Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
第十一話 平穏の定員超過
首を動かしたら、耳の下で小さな音がした。目を開ける。いつもの天井より近いところに、窓から入った光が伸びていた。壁にもたれて眠っていたのだと思い出すまで、少しかかった。背中はもう痛まない。その代わり、首と脚が、この寝方には賛成できないと訴えている。
イリヤは布団の中にいた。昨夜、袖をつかんでいた手は頬のそばへ戻っている。指の先だけが掛け布団から出ていた。障子の明るさからすると、いつもなら台所に立っている時刻だ。時計を見ようと腰を浮かせて、先にすることを思い出した。
「イリヤ。朝だぞ」
一度では返事がなかった。もう少し近くへ寄り、名前を呼ぶ。眉が動いて、赤い目が細く開いた。
「……なに?」
「飯の支度をしてくる。台所にいるから」
イリヤは俺を見ていた。次に窓、それから自分の布団へ目をやる。掛け布団を握った手が、ゆっくり緩んだ。
「もう朝なのね」
「ああ。まだ寝ててもいいけど」
「起きるわ。……少ししたら」
「じゃあ、出来たら呼ぶよ」
頷いたのを確かめて立った。膝が思ったように伸びず、戸へ手をつく。
「シロウ?」
「足が痺れた。すぐ治る」
「変な格好で寝るからよ」
まったくそのとおりだった。反論する余地もないので、廊下へ出るまでだけ格好をつけた。
*
台所では、もう湯が沸いていた。セラが振り向き、俺の顔を見てから時計を見る。
「おはようございます。よくお休みになれましたか」
「おはようございます。ええ、その、途中からは」
「今夜は、きちんと寝具をお使いください」
隣の部屋にいたのだから、分からない方がおかしい。手を洗って、冷蔵庫から卵を出す。セラが切っていた野菜を見て献立を相談すると、彼女は使う皿まで考えていた。
「助かります。いつもの分量だと、五人分には少ないんですよね」
「お嬢様のお食事は、こちらで量を伺います」
昨日、俺がイリヤの食べるところを見すぎたのも、知っているらしい。卵を割りながら、今日は気をつけようと思った。
イリヤは髪を整えてから居間へ来た。リズが敷いた座布団に座り、飯をよそうセラへ、もう少しと言う。つい顔を上げかけ、俺は味噌汁を置くことに専念した。
「シロウのも、まだ入っていませんよ」
セイバーに言われて自分の椀を見る。空だった。人の茶碗ばかり気にして、これではどうしようもない。
朝食の間、イリヤは焼いた卵を小さく切って食べた。リズが大皿を寄せると自分で取り、途中で箸を置いて庭を眺めていた。俺も庭を見た。木の根元に、昨日の風で落ちた葉が溜まっている。あとで掃こうと考えかけ、今日ぐらいは残っていても困らないと思い直した。
*
食器を片付けている途中で、電話が鳴った。手を拭いて受話器を取ると、遠坂だった。
『おはよう。起きてるわね』
「電話に出てるんだから、起きてるよ」
『あんたの場合、起きてるから寝たとは限らないでしょう。昨日の後、ちゃんと休んだ?』
「寝た。今は朝飯も済んだところだ」
『背中は?』
「もう痛くない。手も普通に動く。セイバーは、まだ肩を休ませてる」
昨夜、遠坂が確かめたところを指で押してみる。椅子の縁に触れただけで痛かった背中が、今朝は何ともなかった。脚の痺れも、台所を動き回る間に抜けている。
『そう。イリヤスフィールは?』
「少しは眠れたみたいだ。飯も食べた。今は部屋に戻ってる」
『……分かった。そっちへ行くのは昼前になるから、桜の件は先に電話で話しておきましょう』
受話器を持ち直した。昨夜、遠坂と話してからも、桜のことは気になっていた。
「分かった。まだ桜には電話してないんだ」
『昨夜の後、何か連絡はあった?』
「いや。けど、少し楽になったら、もう平気だって手伝いに来るんじゃないかと思って」
『それをあんたが言う?』
「俺の話は今いいだろ」
『よくはないけど。続けて』
返す言葉を一つ飲み込んだ。何も言い返せないのは少々腹が立つが、相談に乗ってもらっているのだ。
「慎二のことも、やっぱり気になる。桜はまだ顔を合わせてないって言ってたけど、ずっとそうとは限らないだろ」
『ええ。昨日の様子じゃ、安心はできないわ』
「桜に聞くにしても、慎二と何があったのかまでは話せないし」
受話器の線が捻れていた。指で直しながら、昨日の慎二を思い出す。俺たちを睨んでいた目も、あの男を追っていった背中も、消えてはくれなかった。
「様子を聞くだけじゃ、足りない気がする。でも、あいつの家へ行って騒ぐわけにもいかないだろ」
『……それなら、しばらく桜をそっちで預かったら?』
線を直していた手が止まった。
「うちに、泊めるってことか」
『そう。身体が戻るまででも、学校が落ち着くまででもいいわ。少なくとも、家事を気にしないで休めるようにはできるでしょう』
「それは、できるけど。でも、俺の家だって安全とは言えない。セイバーがいるんだぞ」
『分かってる。慎二のところへ置いておけば安全、という話でもないわ』
遠坂の声は静かだった。
『そっちにはセラたちもいる。留守にするときも、一人にはしないで済む。わたしも顔を出せるし、何かあれば、その場で考えられるでしょう』
廊下の先で戸が開いた。リズが畳んだ布を持って通り、俺の方を見てから洗面所へ曲がる。桜がこの廊下を通り、俺たちと一緒に飯を食うところを思い浮かべた。食べ終わったら、そのまま部屋へ戻って休める。
