Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
今度は突き当たりを右へ曲がった。イリヤは何も言わなかった。ただ、つないだ手を少し持ち上げて、俺を見上げる。
「覚えたよ」
「そう。帰るときも間違えないでね」
「帰るときは反対だろ」
「そこでまた考えなくちゃいけないんでしょう?」
言い返す前に、本の部屋の扉が開いた。窓辺の机にさっきの本が置いてある。イリヤは俺の手を離し、本を取って、途中のページを開いた。
「ここからだったわね」
「鳥が何か言ってたところ」
「あの鳥、まだこれから何度も喋るのよ。それじゃ分からないわ」
それでも、指は一つの絵の上で止まった。森の道に立つ子供と枝から見下ろす鳥。イリヤはページの間に細い栞を挟んだ。俺には分からなくても、彼女はちゃんと覚えていたらしい。
「お茶を飲んだら、続きを――」
声が途切れた。顔を上げたイリヤは窓を見ていた。俺もそちらを見る。木々の上に、薄い雲がかかっている。枝が揺れていたが、さっき庭で見たのと変わらない。
「イリヤ?」
返事はなかった。本を閉じる音がした。
「……誰か、入ってきた」
扉のそばにいたセイバーが動いた。廊下へ出て、階段のある方を見る。
「シロウ。窓から離れてください」
イリヤは本を机へ戻した。表紙を押さえた指が、すぐには離れなかった。
「バーサーカー」
静かな声だった。扉の向こうにも、窓の外にも、呼ばれた相手の姿はない。それでもイリヤは返事を待たず、俺の手首をつかんだ。
「シロウ、こっち」
廊下へ出たところで、足の裏に震動が伝わった。遅れて、大きなものが割れる音がした。玄関の方だ。
セイバーが俺たちの前へ出る。その服を銀色の光が覆い、肩と胸に鎧が現れた。
「離れないで。私の後ろへ」
返事をし、イリヤを自分のそばへ寄せる。彼女は俺を見ていなかった。廊下の先へ向けた顔から、さっきまでの笑みが消えている。
*
階段に続く廊下から、広間の一部が見えた。開け放たれていたはずの大きな扉が、一枚、床に倒れている。木片が入口から奥まで散り、その上に二人の人影があった。
金色の髪の男。その後ろにいる、見慣れた顔。
「慎二……?」
声が出てしまった。下にいた慎二が顔を上げる。
「衛宮?」
向こうも俺がいるとは思っていなかったらしい。口を開けたまま、俺と隣のイリヤを見比べる。それから、あの嫌な笑い方をした。
「なんだよ。こんなところで何してるんだ、おまえ」
「それはこっちの台詞だ。おまえ、学校で――」
「その話はもう終わっただろ。見れば分かるじゃないか。僕は、まだ負けてないんだよ」
慎二が金髪の男を見る。男は慎二を見返さなかった。広間の奥、階段の下へ目を向けている。
そこに、巨人がいた。
出てくるところは見えなかった。大きな肩と、膝の下まで届きそうな腕。その手に握られた、分厚い武器。腹が縮んだ。俺を斬った相手だ。姿を見ただけで、あの夜、息ができなくなった感覚が戻ってきた。
バーサーカーは俺を見なかった。正面の男へ向かって、低く身を沈める。
「ようやく出てきたか。アインツベルンも、森の奥に置いておくには惜しいものを飼っている」
男の声はよく通った。砕けた扉を踏んでいるのに、近所へ立ち寄ったような口調だった。
「もっとも、我を迎えるには少々、礼儀が足りぬがな」
セイバーの足が止まった。剣を握っているはずの右手に力が入る。
「……アーチャー」
隣にいるイリヤが彼女を見た。俺も同じようにした。アーチャーなら知っている。遠坂のサーヴァントだ。だが、下にいるのは、あの赤い外套の男ではない。
「知ってるのか、セイバー」
「前の戦いで、会っています」
目を逸らさずに答えた。
「なぜ、あなたがここにいる」
男が初めて顔を上げた。セイバーを見ると、ゆっくりと口元を緩める。
「ほう。今日はよい日だな」
その目がセイバーの足元から顔までを眺めた。俺もイリヤも、慎二さえも、その間は視界に入っていないようだった。
「またその姿で我の前に立つとは。待たせた分は、楽しませてもらおうか、セイバー」
「質問に答えろ」
「そう急くな。順に相手をしてやる」
男が右手を上げた。背後の空間が揺れた。
最初に見えたのは、剣の切っ先だった。続いて槍。曲がった刃。幅の広い斧のようなもの。何もなかった場所から、武器が突き出している。人が握っているわけではない。それぞれが宙に浮き、こちらを向いていた。
