Fate/stay night IF BEYOND THE EVER   作:Мир

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第十話 空席のある家

 上着の端が床についていた。拾い上げてイリヤの膝へ戻すと、彼女の指が布をつかんだ。俺の袖から離れたのはその間だけで、すぐに同じところへ手が戻ってくる。

 

 セラがそばに膝をついた。

 

「お嬢様。奥のお部屋へ移りましょう。ここではお身体が冷えてしまいます」

 

 イリヤは答えなかった。顔を伏せたまま、少しだけ息を吸う。肩に添えた俺の手にその震えが伝わった。

 

 広間の向こうでセイバーがこちらを見ていた。目が合うと、奥へ続く廊下を確かめてから頷く。

 

「イリヤ。立てるか」

 

 袖をつかむ指が動いた。

 

「……うん」

 

 先に片膝を立て、彼女が足をつくのを待った。セラも反対側から手を添える。立ち上がったイリヤは一度だけ俺の腕へ体重を預けた。それから足の位置を直し、自分で一歩を踏み出した。

 

 砕けた石を避けて歩く。イリヤは途中で振り返った。俺も足を止めたが、彼女は何も言わなかった。しばらく広間を見て、またこちらへ向き直った。

 

 手を引かず、歩き出すのを待った。

 

     *

 

 客間の窓は割れていなかった。扉が閉まると風の音が遠ざかり、耳の奥に残っていた響きがかえって気になった。

 

 イリヤを長椅子へ座らせる。俺も隣へ腰を下ろした。少し深く座ろうとして背中に椅子の縁が当たり、思わず息を止める。

 

「シロウ?」

「背中をぶつけただけだ。座り方が悪かった」

 

 彼女の目が俺の肩へ向いた。平気だともう一度言いかけて、やめた。まだ心配そうに見ていたので、ゆっくり体を起こしてみせる。

 

「こっちなら痛くない」

 

 イリヤは頷いた。膝の上で上着を寄せ、ようやく俺の袖から指を離す。

 

 リズが小さな盆を持ってきた。水の入ったグラスと白い布が載っている。続いてセラが湯を張った器を机へ置いた。

 

「手をお拭きします。お嬢様」

 

 イリヤは差し出された手を見て、自分の手のひらを開いた。白い指に黒い汚れがついている。床に手をついた跡だ。

 

「自分で、できるわ」

「では、こちらを」

 

 セラは布を渡した。イリヤが手のひらを拭う。指の間に残った粉を落とそうとして布を持ち替え、少し手間取った後、もう片方の手も拭いた。

 

 俺も自分の手を見る。爪の際まで灰色になっていた。顔を触る前に洗わないと、余計に汚すだけだ。

 

 席を立とうとすると、リズがもう一枚の布をこちらへ出した。

 

「シロウも」

「ああ。ありがとう」

 

 濡れた布を握って、初めて自分の指が冷えていることに気づいた。何度も手のひらを擦る。さっき拾った棒の感触がまだ残っている気がした。

 

 石を一つ逸らすだけで右手が痺れた。あの剣を受けていたら、棒もろとも腕を持っていかれていただろう。考えかけたところでグラスが小さく鳴った。

 

 イリヤが水を飲んでいた。一口で止め、両手で持ったまま膝の上へ下ろす。置き場所を空けようと机の上の布へ手を伸ばすと、彼女は首を振った。

 

「まだ、持ってる」

「そっか」

 

 伸ばした手を引っ込めた。セラは濡れた布を片付け、イリヤの前にグラスを置く場所を空けた。

 

 扉が開いた。入ってきた遠坂が俺たちを見て、声を少し落とす。

 

「外はアーチャーが見てる。今のところ、戻ってくる様子はないわ」

「……そうか」

「ただ、あいつに怪我をさせて追い返したわけじゃない。まだ近くにいるつもりで動いた方がいい」

 

 分かっている。男の背中には逃げていく人間の慌ただしさなんてなかった。こちらへ向けていた剣を消して、勝手に帰っていっただけだ。

 

 セイバーが扉のそばに立った。

 

「廊下は通れます。ですが、正面の広間へは戻らない方がいい。上から石が落ちている箇所があります」

「こちらの棟とお嬢様の居室は使えます」

 

 セラが答えた。

 

「今夜お休みになることはできます。表の始末は、後で私たちが」

「二人であそこを直すつもり?」

「すぐに元どおりにできるとは申し上げておりません」

 

 遠坂とセラが向き合った。声を荒らげているわけではない。ただ、どちらも譲りそうになかった。

 

「あの。先に一ついいですか」

 

 俺が口を挟むと、二人の目がこちらへ向いた。イリヤも顔を上げた。

 

「イリヤ。今日はうちに来ないか」

 

 グラスの縁に添えていた指が止まる。

 

「……シロウのお家?」

「ああ。泊まれる部屋はある。セイバーも一緒だし、遠坂にもすぐ連絡できる」

 

 イリヤは返事をせず、机の上へグラスを置いた。底が木の面に触れるまで両手を添えていた。

 

「ここでも、眠れるわ」

「うん。セラさんから聞いた」

「壊れたのは全部じゃないもの」

 

 その目が扉へ向いた。この部屋からは広間は見えない。

 

「……ここ、わたしのお城なのよ」

 

 知っている、と簡単には答えられなかった。朝ここへ来たときのことを思い出す。初めて見る俺よりも案内するイリヤの方が忙しそうだった。窓の外を見せ、部屋を見せ、俺がちゃんと見たかどうかを確かめていた。