「桜が困らないかな。いきなり泊まれなんて」
『それは桜に聞かないと分からないでしょ。あんたが先に断る理由を考えてどうするの』
「……そうだな」
『嫌なら、そう言えるように話しなさい。手伝いが足りないから来て、なんて言い方は駄目よ。休ませたいんだから』
「そこは分かってる。昨日も同じことを言った」
『だったら、もう一度。今度は泊まってほしいって、ちゃんと伝えなさい』
遠坂は、言い終わってから少し黙った。
『……来たら、無理させないでよ』
「ああ。俺も、近くにいてくれた方が安心する」
『なら、そう言えばいいの』
難しいことではないような声だった。確かに、桜の返事まで俺が考えても仕方がない。誘う理由なら、昨夜からずっとある。
「ありがとう。藤ねえに話してから、聞いてみる」
『ええ。わたしは昼前に行くから』
「飯は食べるか」
『……そのつもりで行くけど、いいの?』
「ああ。人数に入れとく」
最後は、いつもの調子に戻っていた。
*
藤ねえは朝から起きていた。学校の点検はまだ終わらず、今日も登校しないよう連絡が回るという。こちらが用件を話す前に、教師の藤村先生としての説明を聞くことになった。
『だから、学校には行かないこと。忘れ物があっても勝手に入らないでね』
「分かった。それと、桜のことで相談があるんだ」
しばらく泊まってもらえないかと考えていることを伝えた。学校で具合を悪くしてから休んでいること、まだ本調子ではないのに手伝いを気にしていること。慎二の話は、今はあまり顔を合わせていないらしい、とだけにした。
『桜ちゃんは、そうしたいって?』
「これから聞く。先に、藤ねえにも話しておこうと思って」
『うん。だったら、ちゃんと本人に聞いて。休むために来るんだから、台所の人数には数えないこと』
「分かってる」
『士郎が分かってても、桜ちゃんが気にするでしょう。そこまで、ちゃんと言うのよ』
さっき遠坂にも言われたところだった。返事をすると、藤ねえは昼に来ると言った。イリヤたちにも会いたいし、桜が来るなら直接様子を見ておきたいらしい。
「昼飯も食べるんだろ」
『何その、当然みたいな聞き方』
「食べないのか?」
『食べます』
今度は俺が笑ってしまった。藤ねえは何が可笑しいのかと抗議してから、おかずも少し持っていく、と付け足した。
受話器を置き、紙へ皆の名前と人数を書いた。八人。桜が来るなら、八人になる。まだ決まっていない一人の名前を見てから、間桐の家へかけた。
『はい、間桐です』
「おはよう、桜。俺だけど」
『先輩。おはようございます』
昨日よりも、電話に出るのが早かった。眠っていたところではなかったらしい。
「朝飯は済んだか」
『はい。先輩の方は、お客様は大丈夫でしたか?』
「ああ。今朝は一緒に食べた。桜は、昨日より楽になったか」
『ええ。ちゃんと休みましたから』
「そっか。……それで、今日はうちに来ないか」
『よろしいんですか。わたしも、お手伝いに伺おうと思っていたんです』
「手伝いじゃなくて。しばらく、泊まっていってほしいんだ」
向こうの音が途切れた。
『……泊まる、んですか』
「ああ。着替えを持ってきて。部屋はあるし、藤ねえにも今、話した」
『どうして、急に……』
受話器を握る手に力が入った。急だと言われれば、そのとおりだ。昨夜は来なくていいと言って、今朝になったら泊まってほしい。桜から見れば、俺は落ち着きのないことばかり言っている。
「昨日の電話で、まだだるいって言ってただろ。なのに、うちの飯のことまで気にしてた。桜がちゃんと休めてるか、俺には分からないから」
『でも、家でも休んでいます。先輩のお宅へ行っても、同じでは……』
「うちなら、飯が出来たら呼びに行ける。片付けも、俺たちがやる。何かあったら、電話で聞くより早く分かるだろ」
そこまで言って、少し息をついた。
「俺が心配なんだ。桜が近くにいてくれると、その方が安心する」
また、返事がなくなった。台所で水の流れる音がする。せっかく洗い終えた手のひらが、もう湿っていた。
『……お客様が、いらしているんですよね』
「部屋は別に用意する。窮屈にはならないと思う」
『そうではなくて。先輩も、お忙しいでしょうし』
「忙しいから桜を呼ぶんじゃないぞ。そこは間違えないでくれ」
少し強く言いすぎたかと思ったが、今度は言い直さなかった。ここを曖昧にしたら、桜はいつもと同じように仕事を探してしまう。
「もちろん、泊まるのが困るなら無理にとは言わない。でも、迷惑かどうかを気にしてるなら、俺は来てほしい」
『……本当に、よろしいんですか』
「ああ」
向こうで息を吸う音がした。
『わたしは、伺いたいです』
さっきまでより小さく、それでもはっきりした声だった。
『先輩が、そう言ってくださるなら。お言葉に甘えても、いいですか』
「もちろん。昼前には来られるか?」
『はい。ただ、家には話しておきます。泊まるとなると、そのまま出るわけにはいきませんから』
「分かった。困ったら連絡してくれ。荷物が多ければ、途中まで迎えに行くよ」
『そんなに多くありません。……先輩』
「ん?」
『ありがとうございます』
礼を言われると、急に気恥ずかしくなった。まだ布団も出していないのだ。来てからでいい、と変な返事をしてしまい、桜が少し笑った。
電話を切り、八人と書いた数字の下に線を引いた。
*
