Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
上着の端が床についていた。拾い上げてイリヤの膝へ戻すと、彼女の指が布をつかんだ。俺の袖から離れたのはその間だけで、すぐに同じところへ手が戻ってくる。
セラがそばに膝をついた。
「お嬢様。奥のお部屋へ移りましょう。ここではお身体が冷えてしまいます」
イリヤは答えなかった。顔を伏せたまま、少しだけ息を吸う。肩に添えた俺の手にその震えが伝わった。
広間の向こうでセイバーがこちらを見ていた。目が合うと、奥へ続く廊下を確かめてから頷く。
「イリヤ。立てるか」
袖をつかむ指が動いた。
「……うん」
先に片膝を立て、彼女が足をつくのを待った。セラも反対側から手を添える。立ち上がったイリヤは一度だけ俺の腕へ体重を預けた。それから足の位置を直し、自分で一歩を踏み出した。
砕けた石を避けて歩く。イリヤは途中で振り返った。俺も足を止めたが、彼女は何も言わなかった。しばらく広間を見て、またこちらへ向き直った。
手を引かず、歩き出すのを待った。
*
客間の窓は割れていなかった。扉が閉まると風の音が遠ざかり、耳の奥に残っていた響きがかえって気になった。
イリヤを長椅子へ座らせる。俺も隣へ腰を下ろした。少し深く座ろうとして背中に椅子の縁が当たり、思わず息を止める。
「シロウ?」
「背中をぶつけただけだ。座り方が悪かった」
彼女の目が俺の肩へ向いた。平気だともう一度言いかけて、やめた。まだ心配そうに見ていたので、ゆっくり体を起こしてみせる。
「こっちなら痛くない」
イリヤは頷いた。膝の上で上着を寄せ、ようやく俺の袖から指を離す。
リズが小さな盆を持ってきた。水の入ったグラスと白い布が載っている。続いてセラが湯を張った器を机へ置いた。
「手をお拭きします。お嬢様」
イリヤは差し出された手を見て、自分の手のひらを開いた。白い指に黒い汚れがついている。床に手をついた跡だ。
「自分で、できるわ」
「では、こちらを」
セラは布を渡した。イリヤが手のひらを拭う。指の間に残った粉を落とそうとして布を持ち替え、少し手間取った後、もう片方の手も拭いた。
俺も自分の手を見る。爪の際まで灰色になっていた。顔を触る前に洗わないと、余計に汚すだけだ。
席を立とうとすると、リズがもう一枚の布をこちらへ出した。
「シロウも」
「ああ。ありがとう」
濡れた布を握って、初めて自分の指が冷えていることに気づいた。何度も手のひらを擦る。さっき拾った棒の感触がまだ残っている気がした。
石を一つ逸らすだけで右手が痺れた。あの剣を受けていたら、棒もろとも腕を持っていかれていただろう。考えかけたところでグラスが小さく鳴った。
イリヤが水を飲んでいた。一口で止め、両手で持ったまま膝の上へ下ろす。置き場所を空けようと机の上の布へ手を伸ばすと、彼女は首を振った。
「まだ、持ってる」
「そっか」
伸ばした手を引っ込めた。セラは濡れた布を片付け、イリヤの前にグラスを置く場所を空けた。
扉が開いた。入ってきた遠坂が俺たちを見て、声を少し落とす。
「外はアーチャーが見てる。今のところ、戻ってくる様子はないわ」
「……そうか」
「ただ、あいつに怪我をさせて追い返したわけじゃない。まだ近くにいるつもりで動いた方がいい」
分かっている。男の背中には逃げていく人間の慌ただしさなんてなかった。こちらへ向けていた剣を消して、勝手に帰っていっただけだ。
セイバーが扉のそばに立った。
「廊下は通れます。ですが、正面の広間へは戻らない方がいい。上から石が落ちている箇所があります」
「こちらの棟とお嬢様の居室は使えます」
セラが答えた。
「今夜お休みになることはできます。表の始末は、後で私たちが」
「二人であそこを直すつもり?」
「すぐに元どおりにできるとは申し上げておりません」
遠坂とセラが向き合った。声を荒らげているわけではない。ただ、どちらも譲りそうになかった。
「あの。先に一ついいですか」
俺が口を挟むと、二人の目がこちらへ向いた。イリヤも顔を上げた。
「イリヤ。今日はうちに来ないか」
グラスの縁に添えていた指が止まる。
「……シロウのお家?」
「ああ。泊まれる部屋はある。セイバーも一緒だし、遠坂にもすぐ連絡できる」
イリヤは返事をせず、机の上へグラスを置いた。底が木の面に触れるまで両手を添えていた。
「ここでも、眠れるわ」
「うん。セラさんから聞いた」
「壊れたのは全部じゃないもの」
その目が扉へ向いた。この部屋からは広間は見えない。
「……ここ、わたしのお城なのよ」
知っている、と簡単には答えられなかった。朝ここへ来たときのことを思い出す。初めて見る俺よりも案内するイリヤの方が忙しそうだった。窓の外を見せ、部屋を見せ、俺がちゃんと見たかどうかを確かめていた。