細い剣の一本へ目が吸い寄せられた。こめかみが痛む。刃の内側に通った魔力の流れが、形と一緒に頭へ入ってきた。こいつは、斬るだけの剣じゃない。触れたものを凍らせる。刃から外へまで、冷気を広げるものだ。隣の剣にも目が動いた。だが、そちらを確かめる暇はなかった。
切っ先が動いた。分かっていたのに、足が出なかった。
「伏せて!」
セイバーの声で身を縮めた。耳元を風が抜ける。廊下の壁が肩のすぐ横で弾けた。
石の破片が首筋へ当たる。イリヤを抱き寄せ、頭を下げると、背後の壁に深々と剣が刺さっていた。
飛んでくるところは見えなかった。柄がまだ震えている。
「イリヤ、そいつから離れろ。周りまで凍るぞ!」
イリヤの肩を引き、壁から離れた。割れた石の縁に白い霜が広がっていく。
下で轟音がした。
バーサーカーが武器を振り、飛んできた何本もの刃をまとめて弾き飛ばしていた。一本が天井へ突き刺さり、別の一本が床を削って入口まで滑っていく。
「お嬢様!」
セラの声が階段の下から聞こえた。壁際の通路にリズもいる。二人とも、こちらへ上がってこようとしていた。
「止まりなさい、セラ。リズも、そこから出ないで」
「ですが、お嬢様――」
「奥の戸を開けておいて。わたしたちも下がるわ。リズ、セラをお願い」
リズが頷き、セラの腕を取った。
セラは一度こちらを見上げたが、すぐに身を翻した。二人が壁の向こうへ消える。
「シロウ。あの下の通路からお庭へ出られるわ」
イリヤが階段の右側を示した。
声はまだ、はっきりしていた。
「セイバー、少しだけ止めていて。バーサーカー、あの男を近づけないで」
「承知しました。シロウ、急いで」
セイバーが前へ出た。俺たちが階段の壁側へ走るのと、彼女が手すりを越えるのは、ほとんど同時だった。
*
着地したセイバーの剣が一筋の光を弾いた。
折れた武器が回転しながら飛んでいく。
彼女は足を止めず、そのまま男の左側へ回った。
バーサーカーが突っ込んだ。
広間の床を踏み砕くほどの勢いだった。それでも、巨体は真っ直ぐ走るだけではなかった。飛来する槍を首の動きだけで避け、斧剣を低く引き、床すれすれから振り上げる。
男の前に幅の広い剣が現れた。
それに斧剣がぶつかる。
空気が膨れ上がったような音がして、階段にいた俺まで足が止まりかけた。
セイバーがその横を抜けた。
男の肩へ見えない刃が迫る。
金髪が揺れた。
男は上体を引き、新しく手にした剣でセイバーの一撃を受けた。
初めて、男が足を動かした。
バーサーカーの武器が横から来る。
セイバーは先に身を沈め、その軌道の下へ潜っていた。男が後ろへ跳ぶ。斧剣は空を切り、入口脇の柱を削った。
「っ、危ないだろ!」
慎二が横へ逃げた。
男は笑っていた。
「よい。そうでなくては、ここまで来た甲斐がない」
その背後にまた刃が増えた。さっきまでのものとは長さも形も違う。
セイバーが踏み込もうとして、急に足を引いた。
目の前の床へ槍が刺さる。続く剣を払ったところへ、さらにもう一本。
横へ動くと、その先にも切っ先が向いていた。
バーサーカーが腕を振った。
飛んでくる武器を叩き落とし、その向こうへ踏み出す。
肩に一本、刃が刺さった。
巨人は止まらない。
さらに踏み込もうとした瞬間、細い槍が脇腹から突き抜けた。
血が落ちた。
巨体の動きが鈍る。
セイバーが回り込んだが、男はもう別の剣を放っていた。
バーサーカーの胸が貫かれた。
「あ――」
俺は足を止めた。
あの巨人が、膝をついた。
武器を持つ腕が床へ落ちる。胸から背中まで抜けた刃は、人間なら、どこに刺さっても助からない大きさだった。
イリヤの手が俺の腕を強く引いた。
「大丈夫よ。止まらないで」
彼女がそう言った直後、巨人の指が動いた。
刺さった剣をつかみ、乱暴に引き抜く。
穴があったはずの胸が、塞がっていく。
立った。
床に片膝をついていたバーサーカーが、何事もなかったように斧剣を握り直していた。
「……なんだよ、それ」
呟いた声は、誰にも届かなかった。
さっき、間違いなく死んだはずだった。
なのに、もう男へ向かっている。
イリヤは笑っていなかったが、俺を見る目には迷いがなかった。
「バーサーカーは、それくらいじゃ死なないわ。だから今のうちに――」
言い終わる前に、また音がした。
