会ったとき小屋へ閉じ込められており、そばかすの女が逃げた晩には小屋へ近づけず、戸の向こうから咳だけが聞こえたのだという。
咳の主を確かめたのかとリシェルが尋ねるとそばかすの女は首を横に振り、リシェルは名を書きかけた筆を止めた。
(生きているかと聞けば、この人たちは答えようとするんだろうな。知らないことまで)
「戻って確かめろとは言わぬ。今ここで話せることを話せ」
そばかすの女は少しずつ肩の力を抜いて治療係の手を借りながら寝床へ横になり、エドはその様子を見届けると唇を噛んだまま顔を上げた。
「道は覚えています。連れていっていただけるなら俺が」
「その足でか」
薄い布を巻かれた足を腰掛けの下へ引こうとしたエドが顔をしかめ、それでも膝の上で拳を握り直す。
「俺だけここで食って寝るわけにはいきません。まだ向こうにいるんです」
エドは声を荒らげたことに気づいたように頭を下げ、レオンは必ず連れ戻すと言いかけた口を閉じた。
門を壊せたとしても山のどこにいるかさえ知らない人々を見つけ、傷つけずに帰らせる方法までは浮かばない。
(安心させたい。でも、できもしない約束をしてどうする)
「道を教えてくれ。歩けぬ者を運ぶには何が要るかも知りたい」
リシェルが広げた紙にエドが太い線を引き、荷車の通る道から小屋へ枝分かれするところで筆を止めた。
エドの説明では小屋へ通じる細い道に荷車は入れず、広い道まで怪我人を運ばなければならない。
レオンは二本の道が合わさる場所から指を滑らせ、広い道の出口に描かれた門を示した。
「小屋から人を運び出しても、ここを閉められれば車を出せぬのだな」
「はい。ほかは俺たちが通った山道ですが、怪我人を担いでとなると……番もいます」
教えられた道筋は一度聞いただけで頭に入り、レオンは紙から目を上げても門と分かれ道の位置を思い浮かべることができた。
この調子なら救い出す手順も考えられるかもしれないと思いかけ、見張りが何人いるかさえ知らないことに気づいた。
(覚えられるのと、何とかできるのは別だ。ここで調子に乗るな)
「陛下。城の外で情報を集めているシオンです。お話を伺わせてもよろしいでしょうか」
リシェルの声に顔を上げると黒い外套をまとったシオンが戸口で膝をついていた。
レオンが面を上げるよう促すと、シオンは頭巾から黒髪をこぼしてレオンを見つめた。
一度息を継いでからシオンは改めて深く頭を垂れる。
「シオンと申します。お目にかかれましたこと、何よりの喜びにございます」
挨拶を終えたシオンはエドに断って紙の横へ座り、外から見える目印や荷車の止まる場所を尋ねていった。
鉱山の外を調べるための問いが続くのでレオンが中へ入れるかと聞くと、シオンは略図から顔を上げた。
「この方が通った道は伺えます。今も同じように通れるかは、確かめなければ分かりません」
(そうだよな。逃げられたあとなら見張りだって変える)
「今すぐ中へは入るな。まず外の道と出入りを確かめよ。中に残った者の様子を知る手立てはあるか」
「出入りの商人や荷を運ぶ者から話を拾います。こちらの動きを知られぬように」
「調べる者も無事に戻れ。分からぬままなら、そのまま報告すればよい」
「承知しました。相手に探られていると悟らせず、次に動く余地を残しておきます」
そこまで先を考えたつもりはなかったが、無事に戻るための手立てなら任せた方がよいのだろうとレオンは頷いた。
鉱山に残った人々に加えてシオンまで危険にさらすと思うと、早く調べてほしいとは言えなかった。
エドは描き終えた略図から手を離すと、襟元の縫い目を探って小さく畳んだ紙を取り出した。
汗を吸った角が柔らかく崩れ、開くたびに折り目の白い筋が増えていく。
「最後に金を渡されたときの書付です。外で荷を下ろす仕事に回されて、そのときに。聞いていた額より少なかったんで、次に尋ねるつもりでしまっておいたんです」
「受け取ったころは、どこで寝泊まりしていましたか」
「奥の小屋です。書付をもらう前に寝床をそこへ移されました」
リシェルはその答えを記してから書付を読み、稼ぎの下に食事や道具の代金が引かれていると説明した。
どの行に何が書かれているかは一度教わるだけで覚えられ、レオンは差し引きの前に記された額を指す。