イリヤは部屋の窓際に座っていた。昨日持ってこようと言った小さな机が、もう置かれている。リズが運んだらしい。本は閉じたまま、その上に載っていた。
「今、いいか」
「ええ。さっきから、ずっと電話ね」
「悪い。今ので終わった。今日は昼に藤ねえと遠坂が来る。それから、桜にも泊まってもらうことになった」
イリヤは本へ添えていた手を離した。
「サクラ。お料理を手伝っている子?」
「うん。学校で具合を悪くして、まだ休んでるんだ。ここなら皆もいるし、休みやすいかと思って」
「……そう」
彼女は机の端を指でなぞり、廊下へ目を向けた。
「どのお部屋?」
「向こうの客間。こことは反対側だよ」
「シロウは?」
「俺は自分の部屋だけど」
「今度は、ちゃんと布団を敷くのね」
そっちの確認だった。
「敷く。昼飯が済んだら、少し寝ようと思ってる」
「ふうん。じゃあ、わたしも休むわ」
「うん。まだ眠いなら、今からでも」
「今は起きてるの。サクラにも会うでしょう」
イリヤが顔を上げた。朝より、目元がはっきりしている。
「シロウのお家に来る人だもの。挨拶くらい、してあげるわ」
「そっか。来たら呼ぶよ」
立ちかけたところで、彼女が俺の袖を指先でつまんだ。
「ねえ。タオル、あと一枚もらっていい?」
「ああ。どこか濡れたか」
「違うわ。朝のと、お風呂のを別にしたいの」
それくらい、好きなだけ使ってくれと言いかけて、やめた。勝手の分からない家なのだから、聞くのは当然だ。棚から出して渡すと、イリヤは畳んで机の隣へ置いた。本とタオルだけだった場所へ、セラが小さな箱も並べる。昨日まで何も置いていなかった部屋に、イリヤの物が増えていた。
客間の布団はセラと二人で出した。俺が掛け布団を抱えている間に、リズが隣の押し入れを開ける。
「シロウのも?」
「……ああ。ついでに頼む」
先回りされてしまった。これで、忙しくて敷けなかったという言い訳もなくなる。藤ねえへ桜が来ることを伝え、遠坂にも短く連絡した。遠坂はそう、と答えただけだったが、その後で、何時頃になりそうかと聞き直した。
*
桜が来たのは、十時を少し回った頃だった。玄関を開けると、小さな鞄を両手で持って立っていた。いつもの買い物袋はない。荷物が一つ違うだけで、こちらまで少し緊張した。
「お邪魔します。……来てしまいました」
「こっちから誘ったんだろ。重くなかったか」
「はい。着替えだけですから」
そう言って持ち上げかけたので、その前に手を出す。桜は一度鞄を見てから、俺へ渡した。
「家には、話せた?」
「はい。泊めていただくことは伝えてきました」
「そっか」
話せたから全部安心だ、とは思わなかった。けれど、玄関で慎二のことを重ねて聞くのも違う気がした。桜は靴を脱ぎ、框へ片手をついた。顔色は普段より白い。立ち上がった後、一呼吸置いてから笑った。
「先輩。そんなに見られると、上がりにくいです」
「悪い。まず座ろう。お茶にするか」
「皆さんに、ご挨拶を」
「じゃあ、居間へ行こう。そこなら座れる」
イリヤがこちらを向いた。膝に掛けていた布を自分で畳み、脇へ置く。
「イリヤ。桜だ。さっき話した」
「初めまして。間桐桜です。お世話になります」
「わたしはイリヤ。こっちはセラとリズよ」
セラが名乗り、リズが片手を上げた。桜は二人へ順に頭を下げ、セイバーにも挨拶した。
「おはようございます、セイバーさん」
「おはようございます、サクラ。どうぞ、こちらへ」
座布団が出された。俺が鞄を置く間にも桜はもう一度会釈し、それからようやく座った。
「お料理、シロウより上手なの?」
イリヤの最初の質問はそれだった。桜は少し目を丸くした。
「そんなことは。先輩に教えていただいたことも、たくさんありますから」
「今は桜の方がうまいものもあるよ。洋食は、俺が教わることも多い」
「先輩」
「本当のことだろ」
桜が困ったように笑う。イリヤは俺たちを交互に見て、それから頷いた。
「じゃあ、シロウも教わるのね」
「そりゃ、分からないことは聞くさ」
「ふうん」
何か納得したような声だった。セラが茶を置くと、桜はすぐ受け取ろうとして手を止めた。
「ありがとうございます。あの、わたしも――」
「サクラ。今日は休みに来たんでしょう?」
イリヤに先を越され、俺は口を閉じた。
「シロウがそう言っていたわ。だったら、座っていていいのよ」
「……はい。すみません」
「謝ることじゃないわ。セラのお茶、おいしいもの」
自分のことのように言って、イリヤは湯呑みを持った。桜もそれに倣う。湯気に顔を寄せてから、一口飲んだ。
「本当。おいしいです」
「そうでしょう」
イリヤが少し得意げに俺を見た。茶を淹れたセラは、湯呑みの向きを直しただけだった。
しばらくして桜を部屋へ案内した。布団を見た桜は戸口で止まり、鞄と布団を交互に見る。
「もう、用意してくださったんですか」
「皆で出した。寒ければ、もう一枚掛けられるよ」
「……ありがとうございます」
鞄を置くと、桜は持ち手を揃えた。そのまま立っているので、窓の前に出した座布団を示す。
「昼まで、ここで休んでてくれ。出来たら呼ぶから」
「何を作るんですか」
「鶏肉のクリーム煮。藤ねえも来るし、皆で食べやすいだろ。セラさんと相談したんだ」
「それなら、厚手のお鍋が……」
言いかけて、桜が口を閉じた。俺が笑うと、彼女も困ったように笑った。
「口まで休めとは言わないよ。どの鍋?」
「棚の奥の、蓋が重いものです。人数が多いので、そちらの方が焦げつきにくいと思います」