男はさっき抜かれた剣を拾おうともしなかった。
次の武器が現れ、次の刃が走る。
バーサーカーが二本を払い、一本を腕で受けた。その腕の下を抜けた別の刃が、首元へ入った。
イリヤの指に力がこもった。
それでも足は止めず、俺を階段の下へ連れていく。
セイバーが男の右へ回った。
追ってくる槍を弾き、その柄を踏んで距離を詰める。剣を振るったときには、バーサーカーももう立ち直っていた。
左右からの攻撃。
今度こそ、どちらかが届くと思った。
男が手を振った。
刃が、二人の間を埋めた。
火花の向こうで、セイバーの肩が跳ねる。バーサーカーの顔に赤い筋が走る。
どちらも前へ出ようとしている。
男との距離だけがなかなか縮まらなかった。
*
士郎たちを追って森に入っていた凛は、木々の間で顔を上げた。
風とは違う音が続いていた。硬いものが砕け、また何かがぶつかる。音の来る方へ走ると、幹の隙間に白い壁が見えた。
「アーチャー」
「ああ。始まっている」
すぐ横に赤い外套が現れた。彼は城の上を見た。窓の一つから、粉塵が流れ出している。
「正面は射線に入る。横へ回れ」
「あんたは上から中を見て。わたしは士郎たちを連れ出す」
「了解した。先に飛び込むなよ、凛」
枝が鳴った。
アーチャーは木の高いところへ跳び、窓の奥を確かめた。見えるのは内側の壁ばかりで、人影は捉えられない。
彼は次の幹へ移り、別の窓を目指して城の側面へ回り込んだ。凛はその下を抜け、外壁沿いに走った。
一階の脇扉が開いていた。中から顔を出した銀髪の女に、凛は足を止める。
「遠坂よ。衛宮士郎は中にいるわね?」
「お止まりなさい」
女が扉を引き寄せ、入口を狭めた。その後ろから、もう一人が前へ出る。
「お嬢様の許しなく、遠坂の魔術師をお通しするわけにはまいりません」
「士郎とセイバーを助けに来たの。イリヤスフィールも一緒に逃がすわ」
凛は敷居を越えずに答えた。
女は道を開けなかった。
「その言葉を信じろと?」
奥で何かが砕けた。扉の上から石の粉が落ちる。
女の目が一瞬、廊下へ向いた。
「わたしを止めて、あの子を助けに行けるの?」
女は唇を結んだ。凛も、そこから踏み込もうとはしなかった。
「……エミヤ様とお嬢様は広間に。近づこうにも、あの男の攻撃が途切れません」
「アーチャーに押さえさせる。その隙にわたしが連れ出すから、あなたたちはイリヤスフィールを受け取って」
女は凛の顔を見据えたまま、取っ手を握り直した。
「お嬢様をお救いするために通すのです。私の案内から外れないでください」
「分かったわ。急いで」
「リズ、この方の後ろに」
扉が開いた。凛は女の後を追った。もう一人は凛を先に行かせ、すぐ後ろについた。
*
通路の扉まであと少しだった。
イリヤが先に取っ手へ手をかける。
開いた隙間から、冷たい空気が流れてきた。
「こっちよ。ここを抜ければ――」
耳の奥で鋭い音がした。
目の前のイリヤを引いた。
扉が裂けた。
そこに槍が突き刺さったのだと分かったときには、壁まで割れていた。
破片が降ってくる。
イリヤを抱え、横へ倒れ込んだ。
背中が床にぶつかった。
肺から息が押し出された。
「っ……」
息を吸い直す間もなかった。
頭の上を、もう一本、何かが抜けた。
通路の奥で重い音が続き、開いていた扉の向こうが白い埃で見えなくなった。
「シロウ、イリヤスフィール!」
セイバーが俺たちの前にいた。剣を振る。すぐ目の前で火花が散り、折れた刃が壁へ飛んだ。
「立てますか」
「ああ。イリヤ、怪我は」
「平気。シロウ、手を離して。立てるから」
腕を緩めると、イリヤは自分で起き上がった。
髪についた石の粉を払う暇もなく、扉の奥を覗く。
割れた梁が斜めに落ち、通路を塞いでいた。上からも、細かな石が落ち続けている。
「……こっちは、もう駄目ね」
「別の道は?」
「向こう側へ回れば。でも――」
イリヤの視線の先に広間があった。
反対側の通路へ行くには、男の前を横切らなくてはならない。
セイバーが俺たちを背後へ押しやった。
「階段の下まで戻って。壁に沿って、低く」
俺は頷き、イリヤと一緒に身を屈めた。彼女の手を握り直し、足元の破片を避けて壁際へ戻る。
「……あの男」
イリヤが唇を噛んだ。
広間の向こうで金髪の男が俺たちを見ていた。
逃げようとしていることも、そのためにセイバーが戻ったことも、分かったうえで笑っている。
