Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
第一話 坂の上
坂の上に小さな人影があった。街灯の光が届かず、立ち止まっているのか、こちらへ歩いているのかもよく分からない。家の塀よりずっと背が低く、頭のあたりだけが薄く光って見えた。
もう夕食の時刻を過ぎている。こんなところに子どもが一人でいるなら、道にでも迷ったのかもしれない。
少し足を速めると、向こうもこちらへ歩いてきた。街灯の下に出た銀色の髪の少女は俺の顔を見るなり、親しげに笑いかけてきた。知り合いではないはずだ。これだけ目立つ子なら一度会えば忘れないだろう。
「あの――」
声をかけようとした俺の横を少女はそのまま通り過ぎた。
「早く呼び出さないと死んじゃうよ、お兄ちゃん」
振り向いたときには、少女はもう二、三歩先にいた。俺の返事を待つ様子もなく坂を下っていく。
「……呼び出す?」
誰を呼べというのか。それ以前に、死ぬとはどういう意味だ。
聞き返そうにも言葉がまとまらず、遠ざかる背中を見送ってしまった。聞き間違いか、それとも誰かと勘違いされたのか。しばらく考えてから家へ向かい直したが、あの笑顔を思い出すとどうもそれだけでは片付けられない。
少女はちゃんと俺を見ていた。こっちが何も知らないことまで分かっているような顔で。
玄関を開けると、奥から藤ねえの声が飛んできた。
「士郎ー、遅いじゃない。何かあったの?」
「いや、なんでもない。いま帰った」
「それなら早くいらっしゃい。ご飯、冷めちゃうわよー」
靴を脱いでいると桜が顔を出した。
「お帰りなさい、先輩」
いつもと変わらない声を聞いて、ようやく肩の力が抜けた。思っていたより緊張していたらしい。
「ただいま。遅くなって悪かったな。あとは俺がやるから、桜は座っててくれ」
「もう温めるだけですから。先輩は着替えてきてください」
台所を覗くと、俺の茶碗まで用意されていた。ここで手を出しても、かえって邪魔になりそうだ。
「……分かった。じゃあ、洗い物は残しておいてくれよ」
「はい。お願いします」
桜は笑って頷くと、鍋の方へ戻っていった。今日は家まで送っていこう。近ごろは物騒な事件も多い。さっきの少女のこともあって、桜を一人で夜道に帰すのは気がかりだった。
もっとも、食卓に着く頃には少女の言葉を考える余裕もなくなっていた。藤ねえは桜のおかずを狙い、桜は自分の皿を差し出そうとしている。
「こら。桜の分まで食うな。自分のはどうした」
「おいしくいただきました」
「そうか。だったら食事は終わりだな」
藤ねえが不服そうにこちらを向いた。視線が俺の顔から皿へ下がる。言わなければよかった、とは思わない。思わないが、先に食べておくべきだった。
*
二日後の夜、俺は遠坂凛に連れられて教会へ向かっていた。少し後ろには、セイバーと名乗った少女がついてきている。
半日ほど前までなら、遠坂と夜道を歩くというだけで落ち着かなかっただろう。学校では遠くから見かけるばかりの相手だ。こんなに近くにいれば、何を話せばいいかぐらいは気になる。
いや。気にするところが違う。今は、遠坂が魔術師だということの方がよほど大事だ。
服の下に傷はないのに、槍に貫かれた感触は残っている。学校で倒れたときは死んだと思った。どうして助かったのかも分からないまま家へ戻り、そこでまた同じ男に追い詰められたのだ。
最後に逃げ込んだのが土蔵だった。普段は物を直したり、ろくにできもしない魔術の鍛錬をしたりしている場所だ。あの槍を防ぐものなど見つかるはずもない。もう駄目だと思ったところで、背後に光が生まれた。
現れた少女は俺を襲う槍を弾き、目の前に立った。そして土蔵から退いた男を追って庭へ出ると、俺には目で追うことさえできなかった槍を剣で受け止めた。
