Fate/stay night IF BEYOND THE EVER   作:Мир

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第九話 招かれざる者

 今度は突き当たりを右へ曲がった。イリヤは何も言わなかった。ただ、つないだ手を少し持ち上げて、俺を見上げる。

 

「覚えたよ」

「そう。帰るときも間違えないでね」

「帰るときは反対だろ」

「そこでまた考えなくちゃいけないんでしょう?」

 

 言い返す前に、本の部屋の扉が開いた。窓辺の机にさっきの本が置いてある。イリヤは俺の手を離し、本を取って、途中のページを開いた。

 

「ここからだったわね」

「鳥が何か言ってたところ」

「あの鳥、まだこれから何度も喋るのよ。それじゃ分からないわ」

 

 それでも、指は一つの絵の上で止まった。森の道に立つ子供と枝から見下ろす鳥。イリヤはページの間に細い栞を挟んだ。俺には分からなくても、彼女はちゃんと覚えていたらしい。

 

「お茶を飲んだら、続きを――」

 

 声が途切れた。顔を上げたイリヤは窓を見ていた。俺もそちらを見る。木々の上に、薄い雲がかかっている。枝が揺れていたが、さっき庭で見たのと変わらない。

 

「イリヤ?」

 

 返事はなかった。本を閉じる音がした。

 

「……誰か、入ってきた」

 

 扉のそばにいたセイバーが動いた。廊下へ出て、階段のある方を見る。

 

「シロウ。窓から離れてください」

 

 イリヤは本を机へ戻した。表紙を押さえた指が、すぐには離れなかった。

 

「バーサーカー」

 

 静かな声だった。扉の向こうにも、窓の外にも、呼ばれた相手の姿はない。それでもイリヤは返事を待たず、俺の手首をつかんだ。

 

「シロウ、こっち」

 

 廊下へ出たところで、足の裏に震動が伝わった。遅れて、大きなものが割れる音がした。玄関の方だ。

 

 セイバーが俺たちの前へ出る。その服を銀色の光が覆い、肩と胸に鎧が現れた。

 

「離れないで。私の後ろへ」

 

 返事をし、イリヤを自分のそばへ寄せる。彼女は俺を見ていなかった。廊下の先へ向けた顔から、さっきまでの笑みが消えている。

 

     *

 

 階段に続く廊下から、広間の一部が見えた。開け放たれていたはずの大きな扉が、一枚、床に倒れている。木片が入口から奥まで散り、その上に二人の人影があった。

 

 金色の髪の男。その後ろにいる、見慣れた顔。

 

「慎二……?」

 

 声が出てしまった。下にいた慎二が顔を上げる。

 

「衛宮?」

 

 向こうも俺がいるとは思っていなかったらしい。口を開けたまま、俺と隣のイリヤを見比べる。それから、あの嫌な笑い方をした。

 

「なんだよ。こんなところで何してるんだ、おまえ」

「それはこっちの台詞だ。おまえ、学校で――」

「その話はもう終わっただろ。見れば分かるじゃないか。僕は、まだ負けてないんだよ」

 

 慎二が金髪の男を見る。男は慎二を見返さなかった。広間の奥、階段の下へ目を向けている。

 

 そこに、巨人がいた。

 

 出てくるところは見えなかった。大きな肩と、膝の下まで届きそうな腕。その手に握られた、分厚い武器。腹が縮んだ。俺を斬った相手だ。姿を見ただけで、あの夜、息ができなくなった感覚が戻ってきた。

 

 バーサーカーは俺を見なかった。正面の男へ向かって、低く身を沈める。

 

「ようやく出てきたか。アインツベルンも、森の奥に置いておくには惜しいものを飼っている」

 

 男の声はよく通った。砕けた扉を踏んでいるのに、近所へ立ち寄ったような口調だった。

 

「もっとも、我を迎えるには少々、礼儀が足りぬがな」

 

 セイバーの足が止まった。剣を握っているはずの右手に力が入る。

 

「……アーチャー」

 

 隣にいるイリヤが彼女を見た。俺も同じようにした。アーチャーなら知っている。遠坂のサーヴァントだ。だが、下にいるのは、あの赤い外套の男ではない。

 

「知ってるのか、セイバー」

「前の戦いで、会っています」

 

 目を逸らさずに答えた。

 

「なぜ、あなたがここにいる」

 

 男が初めて顔を上げた。セイバーを見ると、ゆっくりと口元を緩める。

 

「ほう。今日はよい日だな」

 

 その目がセイバーの足元から顔までを眺めた。俺もイリヤも、慎二さえも、その間は視界に入っていないようだった。

 

「またその姿で我の前に立つとは。待たせた分は、楽しませてもらおうか、セイバー」

「質問に答えろ」

「そう急くな。順に相手をしてやる」

 

 男が右手を上げた。背後の空間が揺れた。

 

 最初に見えたのは、剣の切っ先だった。続いて槍。曲がった刃。幅の広い斧のようなもの。何もなかった場所から、武器が突き出している。人が握っているわけではない。それぞれが宙に浮き、こちらを向いていた。

 