「また来たいよ」
イリヤが俺を見た。
「でも今日は、一緒に帰ってほしい。ここを出てからイリヤのことが気になっても、俺一人じゃちゃんと来られるかも怪しいし」
言ってから少し情けなくなった。朝は手を引いてもらって、ようやく辿り着いたのだ。城の中でさえ最後の角を間違えた。
「お城まで来るのに、迷子になるの?」
「道を全部覚えたとはとても言えない」
「……そうね」
笑い声にはならなかった。それでも、さっきよりは俺の顔を見ていた。
「うちにいてくれ。今夜だけじゃなくて、落ち着くまで。俺はその方がいい」
イリヤは膝の上へ目を落とした。上着の留め具を指でなぞり、一つだけ留める。俺がさっき合わせられなかったところだ。
待っていると、彼女が口を開いた。
「前に、見せてくれたお部屋」
「どの部屋だ?」
「誰も使っていないって言ったところ。戸を開けたら、向こうのお庭が見えたでしょう」
「ああ。道場を見た後の」
イリヤが頷いた。窓の前で足を止めていた姿を覚えている。何を見ているのか、あのときは分からなかった。
「あそこ、使ってもいい?」
「もちろん。布団もある。帰ったらすぐ出せるよ」
イリヤはもう一度留め具へ触れた。
「じゃあ、あそこに泊まるわ」
俺は頷いた。よかった、と大きな声で言ってしまいそうになったが、彼女はまだ続きを話そうとしていた。
「セラとリズも一緒でいい?」
「ああ。二人の部屋も用意する」
セラが小さく息を吸った。遠坂は俺とイリヤを見てから、扉のそばへ目を向けた。
「移るなら、明るいうちに動きましょう。家までアーチャーにも見させるわ」
「悪い。頼む」
「それと、家へ帰ったからって気を抜かないこと。あの男も慎二も、まだいるんだから」
頷いた。離れたまま様子も分からずにいるより、一緒にいたかった。イリヤは俺たちの話を聞いていた。セラが何か言う前に、顔を上げる。
「セラ。着替えをお願い」
「お嬢様。それでは、当面のお召し物をお持ちします。ほかに必要なものはございますか」
イリヤは考えた。扉を見てから首を横に振る。
「……あとで。少し、待って」
「承知しました。まず着替えの支度をいたします」
セラがリズに目で合図をした。リズは頷いたが、すぐには動かない。イリヤの足元でずれていた上着を拾い、膝へかけ直してから扉へ向かった。
*
荷物の支度には少し時間がかかった。その間に遠坂とセイバーが廊下で短く話をした。金髪の男が前の戦いにもいたということ、その頃から幾つもの武器を使っていたということが、開いた扉から聞こえてくる。
何本持っているのか。どこから出していたのか。あの鎖をどうすれば外せたのか。
浮かんでくる問いのどれにも、俺は答えられなかった。あの一本が冷気を放つことは分かった。けれど、ほかの武器まで同じように分かったわけじゃない。その一本にさえ、身体の反応が間に合わなかった。
「シロウ」
イリヤがこちらを見ていた。
「なに?」
「セラを呼んでくれる?」
セラは、ちょうど荷物を持って戻ってきたところだった。俺が立つより先にそばへ来る。
「いかがなさいましたか」
「本。窓のそばの机に置いたままなの」
セラは一度廊下を見た。
「先ほどお取りにいらした本でしょうか」
「ええ。それも持っていきたいわ」
俺が取りに行く、と口にしかけた。だが、さっきとは通れる道が違う。何も分からず歩き回って、かえって手間を増やすのもまずかった。
リズが荷物を床へ下ろした。
「裏の階段。通れる」
「そうですね。向こうの廊下からなら。リズ、広間の側へは出ないように」
「うん」
セラが部屋の場所を確かめ、リズが出ていった。その背中が見えなくなるまでイリヤは扉を見ていた。
「ほかにも持っていきたいものがあるか」
俺が尋ねると、彼女は首を振った。
「今は、あれだけ」
少しして、リズが本を持って戻った。表紙に白い埃がついている。セラが布で払おうとしたが、イリヤは先に両手を伸ばした。
「ありがとう。リズ」
本を膝へ置き、そっと開く。細い栞が挟まっていた。森の中の道と枝に止まった鳥が見えた。さっき彼女が指で追いながら話してくれた絵だった。
イリヤの指がその鳥のところで止まった。何か言おうとしたように見えたが、声にはならなかった。
ページを戻し、本を閉じる。
「これは、わたしが持つ」
セラは開けかけた鞄を閉じた。
「では、それ以外のお荷物はこちらで」
「そっちの袋、俺が持ちます」
取っ手へ手を伸ばすと、セラは一瞬離さなかった。
「右手は、もうよろしいのですか」
「はい。これくらいなら持てます」
「では、軽い方だけ。落とさないでください」
「はい」