それがセイバーだった。
彼女も無傷では済まなかった。槍で貫かれた胸の傷が塞がっていくのを見て驚いていると、俺に治療を求めてきた。そんな魔術は知らないと答えるしかなかったが、塞がったのは表面だけで体の中にはまだ傷が残っているという。
それで終わりではなかった。セイバーは塀の外にいた敵へ向かい、赤い外套の男を傷つけた。その男は遠坂のサーヴァントで、遠坂自身も魔術師だという。そこまで聞く頃には、何から尋ねればいいのかさえ分からなくなっていた。
マスターやサーヴァント、令呪については家でひと通りの説明を受けた。けれど、どうして聖杯戦争などという殺し合いをしなくてはならないのか。それだけは納得できなかった。
これから会うのは、その戦いを監督する人間だという。
*
橋を渡って新都の外れまで来ると、遠坂は俺たちを海の見える高台へ案内した。坂を上るにつれて家並みが途切れ、墓地の柵が続くようになる。上りきった先に広い敷地が開け、その奥に教会が建っていた。
「シロウ。私は外で待ちます」
セイバーが足を止めたので、俺も立ち止まった。
「一緒に入らないのか」
「私はシロウを守るために同行しました。話を聞くだけであれば、ここで待っています」
声は落ち着いていたが、教会へ入る気はないらしい。無理に誘う理由もなく、待たせて悪いと告げて遠坂を追った。
礼拝堂は無人に見えた。長椅子の間を歩く足音が奥まで響き、つられて声も小さくなる。
「遠坂。ここの神父とは知り合いなのか」
「後見人よ。魔術では兄弟子にあたるし、父さんが亡くなってからは少し教わってもいるわ」
「じゃあ、世話になってる人なんだな」
遠坂はなんとも言えない顔で振り向いた。
「本人の前で言わないでよ。面倒だから」
「聞こえているぞ、凛」
祭壇の方から声がした。黒い服を着た背の高い男が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。別に睨まれたわけでもないのに、その姿を見ただけで背筋が伸びた。
「随分と遅い訪問だな。その少年が理由か」
「セイバーのマスター。聖杯戦争の説明をしてあげて。魔術師ではあるけど、事情は何も知らないの。余計な話は要らないからね」
「ほう」
男の目が俺に向いた。落ち着かないのを見透かされるのも癪で、逃げずに見返す。
「私は言峰綺礼。この教会を預かっている。君の名は」
「衛宮士郎です」
「……衛宮士郎」
名前を繰り返した言峰の口元が少し動いた。笑ったのかと思ったが、すぐに表情は読めなくなった。
「では、君は知らずにサーヴァントを召喚したわけか」
「ああ。マスターになれって言われても、俺はそんなつもりじゃなかった」
「君のつもりにかかわらず、令呪は現れている。セイバーも君を主と認めたのだろう」
左手に目を落とすと、手の甲には妙な模様が刻まれていた。こすっても消えないことは、もう試して知っている。
「選ばれた以上、まずは自分の立場を知ることだ」
言峰は七人のマスターと七騎のサーヴァントについて話し始めた。それぞれが組になって争い、勝ち残った者はどんな願いも叶える聖杯を手にする。家で遠坂から聞いた話と繋がってきたが、分かるほどに気に入らなかった。
「願いを叶えるためなら、他の六人を殺してもいいっていうのか」
「ちょっと待って。誰がマスターを殺さなきゃいけないって言ったの」
口を挟んだ遠坂が言峰からこちらへ向き直った。
「相手のサーヴァントを倒せば、それでいいの。戦う手段を失ったマスターは脱落するんだから」
「もっとも、相手が同じ手段を選ぶとは限らん。セイバーと君では、どちらが倒しやすいと思う?」