 細い剣の一本へ目が吸い寄せられた。こめかみが痛む。刃の内側に通った魔力の流れが、形と一緒に頭へ入ってきた。こいつは、斬るだけの剣じゃない。触れたものを凍らせる。刃から外へまで、冷気を広げるものだ。隣の剣にも目が動いた。だが、そちらを確かめる暇はなかった。

 

 切っ先が動いた。分かっていたのに、足が出なかった。

 

「伏せて!」

 

 セイバーの声で身を縮めた。耳元を風が抜ける。廊下の壁が肩のすぐ横で弾けた。

 

 石の破片が首筋へ当たる。イリヤを抱き寄せ、頭を下げると、背後の壁に深々と剣が刺さっていた。

 飛んでくるところは見えなかった。柄がまだ震えている。

 

「イリヤ、そいつから離れろ。周りまで凍るぞ!」

 

 イリヤの肩を引き、壁から離れた。割れた石の縁に白い霜が広がっていく。

 

 下で轟音がした。

 バーサーカーが武器を振り、飛んできた何本もの刃をまとめて弾き飛ばしていた。一本が天井へ突き刺さり、別の一本が床を削って入口まで滑っていく。

 

「お嬢様!」

 

 セラの声が階段の下から聞こえた。壁際の通路にリズもいる。二人とも、こちらへ上がってこようとしていた。

 

「止まりなさい、セラ。リズも、そこから出ないで」

「ですが、お嬢様――」

「奥の戸を開けておいて。わたしたちも下がるわ。リズ、セラをお願い」

 

 リズが頷き、セラの腕を取った。

 セラは一度こちらを見上げたが、すぐに身を翻した。二人が壁の向こうへ消える。

 

「シロウ。あの下の通路からお庭へ出られるわ」

 

 イリヤが階段の右側を示した。

 声はまだ、はっきりしていた。

 

「セイバー、少しだけ止めていて。バーサーカー、あの男を近づけないで」

「承知しました。シロウ、急いで」

 

 セイバーが前へ出た。俺たちが階段の壁側へ走るのと、彼女が手すりを越えるのは、ほとんど同時だった。

 

     *

 

 着地したセイバーの剣が一筋の光を弾いた。

 折れた武器が回転しながら飛んでいく。

 彼女は足を止めず、そのまま男の左側へ回った。

 

 バーサーカーが突っ込んだ。

 広間の床を踏み砕くほどの勢いだった。それでも、巨体は真っ直ぐ走るだけではなかった。飛来する槍を首の動きだけで避け、斧剣を低く引き、床すれすれから振り上げる。

 

 男の前に幅の広い剣が現れた。

 それに斧剣がぶつかる。

 空気が膨れ上がったような音がして、階段にいた俺まで足が止まりかけた。

 

 セイバーがその横を抜けた。

 男の肩へ見えない刃が迫る。

 金髪が揺れた。

 男は上体を引き、新しく手にした剣でセイバーの一撃を受けた。

 

 初めて、男が足を動かした。

 

 バーサーカーの武器が横から来る。

 セイバーは先に身を沈め、その軌道の下へ潜っていた。男が後ろへ跳ぶ。斧剣は空を切り、入口脇の柱を削った。

 

「っ、危ないだろ!」

 

 慎二が横へ逃げた。

 男は笑っていた。

 

「よい。そうでなくては、ここまで来た甲斐がない」

 

 その背後にまた刃が増えた。さっきまでのものとは長さも形も違う。

 

 セイバーが踏み込もうとして、急に足を引いた。

 目の前の床へ槍が刺さる。続く剣を払ったところへ、さらにもう一本。

 横へ動くと、その先にも切っ先が向いていた。

 

 バーサーカーが腕を振った。

 飛んでくる武器を叩き落とし、その向こうへ踏み出す。

 肩に一本、刃が刺さった。

 巨人は止まらない。

 さらに踏み込もうとした瞬間、細い槍が脇腹から突き抜けた。

 

 血が落ちた。

 巨体の動きが鈍る。

 セイバーが回り込んだが、男はもう別の剣を放っていた。

 

 バーサーカーの胸が貫かれた。

 

「あ――」

 

 俺は足を止めた。

 あの巨人が、膝をついた。

 武器を持つ腕が床へ落ちる。胸から背中まで抜けた刃は、人間なら、どこに刺さっても助からない大きさだった。

 

 イリヤの手が俺の腕を強く引いた。

 

「大丈夫よ。止まらないで」

 

 彼女がそう言った直後、巨人の指が動いた。

 刺さった剣をつかみ、乱暴に引き抜く。

 穴があったはずの胸が、塞がっていく。

 

 立った。

 

 床に片膝をついていたバーサーカーが、何事もなかったように斧剣を握り直していた。

 

「……なんだよ、それ」

 

 呟いた声は、誰にも届かなかった。

 さっき、間違いなく死んだはずだった。

 なのに、もう男へ向かっている。

 

 イリヤは笑っていなかったが、俺を見る目には迷いがなかった。

 

「バーサーカーは、それくらいじゃ死なないわ。だから今のうちに――」

 

 言い終わる前に、また音がした。

 

 男はさっき抜かれた剣を拾おうともしなかった。

 次の武器が現れ、次の刃が走る。

 バーサーカーが二本を払い、一本を腕で受けた。その腕の下を抜けた別の刃が、首元へ入った。

 

