Fate/stay night IF BEYOND THE EVER   作:Мир

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第十二話 山門の先客

 目を開けても、しばらくどこの天井を見ているのか分からなかった。見慣れた木目を目で追って、ようやく自分の部屋だと思い出す。昼食のあと、少し休むつもりで布団へ入ったのだった。思っていたより深く眠っていたらしい。

 

 廊下へ出ると、庭には午後の日が差していた。夕方にはまだ早い。台所で水の流れる音がして、どこかの戸が小さく鳴った。顔を洗い、イリヤの部屋の前へ行く。

 

「イリヤ。起きたぞ」

 

 返事はなかった。もう一度呼ぼうとして、やめる。返事をするまで待って、と言われたばかりだ。戸の脇に立っていると、中で布の擦れる音がした。

 

「……シロウ?」

「うん。起こして悪い」

「起こしてって、言ったでしょう」

 

 声はまだ眠そうだった。少し待ってから戸が開き、イリヤが顔を出した。髪の片側に寝癖がついている。こちらを見上げてから、俺の足元へ目を落とした。今朝、足を痺れさせていたのを覚えているらしい。

 

「今度は、ちゃんと歩ける?」

「布団で寝たからな」

「よかった。じゃあ、お茶にしましょう」

 

 言いながら廊下へ出ようとするので、髪を指さした。

 

「その前に、そこ」

「……見なかったことにして」

 

 戸が閉じた。中からセラを呼ぶ声がする。俺は先に台所へ行き、やかんを火にかけた。

 

     *

 

 湯呑みを並べ終えた頃、遠坂が庭から戻ってきた。セイバーと何か話していたらしい。二人の後ろを、きれいに髪を梳かされたイリヤがついてくる。

 

「眠れた?」

「ああ。遠坂も休んだのか」

「少しね。誰かさんを布団へ追い込むよりは簡単だったわ」

「俺だって、ちゃんと寝ただろ」

「寝る前に布巾を拾おうとしていた人が言うこと?」

 

 見られていた。イリヤが俺の顔を覗く。

 

「シロウ、何をしようとしたの?」

「別に。ただ、そこにあったから」

「その説明、次に何か拾う時にも使いそうね」

 

 遠坂が茶を受け取りながら言った。セイバーまで頷くので、俺は自分の湯呑みへ手を伸ばした。茶を飲んでいる間くらいは、何も拾わずに済む。

 

 セラに桜のことを尋ねると、まだ休んでいるとのことだった。昼食の時より顔色もよくなっていて、一度目を覚ました時には水も飲めたという。呼びに行こうかと思ったが、話を聞いてやめた。夕食まで時間はある。

 

「じゃあ、こちらも話しておきましょうか」

 

 遠坂が湯呑みを置いた。

 

「場所を変えるわよ。士郎、お茶は持っていっていいから」

「飲み終わるまで待てって言おうとしたわけじゃないぞ」

「ええ。片付けを始める前に、言っておいたの」

 

 イリヤが笑った。俺は湯呑みを持って立ち上がる。セイバーが自分の分と、空いた盆を持ってくれた。

 

     *

 

 庭を挟んだ奥の部屋に、アーチャーがいた。壁に背を預け、腕を組んでいる。俺たちが入ると、遠坂へ短く何かを告げた。彼女は頷き、座卓の上を空けた。

 

「戻ってたのか。お茶、要るか?」

「話を始めるのではなかったか」

「一つ増やすくらい、すぐだ」

「士郎」

 

 遠坂に呼ばれた。隣ではイリヤが座布団を引き寄せている。

 

「シロウ。座ってから、考えて」

「……分かった」

 

 腰を下ろすと、アーチャーがわずかに口元を動かした。

 

「よく眠れたようだな」

 

 気遣われた気がしなかった。手にしていた湯呑みを座卓へ置くと、セイバーも自分の分を置き、空いた盆を部屋の隅へ寄せた。これで、当分立つ理由がなくなった。

 