「分かった。使うよ」
桜は少し安心したように頷いた。手伝いを断るたびに、桜まで追い出しているような気分になっていた。戸を少し開けておくか尋ねると、そのままで、と答えた。
「台所の音、ここまで聞こえますから」
昨夜、同じようなことを聞かれたのを思い出した。俺は頷き、戸を閉めきらずに廊下へ戻った。
*
台所では、セラが鶏肉を切り終えたところだった。使う鍋のことを話すと、棚の前へ来て、俺が引き出したものを確かめる。
「なるほど。これなら二つに分けずに済みますね」
「桜が教えてくれました。俺もあったのは覚えてたんだけど、奥へ入れっぱなしで」
「普段からお使いになる方が、よくご存じなのでしょう」
そのとおりだった。鍋の中を洗って拭き、火にかける。肉を焼く音がし始めると、隣からイリヤが覗いた。
「まだかかる?」
「煮るからな。座って待っててくれ」
「ずっと座っていたわ。何か、してもいいでしょう」
背後でセラが顔を上げる。俺が答えるより早く、イリヤがそちらを見た。
「包丁には触らない。火にも近づかない。それならいい?」
「お嬢様が途中でお疲れになったら、おやめになること」
「分かってるわ」
俺よりも条件がはっきりしていた。箸とスプーンを出し、八人分ずつ頼むと、イリヤは盆の上で数え始めた。
「わたしと、シロウ。セラ、リズ、セイバー。サクラと、リン。それから……」
「藤ねえ」
「タイガ、だったかしら」
「本人の前で伸ばして呼ぶなよ。結構、気にするんだ」
「伸ばす?」
説明がややこしくなりそうだったので、藤村大河という名前だと教え直した。イリヤはその名を一度口の中で繰り返してから、最後の一組を盆へ載せる。
「八人。これでいいわ」
「ああ。ありがとう」
「お皿は?」
「そっちはリズに頼んである。イリヤは、それを並べてくれればいいよ」
盆を持つ指が止まった。
「お箸だけ?」
「軽いし。数も間違えずに済んだだろ」
「シロウ。何でも褒めればいいと思っていない?」
「そんなつもりじゃ――」
セラからも目を向けられた。どこをどう直せばいいのか考えている間に、イリヤは盆を持ち上げる。
「次は、お茶碗くらい運べるわ」
「分かった。次は頼む」
彼女が居間へ戻ると、セラは何も言わずに肉を裏返した。表面に焼き色がついていた。
煮込み始めて少しすると、桜が廊下へ出てきた。手には自分の湯呑みだけを持っている。俺の視線に気づき、先に口を開いた。
「座っていました。お茶をいただいて、しばらく」
「分かってる。少しは楽になった?」
「はい。身体が温まったので」
湯呑みを受け取った。頬にはさっきより色が戻っている。
「皆さんがいらっしゃるまで、ここにいてもいいですか」
「いいよ。でも、立ったままはなしな」
台所の脇へ丸椅子を出すと、桜は少し驚いて、それから座った。セラが鍋の具合を尋ね、桜が身を乗り出しかける。桜が椅子を立つ前に、セラが鍋の蓋を持ち上げた。
「いつもより量がありますので。牛乳はこれくらいでしょうか」
「はい。少しずつで。あと、先輩、もう少しだけ牛乳を足してもいいと思います」
「これから煮詰まる分か」
「はい。小麦粉も入っていますし、冷めると少し重くなるので」
「分かった。あとで味を見てくれ」
桜の肩から、少し力が抜けた。味見の小皿を用意し、湯呑みには温かい茶を足して戻す。桜は両手で受け取り、今度は椅子へ深く座り直した。
居間の方で、リズが机を動かす音がした。八人が座れるよう、隣室の小さな机を足しているのだ。俺が様子を見に行くと、机はもう運び込まれていたが、座卓とは高さが少し違っていた。物置から薄い板を出し、脚の下へ挟む。手をついて確かめたところで、玄関から声がした。
「こんにちは。入っていい?」
遠坂だった。上がってきて、俺の格好を見下ろす。
「何してるの、あんた」
「食卓の増築」
「……なるほど。思ったより大人数になってるのね」
遠坂は少し笑い、盆を置いていたイリヤに挨拶した。
「おはよう。今朝はどう?」
「お昼よ、リン」
「まだ少し前でしょ。それに、今日会うのは初めて」
「わたし、ちゃんと朝ごはんも食べたわ」
「それはよかった」
イリヤはスプーンを一本置き直し、俺の方を見た。
「リンは、ここでいい?」
「ああ。セイバーも、そっちへ座ってもらおう」
「わたしはシロウの隣ね」
「そこに座布団、置いたんだろ」
「うん」
既に決めてあったらしい。遠坂が面白そうな顔をしたので、俺は板をもう一度確かめるふりをした。
「こんにちは、遠坂先輩」
桜が台所の入口へ来ていた。立ち止まり、軽く頭を下げる。遠坂はそちらを向いた。
「こんにちは。来られたのね」
「はい。先輩に、泊めていただくことになりました」
「そう。……今、立っていて大丈夫?」
「さっきまで座っていました。セラさんに、お茶も淹れていただいて」
「なら、よかった」
声が少し柔らかくなった。桜が手にしていた湯呑みを見て、遠坂はもう一度その顔を確かめる。桜は何か言おうとして、やめた。代わりに、遠坂の荷物へ手を向ける。
「そちら、置いてきましょうか」
「自分で置くわ。場所だけ教えて」
「あ、はい。そこの棚の横なら」
遠坂は礼を言い、桜が示した場所へ荷物を置いた。それから俺の横を通るとき、小さく尋ねた。
「少しは、休ませてる?」
「ああ。今は味見を頼んだだけ」
「それならいいけど」
そこで俺の顔を見て、眉を寄せる。
「士郎。あんた、目が赤い」