 

「また来たいよ」

 

 イリヤが俺を見た。

 

「でも今日は、一緒に帰ってほしい。ここを出てからイリヤのことが気になっても、俺一人じゃちゃんと来られるかも怪しいし」

 

 言ってから少し情けなくなった。朝は手を引いてもらって、ようやく辿り着いたのだ。城の中でさえ最後の角を間違えた。

 

「お城まで来るのに、迷子になるの?」

「道を全部覚えたとはとても言えない」

「……そうね」

 

 笑い声にはならなかった。それでも、さっきよりは俺の顔を見ていた。

 

「うちにいてくれ。今夜だけじゃなくて、落ち着くまで。俺はその方がいい」

 

 イリヤは膝の上へ目を落とした。上着の留め具を指でなぞり、一つだけ留める。俺がさっき合わせられなかったところだ。

 

 待っていると、彼女が口を開いた。

 

「前に、見せてくれたお部屋」

「どの部屋だ?」

「誰も使っていないって言ったところ。戸を開けたら、向こうのお庭が見えたでしょう」

「ああ。道場を見た後の」

 

 イリヤが頷いた。窓の前で足を止めていた姿を覚えている。何を見ているのか、あのときは分からなかった。

 

「あそこ、使ってもいい?」

「もちろん。布団もある。帰ったらすぐ出せるよ」

 

 イリヤはもう一度留め具へ触れた。

 

「じゃあ、あそこに泊まるわ」

 

 俺は頷いた。よかった、と大きな声で言ってしまいそうになったが、彼女はまだ続きを話そうとしていた。

 

「セラとリズも一緒でいい?」

「ああ。二人の部屋も用意する」

 

 セラが小さく息を吸った。遠坂は俺とイリヤを見てから、扉のそばへ目を向けた。

 

「移るなら、明るいうちに動きましょう。家までアーチャーにも見させるわ」

「悪い。頼む」

「それと、家へ帰ったからって気を抜かないこと。あの男も慎二も、まだいるんだから」

 

 頷いた。離れたまま様子も分からずにいるより、一緒にいたかった。イリヤは俺たちの話を聞いていた。セラが何か言う前に、顔を上げる。

 

「セラ。着替えをお願い」

「お嬢様。それでは、当面のお召し物をお持ちします。ほかに必要なものはございますか」

 

 イリヤは考えた。扉を見てから首を横に振る。

 

「……あとで。少し、待って」

「承知しました。まず着替えの支度をいたします」

 

 セラがリズに目で合図をした。リズは頷いたが、すぐには動かない。イリヤの足元でずれていた上着を拾い、膝へかけ直してから扉へ向かった。

 

     *

 

 荷物の支度には少し時間がかかった。その間に遠坂とセイバーが廊下で短く話をした。金髪の男が前の戦いにもいたということ、その頃から幾つもの武器を使っていたということが、開いた扉から聞こえてくる。

 

 何本持っているのか。どこから出していたのか。あの鎖をどうすれば外せたのか。

 

 浮かんでくる問いのどれにも、俺は答えられなかった。あの一本が冷気を放つことは分かった。けれど、ほかの武器まで同じように分かったわけじゃない。その一本にさえ、身体の反応が間に合わなかった。

 

「シロウ」

 

 イリヤがこちらを見ていた。

 

「なに?」

「セラを呼んでくれる?」

 

 セラは、ちょうど荷物を持って戻ってきたところだった。俺が立つより先にそばへ来る。

 

「いかがなさいましたか」

「本。窓のそばの机に置いたままなの」

 

 セラは一度廊下を見た。

 

「先ほどお取りにいらした本でしょうか」

「ええ。それも持っていきたいわ」

 

 俺が取りに行く、と口にしかけた。だが、さっきとは通れる道が違う。何も分からず歩き回って、かえって手間を増やすのもまずかった。

 

 リズが荷物を床へ下ろした。

 

「裏の階段。通れる」

「そうですね。向こうの廊下からなら。リズ、広間の側へは出ないように」

「うん」

 

 セラが部屋の場所を確かめ、リズが出ていった。その背中が見えなくなるまでイリヤは扉を見ていた。

 

「ほかにも持っていきたいものがあるか」

 

 俺が尋ねると、彼女は首を振った。

 

「今は、あれだけ」

 

 少しして、リズが本を持って戻った。表紙に白い埃がついている。セラが布で払おうとしたが、イリヤは先に両手を伸ばした。

 

「ありがとう。リズ」

 

 本を膝へ置き、そっと開く。細い栞が挟まっていた。森の中の道と枝に止まった鳥が見えた。さっき彼女が指で追いながら話してくれた絵だった。

 

 イリヤの指がその鳥のところで止まった。何か言おうとしたように見えたが、声にはならなかった。

 

 ページを戻し、本を閉じる。

 

「これは、わたしが持つ」

 

 セラは開けかけた鞄を閉じた。

 

「では、それ以外のお荷物はこちらで」

「そっちの袋、俺が持ちます」

 

 取っ手へ手を伸ばすと、セラは一瞬離さなかった。

 

「右手は、もうよろしいのですか」

「はい。これくらいなら持てます」

「では、軽い方だけ。落とさないでください」

「はい」

 

 受け取った袋は軽かった。力を入れすぎていた指を緩め、持ち直す。セラはそれを見届けてからイリヤの前へ屈んだ。

 