受け取った袋は軽かった。力を入れすぎていた指を緩め、持ち直す。セラはそれを見届けてからイリヤの前へ屈んだ。
「お支度は整いました」
イリヤは本を胸へ抱いた。長椅子から立ち、部屋の中を見渡す。机には少しだけ水の減ったグラスが残っていた。
「……行きましょう」
彼女がこちらへ手を伸ばした。袋を右手に持ち直し、空いた左手でその手を取った。
*
城を出たのは正面とは別の小さな扉からだった。セラが鍵をかけ、その脇の窓も確かめた。広間に開いた大きな穴のことを思うと、それで何かを防げるとは考えにくかったが、彼女は一つずつ手を動かしていた。
セイバーが先に立ち、セラが道を示す。リズはイリヤのすぐ後ろにいた。遠坂が歩き出すと、少し離れた木の上で赤いものが動いた。
アーチャーだった。こちらを一度見て先の枝へ移る。
「遠坂。あいつにも礼を言いたいんだけど」
「聞こえてるわよ。それくらいなら」
見上げてみたが、もう赤い外套はなかった。どこへ向かって言えばいいのか分からず、結局正面へ顔を戻す。
「助かった。ありがとう。遠坂も」
「……どういたしまして」
思っていたよりも静かな返事だった。遠坂は木の間を見てから俺たちの隣へ戻った。
「家に着いたら、あんたも休みなさいよ。今夜またどこかへ出掛けるのはなし」
「分かってる」
「そういう返事をする時ほど、後から用事を思いつくんだから」
否定しようとして、やめた。帰ったら布団を出して、飯を作る。連絡も必要だ。確かに、思いつく用事なら幾つもあった。だが、どれも家の中で済む。
イリヤが木の根をまたいだ。俺も続く。行きに見たものと同じだったか、別の根だったかは分からない。空はまだ明るかったが、足元はもう暗かった。
彼女の手がときどき俺の手の中で動く。滑りそうなのかと思って握り直すと、彼女はそのまま手を預けていた。
「その本も袋に入れるか」
「これくらい持てるわ」
「分かった。疲れたら言ってくれ」
イリヤは袋を持った俺の右手を見た。
「手、痛くないの?」
「ああ。さっきよりずっと楽だ」
「……じゃあ、落とさないでね」
「セラさんにも言われた」
「うん。聞いてた」
俺の手元を確かめ、彼女は本を抱え直した。
「わたしの荷物なんだから、大事に運んでね」
「分かってる。ちゃんと部屋まで届けるよ」
「ええ」
それきりしばらく話さなかった。前を行くセラが枝を押さえる。イリヤが通り、俺も頭を下げて抜けた。
誰かの足が落ち葉を踏む音が続いていた。朝には気にも留めなかった音だった。今は後ろからバーサーカーの足音が重なるような気がして、何度か耳を澄ませてしまった。
聞こえるのは俺たちの歩く音だけだった。
*
町へ戻る頃には店の灯りがつき始めていた。道の向こうを自転車が通り、角の店から買い物袋を持った人が出てくる。森の土がついた靴で歩いていることが急に気になった。
イリヤは本を脇に挟み、空いた指で上着の襟を直した。手をつないでいる方の腕が伸びきりかけていた。早く家へ着きたくて、いつの間にか足が速くなっていたらしい。俺は歩くのを少し緩めた。
家の門が見えたとき、ポケットへ手を入れた。鍵がうまく出てこない。袋の持ち手を手首へかけ直し、もう一度探る。
「シロウ。手」
イリヤがつないだ手を少し上げた。
「ああ、ちょっと待ってくれ。鍵が――」
「放してもいいわよ。ここまで来たんだから」
指がほどけた。その手が本へ戻るのを見てから、鍵を取り出した。
門を開け、玄関の戸を引く。
「ただいま」
誰もいないと分かっているのに、いつもの声が出た。灯りをつけると、上がり框も廊下も朝出たときのままだった。
セイバーが先に上がった。居間の戸を開け、奥へ目を向ける。
「私が見てきます。シロウは皆さんを」
「頼む」
イリヤは靴を脱ぐ前に一度廊下を見た。俺が袋を床へ置くと、イリヤは本をこちらに預け、屈んで靴を揃える。
「前と、同じね」
「まだ何日も経ってないだろ」
「……そうだったわ」
イリヤは本を受け取って上がってきた。俺はつい居間の方へ手を向けかけた。今日はまず、泊まる部屋へ案内しなければ。
「こっち。覚えてるか」
「途中までは」
「じゃあ、今度は俺が案内するよ」
廊下の灯りを順に点けた。使っていない部屋の戸を開くと、畳の匂いがした。閉めきっていた部屋の空気は少し冷たい。窓を確かめ、暖房を入れる。小さな音を立てて風が出始めた。
イリヤは入口で立ち止まった。前にそうしたのと同じように、向こうの窓を見ていた。
「ここでいいか」
彼女が頷く。
「ええ。ここがいい」
セラが部屋へ入った。窓と戸を見てから持ってきた鞄を壁際へ置く。
「寝具はどちらに」
「隣の押し入れです。そっちの部屋はお二人に使ってもらえれば」
「拝見します」
返事をする間もなく、セラが隣へ移る。リズはイリヤの手から上着を受け取り、畳の上へ広げないよう腕にかけた。