 イリヤの指に力がこもった。

 それでも足は止めず、俺を階段の下へ連れていく。

 

 セイバーが男の右へ回った。

 追ってくる槍を弾き、その柄を踏んで距離を詰める。剣を振るったときには、バーサーカーももう立ち直っていた。

 左右からの攻撃。

 今度こそ、どちらかが届くと思った。

 

 男が手を振った。

 刃が、二人の間を埋めた。

 

 火花の向こうで、セイバーの肩が跳ねる。バーサーカーの顔に赤い筋が走る。

 どちらも前へ出ようとしている。

 男との距離だけがなかなか縮まらなかった。

 

     *

 

 士郎たちを追って森に入っていた凛は、木々の間で顔を上げた。

 風とは違う音が続いていた。硬いものが砕け、また何かがぶつかる。音の来る方へ走ると、幹の隙間に白い壁が見えた。

 

「アーチャー」

「ああ。始まっている」

 

 すぐ横に赤い外套が現れた。彼は城の上を見た。窓の一つから、粉塵が流れ出している。

 

「正面は射線に入る。横へ回れ」

「あんたは上から中を見て。わたしは士郎たちを連れ出す」

「了解した。先に飛び込むなよ、凛」

 

 枝が鳴った。

 アーチャーは木の高いところへ跳び、窓の奥を確かめた。見えるのは内側の壁ばかりで、人影は捉えられない。

 彼は次の幹へ移り、別の窓を目指して城の側面へ回り込んだ。凛はその下を抜け、外壁沿いに走った。

 一階の脇扉が開いていた。中から顔を出した銀髪の女に、凛は足を止める。

 

「遠坂よ。衛宮士郎は中にいるわね?」

「お止まりなさい」

 

 女が扉を引き寄せ、入口を狭めた。その後ろから、もう一人が前へ出る。

 

「お嬢様の許しなく、遠坂の魔術師をお通しするわけにはまいりません」

「士郎とセイバーを助けに来たの。イリヤスフィールも一緒に逃がすわ」

 

 凛は敷居を越えずに答えた。

 女は道を開けなかった。

 

「その言葉を信じろと?」

 

 奥で何かが砕けた。扉の上から石の粉が落ちる。

 女の目が一瞬、廊下へ向いた。

 

「わたしを止めて、あの子を助けに行けるの?」

 

 女は唇を結んだ。凛も、そこから踏み込もうとはしなかった。

 

「……エミヤ様とお嬢様は広間に。近づこうにも、あの男の攻撃が途切れません」

「アーチャーに押さえさせる。その隙にわたしが連れ出すから、あなたたちはイリヤスフィールを受け取って」

 

 女は凛の顔を見据えたまま、取っ手を握り直した。

 

「お嬢様をお救いするために通すのです。私の案内から外れないでください」

「分かったわ。急いで」

「リズ、この方の後ろに」

 

 扉が開いた。凛は女の後を追った。もう一人は凛を先に行かせ、すぐ後ろについた。

 

     *

 

 通路の扉まであと少しだった。

 イリヤが先に取っ手へ手をかける。

 開いた隙間から、冷たい空気が流れてきた。

 

「こっちよ。ここを抜ければ――」

 

 耳の奥で鋭い音がした。

 目の前のイリヤを引いた。

 

 扉が裂けた。

 そこに槍が突き刺さったのだと分かったときには、壁まで割れていた。

 破片が降ってくる。

 イリヤを抱え、横へ倒れ込んだ。

 

 背中が床にぶつかった。

 肺から息が押し出された。

 

「っ……」

 

 息を吸い直す間もなかった。

 頭の上を、もう一本、何かが抜けた。

 通路の奥で重い音が続き、開いていた扉の向こうが白い埃で見えなくなった。

 

「シロウ、イリヤスフィール!」

 

 セイバーが俺たちの前にいた。剣を振る。すぐ目の前で火花が散り、折れた刃が壁へ飛んだ。

 

「立てますか」

「ああ。イリヤ、怪我は」

「平気。シロウ、手を離して。立てるから」

 

 腕を緩めると、イリヤは自分で起き上がった。

 髪についた石の粉を払う暇もなく、扉の奥を覗く。

 割れた梁が斜めに落ち、通路を塞いでいた。上からも、細かな石が落ち続けている。

 

「……こっちは、もう駄目ね」

「別の道は?」

「向こう側へ回れば。でも――」

 

 イリヤの視線の先に広間があった。

 反対側の通路へ行くには、男の前を横切らなくてはならない。

 

 セイバーが俺たちを背後へ押しやった。

 

「階段の下まで戻って。壁に沿って、低く」

 

 俺は頷き、イリヤと一緒に身を屈めた。彼女の手を握り直し、足元の破片を避けて壁際へ戻る。

 

「……あの男」

 

 イリヤが唇を噛んだ。

 広間の向こうで金髪の男が俺たちを見ていた。

 逃げようとしていることも、そのためにセイバーが戻ったことも、分かったうえで笑っている。

 

「せっかく揃ったのだ。そう早々に席を立つものではないぞ」

 