「玉葱を切ったからだよ」
「それ、いつの話?」
「……少し前」
「少し、ね」
信じていない顔だった。イリヤが何か言いかけたが、その前に玄関の戸が勢いよく開いた。
「士郎ー。お届け物と、お姉ちゃんのお帰りでーす!」
両方とも、ずいぶん大きな声でやってきた。
*
藤ねえは両手に袋を提げていた。片方を受け取ると、まだ温かい。揚げ物の匂いがした。
「爺さんのところの?」
「そう。人数を話したら、持っていきなさいって。おじいちゃんからも、食べて休めって伝言」
「分かった。あとで礼を言っとく」
「お願いね。あ、セイバーちゃん、こんにちは。今日は――」
廊下を歩きながら居間を覗き、藤ねえの足が止まった。セイバー、遠坂、桜。そこからイリヤ、セラ、リズへと視線が移る。最後に、継ぎ足した机を見てから俺へ視線を戻した。
「士郎。ちょっと」
「なんだよ」
「電話で聞いたより、なんか多い」
「人数は変わってないぞ」
「そういうことじゃなくて。……あら、遠坂さんも」
「こんにちは、藤村先生。お邪魔しています」
遠坂の姿勢が変わった。声まで少し違う。さっきまで俺の目の赤さを追及していた人物とは思えない。藤ねえも教師の顔で返事をし、次にイリヤの前へしゃがんだ。
「あなたがイリヤちゃん?」
「ええ。初めまして、タイガ」
「そうそう、大河。伸ばさないでくれてありがとう」
「シロウに聞いたもの」
「士郎ぉ?」
どうして俺が睨まれるのだ。親切に教えた結果まで引き受けられない。セラが一歩進み、昨夜の電話の礼を言った。藤ねえはすぐ立ち上がり、そちらにも挨拶する。リズが短く名乗ると、よろしくね、と両手を合わせた。
「昨日は眠れた? 慣れないお家で、落ち着かなかったでしょう」
「眠れたわ。シロウがいたから」
遠坂がこちらを見た。セラも、桜も見た。
「……どういうこと?」
「眠るまで部屋にいたんだよ。そのまま、俺も寝ちまっただけだ」
「壁に寄りかかって、足を曲げたままなの。起きたら、歩き方がおかしかったわ」
「それは報告しなくていい」
イリヤは聞こえなかったように、藤ねえへ顔を戻した。
「今夜は、ちゃんと寝るように言っておいたわ」
「うん、それは正しい。イリヤちゃん、よく言ってくれました」
藤ねえがイリヤの頭へ手を伸ばす。イリヤは少し首を引き、手の届く前に見上げた。
「子供みたいに撫でないで」
「あら、ごめん。でも、可愛いんだもの。困ったことがあったら、何でも言ってね。わたし、士郎のお姉ちゃんだから」
「お姉ちゃん?」
イリヤが俺を見た。
「昔から来てるんだ。俺がこの家へ来た頃から」
「説明が足りない! それじゃ、よく来る人でしょ。いろいろ面倒を見てあげたんだから」
「分かってるよ。それは」
藤ねえは満足そうに頷いた。ところが、イリヤの方は考えている。
「じゃあ、わたしもお姉さんね」
「……どうして、そうなるの?」
今度は藤ねえが聞き返した。
「わたし、シロウより年上だもの」
「え?」
「だから、年上。シロウより」
藤ねえは俺を見た。俺はイリヤを見た。イリヤは、二人とも物分かりが悪い、とでも言いたげに胸を張る。親父と過ごした頃の話は聞いた。けれど、歳そのものは確かめていなかった。見た目から勝手に歳を想像していたのだと、今になって気づく。
「……本当なの?」
「お嬢様のおっしゃるとおりです」
藤ねえの問いに、セラが答えた。すぐには誰も何も言わなかった。やがて遠坂が、なるほどね、と小さく笑う。
「それで、あんなに子供扱いを嫌がるのね」
「リンも、気をつけてね」
「はいはい。気をつけます、お姉さん」
楽しそうな声だった。イリヤは少し眉を寄せたが、先に藤ねえへ向き直る。
「ね。だから、わたしもシロウのお姉さんになれるでしょう」
「ちょっと待って。年上だけじゃ、お姉ちゃんにはなれないのよ。積み重ねというものがあるの」
「何を積んだの?」
「思い出とか、世話を焼いた時間とか」
「タイガは、シロウに何をしてあげたの?」
途端に、藤ねえは元気になった。
「いっぱいあるわよ。学校のことも、毎日のことも。小さい頃から、ずうっと見てきたんだから。ねえ、士郎」
「ああ。世話になってるのは本当だよ」
言ってから、イリヤの顔を見た。さっきまで上がっていた顎が、少し下がっている。けれど、彼女はすぐ藤ねえの持ってきた袋を指した。
「じゃあ、今日はタイガがごはんを作ってくれたの?」
「これは、その、向こうのお家で」
「運んできたのね」
「運ぶのも大事なお仕事です」
「シロウも運んでいたわ」
「途中から! わたしはお家から!」
距離を競うことになった。イリヤが袋を見て、少し口元を緩める。藤ねえはその顔を見て、むう、と唸った。
「イリヤちゃん。なかなか手強いわね」
「お姉さんだもの」
「その使い方はずるい!」
台所からセラが声をかけた。
「お食事の支度が整いました」
藤ねえの顔が上がった。漂ってきた匂いを確かめるように一度息を吸い、それから全員を見回す。
「では、この件はお食事をしながら審議します!」
「何も審議しなくていいから、座ってくれ。飯が冷める」
「士郎。当事者なんだから、もっと真剣に」
「真剣だよ。八人分、いっぺんに盛らないといけないんだぞ」
セラが最初の二皿を持ってきた。藤ねえは素早く座布団へ移り、俺から受け取ったコロッケの袋を自分で開けた。それを見たイリヤも、俺の隣へ戻っていった。
*