「お支度は整いました」

 

 イリヤは本を胸へ抱いた。長椅子から立ち、部屋の中を見渡す。机には少しだけ水の減ったグラスが残っていた。

 

「……行きましょう」

 

 彼女がこちらへ手を伸ばした。袋を右手に持ち直し、空いた左手でその手を取った。

 

     *

 

 城を出たのは正面とは別の小さな扉からだった。セラが鍵をかけ、その脇の窓も確かめた。広間に開いた大きな穴のことを思うと、それで何かを防げるとは考えにくかったが、彼女は一つずつ手を動かしていた。

 

 セイバーが先に立ち、セラが道を示す。リズはイリヤのすぐ後ろにいた。遠坂が歩き出すと、少し離れた木の上で赤いものが動いた。

 

 アーチャーだった。こちらを一度見て先の枝へ移る。

 

「遠坂。あいつにも礼を言いたいんだけど」

「聞こえてるわよ。それくらいなら」

 

 見上げてみたが、もう赤い外套はなかった。どこへ向かって言えばいいのか分からず、結局正面へ顔を戻す。

 

「助かった。ありがとう。遠坂も」

「……どういたしまして」

 

 思っていたよりも静かな返事だった。遠坂は木の間を見てから俺たちの隣へ戻った。

 

「家に着いたら、あんたも休みなさいよ。今夜またどこかへ出掛けるのはなし」

「分かってる」

「そういう返事をする時ほど、後から用事を思いつくんだから」

 

 否定しようとして、やめた。帰ったら布団を出して、飯を作る。連絡も必要だ。確かに、思いつく用事なら幾つもあった。だが、どれも家の中で済む。

 

 イリヤが木の根をまたいだ。俺も続く。行きに見たものと同じだったか、別の根だったかは分からない。空はまだ明るかったが、足元はもう暗かった。

 

 彼女の手がときどき俺の手の中で動く。滑りそうなのかと思って握り直すと、彼女はそのまま手を預けていた。

 

「その本も袋に入れるか」

「これくらい持てるわ」

「分かった。疲れたら言ってくれ」

 

 イリヤは袋を持った俺の右手を見た。

 

「手、痛くないの?」

「ああ。さっきよりずっと楽だ」

「……じゃあ、落とさないでね」

「セラさんにも言われた」

「うん。聞いてた」

 

 俺の手元を確かめ、彼女は本を抱え直した。

 

「わたしの荷物なんだから、大事に運んでね」

「分かってる。ちゃんと部屋まで届けるよ」

「ええ」

 

 それきりしばらく話さなかった。前を行くセラが枝を押さえる。イリヤが通り、俺も頭を下げて抜けた。

 

 誰かの足が落ち葉を踏む音が続いていた。朝には気にも留めなかった音だった。今は後ろからバーサーカーの足音が重なるような気がして、何度か耳を澄ませてしまった。

 

 聞こえるのは俺たちの歩く音だけだった。

 

     *

 

 町へ戻る頃には店の灯りがつき始めていた。道の向こうを自転車が通り、角の店から買い物袋を持った人が出てくる。森の土がついた靴で歩いていることが急に気になった。

 

 イリヤは本を脇に挟み、空いた指で上着の襟を直した。手をつないでいる方の腕が伸びきりかけていた。早く家へ着きたくて、いつの間にか足が速くなっていたらしい。俺は歩くのを少し緩めた。

 

 家の門が見えたとき、ポケットへ手を入れた。鍵がうまく出てこない。袋の持ち手を手首へかけ直し、もう一度探る。

 

「シロウ。手」

 

 イリヤがつないだ手を少し上げた。

 

「ああ、ちょっと待ってくれ。鍵が――」

「放してもいいわよ。ここまで来たんだから」

 

 指がほどけた。その手が本へ戻るのを見てから、鍵を取り出した。

 

 門を開け、玄関の戸を引く。

 

「ただいま」

 

 誰もいないと分かっているのに、いつもの声が出た。灯りをつけると、上がり框も廊下も朝出たときのままだった。

 

 セイバーが先に上がった。居間の戸を開け、奥へ目を向ける。

 

「私が見てきます。シロウは皆さんを」

「頼む」

 

 イリヤは靴を脱ぐ前に一度廊下を見た。俺が袋を床へ置くと、イリヤは本をこちらに預け、屈んで靴を揃える。

 

「前と、同じね」

「まだ何日も経ってないだろ」

「……そうだったわ」

 

 イリヤは本を受け取って上がってきた。俺はつい居間の方へ手を向けかけた。今日はまず、泊まる部屋へ案内しなければ。

 

「こっち。覚えてるか」

「途中までは」

「じゃあ、今度は俺が案内するよ」

 

 廊下の灯りを順に点けた。使っていない部屋の戸を開くと、畳の匂いがした。閉めきっていた部屋の空気は少し冷たい。窓を確かめ、暖房を入れる。小さな音を立てて風が出始めた。

 

 イリヤは入口で立ち止まった。前にそうしたのと同じように、向こうの窓を見ていた。

 

「ここでいいか」

 

 彼女が頷く。

 

「ええ。ここがいい」

 

 セラが部屋へ入った。窓と戸を見てから持ってきた鞄を壁際へ置く。

 

「寝具はどちらに」

「隣の押し入れです。そっちの部屋はお二人に使ってもらえれば」

「拝見します」

 