 背後の剣が一斉に傾いた。

 

 バーサーカーが横へ動いた。

 さっきまで男の目前に迫っていた巨体が、俺たちに向けられた刃の前へ入る。

 斧剣が広間を薙いだ。

 何本もの武器が弾かれ、一本が床を跳ねて俺の靴先まで来た。

 刃の中を走る魔力が頭に突き刺さるようで、思わず目を逸らす。俺は柄を踏まないよう足をずらし、イリヤを壁へ寄せた。

 

 残りは、巨人の身体に刺さっていた。

 

 背中から血が流れる。

 その背後にいた俺は息を詰めた。

 

 避けられたはずだ。

 あの速さで動けるのなら、わざわざ、そこへ戻ることはなかった。

 

 俺の隣でイリヤが顔を上げていた。

 

「バーサーカー、前を見て! わたしはセイバーの後ろにいるわ。あの男を近づけないで!」

 

 巨人が振り向いた。

 ほんの一瞬だった。

 俺の方へ向いたように見えて、違った。

 その目は、イリヤを見ていた。

 

 次の音がして、巨人はまた前へ向き直った。今度は後退しなかった。身に刺さった剣を折り、男へ踏み出す。

 

 セイバーも動こうとした。

 だが、横から飛んできた槍を払わなくてはならなかった。弾かれた刃が床をえぐり、階段の裾が欠ける。

 俺はイリヤを引いて、もう少し奥へ寄った。

 足元に、手すりから折れ落ちた木の棒があった。片腕ほどの長さがある。

 

 拾い上げると、木目に沿った傷みが分かった。太い方の端には亀裂がある。そこを外して握り、残った部分へ意識を絞った。

 

「――同調、開始」

 

 背筋に熱が走った。

 焦って魔力を流し込みかけ、歯を食いしばる。いつものように失敗して、内側から壊してしまっては意味がない。

 握った先の木目を辿り、そこへ通す。

 

 ぎし、と棒が鳴った。

 折れてはいない。握ったところから先が、さっきより硬くなっていた。

 

 これで剣を受けられるとは思わなかった。それでも、飛んでくる破片に何もかざせないよりはましだ。

 右手で棒を持ち、左手はイリヤとつないだまま、瓦礫の隙間を探した。

 

 ここから離れれば、セイバーも前へ出られる。俺たちがいなくなれば、バーサーカーも。

 

 瓦礫の向こうを見た。

 人一人が通れる隙間はあった。だが、その先がどうなっているか分からない。イリヤに声をかけようとしたとき、隙間を光が抜けた。

 石の塊が内側から砕けた。

 

「シロウ!」

 

 セイバーの声で首を引っ込めた。

 粉塵が顔にかかる。

 砕けた石の一つがイリヤへ飛んできた。

 

 右手の棒を斜めに突き出した。

 重い音がして、手首まで痺れた。棒の先が押し戻される。それでも石は横へ逸れ、彼女の靴から少し離れたところへ落ちた。

 

 俺は左手でイリヤを引き、壁の窪みへ押し込んだ。自分もその前で身を屈める。

 次の破片は肩の上を抜けた。口の中が、砂を噛んだようになっていた。

 

「シロウ、手を見せて。指は動く?」

 

 言われて、棒を握り直した。指は動く。だが、力を入れると手首まで痛みが走った。

 イリヤは俺の右手へ指を添え、短く何かを囁いた。鋭かった痛みが引く。痺れはまだ残っていた。

 

「痛みを抑えただけよ。それで、もう一度受けようとしないで」

「……ああ。助かった。イリヤは?」

 

 彼女は頷き、すぐに広間へ目を戻した。

 棒の先は潰れ、端から伸びていた亀裂が長くなっていた。

 もう一度、同じようには受けられない。

 

 瓦礫を貫いたのが、男の狙った一撃なのか、バーサーカーに弾かれた武器なのか。それさえ分からなかった。壁のこちら側にいるだけでは、逃げたことにはならない。

 

 イリヤが俺の手を握り返した。

 

「今、出ちゃ駄目」

 

 俺に言いながら、目はバーサーカーを追っていた。

 巨体が揺れた。膝が折れる前に、床へ武器を突いて踏みとどまる。

 傷が塞がる。

 また、前へ出る。

 イリヤの視線が、巨人の傷から男の背後に並ぶ武器へ動いた。

 もう、大丈夫だとは言わなかった。

 

 何度、同じことが起きたのか。

 胸を貫かれ、頭を撃ち抜かれ、そのたびに巨人は立ち直った。立ち直るたびに、さっきより男へ近づいている。

 セイバーが一度、攻撃の切れ目を縫って飛び出した。

 彼女の剣がバーサーカーの脚へ向かっていた刃を弾く。

 巨人は足を止めずに済んだ。

 

 だが、セイバーはすぐに戻ってきた。

 俺たちの頭上に向けられた剣を払い、両足で床を踏みしめる。

 鎧の肩から、細く血が流れていた。

 

「セイバー、肩が」

「動けます。そこにいてください」

 

 返事は短かった。

 俺は短く息を吐き、棒を握り直した。あの背中を越えて行ける道は、まだなかった。

 