鶏肉のクリーム煮を大きな器へ盛ると、座卓の上はすっかり埋まった。藤ねえのコロッケは食べやすく切り、野菜と一緒に別の皿へ。継ぎ足した机には茶の盆を置くことにした。桜も湯呑みを運ぼうとしたが、リズが盆ごと持っていく方が早かった。
「場所、教えて」
「あ、はい。先輩のは、こちらへ」
桜が示した場所へ湯呑みが置かれる。俺のいつもの湯呑みではなかった。
「それ、奥の棚のやつか」
「はい。来客用の方が数を揃えられると思って。セラさんに、お伝えしました」
「助かった。こっちの急須とも合うな」
「前に、先輩が一緒に出してくださったでしょう」
言われて思い出した。普段使わないものほど、しまった本人より桜の方が覚えている。イリヤが自分の前の湯呑みを見て、それから桜を見た。
「サクラは、このお家のこと、よく知っているのね」
「台所のことでしたら。長く、お手伝いさせていただいているので」
「わたしは、まだお箸の場所しか覚えていないわ」
「今度、ほかの場所もお教えしますね」
「ええ。シロウだと、聞く前に取ってきちゃうんだもの」
「必要なら、持ってきた方が早いだろ」
「覚えられないでしょう、それじゃ」
桜も頷いた。俺に助け舟を出す気はないらしい。俺は大皿の位置を直し、全員が座ったのを確かめた。
「じゃあ、食べよう」
手を合わせる。八人分の声が重なって、ようやく昼食が始まった。藤ねえは一口食べた途端、幸せそうな顔になった。
「これよ、これ。寒い日は、こういうのがいいのよねえ」
「気に入ったならよかった。味は、桜に見てもらったんだ」
「作ってくださったのは、先輩とセラさんです。わたしは最後に少しだけ」
「少しでも、助かったよ」
桜は皿へ目を落とした。スプーンを取ったときには、少し口元が緩んでいた。
俺も食べた。鶏肉は柔らかくなっている。温めた器に盛ったので、まだ十分に熱かった。隣ではイリヤが小さく息を吹きかけている。俺が何か言う前にこちらを見たので、黙って自分の皿へ目を戻した。
「シロウ。そっちのお皿、取って」
「コロッケか。どれくらい?」
「半分。小さい方でいいわ」
コロッケの皿を渡す。イリヤは自分の分を取り分け、皿を俺へ返してきた。その様子を見ていた遠坂が、少し首を傾ける。
「あら。お姉さんが、弟に取ってもらうの?」
「届かないもの」
「さっきは、子供扱いしないでって言っていたでしょう」
「届かないのと、子供なのは別よ。リンだって、そっちの端には届かないでしょう」
そのとおりではあった。遠坂は笑ったままスプーンを動かす。
「そうね。じゃあ、今度は士郎の分も取ってあげれば?」
「いいわよ。シロウ、どれがいい?」
「俺は自分で取れる」
「今はそういう話じゃないの」
藤ねえまで頷いた。仕方なく一つ頼むと、イリヤは丁寧に取り分けた。俺が礼を言うと、どういたしまして、と少し得意そうに返す。
「ね。できるでしょう」
「ああ。ありがとう」
これで終わると思った。ところが、イリヤは俺の手元を見て、今度はソースの瓶へ指を向けた。
「お兄ちゃん、そっちも」
「はいよ」
渡してから、食卓の向こうが静かになったことに気づく。遠坂が俺を見ていた。
「……返事するのね」
「呼ばれたんだから、するだろ」
「そこじゃなくて。イリヤスフィール、さっきまでお姉さんだったじゃない」
「シロウは、こう呼んでも返事をするわよ」
「士郎の返事で決めないの」
藤ねえがスプーンを置いた。
「ちょっと。それ、お姉ちゃんの立場が危ないわ。頼むときだけ妹になるなんて」
「タイガも呼んでみれば?」
「えっ。……士郎お兄ちゃ――」
「やめろ」
「まだ最後まで言ってない!」
駄目なものは駄目だった。藤ねえの不満そうな顔を見ていると、自分の方が何か悪いことをしたような気分になるのが困る。
「わたしだって、可愛くお願いすれば」
「藤ねえ、その皿には手が届くよな」
「そういう現実的な話をしているんじゃありません」
桜が笑いをこらえていた。俺と目が合うと、スプーンを口へ運んで隠す。イリヤも笑っていた。声を上げるほどではないが、目を細めて、藤ねえの返事を待っている。
「ほら、イリヤちゃんまで笑ってるじゃない」
「タイガ、面白いわ」
「お姉ちゃんは面白いだけではないんです。頼りにもなるんです」
「じゃあ、シロウを休ませてあげて」
「もちろん。食べ終わったら寝かせます」
「俺を挟んで決めないでくれ」
もう決まったことらしかった。セイバーが静かに頷く。
「その点では、私も賛成です」
「セイバーまで」
「シロウは、休むと言いました。皆さんも聞いています」
「分かってるよ。片付けが済んだら――」
「今、仕事を増やしましたね」
見逃してはもらえなかった。桜まで、そうです、と小さく加わる。
「先輩は、わたしには座っていていいっておっしゃるのに、ご自分ではずっと動いていらっしゃるので」
「今日は人が多いから、つい」
「人が多いなら、任せる相手も多いでしょう」
遠坂に言われ、俺は口を閉じた。この食卓で一対一のつもりで話すと、思いも寄らないところから返事が飛んでくる。
「午後の話も、士郎が寝てからにするわ。わたしも急がせるつもりはないし」
「ありがとうございます、遠坂先輩」
桜が向かいの遠坂へ頭を下げた。言い方はいつもどおり丁寧だったが、遠坂は少し目を上げる。
「どうして桜がお礼を言うのよ」
「先輩は、遠坂先輩に頼まれたら、お休みの途中でも起きてしまいそうなので」
「……頼む前に、もう起きてることが多いんだけど」