「この額で働くと約束したのか。それとも、働いたあとに初めて見せられた額か」
「ここへ書かれたのはあとです。行く前に聞いた話とは違っていましたが、尋ねても食わせた分だと言われて」
何が約束で何が一方的に決められたことかは、この紙を読むだけでは分からない。
エドの受けた仕打ちを思うと鉱山側への怒りが募り、レオンは結論を急ぎそうになるのをこらえて声を落とした。
「これはお前のものだ。調べるために預かってよいか」
エドが返してもらえるのかと小さく尋ねるとレオンは頷き、リシェルが預かりの控えにエドの名と紙の状態を記した。
エドが控えの文字を大切そうに眺める間にリシェルは元の書付を布で包み、城でメルハに見せたうえで町の取引の記録も探すとレオンに伝えた。
(ここから先は聞こう。読めるようになっただけで、分かった顔をするな)
「私にも順に説明せよ。明日、城で聞く。今夜はここの者を休ませることを先にしろ」
リシェルが紙をしまうとエドは寝床の方へ目を向け、給仕が新しい毛布を置いた空所をしばらく見つめていた。
エドも鉱山に残した誰かを思っているのだろうかと、レオンは空いた寝床を見つめた。
宿舎を出るころには窓に灯りがともり、護衛に道の様子を確かめていたシオンが一行を見送るために振り返った。
「救うために調べよ。急ぐあまり、残った者を危険にさらすな」
シオンの一礼を受けて城へ戻る荷車に乗っても、レオンはエドが描いた小屋へ続く細い道を思い浮かべていた。
あの道で追手に出会えばまた刃を向けられるかもしれず、今度は救い出した怪我人を守りながら逃れなければならない。
城へ戻ったレオンは着替えを用意すると言うオルドを呼び止め、人のいない場所で自分の力を確かめたいと告げた。
古い石切り場が裏手にあると教えられ、場所を見てから決めると言い添えると、リシェルが灯りを持たせて兵を先に向かわせる。
オルドは城の見張りにも試しを行うと知らせるために人を走らせ、町から問い合わせが来た場合は自分が応じると請け合った。
「封印の後のお身体をお確かめになるのでしたら、明るくなってからでも」
「人を前にして初めて知ることは避けたい」
自分の力を知らない怖さを伝えるつもりが、関所で王を守れなかったことを責める言い方になったかとレオンは気にかかった。
それでもリシェルは唇を結んで頷き、レオンの肩へ外套を戻してくれた。
(寝た方がいいのは分かってる。でも、何ができるのか分からないまま明日を迎える方が怖い)
裏門から続く道を歩くと城の灯りが岩陰に隠れ、ほどなく両側を石肌に挟まれた窪地へ出た。
切り出しかけの石柱が奥に残り、その背後には幾段もの鑿の跡を刻んだ岩壁がそびえている。
一帯に人家や畑はなく壁の向こうも石の尾根だという説明を聞いたうえで、レオンは左右へ続く足場まで灯りで照らしてもらった。
見回りを終えた兵から入口を閉ざしたとの報告を受けると、レオンは全員を自分の後方にある切り通しの外へ下がらせた。
「私が呼ぶまで近づくな。何も起きなかったとしてもだ」
「かしこまりました」
リシェルは石切り場を見通せる後方の岩陰まで退き、兵がそのさらに後ろで灯りを掲げた。
ひとり残ったレオンが石柱へ掌を向けても風が袖を鳴らすばかりで、何を待っているのか自分にもよく分からない。
リシェルの浮かべた小さな光は見たが、あれをどうやって作るのかは聞いていなかった。
(魔法を使える身体なんだよな。そこからして俺が思い込んでるだけだったら、どうする)
手を下ろしかけたとき、指先の奥に温いものが揺れた。
腕に力を込めたときとは違う温かさが胸の奥にも広がり、レオンはそれを指先へ送ろうと息を整えた。
掌から遠くの石へまっすぐ力を放つ様子を思い浮かべた瞬間、指の隙間が白く光った。
(出る。出るのか。本当に──)
掌に灯ったはずの光が腕の幅を越え、眩しさに目を細める間もなく、白い奔流となって石切り場を貫いた。
夜が裂けた。
白い光に触れた石柱が端から消し飛び、奔流はその向こうの岩壁へ穴を穿ってなおも奥へ突き進んだ。
遅れて襲ってきた轟音に足元が震え、砕けた岩が巻き上がる粉塵ごと両側の壁へ叩きつけられた。
ただ遠くの石を砕くつもりで伸ばした腕の先から、人が何人も並べるほどの太さの光が流れ続けている。
(待て。大きい、大きすぎる。止まれ──止まってくれ!)
