木々の間から関所の屋根が見え始めたころ、道の脇に待っていた兵が荷車へ駆け寄った。
交代の守備はすでに着いており、ヴァルガスが引継ぎを終えるところだという。
門をくぐって荷車を降りると昨日と同じ壁の下に寝床が並んでいたが、入口を塞いでいた荷は片づけられ、毛布の間を人が通れるだけの幅が空いていた。
「こちらに残る者の名と傷の状態です。熱が上がった者は、まだ動かしません」
治療係が板に挟んだ紙を示すと、交代の兵が寝床と見比べながら名を繰り返した。
その横でヴァルガスは交代の兵へ門の守備と夜の見回りを引き継ぎ、最後に井戸へ通じる道まで指し示してからレオンの前へ戻ってくる。
「お待たせいたしました。ここは任せられます」
「頼む。戻る荷車も、ここを通すことになる」
「荷を下ろす場所は空けております。先に運べる者から出し、こちらの怪我人も治療係がよいと言えば町へ移しましょう」
(言う前に準備してくれてる。俺は、邪魔をしないところからだな)
寝床の一つで男が身を起こそうとし、治療係に肩を押さえられていた。
鉱山へ行くなら連れていってくれと頼む声にレオンが近づくと、毛布の下から出た足にはまだ血の滲む布が巻かれている。
「置いていかれる心配なら要らぬ。ここを守る者も残る」
「そうじゃありません。向こうへ戻ったら、兄貴を探して……大きい方の小屋にいるはずなんです」
大きい方と言われても略図だけでは分からず、リシェルが男の前へ膝をついて兄の名と最後に会った場所を尋ねた。
兄の居場所を知るはずもないのに、助けを求めて見上げられるとすぐに頷いて安心させたくなった。
レオンにできるのは聞いた名を覚え、見つかると決まっていない者を連れ戻すと軽く約束しないことだけだった。
「聞いたことは向こうで確かめる。お前は手当てを受けて待っていろ」
頷いた男の顔を見てから離れ、レオンは教わった名前を声に出さず繰り返した。
鉱山へ向かう荷車に水の桶が積み直されるのを見ていると、門外から黒い外套をまとったシオンが歩いてきた。
シオンは頭巾を下ろして一礼し、袖についた枯葉を払うより先に懐から小さな紙を取り出す。
「お申しつけどおり中へは入らず、外の道と荷の出入りを確かめました。門までは御案内できます」
リシェルがエドの略図を広げると、シオンは紙を隣へ並べて分かれ道に指を置いた。
目印の積み石は崩れていたが、轍を辿れば鉱石を運び出す門へ着くという。
「そこまでは私が見ました。洗い場の小屋に病人がいるというのは、昨夕に油を届けた商人の話です。窓越しに咳を聞いたそうですが、何人いるかは分かりません」
「小屋の場所は」
「荷の門を入って右です。ただし、上へ続く道は木に隠れます。奥の坑道まで見えたわけではございません」
見えなかったところでシオンは指を止めた。
昨夜の命令を守って戻ったのだと分かり、レオンは顔を上げる。
「よく戻った。休まずに案内できるか」
「道を歩く分には。中を調べる者とは交代いたします」
「ならば頼む。疲れたら言え」
シオンが頭を下げる脇で、リシェルは書状の写しを筒へ戻した。
侯爵からの返答はない。
鉱山に残った者と話すには、まず警備の兵に書状の写しを受け取らせなければならない。
関所を出て荷車道へ折れると空気に細かな砂が混じり、車輪の沈む泥にも赤茶けた粉が浮いていた。