「せっかく揃ったのだ。そう早々に席を立つものではないぞ」
背後の剣が一斉に傾いた。
バーサーカーが横へ動いた。
さっきまで男の目前に迫っていた巨体が、俺たちに向けられた刃の前へ入る。
斧剣が広間を薙いだ。
何本もの武器が弾かれ、一本が床を跳ねて俺の靴先まで来た。
刃の中を走る魔力が頭に突き刺さるようで、思わず目を逸らす。俺は柄を踏まないよう足をずらし、イリヤを壁へ寄せた。
残りは、巨人の身体に刺さっていた。
背中から血が流れる。
その背後にいた俺は息を詰めた。
避けられたはずだ。
あの速さで動けるのなら、わざわざ、そこへ戻ることはなかった。
俺の隣でイリヤが顔を上げていた。
「バーサーカー、前を見て! わたしはセイバーの後ろにいるわ。あの男を近づけないで!」
巨人が振り向いた。
ほんの一瞬だった。
俺の方へ向いたように見えて、違った。
その目は、イリヤを見ていた。
次の音がして、巨人はまた前へ向き直った。今度は後退しなかった。身に刺さった剣を折り、男へ踏み出す。
セイバーも動こうとした。
だが、横から飛んできた槍を払わなくてはならなかった。弾かれた刃が床をえぐり、階段の裾が欠ける。
俺はイリヤを引いて、もう少し奥へ寄った。
足元に、手すりから折れ落ちた木の棒があった。片腕ほどの長さがある。
拾い上げると、木目に沿った傷みが分かった。太い方の端には亀裂がある。そこを外して握り、残った部分へ意識を絞った。
「――同調、開始」
背筋に熱が走った。
焦って魔力を流し込みかけ、歯を食いしばる。いつものように失敗して、内側から壊してしまっては意味がない。
握った先の木目を辿り、そこへ通す。
ぎし、と棒が鳴った。
折れてはいない。握ったところから先が、さっきより硬くなっていた。
これで剣を受けられるとは思わなかった。それでも、飛んでくる破片に何もかざせないよりはましだ。
右手で棒を持ち、左手はイリヤとつないだまま、瓦礫の隙間を探した。
ここから離れれば、セイバーも前へ出られる。俺たちがいなくなれば、バーサーカーも。
瓦礫の向こうを見た。
人一人が通れる隙間はあった。だが、その先がどうなっているか分からない。イリヤに声をかけようとしたとき、隙間を光が抜けた。
石の塊が内側から砕けた。
「シロウ!」
セイバーの声で首を引っ込めた。
粉塵が顔にかかる。
砕けた石の一つがイリヤへ飛んできた。
右手の棒を斜めに突き出した。
重い音がして、手首まで痺れた。棒の先が押し戻される。それでも石は横へ逸れ、彼女の靴から少し離れたところへ落ちた。
俺は左手でイリヤを引き、壁の窪みへ押し込んだ。自分もその前で身を屈める。
次の破片は肩の上を抜けた。口の中が、砂を噛んだようになっていた。
「シロウ、手を見せて。指は動く?」
言われて、棒を握り直した。指は動く。だが、力を入れると手首まで痛みが走った。
イリヤは俺の右手へ指を添え、短く何かを囁いた。鋭かった痛みが引く。痺れはまだ残っていた。
「痛みを抑えただけよ。それで、もう一度受けようとしないで」
「……ああ。助かった。イリヤは?」
彼女は頷き、すぐに広間へ目を戻した。
棒の先は潰れ、端から伸びていた亀裂が長くなっていた。
もう一度、同じようには受けられない。
瓦礫を貫いたのが、男の狙った一撃なのか、バーサーカーに弾かれた武器なのか。それさえ分からなかった。壁のこちら側にいるだけでは、逃げたことにはならない。
イリヤが俺の手を握り返した。
「今、出ちゃ駄目」
俺に言いながら、目はバーサーカーを追っていた。
巨体が揺れた。膝が折れる前に、床へ武器を突いて踏みとどまる。
傷が塞がる。
また、前へ出る。
イリヤの視線が、巨人の傷から男の背後に並ぶ武器へ動いた。
もう、大丈夫だとは言わなかった。
何度、同じことが起きたのか。
胸を貫かれ、頭を撃ち抜かれ、そのたびに巨人は立ち直った。立ち直るたびに、さっきより男へ近づいている。
セイバーが一度、攻撃の切れ目を縫って飛び出した。
彼女の剣がバーサーカーの脚へ向かっていた刃を弾く。
巨人は足を止めずに済んだ。
だが、セイバーはすぐに戻ってきた。
俺たちの頭上に向けられた剣を払い、両足で床を踏みしめる。
鎧の肩から、細く血が流れていた。
「セイバー、肩が」
「動けます。そこにいてください」
返事は短かった。