 返事をする間もなく、セラが隣へ移る。リズはイリヤの手から上着を受け取り、畳の上へ広げないよう腕にかけた。

 

 俺は座布団を一枚出した。イリヤがそこへ座り、本を自分の横へ置く。表紙の端を畳の目に合わせるように動かしてから手を離した。

 

「机も持ってこようか。小さいのなら、ここに置ける」

 

 窓際を指すと、イリヤは少し考えた。

 

「お庭が見えるところ?」

「ああ。寒かったら、もっと中へ寄せられる」

「そこがいいわ。でも、今じゃなくていい」

「重いものじゃないから、すぐ――」

「シロウ」

 

 呼ばれて口を閉じる。彼女は座布団の端を指で押さえ、隣の空いた場所を見ていた。俺もそこへ腰を下ろした。

 

「これでいいか」

「うん」

 

 部屋が暖まるには、まだ少しかかりそうだった。廊下で鞄の留め具が鳴り、リズが隣の部屋へ荷物を運んでいった。イリヤは窓の外へ目を戻した。俺も同じ方を見る。見慣れた庭の石が、夕方の光の中で白く浮いていた。

 

「エミヤ様」

 

 隣から呼ばれ、戸口へ向かった。セラは押し入れから出した布団を前に、こちらを見ていた。

 

「敷布団はこちらでよろしいですね。替えの掛け布団と枕も三人分ありますか」

「あります。上の段に。カバーは……ああ、それは洗ってあるやつです」

 

 リズも来て棚の奥へ手を伸ばした。俺が踏み台を取りに行く前に、積んであった寝具が順に下りてくる。

 

「俺もやります」

「では、洗面所と浴室を教えてください。湯の使い方も」

 

 確かにそちらは俺がやった方が早かった。リズが布団を抱えてイリヤの部屋へ向かうのを見届け、セラを廊下へ案内する。

 

「タオルはここです。足りなかったら下の棚にもあります。風呂は今から沸かすので、先に顔と手を洗ってもらえれば」

「分かりました」

 

 セラは一つずつ確かめた。俺の顔を見て少し眉を寄せる。

 

「あなたもお着替えになった方がよろしいでしょう」

 

 言われて服を見下ろした。袖に白い筋がついている。膝も埃でひどい色だった。

 

「そうします。飯を作る前に」

「お食事はこれからですか」

「はい。あるものでよければ、そんなに待たせません」

「……では、支度が済みましたらお手伝いします」

 

 軽く頭を下げられた。俺も慌てて頭を下げた。

 

     *

 

 自分の部屋で着替え、顔と手を洗った。頬に残っていた汚れを落とす。細かな擦り傷はもう塞がっていて、水も沁みなかった。城を出てから、まだそれほど経っていないのに。鏡を覗くと、目の下に疲れが残っているほかは、朝とたいして変わらない顔があった。

 

 背中を見るために体をひねっていると、廊下から遠坂に呼ばれた。

 

「士郎。ちょっと」

 

 居間へ行くと、セイバーもいた。肩の当て布を直したところらしい。遠坂は残った布を片付けながら、俺を座らせた。

 

「帰り道はどうだった?」

「背中もだいぶ楽になった。手はもう何ともない」

「見せて」

 

 服を持ち上げると、遠坂の指が背中の一か所を押した。

 

「そこは押されると少し痛い」

「打った跡ね。深く息を吸ってみて」

 

 言われたとおりにした。それは平気だった。遠坂が手を離し、服を下ろすよう促す。

 

「今日は無茶しないこと。セイバーもね。肩を使う稽古なんて言語道断だから」

「しないよ」

「ええ。まだ魔力も戻っていません。今夜は休みます」

 

 セイバーの返事に少しだけ肩の力が抜けた。あれだけ動いた後で、もう一度剣を持てと言われても困る。

 

「遠坂。飯、食べていくか」

「今日は帰る。家に置いてある宝石を確かめておきたいし」

 

 戸口にアーチャーがいた。いつ入ったのか分からなかった。気づいた俺を見ても、特に何も言わない。

 

「周りに気になるものはない。だが、今見た範囲の話だ」

「ああ。外へは出ない」

「それでいい」

 

 遠坂はセイバーへ向き直った。

 

「セイバー。異変に気づいたら、まず皆を起こして。追って出るのはなしよ」

「ええ。退路を確保します。シロウたちは先に離れてください」

 

 遠坂が廊下へ声をかけると、セラが顔を出した。遠坂は、もしものときには家を守ろうとせず、イリヤを連れて外へ出てほしいと伝えた。

 

「お嬢様には私たちがつきます。裏から出る道はございますか」

「勝手口から庭へ抜けられます。あとで案内しますよ」

「では、リズにも確かめさせます」

 

 遠坂が俺へ顔を戻した。

 

「電話は家を離れてからでいいからね。あんたも荷物なんか取りに戻らないのよ」

「分かってる」

 

 うちの戸や塀で、あの剣を防げるわけじゃない。俺たちがいつまでも家に残っていたら、セイバーも退けなくなる。

 

 遠坂が立ち上がった。

 

「明日連絡するわ。慎二から何か言ってきたらそれも教えて」

「分かった」

「変わったことがあったら、夜中でもいいから電話しなさい。朝まで一人で考え込むのはやめてよ」

 

 玄関まで送る途中、遠坂はイリヤの部屋の前で足を止めた。戸は少し開いていた。セラが中で荷物を出している。

 