林を抜けた先では山の斜面が階段のように削られ、低い方の平地を柵と木の門が囲んでいる。
門の片側は荷車一台が通れるほど開いており、その手前で痩せた男たちが袋を積み替えていた。
ヴァルガスは救護の荷車を道の曲がり角に留めて護衛を残し、盾を持つ兵だけを連れて先へ進んだ。
レオンも荷車を降りてその後に続くと、門番が荷を積む者を追い立てながら槍を横に構えて道を塞いだ。
「止まれ。何用だ」
「こちらを治める者へ面会を求めます。侯爵閣下へお送りした書状の写しです」
リシェルが名乗って筒を差し出しても門番はすぐには取らず、リシェルの肩越しにレオンの顔を見た。
紫がかった肌から銀白の髭へ視線が動き、槍を握る指に力がこもる。
奥へ走った別の兵を待つ間、石を降ろす音だけが途切れずに続いていた。
(本人が来るとは思ってなかった、ってことか。俺だって昨日までは来るつもりもなかったよ)
門の奥でも兵が剣の柄へ手を置くのを見て、レオンは傍らの護衛が腰に下げた予備の剣を示した。
「その剣を借りるぞ」
護衛は一瞬目を見開いたものの、すぐに鞘ごと外して差し出した。
飾り気のない柄は思いのほか手に馴染んだが、刃を人へ向けるところまでは考えられず、レオンは受け取った剣を鞘に収めたまま握っていた。
やがて門の内側から革の前掛けをつけた男が現れ、筒を受け取って封を確かめた。
監督の仕事を預かる者だと名乗った男は写しへ目を走らせ、顔を上げると口元だけを歪める。
「ここの者は契約して働いております。そちらへ逃げた連中が何を言ったか知りませんが、勝手に連れ出されては困る」
「ならば本人に尋ねたい。帰りたい者が帰れるのか、怪我をした者が手当てを受けているのかを」
「仕事を放り出して帰りたいなどと、言わせるわけにはまいりません」
契約書を求めるべきか、怪我人だけでも会わせろと言うべきかとレオンが迷う横で、袋が地面へ落ちた。
「水を……」
荷車から降りた荷運びの男が地面へ膝をつき、落とした袋からこぼれた石を両手でかき集めている。
荷運びの男は叱られると思ったのか門番の顔を見上げたが、その先にリシェルと盾の列を見つけると口を開けたまま動きを止めた。
「城の人か。逃げた奴らは、そっちに」
「生きている。手当てを受けている」
レオンが答えると荷運びの男の顔がくしゃりと崩れた。
荷運びの男が膝を引きずってレオンへ近づき、助けてくれと声を上げた途端に背後の兵が襟を掴んで引き戻した。
「黙れ。持ち場へ戻れと言っただろう」
「小屋にまだいるんだ。あいつらを出してくれ、俺は戻るから」
背後の兵が短い剣を抜き、荷運びの男の襟を掴んだまま刃を振り上げた。
レオンには振り下ろす理由が理解できず、止めろと言い終えるより先に足が出ていた。
借りた剣がいつ鞘を離れたのかさえ分からないまま空の鞘を落として敵の腕の外へ踏み込み、振り下ろされる刃へ下から剣を合わせる。
握った柄から刃の先へ煙に似た黒い揺らぎが走り、触れ合った短剣が半ばから断ち切れた。
短剣の兵の腕が跳ね上がるとレオンの足はさらに一歩進み、返した剣先が鎧の胸へ吸い込まれる。
押し返すつもりで動いた腕を止める間もなく、短剣の兵は剣から滑り落ちるように膝をついた。