答えるまでもなかった。槍を持った男に手も足も出なかった俺と、その槍を受け止めて戦ったセイバーとでは比べる方がおかしい。
「……だからマスターを狙うのか」
「サーヴァントを失った者にも再契約の機会は残る。敵を生かしておくことを嫌う者もいるだろう」
言峰は明日の天気でも話すように続けた。
「戦いを降りる道もある。令呪を使い切ってセイバーとの契約を断つのだ。その場合は監督役として私が君を保護する」
「俺だけ隠れてれば、それで済むって?」
「君が生き延びたいのなら、考慮すべき選択だ」
俺がここに隠れれば、少なくとも今夜みたいに追い回されずに済むらしい。
けれど、それでセイバーはどうなる。残った連中は殺し合いを続けるし、勝ち残るのがまともな奴だという保証もない。
「聖杯にはどんな願いでも叶えられるんだろ。人を殺して平気な奴が手に入れたら、どうするんだ」
「それが気に入らなければ、君が阻めばよい」
「簡単に言うな。俺は聖杯なんか欲しくない」
「では、聖杯を得た者が何をしようと君には関わりのないことか」
言い返そうとして口をつぐんだ。聖杯は欲しくない。けれど、だから放っておけと言われても頷けるはずがなかった。
「十年前の火災についても、同じように言えるかな」
「……なんで今、その話をする」
「前回の聖杯戦争が行われたのは十年前だ。あの火災は、その結末に起きた」
息が詰まった。目の前の祭壇と黒い服の神父に、焼け落ちた町の光景が重なる。道だと思っていた場所に人が倒れていた。手を伸ばされても立ち止まれず、先へ行けばまた別の人がいた。
「衛宮くん」
声にはっとすると、遠坂が顔を覗き込んでいた。
「少し座りなさい。立ったまま聞くこともないでしょ」
勧められた長椅子に目をやると、ようやく床を踏んでいる感覚が戻ってきた。
「……大丈夫だ。聞いてる」
「話が聞こえるかどうかを訊いてるんじゃないの」
「分かってる。立っていられるから、続き、聞かせてくれ」
遠坂は何か言いかけて口を閉じた。「無理なら言いなさいよ」と小さく付け加え、言峰を睨む。神父は俺を見たまま、続きを待っていた。
「今回も同じことが起こるのか」
「誰が聖杯を得るかも決まっていない。私に答えられると思うかね」
起きないとは言わなかった。
あのときの俺は何もできず、自分だけが歩き続けていた。最後にはそれもできなくなって倒れ、切嗣に見つけてもらった。あの人が来てくれなければ、俺もあそこから出られなかった。
今度は誰かが止めるだろうと思って帰れば、また同じことになるかもしれない。知っていながら背を向けて、それでも切嗣のようになりたいと言えるのか。
「俺も戦う」
遠坂がこちらを見た。俺は言峰から目を逸らさずに続けた。
「聖杯が欲しいわけじゃない。けど、あんな火事をもう一度起こすわけにはいかない」
「それを君の参加の意思と受け取ってよいのだな」
「ああ」
「承知した。監督役として、君をセイバーのマスターと認めよう」
声が礼拝堂に響いた。何かが変わったようには見えず、左手の模様もそのままだ。それでも自分で答えた以上、知らなかったことにはできない。
「話が済んだなら帰るわよ。セイバーも待ってる」
遠坂が踵を返した。俺も後を追いかけたが、扉へ着く前に言峰から呼び止められた。
「衛宮士郎」
振り向くと、言峰が祭壇を離れてこちらへ来るところだった。遠坂はすでに外へ出ており、礼拝堂には俺たちだけが残っていた。
「喜べ少年。君の願いは、ようやく叶う」
「……何の話だ。俺は願いを叶えるために戦うんじゃない」
「そうだったな。おまえは人を害する者を止めたい。そのために戦うと言った」
言峰は一歩近づいた。退くのも嫌で踏みとどまった俺を見下ろし、わずかに口元を緩める。
「倒すべき悪がいる。救いを待つ者がいる。正義の味方にとっては必要なものが揃うことになる」