「イリヤスフィール。わたしたちは帰るわね」

 

 中から短い返事がした。

 

「……ええ」

「また来るわ。今日は休んで」

 

 返事を待ってから遠坂は戸の前を離れた。アーチャーは先に外へ出ていた。

 

 門のところでもう一度礼を言った。遠坂は片手を上げただけで、そのまま歩いていった。

 

     *

 

 セラとリズに勝手口から外へ出る道を見てもらってから、米を研いで炊飯器に入れた。それから電話をかける。藤ねえは今日も爺さんの家にいた。昨日より声に張りがあって、こちらが聞く前に夕方まで寝ていたと白状した。

 

『おかげで今、全然眠くないのよねえ』

「それでまた夜更かしするなよ」

『分かってます。今日はこっちでご飯も食べるから。士郎は?』

「これから作る。あと、今夜から知り合いが泊まることになった」

 

 受話器の向こうが静かになった。

 

『……誰が?』

「イリヤっていう子。前にうちへ遊びに来たこともある。今日は付き添いの人も一緒なんだ」

『急に泊まるって、何かあったの?』

 

 台所の方で戸棚を開く音がした。セラが食器の場所を確かめている。

 

「向こうで少しごたごたがあって。今夜はうちで休んでもらいたいんだ。詳しくは、本人が落ち着いてからにしたい」

『その子、大丈夫なのね? 具合が悪いとか、怪我をしてるとかじゃないの?』

「怪我はない。今はセラさんっていう付き添いの人が見てくれてる」

『その人、代われる?』

 

 セラへ声をかけると、こちらの用件を聞いて頷いた。受話器を渡す。名乗りと挨拶が続き、今夜の滞在についての話になった。

 

 俺は流しへ戻り、鍋に水を張った。イリヤの普段の暮らしは俺よりセラの方がよく知っている。任せておけばいいと思いながら、聞かれたらすぐに戻れるよう台所の戸は開けておいた。

 

「エミヤ様。藤村様が、もう一度お話しになりたいそうです」

 

 数分も経たず、受話器が戻ってきた。

 

『分かった。今日はゆっくりさせてあげなさい。わたしにも、ちゃんと会わせるのよ』

「ああ。本人にも話しておく」

『それと、ご飯が足りなくなったら電話して。こっちにおかず、あるから』

「五人分くらいなら何とかなるよ」

『……付き添いって、二人?』

「二人」

『最初に言いなさいよ、もう』

 

 呆れた声が少しだけいつもの藤ねえだった。ちゃんと食べなさい、と最後に念を押されて電話を切った。

 

 続けて間桐の家へ電話をかけた。呼出音が何度か鳴ってから、桜の声がした。

 

『はい、間桐です』

「桜。俺だけど、今、大丈夫か」

『先輩? はい。どうかしましたか』

「いや。今日はどうしてたかと思って。少しは楽になったか」

『ええ。ずっと家にいましたから。もう、そんなに心配していただかなくても』

 

 声は昨日よりしっかりしていた。だが、学校で壁に寄りかかっていた姿を思い出すと、そこで話を終える気にはなれなかった。藤ねえと病院へ行った後も、だるさが残っていると言っていたのだ。

 

「飯は食べた?」

『はい。先ほど。先輩は、これからですか?』

「ああ。今、米を炊いてるところ」

 

 居間の方でリズの声がした。茶碗の置き場所を尋ねたらしく、セラが何か答えている。

 

『お客様ですか』

「うん。イリヤっていう子と、付き添いの人が二人。しばらく泊まってもらうことになったんだ」

『……そうなんですね』

 

 少し間があった。俺が言葉を探していると、桜が話を続けた。

 

『それなら、お食事の支度、大変じゃありませんか。わたしもお手伝いに行きます。今からなら――』

「待った。今日は休んでたんだろ。まだ身体がだるいんじゃないのか」

『少しだけです。台所に立つくらいなら、平気ですから』

「その少しがなくなるまで、休んでてくれ。手伝ってくれる人はいるし、五人分なら作れるよ」

『……分かりました。それなら、お邪魔はしません』

「邪魔なんて言ってない。桜が来ると、こっちが頼む前に全部やってくれるだろ。今日はそれをさせたくないんだ」

 

 言ってから、少し強かったかと思った。受話器の向こうが静かになる。

 

「元気になったら、また一緒に作ってくれよ。今日は俺が作るから」

『……はい。それなら、先輩もちゃんと召し上がってくださいね』

「食べるよ。さっき藤ねえにも同じことを言われた」

『藤村先生が?』

「ああ。おかずが足りなければ電話しろってさ」

 

 桜が小さく笑った。その声を聞いて少し安心したところで、城を出ていった慎二の顔が浮かんだ。

 

「それと、慎二は帰ってるか」

『兄さん、ですか?』

「ああ」

『今日は、まだ顔を合わせていません。何かご用でしたら――』

「いや、呼ばなくていい。ちょっと気になっただけだ」

 

 何をどこまで話せばいいのか、分からなかった。あいつがあの男と一緒にいたことを、桜へ説明するわけにはいかない。けれど、今日の慎二を知っているのに、何も聞かずに済ませることもできなかった。

 

「桜。慎二のことでも、身体のことでも、困ったら電話してくれ。夜でもいいから」

『……はい。ありがとうございます』

 

 少し戸惑った返事だった。無理をせずに寝るようもう一度伝えて、電話を切った。

 

