朝の光が窓辺へ差しても、レオンの目には昨夜の白い奔流が焼きついたままだった。
指を曲げればただ掌に影が落ちるだけなのに、匙を持つときまで何かを放ってしまいそうで、粥の表面に薄い膜が張るのを眺めている。
「お口に合いませぬか」
「いや。冷ましていただけだ」
(もう冷たいよ。さっさと食べろ、俺)
オルドへ答えてようやく一口を飲み込むと、向かいのメルハが眼鏡を押し上げて二枚の紙を並べた。
一方はエドから預かった書付の写し、もう一方は鉱山へ麦を納めた商人が今朝持参した荷の控えで、元の書付は折り目を傷めぬよう布の上に広げられている。
「こちらが食事代として差し引かれた額、こちらは運び賃を含めた麦の代金でございます」
メルハが細い棒で欄をたどるのを追ううち、見慣れなかった数字の並びに意味が通り始めた。
昨日リシェルに教わった読み方も、紙のどこに記されていたかまで妙にはっきり思い出せる。
「同じ麦を使ったかも、何日分の食事かも分からぬ。これだけで差し引きが正しいとは決められないな」
「はい。まず売った日と量を確かめ、鉱山側の記録を求める際の手掛かりにいたします」
(頭には入る。入るけど、それで答えまで出るわけじゃないんだな)
卓の端では呼ばれた商人が帽子を胸に抱え、鉱山の中のことまでは知らないと繰り返していた。
責めるために呼んだのではないと伝えると商人の指が緩み、受取人に言われたことと荷運びから聞いた話を分けて答え始める。
リシェルの筆がその違いを拾うのを見ながら、レオンは残りの粥を口へ運んだ。
ひと息に済ませられる話ではなくとも、聞くべき相手まで怯えさせては何も進まない。
商人が帰ったあとにオルドが差し出したのは、宿舎から届いたエドの伝言だった。
「昨夜から順に思い返しておりましたところ、寝床を移されたのは書付を受け取ったあとだったと。昨日の話を直したいそうでございます」
リシェルが昨日の記録を取り出すより早く、レオンの頭にはエドが指していた小屋の場所が浮かんだ。
荷車の道から枝分かれした細い線と、書付を握る手の黒い爪まで一緒に蘇る。
「では、この紙の食事代を奥の小屋の分と考えてよいかも、まだ分からぬのだな」
「そのとおりです。本人にもう一度確かめ、清書を直します」
「待て。直す前のものも残せ。何を変えたかと、その理由もだ」
リシェルが筆を止めたのでレオンも一瞬詰まったが、仕事で記録を直したあとの困りごとを思い出して続ける。
昨日まで何を根拠に話していたのか、それが消えてしまえば後で確かめようがない。
「誰がいつ聞いたのかも、辿れるようにしておけ」
「本人の申し出と訂正の経緯が残れば、こちらが都合よく証言を変えたという非難にも答えられます。王国への訴えまで見据えておいでなのですね」
(王国? いや、俺はあとで読み返して困るのが嫌なだけなんだが)
メルハの言葉にリシェルまで頷くのを見て、レオンは咳払いに逃げそうになるのをこらえた。
「訂正があったことは隠すな。だが、それだけで嘘をついたと決めるな。話を直しても食事や寝床は変わらぬと、本人にも伝えてやれ」
「承知いたしました。私めが参ります」
紙を受け取ったオルドが戸口へ向かうと、朝の膳を下げる者と入れ替わりに毛布の数を知らせる使いが入ってきた。
卓へ積まれた書類の向こうから布を積む車の音まで聞こえ、レオンはようやく窓の外へ目をやる。
ここで鉱山の不正をすべて証明し終えるまで、向こうの人々が待っていられるわけではない。
「残った者の話を、こちらでも直接聞けるようにしたい。帰りたい者が帰れるかを確かめる」
「侯爵へ立ち入りと聞き取りを求め、雇い入れの取り決めと支払いの記録も示すよう伝えます」
リシェルが整えた文を読むと、レオンが短く口にした願いは侯爵へ送る正式な要求として記されていた。
文を整えるのはリシェルに頼れても、何を要求し約束するかはレオン自身で決めなければならない。
(読める。意味も分かる。だったら、分かったところには自分で責任を持て)
「ここへ逃れた者は引き渡さぬ。それは変えない」
その一文を確かめてから名を記すと、リシェルは乾いた文字を見届けて書状を封じた。