俺は座布団を一枚出した。イリヤがそこへ座り、本を自分の横へ置く。表紙の端を畳の目に合わせるように動かしてから手を離した。
「机も持ってこようか。小さいのなら、ここに置ける」
窓際を指すと、イリヤは少し考えた。
「お庭が見えるところ?」
「ああ。寒かったら、もっと中へ寄せられる」
「そこがいいわ。でも、今じゃなくていい」
「重いものじゃないから、すぐ――」
「シロウ」
呼ばれて口を閉じる。彼女は座布団の端を指で押さえ、隣の空いた場所を見ていた。俺もそこへ腰を下ろした。
「これでいいか」
「うん」
部屋が暖まるには、まだ少しかかりそうだった。廊下で鞄の留め具が鳴り、リズが隣の部屋へ荷物を運んでいった。イリヤは窓の外へ目を戻した。俺も同じ方を見る。見慣れた庭の石が、夕方の光の中で白く浮いていた。
「エミヤ様」
隣から呼ばれ、戸口へ向かった。セラは押し入れから出した布団を前に、こちらを見ていた。
「敷布団はこちらでよろしいですね。替えの掛け布団と枕も三人分ありますか」
「あります。上の段に。カバーは……ああ、それは洗ってあるやつです」
リズも来て棚の奥へ手を伸ばした。俺が踏み台を取りに行く前に、積んであった寝具が順に下りてくる。
「俺もやります」
「では、洗面所と浴室を教えてください。湯の使い方も」
確かにそちらは俺がやった方が早かった。リズが布団を抱えてイリヤの部屋へ向かうのを見届け、セラを廊下へ案内する。
「タオルはここです。足りなかったら下の棚にもあります。風呂は今から沸かすので、先に顔と手を洗ってもらえれば」
「分かりました」
セラは一つずつ確かめた。俺の顔を見て少し眉を寄せる。
「あなたもお着替えになった方がよろしいでしょう」
言われて服を見下ろした。袖に白い筋がついている。膝も埃でひどい色だった。
「そうします。飯を作る前に」
「お食事はこれからですか」
「はい。あるものでよければ、そんなに待たせません」
「……では、支度が済みましたらお手伝いします」
軽く頭を下げられた。俺も慌てて頭を下げた。
*
自分の部屋で着替え、顔と手を洗った。頬に残っていた汚れを落とす。細かな擦り傷はもう塞がっていて、水も沁みなかった。城を出てから、まだそれほど経っていないのに。鏡を覗くと、目の下に疲れが残っているほかは、朝とたいして変わらない顔があった。
背中を見るために体をひねっていると、廊下から遠坂に呼ばれた。
「士郎。ちょっと」
居間へ行くと、セイバーもいた。肩の当て布を直したところらしい。遠坂は残った布を片付けながら、俺を座らせた。
「帰り道はどうだった?」
「背中もだいぶ楽になった。手はもう何ともない」
「見せて」
服を持ち上げると、遠坂の指が背中の一か所を押した。
「そこは押されると少し痛い」
「打った跡ね。深く息を吸ってみて」
言われたとおりにした。それは平気だった。遠坂が手を離し、服を下ろすよう促す。
「今日は無茶しないこと。セイバーもね。肩を使う稽古なんて言語道断だから」
「しないよ」
「ええ。まだ魔力も戻っていません。今夜は休みます」
セイバーの返事に少しだけ肩の力が抜けた。あれだけ動いた後で、もう一度剣を持てと言われても困る。
「遠坂。飯、食べていくか」
「今日は帰る。家に置いてある宝石を確かめておきたいし」
戸口にアーチャーがいた。いつ入ったのか分からなかった。気づいた俺を見ても、特に何も言わない。
「周りに気になるものはない。だが、今見た範囲の話だ」
「ああ。外へは出ない」
「それでいい」
遠坂はセイバーへ向き直った。
「セイバー。異変に気づいたら、まず皆を起こして。追って出るのはなしよ」
「ええ。退路を確保します。シロウたちは先に離れてください」
遠坂が廊下へ声をかけると、セラが顔を出した。遠坂は、もしものときには家を守ろうとせず、イリヤを連れて外へ出てほしいと伝えた。
「お嬢様には私たちがつきます。裏から出る道はございますか」
「勝手口から庭へ抜けられます。あとで案内しますよ」
「では、リズにも確かめさせます」
遠坂が俺へ顔を戻した。
「電話は家を離れてからでいいからね。あんたも荷物なんか取りに戻らないのよ」
「分かってる」
うちの戸や塀で、あの剣を防げるわけじゃない。俺たちがいつまでも家に残っていたら、セイバーも退けなくなる。
遠坂が立ち上がった。
「明日連絡するわ。慎二から何か言ってきたらそれも教えて」
「分かった」
「変わったことがあったら、夜中でもいいから電話しなさい。朝まで一人で考え込むのはやめてよ」
玄関まで送る途中、遠坂はイリヤの部屋の前で足を止めた。戸は少し開いていた。セラが中で荷物を出している。