 最初の夜は、バーサーカーがこちらへ来るのが怖かった。

 一歩でも近づかれれば終わると思った。

 今は、その背中がなくなった先を見たくなかった。

 

 イリヤの手が、俺の手の中で冷たくなっていた。

 

     *

 

 巨人の武器が床を削った。

 振り上げた先で三本の刃が散り、その向こうに男の顔が見えた。

 もう、間に何もなかった。

 

 バーサーカーが踏み込む。

 片足は血に濡れ、脇腹にはまだ剣が残っている。それでも、その一歩は速かった。

 巨体が男を覆った。

 

 届く。

 

 俺がそう思ったとき、男が片手を開いた。

 

「天の鎖」

 

 金色の線が走った。

 一つではない。巨人の横から、背後から、何もなかった空間を縫って鎖が現れた。

 

 振りかぶった右腕に巻きついた。

 左の肩を越え、胴に絡み、踏み出した脚を止めた。

 斧剣の先が男の頭上で動かなくなる。

 

 鎖が鳴った。

 

 巨人の腕に筋が浮いた。

 引きちぎろうとしている。あの太い腕が、鎖をつかんで引いているのに、つながれた場所から動けない。

 片足が床へめり込んだ。

 

「戻って!」

 

 イリヤが叫んだ。俺の手から指が抜け、前へ差し出される。

 

「バーサーカー、戻りなさい!」

 

 巨人がこちらへ顔を向けようとした。

 首にかかった鎖がそれを押し戻した。

 

 セイバーが踏み出す。

 男の背後から、剣が飛んだ。

 彼女は弾いた。次の一本も払った。それでも、その場から先へ進めない。一本を捌く間に、別の切っ先が俺たちへ向いていた。

 

「イリヤスフィール、下がって! シロウ、彼女を!」

 

 セイバーは次の刃を叩き落とし、踏み出しかけた足を戻した。

 男は彼女を見て、指をわずかに動かす。

 さっきまでバーサーカーへ向けられていた武器の幾つかが、セイバーへ向き直った。

 

「イリヤ、下がろう」

 

 声をかけた。

 彼女をここから動かせば、セイバーが。

 それしか、俺には思いつかなかった。

 

「待って。いま、戻すから」

 

 イリヤの返事は早かった。

 俺に向けたものなのに、こちらを見ていない。

 伸ばした手をもう一度、巨人へ向ける。

 

「戻ってきて、バーサーカー! わたしのところへ!」

 

 声が響いた瞬間、周りの空気が張りつめた。差し出された腕の袖口から赤い光が漏れる。

 令呪だ。学校でセイバーを呼んだときにも、こんなふうに空気が変わった。

 あのときは届いた。あの一言で、彼女は俺の前へ来てくれた。

 

 なら、今度も。

 

 鎖が一斉に鳴った。

 巨人の輪郭がぶれたように見えた。

 だが、そこから消えない。

 差し出されたイリヤの手の前には、誰も現れなかった。

 

「……どうして」

 

 囁きが漏れた。

 男がそれを聞き、笑った。

 

「神の血が濃いほど、この鎖は強く縛る。貴様ほどの半神ならば、さぞ堪えるであろうな」

 

 仕組みは分からなかった。

 ただ、イリヤが呼ぶたびに巨人の腕へ力がこもり、鎖が張りつめる。

 声は届いている。こっちへ来ようとしている。

 それなのに、動けない。

 

「バーサーカー」

 

 イリヤの声がさっきより小さくなった。返事を待つように、唇が開いたままになる。

 

 巨人の背後に刃が並んだ。

 

「やめろ!」

 

 俺は叫んだ。

 男がこちらへ目を向けた。

 それだけだった。

 

 剣が刺さった。

 肩に、胸に、腹に。

 腕を振るうことも、身体をずらすこともできない巨人へ、次々と刃が入っていく。

 

 右手の棒を見た。投げれば、一瞬でも男の気を引けるだろうか。

 身を起こしかけた途端、イリヤが前へ出た。

 

 棒を捨て、左手でその腕をつかんだ。

 

「駄目だ、イリヤ!」

「放して。バーサーカーが――」

「そこへ出たら、イリヤまで撃たれる!」

「じゃあ、どうすればいいのよ! 戻ってこられないの。わたしが行かなきゃ――」

 

 イリヤが身をよじった。このまま腕だけを引けば、肩をひねってしまう。

 右腕を胴へ回して引き寄せ、両腕で抱えた。それでも彼女はバーサーカーへ手を伸ばそうとした。

 

 巨人の身体が一度、大きく跳ねた。

 

 それまで、何度傷ついても立ち直っていた。

 だから、まだ動くと思った。

 目を逸らさず見ていれば、また肩が上がり、あの太い腕が鎖を引くのだと。

 

 動かなかった。

 

 首元から流れる血も、胸の傷も、そのままだった。

 握られていた斧剣がわずかに下がる。

 イリヤが息を吸った。

 

「バーサーカー。ねえ」

 

 男の背後で最後の一本が向きを変えた。

 俺はイリヤを抱え直そうとした。見せたくないと思った。

 それより先に、彼女が俺の腕を押しのけた。

 