俺は短く息を吐き、棒を握り直した。あの背中を越えて行ける道は、まだなかった。
最初の夜は、バーサーカーがこちらへ来るのが怖かった。
一歩でも近づかれれば終わると思った。
今は、その背中がなくなった先を見たくなかった。
イリヤの手が、俺の手の中で冷たくなっていた。
*
巨人の武器が床を削った。
振り上げた先で三本の刃が散り、その向こうに男の顔が見えた。
もう、間に何もなかった。
バーサーカーが踏み込む。
片足は血に濡れ、脇腹にはまだ剣が残っている。それでも、その一歩は速かった。
巨体が男を覆った。
届く。
俺がそう思ったとき、男が片手を開いた。
「天の鎖」
金色の線が走った。
一つではない。巨人の横から、背後から、何もなかった空間を縫って鎖が現れた。
振りかぶった右腕に巻きついた。
左の肩を越え、胴に絡み、踏み出した脚を止めた。
斧剣の先が男の頭上で動かなくなる。
鎖が鳴った。
巨人の腕に筋が浮いた。
引きちぎろうとしている。あの太い腕が、鎖をつかんで引いているのに、つながれた場所から動けない。
片足が床へめり込んだ。
「戻って!」
イリヤが叫んだ。俺の手から指が抜け、前へ差し出される。
「バーサーカー、戻りなさい!」
巨人がこちらへ顔を向けようとした。
首にかかった鎖がそれを押し戻した。
セイバーが踏み出す。
男の背後から、剣が飛んだ。
彼女は弾いた。次の一本も払った。それでも、その場から先へ進めない。一本を捌く間に、別の切っ先が俺たちへ向いていた。
「イリヤスフィール、下がって! シロウ、彼女を!」
セイバーは次の刃を叩き落とし、踏み出しかけた足を戻した。
男は彼女を見て、指をわずかに動かす。
さっきまでバーサーカーへ向けられていた武器の幾つかが、セイバーへ向き直った。
「イリヤ、下がろう」
声をかけた。
彼女をここから動かせば、セイバーが。
それしか、俺には思いつかなかった。
「待って。いま、戻すから」
イリヤの返事は早かった。
俺に向けたものなのに、こちらを見ていない。
伸ばした手をもう一度、巨人へ向ける。
「戻ってきて、バーサーカー! わたしのところへ!」
声が響いた瞬間、周りの空気が張りつめた。差し出された腕の袖口から赤い光が漏れる。
令呪だ。学校でセイバーを呼んだときにも、こんなふうに空気が変わった。
あのときは届いた。あの一言で、彼女は俺の前へ来てくれた。
なら、今度も。
鎖が一斉に鳴った。
巨人の輪郭がぶれたように見えた。
だが、そこから消えない。
差し出されたイリヤの手の前には、誰も現れなかった。
「……どうして」
囁きが漏れた。
男がそれを聞き、笑った。
「神の血が濃いほど、この鎖は強く縛る。貴様ほどの半神ならば、さぞ堪えるであろうな」
仕組みは分からなかった。
ただ、イリヤが呼ぶたびに巨人の腕へ力がこもり、鎖が張りつめる。
声は届いている。こっちへ来ようとしている。
それなのに、動けない。
「バーサーカー」
イリヤの声がさっきより小さくなった。返事を待つように、唇が開いたままになる。
巨人の背後に刃が並んだ。
「やめろ!」
俺は叫んだ。
男がこちらへ目を向けた。
それだけだった。
剣が刺さった。
肩に、胸に、腹に。
腕を振るうことも、身体をずらすこともできない巨人へ、次々と刃が入っていく。
右手の棒を見た。投げれば、一瞬でも男の気を引けるだろうか。
身を起こしかけた途端、イリヤが前へ出た。
棒を捨て、左手でその腕をつかんだ。
「駄目だ、イリヤ!」
「放して。バーサーカーが――」
「そこへ出たら、イリヤまで撃たれる!」
「じゃあ、どうすればいいのよ! 戻ってこられないの。わたしが行かなきゃ――」
イリヤが身をよじった。このまま腕だけを引けば、肩をひねってしまう。
右腕を胴へ回して引き寄せ、両腕で抱えた。それでも彼女はバーサーカーへ手を伸ばそうとした。
巨人の身体が一度、大きく跳ねた。
それまで、何度傷ついても立ち直っていた。
だから、まだ動くと思った。
目を逸らさず見ていれば、また肩が上がり、あの太い腕が鎖を引くのだと。
動かなかった。
首元から流れる血も、胸の傷も、そのままだった。
握られていた斧剣がわずかに下がる。
イリヤが息を吸った。
「バーサーカー。ねえ」
男の背後で最後の一本が向きを変えた。
俺はイリヤを抱え直そうとした。見せたくないと思った。