 セラは、桜のいる側には自分がいる、と言って廊下へ戻った。周囲を確かめ、静かに戸を閉める。遠坂が広げた地図の上には、町の中心と、川、それに外れの山が描かれていた。

 

「まず、昨日の男。アーチャーにも見てもらったけど、見つかっていない。慎二もよ」

 

 地図へ落としかけた視線が、アーチャーへ向いた。

 

「ずっと町を見てたのか」

「探した範囲では、姿を見なかったということだ。屋内まで一軒ずつ調べたわけではない」

「……そうか」

「あんたの方に、連絡は?」

「ない。慎二からは、何も」

 

 昼の食卓で桜が笑っていたことを思い出す。その場で慎二の名前を出さずに済んだのを、少しだけありがたいと思っていた。けれど、見つかっていないこと自体が変わるわけではない。

 

「それと、町の昏睡事件。学校の一件が終わったからって、全部止まったわけじゃないの」

 

 遠坂の指が地図を滑り、山のところで止まった。

 

「柳洞寺。ここに、魔術師が陣地を作っている。おそらくキャスターよ」

「一成のところに?」

「魔力の流れを追って、場所を絞った。学校とは別の術が動いているわ」

「寺の人たちは」

「中までは見ていない。今、どうしているかは分からない」

 

 一成の家には、何度も行ったことがある。用事を頼まれて、帰りに茶を貰って。境内の掃除に捕まった時には、次は俺の家の庭も手伝えと言った。学校が休みになってから顔を合わせていないだけで、あいつはあそこでいつもの仕事をしているものだと思っていた。

 

「確かめに行こう。人から力を奪ってるなら、止めないと」

「ええ。そのための相談よ。出るのは今夜。夕食を済ませてからにしましょう」

 

 遠坂が地図の端を俺の方へ押した。

 

「知っている場所なら、建物の位置を教えて。入口から先は?」

「山門を抜けると庭があって、本堂は奥。人が住んでるのは、こっちの庫裏だ。廊下で繋がってる」

 

 指で示すと、遠坂が別の紙へ簡単な図を描いた。俺が物置の位置を言い足す横から、イリヤが覗き込む。

 

「こんなに人が住んでいるの?」

「一成の家族だけじゃないんだ。お坊さんも何人もいる。だから、夜でも誰もいないってことはないと思う」

 

 口にしてから、そのことが急に気にかかった。魔術師がいるなら、一成たちはどうやって暮らしているのだろう。気づいていないのか。それとも、気づいていて動けないのか。

 

「山の結界は、サーヴァントに対するものです」

 

 セイバーが図の入口を示した。

 

「私たちが入るには、ここを通る必要がある。裏から回り込んでも、同じようには戦えません」

「正面で待っていられたら、厄介だな」

「そうね。でも、人間だけを裏から入れるのはなし」

 

 遠坂が先に言った。アーチャーも腕をほどく。

 

「中で何か起これば、私たちが駆けつけるにも時間がかかる。相手の術を調べるために、こちらから捕まりに行くことはない」

「分かってる。じゃあ、まとまって行くんだな」

「ええ。わたしも行くわ」

 

 遠坂が答えるより先に、イリヤが言った。地図へ置かれた指は、庫裏の位置を押さえていた。

 

「イリヤも?」

「いま、まとまって行くって言ったでしょう」

「それは、そうだけど」

 

 彼女を見た。髪はきれいに直っていて、さっきまでの眠そうな目もしていない。だからといって、昨日のことまでなくなったわけではなかった。

 

「昨日の今日だ。家で休んでいた方が――」

「休んだわ。シロウと同じくらい」

 

 イリヤが言う。俺は続きを口にする前に、湯呑みから手を離した。

 

「……心配なんだ。また、危ない目に遭うかもしれないから」

「シロウが行くなら、わたしも心配よ」

 

 すぐには返せなかった。イリヤは地図へ目を戻す。

 