 刃が走った。大きな音は、しなかった。

 

 巨人の顔が少しだけこちらを向いていた。

 鎖に引かれて動いたのか、俺たちを見たのかは分からない。

 俺の前には剣を構えたセイバーがいた。その後ろに、俺とイリヤがいる。

 

 バーサーカーの口が、開いていた。

 もう咆哮は聞こえなかった。

 

 肩の輪郭が薄くなった。

 

 巨人の腕の向こうに入口の扉が透けて見えた。

 もう、傷は塞がらない。消え始めた身体を見て、それだけは分かってしまった。

 

「待って」

 

 イリヤの声がした。俺の腕を押す力が急に弱くなった。

 

「まだ、そこにいて」

 

 身体が消えていった。

 あれほど大きかった肩も、鎖を握った腕も、床を踏みしめていた脚も。

 支えるものを失った鎖が宙で緩んだ。

 

 イリヤが一歩出た。

 俺は手首をつかんだまま、後ろへ引いた。

 今度は彼女も踏みとどまれず、俺の胸へぶつかった。

 

 その前を剣が通った。

 

 セイバーが払いのけていた。

 弾かれた刃が床を裂き、巨人が立っていた場所まで滑っていく。

 

「二人とも、私の後ろへ!」

 

 俺はイリヤを連れて下がった。

 彼女の靴が瓦礫に引っかかる。抱えるようにして引き寄せると、指が俺の腕へ食い込んだ。

 イリヤは、バーサーカーがいた場所を見ていた。

 

 そこには、もう誰もいなかった。

 

     *

 

 男がゆっくりと顔を上げた。

 俺たちへ向けていた手を止め、セイバーを見る。

 

 彼女の足元で石の粉が動き始めていた。

 

「シロウ。階段の陰へ。そこから出ないでください」

 

 セイバーは振り返らなかった。俺は頷いたが、彼女には見えない。返事をしようとして、喉に埃が引っかかった。

 

「分かった。……セイバー」

 

 呼び止めた声に、ほんの少し、横顔がこちらへ向いた。

 肩には血が滲んでいる。剣を構えた腕は下がらなかったが、息を継ぐたびに肩が小さく上下していた。

 俺からは、まだまともに魔力を渡せない。あれだけ戦って、傷まで負って、それでも俺たちの前に立っている。

 男の背後でまた武器の向きが変わる。今度はその全てがこちらへ向いていた。

 

「俺たちは下がる。だから、おまえも――」

「二人をかばったまま、あれを全て受け続けることはできません。ここで止めます」

 

 風が吹いた。

 

 屋内の空気が一斉に彼女へ引かれた。

 髪が頬へ張りつく。床の小石が転がり、イリヤの白い髪が俺の腕を離れて揺れた。

 

 セイバーの剣が、見えた。

 

 ずっと、そこにあるはずなのに見えなかったもの。

 両手で握られた柄とその先に伸びる刃。

 風が剥がれ落ちるように散って、金色の光が現れた。

 

 俺は息を止めていた。

 壊れた広間も、男の後ろに浮いている武器も、一瞬、目に入らなくなった。

 セイバーが持っているのは、こんな剣だったのか。

 

 彼女は両足を踏みしめた。

 俺たちはその背後にいる。剣の向く先には、男と、壊れた正面入口しかなかった。

 

 男の笑みが変わった。

 

「ようやく抜くか」

 

 イリヤへ向いていた切っ先が退いた。男は半身になり、広間の中央でセイバーを待った。

 

「よい。その一撃は我が受けてやる。出し惜しみは許さんぞ、セイバー」

 

 セイバーは答えなかった。

 鎧を包む光が強くなる。

 セイバーは柄を握り直し、切っ先を上げた。

 

 剣の形が頭の中へ焼きついた。刃へ集まっていく魔力の流れを追うだけで、息が詰まる。

 あれは斬りつけるためだけに溜めている力じゃない。

 一度に放つつもりなのだ。俺はイリヤを抱え、さらに階段の陰へ下がった。

 

 そのとき、頭上でガラスの砕ける音がした。

 

 男が顔を横へ向けた。

 空を切る音がした。

 次の瞬間、男の手に現れた剣と横から飛んできたものがぶつかっていた。

 

 甲高い音。

 二つに折れた刃が床で跳ねる。

 

 男は足元を見た。

 床に転がったものを確かめてから、それが飛んできた方へ顔を上げる。

 

「……誰の許しで、割り込んだ」

 

 二階の向こう側。砕けたガラスが降る窓辺に赤い外套があった。

 

 弓を持っている。

 

「アーチャー……!」

 

 今度こそ、俺の知っている方だった。

 彼は返事をしなかった。弓を引く腕を緩めず、下にいる男を見ている。

 

 その指の間で光が凝った。

 長いものが形を取り、弓へ添えられる。

 矢にしては幅があり、さっき男の後ろにあった剣と、よく似ていた。

 その刃を見た途端、内側の構造が頭へ流れ込んだ。形だけを似せた飾りじゃない。魔力を通すところまで、剣として出来上がっている。

 

 いま、作ったのか。

 何も持っていなかった指の間に、あれを。

 