「イリヤスフィール。わたしたちは帰るわね」
中から短い返事がした。
「……ええ」
「また来るわ。今日は休んで」
返事を待ってから遠坂は戸の前を離れた。アーチャーは先に外へ出ていた。
門のところでもう一度礼を言った。遠坂は片手を上げただけで、そのまま歩いていった。
*
セラとリズに勝手口から外へ出る道を見てもらってから、米を研いで炊飯器に入れた。それから電話をかける。藤ねえは今日も爺さんの家にいた。昨日より声に張りがあって、こちらが聞く前に夕方まで寝ていたと白状した。
『おかげで今、全然眠くないのよねえ』
「それでまた夜更かしするなよ」
『分かってます。今日はこっちでご飯も食べるから。士郎は?』
「これから作る。あと、今夜から知り合いが泊まることになった」
受話器の向こうが静かになった。
『……誰が?』
「イリヤっていう子。前にうちへ遊びに来たこともある。今日は付き添いの人も一緒なんだ」
『急に泊まるって、何かあったの?』
台所の方で戸棚を開く音がした。セラが食器の場所を確かめている。
「向こうで少しごたごたがあって。今夜はうちで休んでもらいたいんだ。詳しくは、本人が落ち着いてからにしたい」
『その子、大丈夫なのね? 具合が悪いとか、怪我をしてるとかじゃないの?』
「怪我はない。今はセラさんっていう付き添いの人が見てくれてる」
『その人、代われる?』
セラへ声をかけると、こちらの用件を聞いて頷いた。受話器を渡す。名乗りと挨拶が続き、今夜の滞在についての話になった。
俺は流しへ戻り、鍋に水を張った。イリヤの普段の暮らしは俺よりセラの方がよく知っている。任せておけばいいと思いながら、聞かれたらすぐに戻れるよう台所の戸は開けておいた。
「エミヤ様。藤村様が、もう一度お話しになりたいそうです」
数分も経たず、受話器が戻ってきた。
『分かった。今日はゆっくりさせてあげなさい。わたしにも、ちゃんと会わせるのよ』
「ああ。本人にも話しておく」
『それと、ご飯が足りなくなったら電話して。こっちにおかず、あるから』
「五人分くらいなら何とかなるよ」
『……付き添いって、二人?』
「二人」
『最初に言いなさいよ、もう』
呆れた声が少しだけいつもの藤ねえだった。ちゃんと食べなさい、と最後に念を押されて電話を切った。
続けて間桐の家へ電話をかけた。呼出音が何度か鳴ってから、桜の声がした。
『はい、間桐です』
「桜。俺だけど、今、大丈夫か」
『先輩? はい。どうかしましたか』
「いや。今日はどうしてたかと思って。少しは楽になったか」
『ええ。ずっと家にいましたから。もう、そんなに心配していただかなくても』
声は昨日よりしっかりしていた。だが、学校で壁に寄りかかっていた姿を思い出すと、そこで話を終える気にはなれなかった。藤ねえと病院へ行った後も、だるさが残っていると言っていたのだ。
「飯は食べた?」
『はい。先ほど。先輩は、これからですか?』
「ああ。今、米を炊いてるところ」
居間の方でリズの声がした。茶碗の置き場所を尋ねたらしく、セラが何か答えている。
『お客様ですか』
「うん。イリヤっていう子と、付き添いの人が二人。しばらく泊まってもらうことになったんだ」
『……そうなんですね』
少し間があった。俺が言葉を探していると、桜が話を続けた。
『それなら、お食事の支度、大変じゃありませんか。わたしもお手伝いに行きます。今からなら――』
「待った。今日は休んでたんだろ。まだ身体がだるいんじゃないのか」
『少しだけです。台所に立つくらいなら、平気ですから』
「その少しがなくなるまで、休んでてくれ。手伝ってくれる人はいるし、五人分なら作れるよ」
『……分かりました。それなら、お邪魔はしません』
「邪魔なんて言ってない。桜が来ると、こっちが頼む前に全部やってくれるだろ。今日はそれをさせたくないんだ」
言ってから、少し強かったかと思った。受話器の向こうが静かになる。
「元気になったら、また一緒に作ってくれよ。今日は俺が作るから」
『……はい。それなら、先輩もちゃんと召し上がってくださいね』
「食べるよ。さっき藤ねえにも同じことを言われた」
『藤村先生が?』
「ああ。おかずが足りなければ電話しろってさ」
桜が小さく笑った。その声を聞いて少し安心したところで、城を出ていった慎二の顔が浮かんだ。
「それと、慎二は帰ってるか」
『兄さん、ですか?』
「ああ」
『今日は、まだ顔を合わせていません。何かご用でしたら――』
「いや、呼ばなくていい。ちょっと気になっただけだ」
何をどこまで話せばいいのか、分からなかった。あいつがあの男と一緒にいたことを、桜へ説明するわけにはいかない。けれど、今日の慎二を知っているのに、何も聞かずに済ませることもできなかった。