それより先に、彼女が俺の腕を押しのけた。
刃が走った。大きな音は、しなかった。
巨人の顔が少しだけこちらを向いていた。
鎖に引かれて動いたのか、俺たちを見たのかは分からない。
俺の前には剣を構えたセイバーがいた。その後ろに、俺とイリヤがいる。
バーサーカーの口が、開いていた。
もう咆哮は聞こえなかった。
肩の輪郭が薄くなった。
巨人の腕の向こうに入口の扉が透けて見えた。
もう、傷は塞がらない。消え始めた身体を見て、それだけは分かってしまった。
「待って」
イリヤの声がした。俺の腕を押す力が急に弱くなった。
「まだ、そこにいて」
身体が消えていった。
あれほど大きかった肩も、鎖を握った腕も、床を踏みしめていた脚も。
支えるものを失った鎖が宙で緩んだ。
イリヤが一歩出た。
俺は手首をつかんだまま、後ろへ引いた。
今度は彼女も踏みとどまれず、俺の胸へぶつかった。
その前を剣が通った。
セイバーが払いのけていた。
弾かれた刃が床を裂き、巨人が立っていた場所まで滑っていく。
「二人とも、私の後ろへ!」
俺はイリヤを連れて下がった。
彼女の靴が瓦礫に引っかかる。抱えるようにして引き寄せると、指が俺の腕へ食い込んだ。
イリヤは、バーサーカーがいた場所を見ていた。
そこには、もう誰もいなかった。
*
男がゆっくりと顔を上げた。
俺たちへ向けていた手を止め、セイバーを見る。
彼女の足元で石の粉が動き始めていた。
「シロウ。階段の陰へ。そこから出ないでください」
セイバーは振り返らなかった。俺は頷いたが、彼女には見えない。返事をしようとして、喉に埃が引っかかった。
「分かった。……セイバー」
呼び止めた声に、ほんの少し、横顔がこちらへ向いた。
肩には血が滲んでいる。剣を構えた腕は下がらなかったが、息を継ぐたびに肩が小さく上下していた。
俺からは、まだまともに魔力を渡せない。あれだけ戦って、傷まで負って、それでも俺たちの前に立っている。
男の背後でまた武器の向きが変わる。今度はその全てがこちらへ向いていた。
「俺たちは下がる。だから、おまえも――」
「二人をかばったまま、あれを全て受け続けることはできません。ここで止めます」
風が吹いた。
屋内の空気が一斉に彼女へ引かれた。
髪が頬へ張りつく。床の小石が転がり、イリヤの白い髪が俺の腕を離れて揺れた。
セイバーの剣が、見えた。
ずっと、そこにあるはずなのに見えなかったもの。
両手で握られた柄とその先に伸びる刃。
風が剥がれ落ちるように散って、金色の光が現れた。
俺は息を止めていた。
壊れた広間も、男の後ろに浮いている武器も、一瞬、目に入らなくなった。
セイバーが持っているのは、こんな剣だったのか。
彼女は両足を踏みしめた。
俺たちはその背後にいる。剣の向く先には、男と、壊れた正面入口しかなかった。
男の笑みが変わった。
「ようやく抜くか」
イリヤへ向いていた切っ先が退いた。男は半身になり、広間の中央でセイバーを待った。
「よい。その一撃は我が受けてやる。出し惜しみは許さんぞ、セイバー」
セイバーは答えなかった。
鎧を包む光が強くなる。
セイバーは柄を握り直し、切っ先を上げた。
剣の形が頭の中へ焼きついた。刃へ集まっていく魔力の流れを追うだけで、息が詰まる。
あれは斬りつけるためだけに溜めている力じゃない。
一度に放つつもりなのだ。俺はイリヤを抱え、さらに階段の陰へ下がった。
そのとき、頭上でガラスの砕ける音がした。
男が顔を横へ向けた。
空を切る音がした。
次の瞬間、男の手に現れた剣と横から飛んできたものがぶつかっていた。
甲高い音。
二つに折れた刃が床で跳ねる。
男は足元を見た。
床に転がったものを確かめてから、それが飛んできた方へ顔を上げる。
「……誰の許しで、割り込んだ」
二階の向こう側。砕けたガラスが降る窓辺に赤い外套があった。
弓を持っている。
「アーチャー……!」
今度こそ、俺の知っている方だった。
彼は返事をしなかった。弓を引く腕を緩めず、下にいる男を見ている。
その指の間で光が凝った。
長いものが形を取り、弓へ添えられる。
矢にしては幅があり、さっき男の後ろにあった剣と、よく似ていた。
その刃を見た途端、内側の構造が頭へ流れ込んだ。形だけを似せた飾りじゃない。魔力を通すところまで、剣として出来上がっている。
いま、作ったのか。