 放たれた。

 

 男が剣を振り、その一撃も払い落とす。砕けた刃が光になって散った。

 

「贋作か」

 

 男の口元から、笑みが消えた。

 

「我の前で、よくもそんなものを並べたな」

 

 浮いていた武器がまとめて二階へ向いた。

 アーチャーが横へ跳ぶ。

 彼が立っていた場所へ剣が突き刺さり、手すりごと床が崩れた。

 

 俺はイリヤの頭をかばった。

 瓦礫が広間へ落ちてくる。

 

「凛、今だ!」

 

 上から短い声がした。

 ほとんど同時に、すぐ後ろで名前を呼ばれた。

 

「士郎、こっち!」

 

 振り返ると、遠坂がいた。奥の廊下から駆け寄って、俺の袖をつかむ。

 

「歩ける? 奥の通路は使えるわ。その子を連れて来て」

「ああ。でも、セイバーが」

「だから、先にあんたたちが下がるの。アーチャーが押さえてるうちに!」

 

 遠坂はイリヤの顔を見た。

 すぐには声をかけず、反対側からその腕を支える。

 

「イリヤスフィール。こっちへ。足元、気をつけて」

 

 遠坂が来た廊下の奥に、セラがいた。

 リズが足元の石を脇へ押しやり、俺たちへ手を伸ばしている。

 

 イリヤは動かなかった。俺が手を引くと、ようやく、一歩だけ足が出た。

 

 セイバーの剣はまだ光っていた。

 だが、振り下ろされてはいない。

 俺たちが遠坂に連れられて下がるのを、横目で確かめていた。

 

 上でアーチャーが弓を引き直す。

 こちらへ落ちかけた一本を射ち落とし、柱の向こうへ身を移す。

 そのすぐ後ろを男の剣が貫いた。

 

 遠坂の手が俺の肩を押した。

 

「伏せて」

 

 頭を下げると、セイバーが俺たちと敵の間へ移動していた。

 金色の剣を構えたまま、一歩も退かない。

 息を整え、握り直した柄へ力を込める。刃の光は、まだ消えていなかった。

 

 男は二階を見上げていた。

 アーチャーが射ち込んだ刃の破片が床で消えていく。

 視線がそこへ落ち、それからセイバーへ戻った。

 

 セイバーは俺たちをかばっている。

 アーチャーも前へ出てはこなかった。弓は向けたまま、こちらへ来る武器を狙っている。

 

 男が鼻で笑った。

 

「貴様の剣を見ようという時に、贋物の相手までさせる気か」

 

 セイバーは答えず、刃を上げた。

 男の背後にはまだ何本もの武器が浮いていた。

 その数は減っていない。

 男自身にも傷らしい傷はなかった。

 

 なのに、その手が下がった。

 

「興が失せた。今日のところは、ここまでにしておこう」

 

 慎二が壁際から顔を出した。

 

「は? ちょっと待てよ。まだやれるだろ。あいつら、もう――」

「我が終わりと言っている」

 

 慎二の口が閉じた。男はそちらを見もしなかった。

 

「セイバー。その剣を収めておけ。次に会うときまで、折ることは許さん」

「あなたの指図を受けるつもりはない」

「そうか。ならば、次もその目で我を迎えよ」

 

 男は笑った。

 さっきまでセイバーに向けていたのと同じ、勝手に何かを決めてしまう笑い方だった。

 

 その目が彼女の背後へ動いた。

 俺を見た。

 イリヤも見た。

 

 俺は彼女を自分の背後へ寄せた。

 何か一本でも飛んできたら、こんなことで防げるはずはなかった。それでも、何もせずに見返すことはできなかった。

 

 男はもう、手を上げなかった。

 

 宙の武器が一つずつ姿を消した。

 男が入口へ向かう。

 慎二は俺たちとその背中を交互に見て、最後には男の後を追った。

 

「おい、待てって。僕を置いていくなよ!」

 

 足音が遠ざかった。

 セイバーは剣を下ろさなかった。

 二階のアーチャーも弓を向けたままだった。

 

 俺たちは、ただ待った。

 もう一度、剣が飛んでくるかもしれなかった。

 壊れた入口から男が戻り、今度こそ全員を殺すのかもしれなかった。

 

 何も来なかった。

 

 冷たい風が広間を抜けた。

 

     *

 

「……戻ってくる気配はない」

 

 上から、アーチャーの声がした。

 セイバーがようやく剣を下げた。

 光が薄れ、刃が風の中へ隠れる。彼女は俺たちと入口の間に立ったまま、左右の通路へ目を向けた。

 

「セイバー、肩は」

「傷は浅い。まだ動けます」

 

 血のついた肩を一度動かしてから、剣を低く構え直した。

 言葉の間に、長く息を吐く。

 遠坂が近づき、鎧の傷を確かめた。

 

「肩を見せて。外はアーチャーに任せていいわ。あんたまで倒れたら、ここから出られないでしょ」

「……分かりました。お願いします」

 

 肩の鎧が消えた。遠坂は裂けた服をずらして血を拭い、傷口のそばへ指を当てる。

 低い声が何度か続いた。血の流れが弱まってから、布を押し当てる。

 セイバーは俺たちの前に立ったままだったが、もう先ほどのように剣を高く構えようとはしなかった。

 