「桜。慎二のことでも、身体のことでも、困ったら電話してくれ。夜でもいいから」
『……はい。ありがとうございます』
少し戸惑った返事だった。無理をせずに寝るようもう一度伝えて、電話を切った。
受話器に手を置いたまま、しばらく動けなかった。慎二は今も、あの男と一緒なのだろうか。俺たちに向けた苛立ちを、そのまま家へ持ち帰ったら。桜は大丈夫だと言うだろう。さっきも、だるさが残っていることより、うちの食事の支度を気にしていた。
電話では普通に話せていたし、飯も食べたと言っていた。だるさの残る身体で今から出てきてもらうより、今夜は休んでほしい。それは変わらない。だが、休むように言っただけで、慎二のことまで安心していいわけじゃなかった。
明日また電話して、同じ返事を聞く。それだけでいいのか。
受話器から手を離した。遠坂に話そう。桜には言えなかった今日の慎二のことも、あいつなら知っている。
「エミヤ様。鍋が」
台所から声がした。慌てて戻ると、湯が沸いていた。火はもう弱められている。
「すみません。助かりました」
「お電話は済みましたか」
「はい。始めましょう」
手を洗い直し、冷蔵庫を開けた。
*
卵を割ると、殻の欠片が一つ落ちた。箸で取ろうとして逃げられ、結局指で拾う。
セラが横から見ていた。
「いつもはもう少しうまくやるんですけど」
「何も申し上げておりません」
「……そうですね」
弁明する方がよほどみっともない。卵を溶き、だしを加える。温めた鍋へ薄く流すと、やっと手がいつもの動きを思い出した。
セラは野菜を切っていた。置き場所を一度確かめただけで、こちらの作業を妨げずに動いている。見知らぬ台所へ来てすぐにこれだけ出来るのはさすがだと思った。
「そちらの肉はこちらで炒めますか」
「お願いします。調味料は棚の下です。辛くしない方がいいですよね」
「ええ。今日はなおさら」
それだけ言ってセラは鍋を選んだ。
リズが盆を持ってきた。並べてある茶碗を数え、そのうちの一つを持ち上げる。
「イリヤ、これ?」
「ああ。まず少しだけ盛ってもらえるか。足りなかったら後で足すから」
「分かった」
白い飯が茶碗へよそわれる。俺は味噌汁の火を止めた。豆腐と棚に残っていた乾燥わかめ。凝ったものじゃないが、熱いうちに出せる。
居間へ運ぶと、イリヤが席についていた。着替えて髪も整えてもらったらしい。目の周りは赤かったが、城の埃は落ちていた。
近づくとこちらを見た。
「ごはん?」
「もう出来る。待たせたな」
盆から椀を下ろす。イリヤは湯気を見て少し顔を寄せた。
「熱いからな」
「見れば分かるわ」
そう言いながら、手はすぐに出さなかった。俺も余計なことを言わず、次の皿を置く。
セイバーが大皿を運んできた。続いてセラとリズが入り、座卓の上が埋まっていく。いつもより人が多いので、皿の位置を少しずつずらした。
「セラさんもどうぞ」
「お嬢様の分をお取りしてから」
「うん。それが済んだら座ってくれ。冷めるから」
自分の席へ回りかけて、箸が一膳足りないことに気づいた。台所へ取りに戻る。戻ったところで醤油差しが見当たらず、また立とうとするとイリヤが俺の袖を引いた。
「もう、いいわ」
「いや、醤油を」
「食べてからでも間に合うでしょう。わたし、今はいらないもの」
セラが自分のそばにあった醤油差しを中央へ置いた。ちゃんと運ばれていたらしい。
「……じゃあ、食べよう」
腰を下ろすと、ようやく座卓が落ち着いて見えた。手を合わせる。イリヤもこちらを見てから箸を取った。
セイバーが最初に味噌汁を飲んだ。椀を置き、小さく息をつく。いつもと変わらない飲み方に俺も少しほっとした。
俺も飲んだ。温かいものが腹へ入ると、急に空腹を思い出した。城で食べたパンがずいぶん前のことに思えた。
隣ではイリヤが小さく切った卵焼きを口へ運んでいた。ゆっくり噛んで飲み込む。俺が見ていたことに気づくと、少し眉を寄せた。
「何?」
「いや。味はどうかなって」
「シロウも同じものを食べているでしょう」
「それはそうだけど。口に合うかは別じゃないか」
「卵、柔らかいわね。……そんなに見ていなくても、ちゃんと食べるわ」
そう言って、イリヤはもう一切れ箸でつまんだ。小さな卵焼きを俺に見せてから、自分の皿へ置く。
「冷めちゃうわ。シロウのも」
「……ああ」
気づけば、俺の箸はさっきから止まっていた。手元の皿へ戻すと、イリヤも椀を持ち上げた。
しばらく食器の触れる音だけがした。リズが大皿を少しこちらへ寄せ、セラが取り分ける。セイバーは二人に礼を言ってから飯を口へ運んだ。
「シロウ」
イリヤの椀がこちらへ差し出された。
「少し、足して。お汁だけ」
「分かった」