「人から力を集める術があるんでしょう。だったら、わたしにも調べられる。倒れている人がいたら、何をされたのかも確かめるわ」

「それは、助かるけど」

「それに、誰も帰ってこないかもしれないって、ここで待っているのは嫌だもの」

 

 最後だけ、声が少し小さくなった。彼女の指が、紙から離れる。

 

 昨夜、寝るまでいてほしいと言われたことを思い出した。今も、置いていかれたくない気持ちはあるのかもしれない。けれど、見に行く先のことを聞いて、自分の出来ることを挙げたのもイリヤだった。

 

「身体はどう? まだ疲れているなら、そこは言って」

 

 遠坂が尋ねた。

 

「気分は悪くないわ。歩くのも平気」

「長く調べ続けることになっても?」

「術を見ないうちから、いつまでも大丈夫だなんて言わないわよ。疲れたら言う」

「なら、調べる時は先に知らせること。あんた一人だけ止まったり、奥へ入ったりしないでね」

「リンも、急に引っ張らないで。途中で分からなくなるから」

「危ない時は引っ張るわ。それ以外は声をかける」

 

 イリヤが頷いた。話が決まっていくのを聞いてから、俺も向き直る。

 

「頼んでいいか。俺は、倒れている人を見つけても、魔術で何をされたのかまでは分からない」

「ええ。そういう時は、わたしを呼んで」

 

 今度は、少し得意そうな返事だった。

 

「ただし、診ている間にあんたが別の部屋へ飛び出さないこと」

 

 遠坂が俺を見る。

 

「そんなことは」

「士郎」

「……分かった。声をかける」

「返事を聞いてから動いてね」

 

 イリヤにまで言われた。昼寝の前とは立場が逆だ。セイバーが図をこちらへ向け直し、アーチャーは何も言わずに入口の位置を指で叩いた。

 

「散らばらないことが、最初の約束です。私も、全員を別々の場所で守ることは出来ません」

「ああ。セイバーの肩は?」

 

 彼女は自分で腕を上げてみせた。

 

「剣を振るうことに支障はありません。ただ、魔力には限りがあります。長い戦いは避けたい」

 

 動きは滑らかだった。だが、俺から十分に魔力を渡せていないことは、まだ変わっていなかった。

 

「まず私が前へ出ます。中を確かめる間、アーチャーには後方を頼みたい」

「承知した。正面へ気を取られて、後ろを空けないことだな」

「あなたに言われるまでもありません」

「その確認をしているのだろう」

 

 セイバーの目がわずかに細くなった。遠坂が二人の間へ紙を差し戻す。

 

「はい、確認できた。あとは引き返す時も一緒よ。誰かを待たずに逃げるのも、誰かを待たずに助けに戻るのもなし」

「……それ、両方俺を見て言ってないか」

「全員に言ってるわよ」

 

 目は合ったままだった。イリヤは湯呑みを口元まで上げて、俺の方を見ないようにしていた。

 

     *

 

 イリヤの部屋で、出発の準備を見せてもらった。遠坂も入ってきて、窓際の机の前へ座る。セイバーは廊下でセラと話し、アーチャーは庭へ戻っていた。

 

 机の上に本がある。城から持ってきたものだった。イリヤはその横へ小さな箱を置き、細い銀色の線を取り出す。

 

「針金?」

「見ていて」

 

 線が掌の上でほどけた。引っ張る指もないのに、するすると曲がり、輪を作る。小さな頭。細い脚。両側へ開いた線が重なり、翼の形になる。

 

 鳥だった。掌に乗るくらいの、小さな銀の鳥。向こうの肌が透けて見える翼を広げ、首を傾けた。

 

「……すごいな」

 

 イリヤが顔を上げる。俺は鳥と彼女の指を交互に見た。作りかけの段階で何が出来るか分かったのに、出来上がったものを見ると、やっぱり驚いた。

 

「ちゃんと、動くのか」

「動いているでしょう」

「そうじゃなくて。飛ぶのかって」

「飛べなかったら、今夜はお留守番ね」

 

 遠坂が言った。イリヤはそちらへ鳥を向ける。

 