「お嬢様!」

 

 セラの声がした。

 退路を開けていた廊下から、リズと一緒に出てくる。

 割れた床を回り込み、イリヤのそばへ走ってきた。

 

「お怪我は。どこか、痛むところはございませんか」

 

 セラが膝をつき、イリヤの顔を覗き込んだ。

 返事がない。

 セラは頬と首元を確かめ、それからイリヤの腕へ手を添えた。

 

「扉が崩れたときに、一緒に倒れました。頭は庇ったつもりです。でも、腕を何度も引っ張った。肩も診てもらえますか」

 

 俺に分かることを伝えた。

 

「イリヤ。痛いところ、あるか」

 

 彼女は少し遅れて首を振った。

 セラが続けて何か尋ねたが、今度は反応がなかった。

 

 リズが俺たちのそばへ来た。

 手に持っていた上着を広げ、イリヤの肩へかける。庭へ出る前にも、そうしてもらっていた。

 イリヤは上着を押さえなかった。

 片側が落ちかけるのをリズがそっと直した。

 

「イリヤ。これ、着て」

 

 その声にも、頷かなかった。

 

 遠坂が戻ってきて、俺の顔を見た。

 

「士郎、あんたは?」

「倒れたときに背中を打った。右手は石を受けて、イリヤに痛みを抑えてもらった。痺れも、今は引いてる」

 

 指を開いて見せた。もう、意識しなくても握り直せた。

 背中の痛みも、倒れた直後ほどではない。身体を捻っても、息は詰まらなかった。

 遠坂は俺の手を取り、手首を軽く動かしてから離した。

 

「息を吸うと痛む?」

「いや」

「あとで出てきたら、黙ってないでよ」

 

 頷いた。

 

 イリヤが動いた。

 

 最初は座る場所を探しているのかと思った。

 違った。

 セラの横を抜け、広間の中央へ向かっていた。

 

「お嬢様、そちらはまだ――」

 

 リズが、立ち上がったセラに目を向けてから、イリヤの向かう先を見た。

 その視線を追い、セラも言葉を止める。

 

 バーサーカーがいた場所だった。

 

 俺はイリヤを追った。後ろで名前を呼ばれたが、遠坂もすぐには追ってこなかった。

 

 床はひどい有様だった。

 大きくえぐれたところがあり、石の縁が鋭く立っている。血が溜まり、粉塵と混じって暗い色になっていた。

 

 イリヤはその手前で立ち止まった。

 下を見てから、ゆっくり顔を上げる。

 

「バーサーカー」

 

 誰かを呼ぶ、普通の声だった。

 

 俺も顔を上げてしまった。何か返ってくるような気がした。床が震え、あの大きな足が、彼女の後ろへ降りてくるような。

 

 入口の向こうで枝が揺れていた。

 ここから外が見えることが、おかしかった。さっき俺たちを迎えた玄関は、あんな形ではなかった。

 

 イリヤがもう一度、口を開いた。

 呼ぶ前に、唇を閉じた。

 

「……もう、来ないのね」

 

 俺に聞いたわけではなかった。返事をしようとしたが、何も言えなかった。

 

 イリヤの肩にかかった上着がずれた。

 直そうとして手を伸ばすと、彼女の膝が折れた。

 

 左腕で支えた。

 勢いを止めきれず、俺も一緒に膝をつく。石の角がズボン越しに当たったが、彼女を離さずに済んだ。

 

 イリヤは、俺を押し返さなかった。

 床へ片手をつき、もう片方の手で上着の前を握っている。

 その指が、震えていた。

 

「シロウ」

「ああ」

「わたし、呼んだのよ」

 

 頷いた。

 

「戻ってきてって。ちゃんと、呼んだのに」

「聞いてた」

 

 それだけ答えた。

 もっと何か言わなくては、と思った。イリヤのせいじゃない。あいつが悪い。バーサーカーは、最後まで。

 けれど、どこまで言っても、彼女が呼んだ相手は戻ってこない。

 

 イリヤは俺の袖をつかんだ。顔を上げようとして、途中でやめる。

 

「……いやだ」

 

 小さな声だった。

 唇を噛み、何かを飲み込もうとしていた。

 息だけが、うまく続かなかった。

 

 俺は上着を彼女の肩へ戻した。

 俺の手が勝手に震えるので、留め具を合わせられない。諦めて、布の上から肩を包んだ。

 

 少し離れたところでセラが立っていた。

 リズもいる。

 二人ともイリヤを急がせなかった。

 

 俺は本の部屋を思い出した。

 窓のそばの机。栞を挟んだ、小さな本。

 お茶を飲んだら続きを読んでくれるはずだった。セイバーから母親の話を聞き、まだ見ていない場所も案内してもらうつもりでいた。

 

 ほんの少し前までイリヤはその順番を考えていた。

 

 袖を握る手が強くなった。

 俺は彼女へ向き直った。

 

 イリヤは俯いたまま、泣いていた。

 

 顔を覗き込まず、そのそばにいた。袖をつかむ指が震えるたびに、左腕でその身体を支え直した。

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