反射的に腕を引こうとしたが、肘も肩も動かなかった。
足を引いて身体ごと向きを変えようとしても、光を放つ姿勢のまま動けない。
腕を動かすのを諦め、力を送り込むのをやめようとすると、胸から腕へ流れる温かさが途切れ、白い光も消えた。
暗闇に戻った石切り場で岩の崩れる音が続き、岩壁に開いた穴から熱風が吹きつけて外套をはためかせた。
「……誰も来るな。まだ崩れる」
言えたのはそれだけで、レオンはようやく動くようになった手を胸元へ戻した。
これだけの岩を吹き飛ばしたのに掌も袖も焦げておらず、レオンは息切れさえしていない自分の身体が恐ろしくなった。
粉塵が沈むにつれて石柱のあった場所から岩壁の奥へ続く巨大な窪みが現れ、その縁から剥がれた岩が闇の底へ落ちていった。
(あそこに門があったら。人がいたら……俺は、何を出したんだ)
城の塔ならどれほど残るだろうと考えかけ、自分でその想像を追い払った。
剣を曲げた力も恐ろしかったが、今の光は一度で大勢を殺せてしまう。
そう思ったときに関所で見た職人の手つきが浮かんだ。
足輪を外した職人は傷のすぐ脇で留め金だけを切り、血の滲む肌へ道具を触れさせなかった。
「陛下、お怪我は」
後方から届いた声にようやく振り返ると、岩陰から覗くリシェルの顔が灯りの中でも白く見えた。
レオンは手を上げて無事を示し、兵にも怪我がないと聞いてから息を吐いた。
リシェルは抉れた岩壁へ目を戻したまま小さく呟く。
「これほどの術を……詠唱さえなさらず」
(詠唱? いるのか。それを先に聞いておけば──いや、聞いていても俺に何が分かった)
「今の力を、人の近くで使うわけにはいかぬ」
「はい。ここへお連れになったのは、私どもにそのことを」
「まず、私が知る必要があった」
リシェルは深く頭を下げたが、何も知らずに試しただけだとはとうてい受け取っていないように見えた。
どう説明すれば信じてもらえるのか分からず、レオンは今のうちに確かめておかなければならないことを尋ねた。
「力を使う際のことを聞かせてくれ。何を確かめ、どう止めるのか。お前たちが普段していることからでよい」
「私どもの術でよろしければ、いくらでも」
リシェルの声にようやくいつもの落ち着きが戻り、レオンも後方に控える兵を呼んで崩れた場所へ誰も入らぬよう頼んだ。
レオンが振り返ると石柱は跡形もなく、その先の岩壁には光が削り取った大きな窪みが残っていた。
人を閉じ込める門も兵の立つ壁も、今の力なら押し潰せるのだろう。
けれどエドの描いた細い道の先で待つ者たちを迎えに行くには、壊す力を抑えなければならない。
助けたい相手を傷つけないために何から覚えればよいのかと、レオンはもう一度自分の掌を見つめた。
2026/10/25: 魔法の制限描写を一部修正