何も持っていなかった指の間に、あれを。
放たれた。
男が剣を振り、その一撃も払い落とす。砕けた刃が光になって散った。
「贋作か」
男の口元から、笑みが消えた。
「我の前で、よくもそんなものを並べたな」
浮いていた武器がまとめて二階へ向いた。
アーチャーが横へ跳ぶ。
彼が立っていた場所へ剣が突き刺さり、手すりごと床が崩れた。
俺はイリヤの頭をかばった。
瓦礫が広間へ落ちてくる。
「凛、今だ!」
上から短い声がした。
ほとんど同時に、すぐ後ろで名前を呼ばれた。
「士郎、こっち!」
振り返ると、遠坂がいた。奥の廊下から駆け寄って、俺の袖をつかむ。
「歩ける? 奥の通路は使えるわ。その子を連れて来て」
「ああ。でも、セイバーが」
「だから、先にあんたたちが下がるの。アーチャーが押さえてるうちに!」
遠坂はイリヤの顔を見た。
すぐには声をかけず、反対側からその腕を支える。
「イリヤスフィール。こっちへ。足元、気をつけて」
遠坂が来た廊下の奥に、セラがいた。
リズが足元の石を脇へ押しやり、俺たちへ手を伸ばしている。
イリヤは動かなかった。俺が手を引くと、ようやく、一歩だけ足が出た。
セイバーの剣はまだ光っていた。
だが、振り下ろされてはいない。
俺たちが遠坂に連れられて下がるのを、横目で確かめていた。
上でアーチャーが弓を引き直す。
こちらへ落ちかけた一本を射ち落とし、柱の向こうへ身を移す。
そのすぐ後ろを男の剣が貫いた。
遠坂の手が俺の肩を押した。
「伏せて」
頭を下げると、セイバーが俺たちと敵の間へ移動していた。
金色の剣を構えたまま、一歩も退かない。
息を整え、握り直した柄へ力を込める。刃の光は、まだ消えていなかった。
男は二階を見上げていた。
アーチャーが射ち込んだ刃の破片が床で消えていく。
視線がそこへ落ち、それからセイバーへ戻った。
セイバーは俺たちをかばっている。
アーチャーも前へ出てはこなかった。弓は向けたまま、こちらへ来る武器を狙っている。
男が鼻で笑った。
「貴様の剣を見ようという時に、贋物の相手までさせる気か」
セイバーは答えず、刃を上げた。
男の背後にはまだ何本もの武器が浮いていた。
その数は減っていない。
男自身にも傷らしい傷はなかった。
なのに、その手が下がった。
「興が失せた。今日のところは、ここまでにしておこう」
慎二が壁際から顔を出した。
「は? ちょっと待てよ。まだやれるだろ。あいつら、もう――」
「我が終わりと言っている」
慎二の口が閉じた。男はそちらを見もしなかった。
「セイバー。その剣を収めておけ。次に会うときまで、折ることは許さん」
「あなたの指図を受けるつもりはない」
「そうか。ならば、次もその目で我を迎えよ」
男は笑った。
さっきまでセイバーに向けていたのと同じ、勝手に何かを決めてしまう笑い方だった。
その目が彼女の背後へ動いた。
俺を見た。
イリヤも見た。
俺は彼女を自分の背後へ寄せた。
何か一本でも飛んできたら、こんなことで防げるはずはなかった。それでも、何もせずに見返すことはできなかった。
男はもう、手を上げなかった。
宙の武器が一つずつ姿を消した。
男が入口へ向かう。
慎二は俺たちとその背中を交互に見て、最後には男の後を追った。
「おい、待てって。僕を置いていくなよ!」
足音が遠ざかった。
セイバーは剣を下ろさなかった。
二階のアーチャーも弓を向けたままだった。
俺たちは、ただ待った。
もう一度、剣が飛んでくるかもしれなかった。
壊れた入口から男が戻り、今度こそ全員を殺すのかもしれなかった。
何も来なかった。
冷たい風が広間を抜けた。
*
「……戻ってくる気配はない」
上から、アーチャーの声がした。
セイバーがようやく剣を下げた。
光が薄れ、刃が風の中へ隠れる。彼女は俺たちと入口の間に立ったまま、左右の通路へ目を向けた。
「セイバー、肩は」
「傷は浅い。まだ動けます」
血のついた肩を一度動かしてから、剣を低く構え直した。
言葉の間に、長く息を吐く。
遠坂が近づき、鎧の傷を確かめた。
「肩を見せて。外はアーチャーに任せていいわ。あんたまで倒れたら、ここから出られないでしょ」
「……分かりました。お願いします」
肩の鎧が消えた。遠坂は裂けた服をずらして血を拭い、傷口のそばへ指を当てる。
低い声が何度か続いた。血の流れが弱まってから、布を押し当てる。