「ふざけるな。俺はそんなこと望んでない」
「何を怒る。おまえが火災を望んだとは言っていないぞ」
それならなぜ、そんな言い方をするのか。俺が戦うと答えたのは、あんなことを繰り返させないためだ。言葉にされるたびに、それが違うものへ変えられていく気がした。
「俺は、誰もあんな目に遭わなければいいって――」
「ならば、その願いのために働くことだ。機会は与えられたのだから」
言い返す言葉が続かなかった。何も起きない方がいいに決まっている。誰も傷つかなければ、助ける必要だってない。
さっき、戦うと口にしたときには、立ち止まっているよりずっとましだと思えた。だからといって、誰かが傷つくことを望んだわけじゃない。
……何を弁解しているんだ、俺は。
この男に分かってもらわなくたっていい。俺は扉へ向き直った。
「……帰る」
「帰路には用心したまえ。君を狙う者に、決意を固めるまで待つ義務はない」
返事をせずに扉を押した。
*
外で待っていた二人の姿を見ると、ようやく息を吐けた。遠坂は俺の顔を見てから教会の扉へ目をやった。
「遅かったわね」
「少し呼び止められただけだ」
「……そう。あいつの長話なんて、付き合うだけ損よ。帰りましょ」
それ以上聞かれなかったことにほっとしながら、二人と坂を下りた。橋を渡って見慣れた町へ戻っても、言峰の声は頭から離れなかった。
あんなことはもう起こさせない。そのために戦うと決めたのだから、あの神父の言葉に付き合うことはない。そう思っても胸には嫌な感じが残っていた。
「シロウ、前を見てください。今、襲われたらどうするつもりです」
セイバーに声をかけられて顔を上げた。
「ああ、悪い。それよりセイバー、傷は痛まないか」
「歩く分には問題ありません。心配するのであれば、今は私の指示に従ってください」
「……分かった。気をつける」
心配していると言いながら、護衛の邪魔をしていたのでは話にならない。俺は道の先へ目を向けた。
それでも傷は気になる。歩調にも顔色にも変わったところはないが、もう治ったと決めつけるのは早い。帰ったら客間に布団を敷こう。治療の魔術は使えなくても、それぐらいはできる。
交差点まで来たところで遠坂が立ち止まった。俺の家へ続く坂とは別の道を指し、ここで別れると告げる。
「あとはセイバーに守ってもらいなさい。道は分かるでしょ」
「ああ。今日は助かった。俺一人じゃ、何も分からないままだった」
「お礼はいいけど、これで明日も味方だとは思わないでよ」
遠坂はまっすぐこちらを見ていた。
「貴方も参加すると決めたんだから、そこは分けて考えて。わたしだって勝つつもりでいるんだからね」
「……分かってる。けど、遠坂とは戦いたくない」
「そういうこと、敵に向かって言わないの」
遠坂は呆れたように眉を上げたが、すぐには背を向けなかった。教会まで連れていって、危なくなったときの対処も教えてくれた相手だ。今から敵だと思えと言われても困る。
いや、順番が逆か。俺が遠坂を敵にしたくないんだ。そう言い直してもまた怒られそうなので、黙っておいた。遠坂はため息をつき、俺からセイバーへ視線を移した。
「とにかく気をつけなさい。次に会ったとき、また何も知りませんじゃ済まないわよ」
そう言って歩き出しかけた遠坂がふいに足を止めた。ほとんど同時にセイバーの腕が俺の前へ伸び、行く手を遮った。
「動かないでください」
声が変わっていた。左手の甲に熱が走り、脈を打つように痛む。二人の視線を追って坂を見上げると、白い髪の少女が立っていた。
二日前にすれ違った子だ。同じようにこちらを見下ろしていたが、今度は一人ではなかった。