受け取って立ち上がり、鍋から注ぐ。半分まで入れたところでもう少し入れるか迷った。だが、少しと言われたのだから、そのまま席へ戻った。
「これくらい?」
「ええ」
イリヤが両手で受け取る。すぐには飲まず、掌を椀の外側へ添えていた。
途中で廊下の奥から小さな音がした。風呂の湯が沸いた合図だった。
イリヤの顔が上がった。箸を持つ手が止まり、廊下を見る。
「風呂だよ。湯が沸いたんだ」
俺が言うと、イリヤは瞬きをした。
「……そう」
箸の先が皿へ戻った。けれど、しばらくそのままだった。
俺は醤油差しを寄せた。必要もないのに持ち上げかけ、置き直す。何か喋った方がいいのか。喋らない方がいいのか。考えていると、セラが静かに声をかけた。
「お嬢様。こちらは残されますか」
小皿には炒めた野菜が少しあった。
「ううん。後で食べる」
「承知しました」
セラは皿を下げなかった。そのまま自分も食事へ戻った。
俺も茶碗を持ち直す。何度も様子を窺っていたら、イリヤも食べにくいだろう。
飯は少し冷めていた。口へ入れて噛む。肉も野菜もセラがちょうどいい味にしてくれていた。
やがてイリヤが残っていた野菜を一つ取った。何も言わずに食べ、最後に椀へ口をつける。
「ごちそうさま」
箸を揃えて彼女が言った。茶碗にはまだ少し飯が残っていた。
「ああ。お粗末さま」
皿を重ねようとすると、イリヤが自分の椀を持ち上げた。盆の空いている場所を探し、そこへ置く。
「ありがとう」
「それくらいできるわ」
そう言って今度は箸を渡してきた。
*
風呂はイリヤたちに先に使ってもらった。俺とセイバーで食器を台所へ運び、残りを片付ける。
「拭く方、頼めるか」
「はい」
セイバーが布巾を取った。俺は重い鍋を後回しにし、まず茶碗から洗う。温かい湯に指を入れると、ようやく手に残っていたこわばりが抜けていくようだった。
「シロウ」
「ん?」
「イリヤスフィールの部屋は暖まっていましたか」
「ああ。隣の部屋も。布団はセラさんたちが出してくれた」
「そうですか」
拭き終わった皿がいつもの棚へ戻された。次の皿を渡しながらセイバーの肩を見る。
「痛むか」
「この程度の動きなら問題ありません」
「でも、まだ治ってないんだよな」
「……ええ。もう少しかかります」
皿を受け取る腕はいつもどおりに見えた。その肩に、今も布が当てられている。
「残りは俺がやるから、休んでくれ。今日はずっと立ってただろ」
セイバーは手元の皿を見た。それを拭き終え、棚へ入れてから頷いた。
「では、そうします。戸締まりは確認しました。シロウも片付けが済んだら休むように」
「分かってる」
遠坂にもした返事だった。けれど、今度は本当に風呂に入ったら眠ろうと思っていた。
セイバーが居間を抜けていく。その後ろ姿へ声をかけた。
「セイバー」
彼女が振り返る。
「今日は、ありがとう。ずっと守ってくれて」
何も言わない時間があった。肩の傷へ目が行きかけたが、セイバーの顔へ視線を戻した。
「……シロウたちが無事で、よかった」
静かな返事だった。俺は頷いた。それ以上はうまく言えなかった。
鍋を洗い、台を拭いた。炊飯器に残った飯は小さく分けておく。明日の朝に使えるし、夜中に誰か腹が減ったと言っても出せる。そこまで済ませると、思いつく仕事が一つ減った。
まだ何かあったような気がして、台所を見渡す。戸棚は閉まっている。火は消した。水も止まっている。
もう、ここには用事がなかった。
台所を出て、遠坂の家へ電話をかけた。今度は話す前に、何を聞きたいのか少し考えた。
「桜と話したんだ。まだだるいって言ってるのに、うちの飯を作りに来ようとするから、今日は休んでくれって言った」
『……それで?』
「慎二とは顔を合わせてないそうだ。でも、家にいないとは限らない。今日のあいつを見た後だと、桜をあそこに置いたままでいいのか気になって」
遠坂はすぐには答えなかった。
『……桜、まだだるいのね』
いつもより低い声だった。俺は、桜の声は昨日よりしっかりしていたことと、食事は済ませたと言っていたことも話した。
『分かった。朝、そっちへ行くわ。桜にどう話すかも含めて、一度ちゃんと相談しましょう』
「ああ。頼む」
『今夜何か連絡があったら、それは待たずに教えて。あんた一人で迎えに出たりしないでよ』
「分かった」
電話を切った。どうするかは、まだ決まっていない。朝になったら、遠坂と話して、それからもう一度桜の様子を聞こう。
奥にいても呼出音が聞こえるよう、廊下の戸は開けておいた。
*
俺が風呂から出たとき、家の中は静かになっていた。廊下の向こうに灯りが残っている。
髪を拭きながら行くと、リズが空になった鞄を部屋の隅へ寄せていた。セラはイリヤの掛け布団を直している。イリヤはその手前に座り、窓へ顔を向けていた。
「寒くないか」