 受話器に手を置いたまま、しばらく動けなかった。慎二は今も、あの男と一緒なのだろうか。俺たちに向けた苛立ちを、そのまま家へ持ち帰ったら。桜は大丈夫だと言うだろう。さっきも、だるさが残っていることより、うちの食事の支度を気にしていた。

 

 電話では普通に話せていたし、飯も食べたと言っていた。だるさの残る身体で今から出てきてもらうより、今夜は休んでほしい。それは変わらない。だが、休むように言っただけで、慎二のことまで安心していいわけじゃなかった。

 

 明日また電話して、同じ返事を聞く。それだけでいいのか。

 

 受話器から手を離した。遠坂に話そう。桜には言えなかった今日の慎二のことも、あいつなら知っている。

 

「エミヤ様。鍋が」

 

 台所から声がした。慌てて戻ると、湯が沸いていた。火はもう弱められている。

 

「すみません。助かりました」

「お電話は済みましたか」

「はい。始めましょう」

 

 手を洗い直し、冷蔵庫を開けた。

 

     *

 

 卵を割ると、殻の欠片が一つ落ちた。箸で取ろうとして逃げられ、結局指で拾う。

 

 セラが横から見ていた。

 

「いつもはもう少しうまくやるんですけど」

「何も申し上げておりません」

「……そうですね」

 

 弁明する方がよほどみっともない。卵を溶き、だしを加える。温めた鍋へ薄く流すと、やっと手がいつもの動きを思い出した。

 

 セラは野菜を切っていた。置き場所を一度確かめただけで、こちらの作業を妨げずに動いている。見知らぬ台所へ来てすぐにこれだけ出来るのはさすがだと思った。

 

「そちらの肉はこちらで炒めますか」

「お願いします。調味料は棚の下です。辛くしない方がいいですよね」

「ええ。今日はなおさら」

 

 それだけ言ってセラは鍋を選んだ。

 

 リズが盆を持ってきた。並べてある茶碗を数え、そのうちの一つを持ち上げる。

 

「イリヤ、これ?」

「ああ。まず少しだけ盛ってもらえるか。足りなかったら後で足すから」

「分かった」

 

 白い飯が茶碗へよそわれる。俺は味噌汁の火を止めた。豆腐と棚に残っていた乾燥わかめ。凝ったものじゃないが、熱いうちに出せる。

 

 居間へ運ぶと、イリヤが席についていた。着替えて髪も整えてもらったらしい。目の周りは赤かったが、城の埃は落ちていた。

 

 近づくとこちらを見た。

 

「ごはん?」

「もう出来る。待たせたな」

 

 盆から椀を下ろす。イリヤは湯気を見て少し顔を寄せた。

 

「熱いからな」

「見れば分かるわ」

 

 そう言いながら、手はすぐに出さなかった。俺も余計なことを言わず、次の皿を置く。

 

 セイバーが大皿を運んできた。続いてセラとリズが入り、座卓の上が埋まっていく。いつもより人が多いので、皿の位置を少しずつずらした。

 

「セラさんもどうぞ」

「お嬢様の分をお取りしてから」

「うん。それが済んだら座ってくれ。冷めるから」

 

 自分の席へ回りかけて、箸が一膳足りないことに気づいた。台所へ取りに戻る。戻ったところで醤油差しが見当たらず、また立とうとするとイリヤが俺の袖を引いた。

 

「もう、いいわ」

「いや、醤油を」

「食べてからでも間に合うでしょう。わたし、今はいらないもの」

 

 セラが自分のそばにあった醤油差しを中央へ置いた。ちゃんと運ばれていたらしい。

 

「……じゃあ、食べよう」

 

 腰を下ろすと、ようやく座卓が落ち着いて見えた。手を合わせる。イリヤもこちらを見てから箸を取った。

 

 セイバーが最初に味噌汁を飲んだ。椀を置き、小さく息をつく。いつもと変わらない飲み方に俺も少しほっとした。

 

 俺も飲んだ。温かいものが腹へ入ると、急に空腹を思い出した。城で食べたパンがずいぶん前のことに思えた。

 

 隣ではイリヤが小さく切った卵焼きを口へ運んでいた。ゆっくり噛んで飲み込む。俺が見ていたことに気づくと、少し眉を寄せた。

 

「何?」

「いや。味はどうかなって」

「シロウも同じものを食べているでしょう」

「それはそうだけど。口に合うかは別じゃないか」

「卵、柔らかいわね。……そんなに見ていなくても、ちゃんと食べるわ」

 

 そう言って、イリヤはもう一切れ箸でつまんだ。小さな卵焼きを俺に見せてから、自分の皿へ置く。

 

「冷めちゃうわ。シロウのも」

「……ああ」

 

 気づけば、俺の箸はさっきから止まっていた。手元の皿へ戻すと、イリヤも椀を持ち上げた。

 

 しばらく食器の触れる音だけがした。リズが大皿を少しこちらへ寄せ、セラが取り分ける。セイバーは二人に礼を言ってから飯を口へ運んだ。

 

「シロウ」

 

 イリヤの椀がこちらへ差し出された。

 

「少し、足して。お汁だけ」

「分かった」

 

 受け取って立ち上がり、鍋から注ぐ。半分まで入れたところでもう少し入れるか迷った。だが、少しと言われたのだから、そのまま席へ戻った。

 

「これくらい?」

「ええ」

 