少女の背後にある大きな影を、初めは塀だと思った。そこだけ街灯の光が遮られている。その暗がりに肩と腕が見え、下ろした手には分厚い武器が握られていた。
あれを人間へ振り下ろしたらどうなるか。想像しかけて、体が動かなくなった。
「こんばんは、お兄ちゃん。ちゃんと呼べたんだね。今夜は逃がしてあげないよ?」
少女は小さく首を傾け、俺の返事を待つように笑った。何か言おうとしても声が出ない。セイバーが半歩前へ出ると、その姿へ目を移した。
早く呼び出せと言ったのは、このことだったのか。俺が意味も分からずに聞いていたとき、この子はすでにこういう世界にいた。
「バーサーカー……」
遠坂の呟きを聞きつけた少女が今度はそちらへ顔を向けた。
「あれ、リンのサーヴァントはいないの?」
「あなたに教える必要はないわ」
「なあんだ。セイバーとまとめて相手をしてあげようと思ったのに」
少女は不満そうに唇を尖らせた。遊び相手が来なかったのを惜しむような口ぶりだった。遠坂は答えずに片足を引き、セイバーも俺を背に庇ったまま動かない。
少女はスカートの裾をつまみ、軽く膝を折った。
「わたしはイリヤ。イリヤスフィール・フォン・アインツベルンよ。リンなら、知っているでしょう?」
「……アインツベルン」
遠坂が名前を繰り返すと、少女の笑みがいっそう深くなった。俺にも聞き覚えがある。慎二の爺さんが口にしていた名前だ。あのときは何の話か分からなかったし、目の前の少女と結びつけても事情は見えてこない。
「それじゃ、セイバーからね。殺して、バーサーカー」
名乗ったときと同じ、明るい声だった。
背後の巨人が動き、俺は身構えようとした。走ってくると思ったのに、その巨体は坂の上から一息に跳び、こちらへ落ちてきた。
セイバーが前へ飛び出した。上着が外れて鎧が露わになる。俺が呼び止めるより早く、耳を塞ぎたくなる音が響いた。
巨人の武器を受け止めた見えない剣から火花が散った。セイバーは両手で剣を支えていたが、足が路面を擦り、後ろへ押されていく。
「下がって!」
遠坂に肩を引かれた直後、二撃目が落ちた。セイバーは剣の角度を変えて相手の武器を流そうとしたが、それでも体ごと押し込まれる。あの槍の男と戦ったときとは音が違った。打ち合うたびに腹の中まで震え、足元の小石が跳ねる。
「セイバー!」
呼んでもセイバーに振り向く余裕はなかった。巨人が腕を横に振るうと、彼女は身を低くしてかわし、剣を返した。だが、踏み込む前に次の攻撃が来る。受け止めるたびに押し戻され、詰めかけた距離がまた開いてしまう。
俺の横で遠坂が腕を上げた。短い言葉とともに指先から何かが放たれ、巨人の肩や背中を続けて打つ。人間なら倒れているはずの衝撃を受けても、相手は振り返りもしなかった。
「効いてない……?」
遠坂の声に焦りが混じった。なおも魔術を撃ち続ける彼女の前で、巨人の武器がセイバーの剣を叩いた。
セイバーの体が宙に浮いた。
彼女は空中で姿勢を立て直し、どうにか足から着地した。だが、胸元の鎧の隙間に赤いものが滲んでいる。ランサーにつけられた傷だ。中までは治っていないと聞いていたのに、あの衝撃を受け続ける危うさを、俺は血を見るまで分かっていなかった。
「下がれ、セイバー!」
彼女は剣を構え直した。聞こえているはずなのに逃げようとせず、再び巨人の前へ立つ。遠坂の魔術が当たった隙に横へ回ろうとしても、大きな足が踏み込んできて道を塞いだ。
何か。投げつけられるものはないか。
足元に落ちているのは小石ばかりだった。せめて一度、こっちを向かせられれば。そう思って身を屈めかけ、遠坂の魔術が巨人の背を打つのを見た。
あれで振り返りもしないのに、こんな石で何ができる。
顔を上げると、セイバーはまだ攻撃を受け止め続けていた。助ける方法を考えている間にも、打ち合う音は途切れない。