「はい。そういうところもあります」
そこで頷き合わないでほしい。藤ねえが楽しそうに二人を見た。
「遠坂さんも、士郎のこと、よく分かってるのねえ」
「あ、いえ。最近、相談することが多かったので」
「相談ね。うんうん。そういえば、士郎って呼んでるのね」
「……同じ学年ですから」
遠坂の背筋が伸びた。教師の前での声に戻っている。
「そうかあ。わたし、学校ではあんまり二人が話してるところを見なかったから」
「藤ねえが見てないところで話してたっていいだろ」
「いいわよ? いいから聞いてるんじゃない」
何を答えても、同じところへ戻される気がした。遠坂が俺を睨んだが、今度は少し理由が分かる。口を挟まなければよかった。
「遠坂先輩のお話、分かりやすいんですよね」
桜が言った。
「先輩も、よく聞いていらっしゃるでしょう」
「ええ。たいていは」
「たいていってなんだよ」
「都合の悪いところは、すぐ聞き流すじゃない」
「聞いてるよ。全部」
「だったら、食後は?」
「……寝る」
桜が小さく笑った。
「わたしが申し上げるより、早いですね」
「桜の言うことだって聞いてるだろ」
「はい。あと少しだけ、とおっしゃりながら」
遠坂が笑うのをこらえた。藤ねえはこらえなかった。話の中心から抜け出そうとコロッケの皿へ手を伸ばすと、イリヤが先に寄せてくれた。
「はい、シロウ。今度は言われる前に取ってあげたわ」
「ありがとう。助かる」
「お姉さんだから?」
遠坂が尋ねる。イリヤはそちらを見てから、少し考えた。
「シロウが食べたそうだったから」
「……そう」
遠坂は笑ったまま、自分の皿へ目を戻した。イリヤもスプーンを取る。さっきまでの勝負のような口調ではなかったので、俺もそれ以上は何も言わず、受け取った皿から一つ取った。
食事が進むと、話は料理の方へ移った。セラが鍋のことを褒めると、桜が、たくさん作るときにはいつも使っていると答える。遠坂はソースを一口確かめてから、感心したように頷いた。
「ちゃんと滑らかね。こういうの、わたしはあまり作らないから」
「遠坂は、何が得意なんだ?」
「中華なら、それなりに。炒め物とか」
「そうなのか。俺、そっちはあんまりやったことがない」
「はい。わたしも、作れる物は少ないです」
桜も顔を上げた。遠坂は二人から見られ、少し得意そうになる。
「材料と火の加減が違うだけよ。最初から難しいものを作ろうとしなければ、そんなに」
「では、今度教えていただけますか」
「……ええ。身体がよくなったらね」
「はい。楽しみにしています」
桜の返事は素直だった。遠坂も頷き、俺の方へ目を移す。
「あんたも。教えるなら、ちゃんと手を動かしてもらうわよ」
「もちろん。その方が覚えられる」
「じゃあ、わたしも見るわ」
「イリヤも?」
「シロウが教わっているところ、面白そうだもの」
妙な楽しみにされた。藤ねえがすかさず手を上げる。
「はい。お姉ちゃんは味見を担当します」
「そこだけは譲らないんだな」
「大事な役目です。皆のために、引き受けます」
セラが小さく咳払いをした。すぐに鍋の方へ顔を向けたので、笑ったのかどうかは分からなかった。リズは空になった皿を見ていたが、やがて俺へ差し出した。
「もう少し、ある?」
「ああ。あるよ」
立とうとすると、セラが先に手を出した。
「お預かりします」
「では、私もお願いします」
セイバーが器を添えた。藤ねえも何も言わずに差し出し、俺を見る。
「少しだけよ?」
「まだ何も言ってないだろ」
桜がまた笑った。手にしていたスプーンが、皿の縁へ当たって小さく鳴った。彼女は持ち直そうとして、いったん皿に置いた。
「桜?」
「すみません。少し、ぼんやりしてしまって」
笑みは残っていたが、肩が落ちていた。さっきまでの話に夢中で、俺も顔色を見るのを忘れていた。桜は茶を飲み、ゆっくり息をついた。
「もう、お腹は十分です。ごちそうさまでした」
「うん。部屋へ戻るか?」
「もう少し、ここにいてもいいですか。皆さんのお話を聞いていたいので」
遠坂がこちらを見た。俺は桜のそばの器を下げ、空いたところへ茶を寄せた。
「じゃあ、楽にしててくれ。座り直してもいいから」
「はい」
桜は膝を少し崩し、座布団を引き寄せた。藤ねえもそれを見てから、声を少し落とす。
「わたしも、これでおしまい。今日は、ちゃんと片付けを手伝って帰ります」
「いつもそうしてくれれば」
「士郎。せっかく言ったときに、それを言わない」
いつもより小さな抗議だった。イリヤは自分の皿を見て、残ったソースへスプーンを寄せた。もう少し食べるかと聞くと、首を振る。
「これでいい。ごちそうさま」
「お粗末さま」
彼女は自分でスプーンを揃え、盆が来るのを待った。
*
片付けは、始まってしまえば早かった。セラが台所へ運び、遠坂が皿を重ね、リズが空いた盆を戻す。藤ねえは急須を持ったまま何か話していたが、セラに急須を渡すと、代わりに受け取った布巾を運んでいった。俺か桜が立ちかけるたび、誰かが先に手を伸ばした。
「どうも、今日は本当に仕事がないな」
「……はい」
隣で桜が笑った。その笑い方には、少し困った感じもあった。
「嫌か?」
「いいえ。ただ、何もしていないと、落ち着かなくて」
「分かる」
俺が答えると、桜は顔を上げた。
「先輩も、分かるんですね」
「分かるよ。人が働いてると、つい手を出したくなるだろ」
「はい。ですから、わたしだけには、言わないでくださいね」