 イリヤが両手で受け取る。すぐには飲まず、掌を椀の外側へ添えていた。

 

 途中で廊下の奥から小さな音がした。風呂の湯が沸いた合図だった。

 

 イリヤの顔が上がった。箸を持つ手が止まり、廊下を見る。

 

「風呂だよ。湯が沸いたんだ」

 

 俺が言うと、イリヤは瞬きをした。

 

「……そう」

 

 箸の先が皿へ戻った。けれど、しばらくそのままだった。

 

 俺は醤油差しを寄せた。必要もないのに持ち上げかけ、置き直す。何か喋った方がいいのか。喋らない方がいいのか。考えていると、セラが静かに声をかけた。

 

「お嬢様。こちらは残されますか」

 

 小皿には炒めた野菜が少しあった。

 

「ううん。後で食べる」

「承知しました」

 

 セラは皿を下げなかった。そのまま自分も食事へ戻った。

 

 俺も茶碗を持ち直す。何度も様子を窺っていたら、イリヤも食べにくいだろう。

 

 飯は少し冷めていた。口へ入れて噛む。肉も野菜もセラがちょうどいい味にしてくれていた。

 

 やがてイリヤが残っていた野菜を一つ取った。何も言わずに食べ、最後に椀へ口をつける。

 

「ごちそうさま」

 

 箸を揃えて彼女が言った。茶碗にはまだ少し飯が残っていた。

 

「ああ。お粗末さま」

 

 皿を重ねようとすると、イリヤが自分の椀を持ち上げた。盆の空いている場所を探し、そこへ置く。

 

「ありがとう」

「それくらいできるわ」

 

 そう言って今度は箸を渡してきた。

 

     *

 

 風呂はイリヤたちに先に使ってもらった。俺とセイバーで食器を台所へ運び、残りを片付ける。

 

「拭く方、頼めるか」

「はい」

 

 セイバーが布巾を取った。俺は重い鍋を後回しにし、まず茶碗から洗う。温かい湯に指を入れると、ようやく手に残っていたこわばりが抜けていくようだった。

 

「シロウ」

「ん?」

「イリヤスフィールの部屋は暖まっていましたか」

「ああ。隣の部屋も。布団はセラさんたちが出してくれた」

「そうですか」

 

 拭き終わった皿がいつもの棚へ戻された。次の皿を渡しながらセイバーの肩を見る。

 

「痛むか」

「この程度の動きなら問題ありません」

「でも、まだ治ってないんだよな」

「……ええ。もう少しかかります」

 

 皿を受け取る腕はいつもどおりに見えた。その肩に、今も布が当てられている。

 

「残りは俺がやるから、休んでくれ。今日はずっと立ってただろ」

 

 セイバーは手元の皿を見た。それを拭き終え、棚へ入れてから頷いた。

 

「では、そうします。戸締まりは確認しました。シロウも片付けが済んだら休むように」

「分かってる」

 

 遠坂にもした返事だった。けれど、今度は本当に風呂に入ったら眠ろうと思っていた。

 

 セイバーが居間を抜けていく。その後ろ姿へ声をかけた。

 

「セイバー」

 

 彼女が振り返る。

 

「今日は、ありがとう。ずっと守ってくれて」

 

 何も言わない時間があった。肩の傷へ目が行きかけたが、セイバーの顔へ視線を戻した。

 

「……シロウたちが無事で、よかった」

 

 静かな返事だった。俺は頷いた。それ以上はうまく言えなかった。

 

 鍋を洗い、台を拭いた。炊飯器に残った飯は小さく分けておく。明日の朝に使えるし、夜中に誰か腹が減ったと言っても出せる。そこまで済ませると、思いつく仕事が一つ減った。

 

 まだ何かあったような気がして、台所を見渡す。戸棚は閉まっている。火は消した。水も止まっている。

 

 もう、ここには用事がなかった。

 

 台所を出て、遠坂の家へ電話をかけた。今度は話す前に、何を聞きたいのか少し考えた。

 

「桜と話したんだ。まだだるいって言ってるのに、うちの飯を作りに来ようとするから、今日は休んでくれって言った」

『……それで?』

「慎二とは顔を合わせてないそうだ。でも、家にいないとは限らない。今日のあいつを見た後だと、桜をあそこに置いたままでいいのか気になって」

 

 遠坂はすぐには答えなかった。

 

『……桜、まだだるいのね』

 

 いつもより低い声だった。俺は、桜の声は昨日よりしっかりしていたことと、食事は済ませたと言っていたことも話した。

 

『分かった。朝、そっちへ行くわ。桜にどう話すかも含めて、一度ちゃんと相談しましょう』

「ああ。頼む」

『今夜何か連絡があったら、それは待たずに教えて。あんた一人で迎えに出たりしないでよ』

「分かった」

 

 電話を切った。どうするかは、まだ決まっていない。朝になったら、遠坂と話して、それからもう一度桜の様子を聞こう。

 

 奥にいても呼出音が聞こえるよう、廊下の戸は開けておいた。

 

     *

 

 俺が風呂から出たとき、家の中は静かになっていた。廊下の向こうに灯りが残っている。

 

 髪を拭きながら行くと、リズが空になった鞄を部屋の隅へ寄せていた。セラはイリヤの掛け布団を直している。イリヤはその手前に座り、窓へ顔を向けていた。

 

「寒くないか」

 

 戸口から声をかけると、彼女がこちらを見た。

 