「すごいでしょう。わたしのバーサーカーはヘラクレスなんだから」
イリヤは胸を張った。その名前なら俺でも知っている。物語の中でしか知らなかった英雄が、目の前でセイバーを殺そうとしていた。
「ねえ、まだ頑張るの? もう勝てないって分かったでしょう?」
セイバーは答えずに一撃を受け止めたが、続く攻撃で剣ごと体を払われた。今度は姿勢を戻せず、地面に叩きつけられる。
「っ……」
倒れた彼女が膝を立てる。剣を支えにしなくては起き上がれないのに、まだ俺と巨人の間へ戻ろうとしていた。
そこでようやく気づいた。下がれと叫んだ俺が、セイバーの後ろに残っている。彼女が逃げれば、あの武器は俺に届く。
イリヤが手を上げると、巨人は攻撃を止めた。急に静かになった道で、セイバーの苦しそうな呼吸が聞こえる。少女はセイバーを眺め、やがて小さく頷いた。
「うん、もうおしまい。とどめを刺して、バーサーカー」
巨人が歩み寄った。セイバーまではあと数歩しかない。彼女は剣を上げようとしたが、腕が震えて支えきれなかった。
間に合わない。
俺が向かっていっても勝てるはずがない。ぶつかれば殺される。それでもセイバーの体を押しのけることなら、まだできるかもしれない。
遠坂が何か叫んだときには、もう走り出していた。巨人ではなく、地面に伏せたセイバーへ向かって。
彼女が顔を上げ、なぜここにいるのかと問うように俺を見た。伸ばした手が袖に触れる。押しのけようと腕に力を込めたところで、大きな影が視界を塞いだ。腹にひどく強い衝撃が走る。
足が地面を離れたのか、膝から崩れたのかも分からない。次に見えたのは、すぐそばのアスファルトだった。
息を吸おうとした。
吸えない。
口の中に血の味が広がった。腕を動かすと腹の下に温かいものを感じたが、確かめかけてやめた。触ってはいけない気がした。
セイバーはどうなったのか。目だけを動かすと、すぐ近くに彼女の顔があった。何か言っているようだが聞き取れない。それでも生きていることだけは分かった。
よかった。生きている。
そこまで考えて、自分が倒れたままだということに気づいた。押しのけるつもりが、間に入って斬られてしまったらしい。
……何やってるんだ、俺。
助けに来た方まで倒れて、ここからどうやって彼女を逃がせばいい。
「……どうして?」
幼い声が聞こえた。坂の上でイリヤがこちらを見ている。
笑っていなかった。
イリヤの目が倒れた俺からセイバーへ動き、また俺に戻った。何か言いかけたように唇が動いたが、声は聞こえなかった。巨人も彼女の方を向き、次の命令を待っているらしかった。
今のうちにセイバーを逃がさなくては。腕を伸ばそうとしても指先が路面を擦るだけで、彼女には届かなかった。
「……つまんない。もう帰る。戻って、バーサーカー」
巨人が引いた。その足がセイバーから遠ざかっていくのを見て、動かそうとしていた手から力が抜けた。
イリヤは口を結んでこちらを見下ろしていた。近づいては来なかった。
「リン。次に会ったら殺すから」
さっきまでの弾むような調子はなかった。少女が背を向けると巨人も後に続き、二つの影が坂の上へ離れていく。
どうして帰るのか聞きたかった。俺を知っていたのか、最初の夜には何をしに来たのか。口を開いても声にならず、喉の奥に血が絡んだだけだった。
遠坂が隣に膝をつき、何か言いながら俺の肩に手を置いた。こんな顔をさせるつもりじゃなかった。勝手に飛び出したのは謝る。けど、見ているだけなんて無理だった。
返事をしようとしても、息が漏れるだけだった。もう一度だけ坂の上へ目を向ける。白い髪が街灯の光から外れようとしている。
今度は名前を知っていた。
イリヤ。
そう呼んで引き止めることもできないまま、俺は目を閉じた。