言い返せなかった。空いた手を膝へ置くと、桜も同じようにした。台所から、遠坂と藤ねえの声が聞こえてくる。茶碗を戻す場所で意見が割れているらしい。
「左です。下の棚の、手前にお願いします」
桜が座ったまま伝えた。ありがとう、と返ってきて、向こうの騒ぎが収まる。
「……今のは、いいだろ」
「はい」
二人でまた少し笑った。
お茶を淹れ直したところで、藤ねえが桜のそばへ座った。部屋と荷物のことを確かめ、最後に、ここへ泊まって困ることはないかと尋ねる。桜は首を横に振った。
「わたしは、ここにいられると嬉しいです。先輩にそう言っていただけて」
「うん。だったら、よかった」
藤ねえはそれ以上、顔を覗き込まなかった。空の器を盆へ載せてから、今度はイリヤの方を向く。
「イリヤちゃんも、お部屋は寒くない?」
「暖かいわ。廊下は少し寒いけれど」
「そうなのよ、この家。切嗣さんも昔、寒いのに廊下でぼんやりしててね。お茶を持っていっても、そのまま冷ましちゃうの」
イリヤの指が止まった。藤ねえはまだ、急須に残った茶の量を確かめていた。
「……キリツグにも、お茶を持っていったの?」
「うん。飲まないなら返してって言うと、ちゃんと飲むつもりだったって。忘れてたに決まってるのに」
「そういうところ、あったわ」
小さな声だった。藤ねえが顔を上げた。俺は湯呑みを置いた。
「イリヤも、親父のことを知ってるんだ」
「……そうなの」
藤ねえは俺を見て、それからイリヤへ目を戻した。イリヤは両手で湯呑みを包んでいた。
「タイガは、ずっとここへ来ていたの?」
「士郎が来るより前からね。お邪魔して、ごはんを食べたり、話したり」
「キリツグと?」
「ええ。士郎が来てからは、三人で」
イリヤは頷いた。俺は、親父と藤ねえが座っていた場所へ目を向けた。そこには今、遠坂がいた。机の向こうにはセラとリズがいて、湯呑みもいつもより多かった。
「……どんな話をしていたの」
イリヤが尋ねる。藤ねえは少し考え、困ったように笑った。
「いろいろ。思い出そうとすると、くだらない話ばかり出てきちゃうわね。お魚の骨が多いとか、学校でこんなことがあったとか」
「それ、ほとんど藤ねえが話してたやつじゃないか」
「士郎。それは今、言わなくていいことです」
口に出してから、自分でも笑っていることに気づいた。イリヤは俺たちを見ていたが、やがて湯呑みを少し持ち上げた。
「……また、聞かせてね」
「もちろん。わたしの格好いい話も、ちゃんと用意してくるから」
「そこは作らなくていいぞ」
「作りません。あるんです。いっぱい」
藤ねえが胸を張った。イリヤは少し笑い、それから茶を飲んだ。藤ねえも、それ以上は尋ねずに自分の湯呑みを取った。
*
藤ねえが帰る支度を始めると、セラも玄関へ来た。二人は寝具や洗濯、何かあった場合の連絡のことを二、三話す。俺が袋を返している間、藤ねえは居間の方を気にしていた。
「桜ちゃんも、イリヤちゃんも、午後は休ませてね」
「うん。俺も寝る」
「よし。今夜も向こうにいるから、何かあったら電話すること。学校の連絡も、また教えるね」
「分かった。藤ねえも、夜更かしするなよ」
「お姉ちゃんに任せておきなさい」
何を任せればいいのか分からない返事を残し、藤ねえは帰っていった。門を閉めて戻ると、家の中が急に広くなった気がした。居間ではリズが余った座布団を重ねている。遠坂は空いた盆を持って台所へ向かった。
「後で、少し時間をもらうわね。今は寝てきなさい」
「ああ。起きたら声をかける」
「その前に用事を思いつかないこと」
念を押されたので、拾いかけていた布巾から手を離した。桜のところへ行くと、彼女は客間の戸を開けていた。さっきまでの疲れが出たのか、目元が少し眠そうだった。
「横になれそうか」
「はい。少し休ませていただきます」
「夕飯ができたら呼ぶから、今は休んでてくれ」
「先輩も、です」
「分かってる」
布団まで用意してもらったのだ。これ以上、仕事を探して回る方が失礼になる。
イリヤも部屋へ戻っていた。戸口から声をかけると、彼女は窓際の机から顔を上げた。本はまだ閉じたままだった。彼女はその表紙を一度撫でてから、座布団を離れる。
「シロウ、寝るの?」
「ああ。今度は布団で」
「起きたら、教えてね」
「うん。イリヤが寝てたら、声だけかける」
「ちゃんと返事をするまで、待って」
頷くと、イリヤは少し満足そうな顔をした。
「タイガ、よく喋るのね」
「だろ。疲れなかったか」
「少し。でも、また来るでしょう?」
「ああ。来るなと言ったって、来るよ」
イリヤが笑った。
「じゃあ、今度もあの人のお箸を、出しておくわ」
「頼む。今度は茶碗も任せていいか」
「ええ。先に場所を教えてね。シロウが全部取ってこないで」
「分かった。案内だけにしとく」
彼女は机の上へ目をやってから、もう一度こちらを見た。
「おやすみ、シロウ」
「おやすみ」
自分の部屋へ戻る。敷いてもらった布団は、まだ角まできちんと揃っていた。横になると、首と肩の力が抜けた。昨夜、座ったまま眠ったことを、身体の方がよく覚えている。
廊下から足音がした。セラの声と、リズの短い返事。遠くで、戸が一枚閉まる。目を閉じたまま、聞いていた。
昼に使った湯呑みは、もう洗って伏せてあるはずだった。八つ。いつもは棚の奥にあるものまで、今日は全部使った。次に起きたら、また誰かの分の茶を淹れる。
それを考えているうちに、眠っていた。