侯爵のもとへ向かう使者が受け取って退出し、残された写しは鉱山側へ面会を求めるために別の筒へ収められる。
城へ返事が届くのはまだ先だが、関所まで救護の車を進めておけば、面会の交渉と並べて受け入れを準備できる。
鉱山へ通れると決まったわけではないと確かめてから、レオンは自分も同行すると告げた。
リシェルの視線が一度だけレオンの掌へ落ちた。
昨夜の光を思い出したのだろうと察した途端、レオンは袖の中で指を丸めかけてやめる。
(俺が行くって言うと、あれを撃ちに行く話に聞こえるのか)
「門を壊すために行くのではない。話を聞き、出てきた者を連れて帰る。その支度を頼む」
「はい。関所でヴァルガスと合流します。先に交代の守備を送り、残っている怪我人の保護を引き継がせます」
メルハが城の帳簿を閉じる前に、レオンは書かれた荷の名を指で追った。
毛布や水を積み込む際に荷台へどれだけ空きを残すかも記されており、荷を積みすぎれば帰りに人を乗せられなくなる。
歴史の本で兵站という言葉を見かけたときには、紙の端に付いた注釈ほどにしか気を留めなかった。
今は車を何台出してどれだけ荷を積むかが、傷のある足で歩かずに済む人の数を決める。
「この車は空きを残すのだな」
「ええ。食料は必要な分を分け、途中で下ろす荷と混ぜぬようにいたします。ただ、農作業の車まで全て集めるわけにはまいりません」
「分かった。暮らしに支障が出るものは、出す前に知らせよ」
(何でも出せなんて言ったら、本当に出してくれそうなんだよな……)
メルハが頷くのを見てから席を立つと、窓の外では書状を持った使者の馬が門を抜けていった。
書状を持つ使者を見送る間にも救護の車へ荷が積まれ、メルハは城へ残す品を確かめるために帳簿をめくっていた。
中庭では護衛の兵が革紐を締め直し、互いの背へ回って留め具を確かめていた。
運び出された盾の縁には細かな傷が重なっていて、レオンは昨夜岩壁を大きく抉った光を思い出し、足を止める。
「身を守る魔法を使えば、どこまで耐えられる」
隣のリシェルが兵の方を見てから答えた。
「使い手と術によります。力を増す術も身を護る術もございますが、段階の高いものほど費やす魔力が増えます。強い攻撃を防ぎ続ければ、それだけ消耗もいたします」
「守りが破られれば、下にあるのは普通の身体か」
「はい。鎧に隙間があるように、術だけを頼みとしては命を落とします。陛下のお身体とは異なりますので」
レオンは刃を受けた腕を袖越しにさすり、指に触れる新しい布の滑らかさを確かめた。
前の世界では自分も刃物で傷つく普通の人間だったのに、今は使い方を誤れば兵たちまで巻き込む力を持っている。
(俺が無事だから大丈夫、じゃないんだ。あの光の前に立たせたら、この人たちは死ぬ)
「私が力を使うときは、前に人を置くな。昨日の場所より狭いところなら、なおさらだ」
「承知しております。周囲の確認と退避を先にいたします」
迷いのない返事を聞いても胸の重さは消えず、レオンはなぜ腕一本を上げるだけであれほどのものが出たのか尋ねたくなった。
けれどリシェルも初めて見た力だと思い直し、まずは分かることから教わろうと口を開く。
「普段の術では、力の加減や止め方をどう定めている」
「簡単な術を除いては詠唱を用います。何に作用させるか、届く範囲と注ぐ力、終わらせ方を言葉で整えるのです。ただ、昨夜の御力が同じ手順に従うものかは、私にもまだ……」
「使う前に、止めるところまで決めるのか」
リシェルの頷きを見ながら昨夜の感触と結びつけようとしたが、掌へ押し出したものを少しだけにするやり方は浮かばない。
(手順があるのは分かった。俺のあれにも、加減する方法はあるんだよな)
「術を使い続けて魔力が乏しくなった者は、どうなる」
「集中が乱れ、立っていられなくなる者もおります。そうなる前に下がらせなければなりません」
昨夜の自分にはその兆しすらなかった。
疲れないから使ってよいわけではなく、加減できぬまま放てば自分が倒れる前に周りの兵を死なせてしまう。
それが分かっただけでも、知らぬまま兵を連れて出るよりはよいはずだった。
「疲れた者は申し出やすいようにしておけ。私の前だからと耐えるな」