(何だ、今の。俺は、剣を止めようと)
刃が抜けた胸の裂け目から血が溢れ、短剣の兵は赤い泡を唇に浮かべて倒れた。
荷運びの男を掴んでいた手が土を掻き、やがて指まで伸びきった。
レオンが剣を握ったまま見下ろしている間にヴァルガスは荷運びの男を盾の陰へ引き入れ、倒れた兵の首へ二本の指を当てる。
「助かるか」
自分の声が低く落ち着いていることに気づいても、今はそれを不思議に思う余裕がなかった。
「すでに、息はございません」
さっきまで剣を振り上げていた腕は少しも動かず、切られた短剣だけが指の先に転がっていた。
レオンは剣先を下げて自分の手元へ目を移した。
借りたときには傷の多い鉄の刃だったはずなのに、今は黒い揺らぎが血のついた刀身へ絡みついている。
(死んだ。俺が殺したんだ。どうすればいい。何を言えばいいんだ)
殴り合いさえ知らない自分が人を斬ったという事実より先に、踏み込んだ足も剣を返した腕も迷わなかったことが恐ろしかった。
鞘から抜く練習すらしたことがないのに、身体は次の相手へ剣先を向けている。
「人殺しだ! 侯爵様の兵を殺したぞ!」
監督役の叫びで門の奥に槍が並び、柵沿いの兵が弩を構えた。
ヴァルガスの号令で盾が持ち上がると一本目の矢が鋼を叩き、リシェルは荷運びの男の腕を取って道の曲がり角へ下がらせる。
「そいつを逃がすな。証人がいれば面倒だ」
槍を持つ兵が袋を踏み越え、足のもつれる荷運びの男へ穂先を向けた。
レオンが間へ入ると槍は上腕に当たって袖を裂いたが、肌に傷はなく、背後から荷運びの男の息を呑む音だけが聞こえた。
(俺が止まったら、この人が殺される。止めるために殺すしかないなら──俺がやる)
「私の後ろへ下がれ。」
荷運びの男がリシェルに支えられて離れると、レオンは腕に当たった槍を剣で払い落とした。
穂先だけが地面へ落ち、切り詰められた柄を握る兵が後ずさったところへ赤毛の剣士が割って入る。
肩当てに幾つもの刃傷が残る剣士は兵を片腕で押し退け、背負っていた大剣を抜いてレオンの黒い刃を見た。
「鉱山の番で終わるかと思ってたが、ついてるぜ。魔王をやれば俺が最強だ」
「陛下! 腕を──よくも、陛下に刃を!」
リシェルは裂けた袖を見て息を呑み、荷運びの男を護衛へ託すなりレオンの腕へ手を伸ばして駆け寄ろうとした。
剣を振るう間合いへ入る寸前にレオンは空いた手で制する。
「傷はない。来るな、人々を下がらせろ」
(こっちまで来ないでくれ。俺だって、この剣がどうなったのか分からない)
リシェルは唇を噛んで立ち止まり、赤毛の剣士を睨んでから荷車の方へ向き直った。
「風よ、我が身を運べ。炎よ、刃に宿れ」
赤毛の剣士の胴を風が包み、大剣に炎が走った。
足元の砂が爆ぜ、数歩の間合いが一息に消える。
割って入ったヴァルガスが剣を突き出すと、剣士は背を反らして刃を躱した。
そのままなら仰向けに倒れる姿勢で、背中の下の風が土を抉った。
両足が宙に浮いたまま身体が横へ跳ね、別の風に押されてレオンの脇へ飛び込んでくる。
(今、何を蹴った?)
炎の大剣が首へ迫る。
受ければ借りた剣が折れると思った瞬間、刃も流れる赤毛も砂も不意に遅く見えた。
レオンが引いた足だけは、思ったとおりの速さで地面を離れる。
(遅い……いや、俺が速いのか?)