セイバーは俺たちの前に立ったままだったが、もう先ほどのように剣を高く構えようとはしなかった。
「お嬢様!」
セラの声がした。
退路を開けていた廊下から、リズと一緒に出てくる。
割れた床を回り込み、イリヤのそばへ走ってきた。
「お怪我は。どこか、痛むところはございませんか」
セラが膝をつき、イリヤの顔を覗き込んだ。
返事がない。
セラは頬と首元を確かめ、それからイリヤの腕へ手を添えた。
「扉が崩れたときに、一緒に倒れました。頭は庇ったつもりです。でも、腕を何度も引っ張った。肩も診てもらえますか」
俺に分かることを伝えた。
「イリヤ。痛いところ、あるか」
彼女は少し遅れて首を振った。
セラが続けて何か尋ねたが、今度は反応がなかった。
リズが俺たちのそばへ来た。
手に持っていた上着を広げ、イリヤの肩へかける。庭へ出る前にも、そうしてもらっていた。
イリヤは上着を押さえなかった。
片側が落ちかけるのをリズがそっと直した。
「イリヤ。これ、着て」
その声にも、頷かなかった。
遠坂が戻ってきて、俺の顔を見た。
「士郎、あんたは?」
「倒れたときに背中を打った。右手は石を受けて、イリヤに痛みを抑えてもらった。痺れも、今は引いてる」
指を開いて見せた。もう、意識しなくても握り直せた。
背中の痛みも、倒れた直後ほどではない。身体を捻っても、息は詰まらなかった。
遠坂は俺の手を取り、手首を軽く動かしてから離した。
「息を吸うと痛む?」
「いや」
「あとで出てきたら、黙ってないでよ」
頷いた。
イリヤが動いた。
最初は座る場所を探しているのかと思った。
違った。
セラの横を抜け、広間の中央へ向かっていた。
「お嬢様、そちらはまだ――」
リズが、立ち上がったセラに目を向けてから、イリヤの向かう先を見た。
その視線を追い、セラも言葉を止める。
バーサーカーがいた場所だった。
俺はイリヤを追った。後ろで名前を呼ばれたが、遠坂もすぐには追ってこなかった。
床はひどい有様だった。
大きくえぐれたところがあり、石の縁が鋭く立っている。血が溜まり、粉塵と混じって暗い色になっていた。
イリヤはその手前で立ち止まった。
下を見てから、ゆっくり顔を上げる。
「バーサーカー」
誰かを呼ぶ、普通の声だった。
俺も顔を上げてしまった。何か返ってくるような気がした。床が震え、あの大きな足が、彼女の後ろへ降りてくるような。
入口の向こうで枝が揺れていた。
ここから外が見えることが、おかしかった。さっき俺たちを迎えた玄関は、あんな形ではなかった。
イリヤがもう一度、口を開いた。
呼ぶ前に、唇を閉じた。
「……もう、来ないのね」
俺に聞いたわけではなかった。返事をしようとしたが、何も言えなかった。
イリヤの肩にかかった上着がずれた。
直そうとして手を伸ばすと、彼女の膝が折れた。
左腕で支えた。
勢いを止めきれず、俺も一緒に膝をつく。石の角がズボン越しに当たったが、彼女を離さずに済んだ。
イリヤは、俺を押し返さなかった。
床へ片手をつき、もう片方の手で上着の前を握っている。
その指が、震えていた。
「シロウ」
「ああ」
「わたし、呼んだのよ」
頷いた。
「戻ってきてって。ちゃんと、呼んだのに」
「聞いてた」
それだけ答えた。
もっと何か言わなくては、と思った。イリヤのせいじゃない。あいつが悪い。バーサーカーは、最後まで。
けれど、どこまで言っても、彼女が呼んだ相手は戻ってこない。
イリヤは俺の袖をつかんだ。顔を上げようとして、途中でやめる。
「……いやだ」
小さな声だった。
唇を噛み、何かを飲み込もうとしていた。
息だけが、うまく続かなかった。
俺は上着を彼女の肩へ戻した。
俺の手が勝手に震えるので、留め具を合わせられない。諦めて、布の上から肩を包んだ。
少し離れたところでセラが立っていた。
リズもいる。
二人ともイリヤを急がせなかった。
俺は本の部屋を思い出した。
窓のそばの机。栞を挟んだ、小さな本。
お茶を飲んだら続きを読んでくれるはずだった。セイバーから母親の話を聞き、まだ見ていない場所も案内してもらうつもりでいた。
ほんの少し前までイリヤはその順番を考えていた。
袖を握る手が強くなった。
俺は彼女へ向き直った。
イリヤは俯いたまま、泣いていた。
顔を覗き込まず、そのそばにいた。袖をつかむ指が震えるたびに、左腕でその身体を支え直した。