「寒くないわ」

「よかった。湯、足りた?」

「ええ」

 

 それだけ聞くと、次に何を言えばいいか分からなくなった。何か困っていないか確かめに来たのだ。困っていないなら、もう戻ってもよかった。

 

「シロウ」

 

 イリヤが俺の持っているタオルを見た。

 

「まだ濡れてる」

「髪? ちゃんと拭いたつもりだったんだけど」

「後ろ。はねているところ」

 

 手をやると、指が湿った。見えているところだけ拭いていたらしい。

 

 タオルを当て直す。今度は後ろまで擦ったつもりだったが、イリヤはまだこちらを見ていた。

 

「今度は?」

「反対側も」

「こっちか」

「ええ。……シロウって、自分のことになると雑なのね」

「見えないんだから仕方ないだろ」

「わたしには見えるもの」

 

 それはそうだ。もう一度タオルを当てると、ようやく頷いてもらえた。イリヤは俺から目を離し、セラへ向き直った。

 

「もう、大丈夫よ。二人も休んで」

「何かございましたら、お呼びください。隣におりますので」

 

 セラは立ち上がった。イリヤが頷くと、リズも荷物から手を離す。

 

「おやすみ、イリヤ」

「おやすみ。リズ、セラ」

 

 二人が出てくるので、俺は戸口の脇へ身をよけた。セラがこちらを見た。

 

「あまり遅くならないように」

「はい」

 

 小さく頭を下げ、二人を見送った。隣の戸が閉まり、部屋の中から鞄を動かす音がした。

 

 イリヤの前へ座る。布団のそばに本が置いてあった。栞の先が表紙から少し出ている。

 

「ここ、朝は明るい?」

 

 彼女が尋ねた。

 

「今よりは。庭の木で少し陰になるけど、真っ暗にはならないよ」

「音は?」

「音?」

「朝。シロウが起きたら、ここまで聞こえる?」

 

 俺は廊下の方を見た。台所からは少し離れているが、全然聞こえないほどではない。

 

「戸を開けて歩いたら、分かると思う。なるべくうるさくしないようにするから」

「……そういうことじゃないわ」

 

 イリヤは掛け布団の端を指で押さえた。

 

「起きたら教えて」

「寝てても?」

「うん。目が覚めたら、もういないのはいやだから」

 

 少し考えて頷いた。

 

「分かった。飯の支度をする前に声をかける」

「約束よ」

「ああ。台所へ行く前に、ここへ来る」

 

 今度は、彼女も俺の顔を見た。本へ手を伸ばし、膝の上に載せる。

 

 続きを読んでもらうはずだった。城の客間で、もう一度お茶を飲みながら。その後でまだ見ていない場所へ行く。セイバーから聞きたい話もあった。

 

 表紙を押さえた指が動かなかった。

 

「今日は、読まない」

 

 イリヤが言った。

 

「ああ」

「明日も読むか分からないわ」

「うん」

 

 俺の返事を聞いてから本を元の場所へ戻した。今度は栞の端を中へ入れず、そのままにする。

 

 外で風が吹いた。窓がかすかに鳴り、イリヤの目がそちらへ動いた。すぐに顔は戻ったが、唇が何かの形になっていた。

 

 名前を呼びかけたのかもしれなかった。俺には聞こえなかった。

 

「……横になるか」

 

 イリヤが頷いたので立ち上がった。枕が少しずれていた。直そうと手を出しかけると、彼女が自分で引き寄せた。俺は座布団を脇へ寄せる。

 

「灯りはどうする?」

「小さいのにして」

 

 紐を引き、明かりを落とした。橙色の灯りが残り、窓のガラスに映っていた部屋が見えにくくなる。

 

 イリヤが布団へ入るのを確かめて戸口へ向かった。座っていたせいで、脚が少し痺れていた。音を立てないよう踏み出したところで、背後から声がした。

 

「シロウ」

 

 振り返った。イリヤはまだ横にならず、掛け布団を胸のところへ寄せていた。

 

「もう、寝るの?」

「ああ。俺もそろそろ」

「……そう」

 

 彼女は目を伏せた。俺は戸に手をかけたまま動けなくなった。

 

「何かあるか」

 

 少し間があった。イリヤは布団をつかみ直し、一度口を開いてから俺の方を見た。

 

「もう少し、ここにいて」

 

 戸から手を離した。

 

「ああ。いるよ」

 

 戻って座布団を敷き、布団のそばへ座る。イリヤは俺が落ち着くのを見てから横になった。こちらに顔を向け、片手を布団の外へ出す。

 

 何か話そうとした。明日の朝飯のことでも、ここから見える庭のことでもいい。口を開きかけたところで、その手が俺の袖に触れた。

 

「そこにいてくれればいいの」

 

 俺は頷き、袖が突っ張らない位置へ座り直した。イリヤの指から少しずつ力が抜けていく。

 

 隣室で小さな物音がして、やがて静かになった。廊下を通る足音もなくなった。

 

 しばらくしてイリヤが目を閉じた。眠ったのかと思ったが、俺が膝の向きを変えると薄く目を開けた。

 

「……いる?」

「いる」

 

 返事をすると、また瞼が下りた。その指は袖に触れたままだった。

 

 枕元の本に橙色の灯りが当たっていた。

 俺は壁へ背中を預け、ゆっくりと座り直した。もう背中は痛まなかった。

 今度はイリヤの手を動かさずに済んだ。

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