大剣が胸の前を通り、熱風が頬へ届くころにはレオンの踵は次の足場を踏んでいた。
剣士は着地する前に腹の前で風を弾けさせ、横へ飛ぶ勢いを止めて突きへ移る。
足を踏ん張ってもいないのに刃が跳ね上がったが、レオンはその下をくぐって盾の列から離れた。
身体が迷わず動く間も、人々を逃がす場所だけは確かめずにいられなかった。
「ヴァルガス、台の下の者を出せ」
「右へ回れ! 盾を離すな!」
味方が石を選り分ける台の陰へ回り込む間に、剣士はようやく地面を踏んだ。
「焼き斬れ!」
刃の炎が膨れ、斬り上げた跡の地面が黒く焦げた。
レオンが半歩ずれるだけで炎も空を裂き、剣士の息ばかりが荒くなる。
避け続けられるからといって、その後ろから狙う矢まで止められるわけではなかった。
台の脇で味方の兵が肩を押さえて膝をつき、隣の兵が盾をかざして負傷者と労働者を門へ下がらせる。
「逃げてばかりいるんじゃねえ! それでも魔王か!」
赤毛の剣士が大剣を頭上へ振りかぶったとき、レオンは剣士の後ろに人がいないことを確かめて足を止めた。
握り直した柄が掌へ収まり、黒い揺らぎが刀身の外へ長く尾を引く。
(こいつを抜けさせたら、後ろの人たちが)
振り下ろされる大剣へ正面から踏み込み、レオンは借りた剣を斜めに振り抜いた。
炎を纏った大剣が折れる音も鎧の潰れる感触もほとんどなく、赤毛の剣士の上体が腰から滑り落ちた。
遅れて脚が崩れ、断たれた腹から血と臓腑が土へこぼれると、その背後で太い門柱がずれた。
離れた門柱の切り口は剣が通った角度のまま傾き、支えを失った門扉が地面へ落ちて砂を巻き上げる。
喉へせり上がる酸っぱさを呑み込み、レオンは切っ先を人のいない側へ向けたまま、自分の剣と倒れた門柱を見比べた。
刃は門柱へ届いていなかった。
それなのに、人の胴より太い木材まで一緒に斬れている。
「俺の剣が……」
剣を貸した護衛の掠れた声が聞こえたころには砂の落ち方も見慣れた速さに戻り、もう一度遅く見ようとしても何も変わらなかった。
黒い揺らぎは刃へ戻るように細くなったが、消えてはいない。
(こんなものを、人の近くで振るうのか)
柵の兵が再び弩を引き上げたため、レオンは剣を外へ向けたまま左手で落ちた門扉を掴んだ。
門扉を身体の前へ立てると続けざまに矢が突き立ち、レオンはそのまま射手へ歩き出す。
正面から剣を抜いて踏み込んできた兵には短く刃を返し、逃げ出した者へは向けず、門扉の陰を進む味方の歩調に合わせた。
人を斬る力には困らなくても、助ける人へその力を届かせないためにはヴァルガスたちの盾が必要だった。
「もうよい、捨てろ!」
兵の一人が弩を放り出して両手を上げた。
隣の者も槍を地面へ置き、門扉を運んでくるレオンから顔を背けて膝をつく。
「武器から離れろ。そのまま動くな」
レオンが立ち止まるとヴァルガスは部下を差し向けて投降した二人を伏せさせ、残る護衛を救い出した者の周囲へ回した。
監督役は姿を消しており、柵の上方に見える坂では槍を持つ数人が木々の奥へ駆けていく。
追うべきかと目を向けたところで門内から咳が聞こえ、レオンは手にした扉を人のいない地面へ横たえた。
剣を貸した護衛が落ちた鞘を拾って近づくと、レオンは刃を下へ向けて柄を差し出した。
「助かった。預かっていてくれ」
護衛が柄を握り、レオンが指を離した途端に黒い揺らぎは途切れた。
血のついた刃には借りたときと同じ細かな傷が残っており、護衛は剣と斬られた門柱を何度も見比べている。
(元の剣に戻った。じゃあ、さっきのは俺のせいなのか)
答えを出せる者を探したくても、今は小屋から咳が聞こえていた。
レオンは両手が空いたことを確かめ、治療係の方へ顔を向けた。
「先に人を出す。救護の荷車を呼べ。」
声を張ったつもりはなくても辺りへ響き、道の曲がり角から待っていた車輪の音が近づいてきた。
シオンは逃げた兵の方角を見届けてから門を抜け、リシェルに短く告げて右手の小屋へ向かう。
板戸の隙間から呼びかけるシオンに返事があり、その細い声を聞いて治療係が担架を降ろした。
レオンの足元には落とされた剣と袋からこぼれた石が散らばり、その間に最初に殺した兵の手が見えていた。
レオンは剣を返した手を下ろし、助けを求める声へ顔を向けた。
人を殺した恐ろしさは腹の底から消えず、今になって逃げ出したいという思いが胸をせり上がってくる。
それでも足は止めなかった。
「陛下、こちらに生きている方が」
リシェルの呼ぶ方へ顔を上げると、小屋の暗がりから伸びた腕が戸口を探っていた。
レオンは倒れた木材を跨ぎ、その腕へ届くところまで歩いていった。