戸口から声をかけると、彼女がこちらを見た。
「寒くないわ」
「よかった。湯、足りた?」
「ええ」
それだけ聞くと、次に何を言えばいいか分からなくなった。何か困っていないか確かめに来たのだ。困っていないなら、もう戻ってもよかった。
「シロウ」
イリヤが俺の持っているタオルを見た。
「まだ濡れてる」
「髪? ちゃんと拭いたつもりだったんだけど」
「後ろ。はねているところ」
手をやると、指が湿った。見えているところだけ拭いていたらしい。
タオルを当て直す。今度は後ろまで擦ったつもりだったが、イリヤはまだこちらを見ていた。
「今度は?」
「反対側も」
「こっちか」
「ええ。……シロウって、自分のことになると雑なのね」
「見えないんだから仕方ないだろ」
「わたしには見えるもの」
それはそうだ。もう一度タオルを当てると、ようやく頷いてもらえた。イリヤは俺から目を離し、セラへ向き直った。
「もう、大丈夫よ。二人も休んで」
「何かございましたら、お呼びください。隣におりますので」
セラは立ち上がった。イリヤが頷くと、リズも荷物から手を離す。
「おやすみ、イリヤ」
「おやすみ。リズ、セラ」
二人が出てくるので、俺は戸口の脇へ身をよけた。セラがこちらを見た。
「あまり遅くならないように」
「はい」
小さく頭を下げ、二人を見送った。隣の戸が閉まり、部屋の中から鞄を動かす音がした。
イリヤの前へ座る。布団のそばに本が置いてあった。栞の先が表紙から少し出ている。
「ここ、朝は明るい?」
彼女が尋ねた。
「今よりは。庭の木で少し陰になるけど、真っ暗にはならないよ」
「音は?」
「音?」
「朝。シロウが起きたら、ここまで聞こえる?」
俺は廊下の方を見た。台所からは少し離れているが、全然聞こえないほどではない。
「戸を開けて歩いたら、分かると思う。なるべくうるさくしないようにするから」
「……そういうことじゃないわ」
イリヤは掛け布団の端を指で押さえた。
「起きたら教えて」
「寝てても?」
「うん。目が覚めたら、もういないのはいやだから」
少し考えて頷いた。
「分かった。飯の支度をする前に声をかける」
「約束よ」
「ああ。台所へ行く前に、ここへ来る」
今度は、彼女も俺の顔を見た。本へ手を伸ばし、膝の上に載せる。
続きを読んでもらうはずだった。城の客間で、もう一度お茶を飲みながら。その後でまだ見ていない場所へ行く。セイバーから聞きたい話もあった。
表紙を押さえた指が動かなかった。
「今日は、読まない」
イリヤが言った。
「ああ」
「明日も読むか分からないわ」
「うん」
俺の返事を聞いてから本を元の場所へ戻した。今度は栞の端を中へ入れず、そのままにする。
外で風が吹いた。窓がかすかに鳴り、イリヤの目がそちらへ動いた。すぐに顔は戻ったが、唇が何かの形になっていた。
名前を呼びかけたのかもしれなかった。俺には聞こえなかった。
「……横になるか」
イリヤが頷いたので立ち上がった。枕が少しずれていた。直そうと手を出しかけると、彼女が自分で引き寄せた。俺は座布団を脇へ寄せる。
「灯りはどうする?」
「小さいのにして」
紐を引き、明かりを落とした。橙色の灯りが残り、窓のガラスに映っていた部屋が見えにくくなる。
イリヤが布団へ入るのを確かめて戸口へ向かった。座っていたせいで、脚が少し痺れていた。音を立てないよう踏み出したところで、背後から声がした。
「シロウ」
振り返った。イリヤはまだ横にならず、掛け布団を胸のところへ寄せていた。
「もう、寝るの?」
「ああ。俺もそろそろ」
「……そう」
彼女は目を伏せた。俺は戸に手をかけたまま動けなくなった。
「何かあるか」
少し間があった。イリヤは布団をつかみ直し、一度口を開いてから俺の方を見た。
「もう少し、ここにいて」
戸から手を離した。
「ああ。いるよ」
戻って座布団を敷き、布団のそばへ座る。イリヤは俺が落ち着くのを見てから横になった。こちらに顔を向け、片手を布団の外へ出す。
何か話そうとした。明日の朝飯のことでも、ここから見える庭のことでもいい。口を開きかけたところで、その手が俺の袖に触れた。
「そこにいてくれればいいの」
俺は頷き、袖が突っ張らない位置へ座り直した。イリヤの指から少しずつ力が抜けていく。
隣室で小さな物音がして、やがて静かになった。廊下を通る足音もなくなった。
しばらくしてイリヤが目を閉じた。眠ったのかと思ったが、俺が膝の向きを変えると薄く目を開けた。
「……いる?」
「いる」
返事をすると、また瞼が下りた。その指は袖に触れたままだった。
枕元の本に橙色の灯りが当たっていた。
俺は壁へ背中を預け、ゆっくりと座り直した。もう背中は痛まなかった。
今度はイリヤの手を動かさずに済んだ。