「陛下がお気に留めておいでだと、皆にも伝えます」
(倒れるまで働かせるのは駄目だって話なんだけどな)
リシェルが護衛へ言葉を伝えに離れると、レオンは車へ続く道の端に立ち、荷を運ぶ者が通り過ぎるのを待った。
肩へ毛布を担いだ兵が頭を下げ、荷を持たない兵は車の横へ回って積み込みを手伝った。
昨日はその流れへ入り込んで邪魔になったが、何をしているのかを見ていれば少しずつ立つ場所も分かってくる。
最後の車が動き出すころ、戻ってきたオルドがエドからの伝言を口にした。
道の分かれ目には石が重ねられているが雨で崩れることもあるから、目印だけを当てにしないでほしいという。
「本人も来たいと言ったのか」
「はい。今は足を休めるよう申し伝えております」
「それでよい。教わったことは持っていく」
リシェルが略図を収めた筒へ手を添えたのを見てから車へ乗り、レオンは宿舎のある町へ向けて目をやった。
帰りにはあの荷台へ一人でも多くの人を乗せて戻りたかった。
城の影を離れた列が町を抜けると、轍の両側に畑が広がり、やがて道へ張り出した木の枝が車の幌をこするようになった。
シオンからの続報はまだ届かず、関所で受け取れるよう手配したとリシェルが伝えてくる。
昨日のうちに頼んだのだからもう分かっているだろうと思いかけ、自分の乗る車の進み方を見てレオンは口をつぐんだ。
人が山へ行って見て戻るには、それだけの時間がかかる。
前の車が止まったのは林の切れ目に差しかかったときだった。
御者の低い声に続いて馬が鼻を鳴らし、護衛が盾を前へ寄せるのを見たレオンは、幌の下から身を乗り出した。
土手を崩して下りた大きな猪が道を塞ぎ、その奥の茂みでも小さな背が二つ動いている。
「子連れです。距離を取ります」
先頭の護衛兵が後続へ合図し、御者も手綱を引いて車を止めたが、猪は頭を低くしたまま蹄で土を掻いた。
荷車が連なる細い道では大きく退くこともできず、猪が飛びかかれば先頭の兵の膝へ牙が届きそうだった。
(来るな。こっちには来るなよ)
昨夜の光を出すわけにはいかないと掌を引き、ただ相手を見据えた瞬間、胸の奥から何かが押し広がった。
胸に広がる感覚とともに林まで静まり返ったように感じられ、踏み出しかけた猪が前脚を折り畳んだ。
大きな腹が土へつき、牙の覗く鼻先まで地面へ伏せられた。
逃げるのではなかった。
子を背にした獣は小さく身じろぎしながらも頭を上げず、盾を構えた兵もその場で動きを止めている。
(え。倒れた? 俺、今何かしたか)
馬が耳を伏せて足踏みしたのでレオンは慌てて視線を外し、握りかけた指を開いた。
胸の奥の張りが緩むと、手綱を押さえていた御者が馬の首を撫でて低く声をかける。
それでも猪は伏せたままで、レオンがもう一度見ても牙をこちらへ向けようとはしなかった。
「陛下の御気配に……」
リシェルの声を聞いてもどう返せばよいか分からず、レオンは獣と盾の間に空いた地面を見比べる。
何かを命じた覚えはないし、言葉が通じるとも思えない。
ただ、こちらから近づけばまた怯えさせることだけは分かった。
「追うな。通れるだけ道を空けて待て」
護衛兵が盾を下げずに横へ退き、御者が車を寄せて獣の通り道を空けた。
しばらくして猪は鼻先を上げ、レオンを見ると再び頭を低くしてから子を連れ、茂みの奥へゆっくり消えていった。
「獣にまで無用の争いをお許しにならないのですね」
(そんな大層なことじゃない。突っ込まれたくなかっただけだ。というか、今のはどうやったんだ)
リシェルの言葉に頷くにはあまりに分からないことが多く、レオンは去った茂みへ目を向けたまま「進もう」とだけ答えた。
動き出した車の揺れに身を預けても、掌から光が出たときとは違う感触が胸に残る。
ひと晩眠って、少し仕組みを教われば自分の身体が分かるつもりでいたのかもしれない。
道の先にはまだ木々が重なり、鉱山の門も待つ者の顔も見えなかった。
レオンは膝の上で掌を返し、隣に置かれた略図の筒へそっと手を添えた。
この手なら門を壊せると知った今も、帰りの車に人を乗せられるかどうかは、そこへ辿り着いてから一つずつ確かめるほかなかった。