「見せてあげるわ、リンにも」

 

 掌が少し持ち上がり、銀の翼が羽ばたいた。畳の上へ影が落ちる。鳥は机から長押へ飛び、部屋の隅へと向きを変えた。羽音はほとんど聞こえなかった。

 

「あそこから見られるのか?」

「ええ。少し、動かないでね」

 

 イリヤが目を閉じた。鳥がこちらを見下ろす。俺もつられて見上げた。

 

「シロウ。襟の後ろ、折れてる」

「え?」

 

 手をやると、本当に内側へ折れ込んでいた。俺が直している横で、遠坂が口元を押さえている。

 

「気づいてたのか」

「今、教えてもらったところよ」

「その顔は違うだろ」

 

 イリヤが目を開けた。銀の鳥が戻り、掌へ降りる。

 

「ちゃんと見えたでしょう」

「ああ。俺が自分で見えないところまで」

「じゃあ、襟を直す係も決まったわね」

「リン。それだけに使うんじゃないの」

 

 言い返したイリヤも、少し笑っていた。俺はもう一度、襟の後ろへ手をやった。

 

 鳥を近くで見せてもらうと、翼の隙間はとても細かかった。触っていいと言われてから指を添える。見た目よりしっかりしていて、それでいて、少しの力でも壊してしまいそうに軽い。

 

「これを先に寺まで飛ばせば、中が見えるんじゃないか」

「町を越えて、山まで? 今夜は、近くを見るために使うのよ」

 

 イリヤが鳥を膝へ戻した。

 

「遠くへ送ったって、戸が閉まっていたら、その向こうは見えないでしょう。それに、見ている間はこっちを見られないもの」

「その間に、イリヤの方へ何か来ると困るのか」

「そう。だから、近くにいてね」

「分かった」

「鳥ばかり見ないで、周りも見るのよ」

 

 また鳥へ目を向けかけていたので、素直に頷いた。遠坂は鳥を覗き込み、翼が畳まれる様子をしばらく目で追っていた。

 

「……きれいに作るわね」

「そうでしょう」

「褒めた途端に、その顔?」

「だって、リンが褒めたんだもの」

 

 遠坂は何か言いかけ、結局、鳥へ視線を戻した。イリヤは満足そうに箱の蓋を開ける。鳥が中へ収まると、翼を傷めないよう、指で位置を直した。

 

     *

 

 相談が終わるのを待っていたセラは、まだ難しい顔をしていた。イリヤの外套を腕に掛けたまま、戸口から動かない。

 

「お嬢様。本当に、私ども二人ともこちらに残れと仰るのですか」

「ええ。サクラがいるもの。わたしたちは五人でしょう」

「それは承知しております。ですが」

 

 イリヤはセラの前まで行った。外套を取ろうとして、先に両肩へ掛けられる。言葉を続ける前に留め具を確かめられ、襟を直された。

 

「セラ。まだ出ないわよ」

「いま確かめておけば、玄関でお待たせしません」

「分かったから。少し、下を向かせて」

 

 リズが後ろへ回り、襟の中に入った髪をそっと引き出した。

 

「これで、平気」

「……ありがとう」

 

 俺は笑いそうになって、口を閉じた。イリヤには見つかったらしく、横目で睨まれた。

 

「シロウだって、後ろが折れてたくせに」

「もう直しただろ」

「ええ。わたしが見つけてあげたからね」

 

 セラがこちらを見た。襟を直そうと手を伸ばしかけたので、慌てて大丈夫だと断る。リズだけは、俺の背中を覗いてから小さく頷いた。

 

 遠坂が、留守の間のことを改めて話した。家に何かあった時は、桜を連れて離れる。俺たちとの行き違いを気にして、門の前で待ったりしない。連絡先を紙へ書き、電話のそばに置く。

 

「藤村先生にも、連絡を取れるようにしてあります」

 

 セラが答えた。俺は昼間の藤ねえの言葉を思い出し、頷く。

 

「すみません。お願いします」

「こちらのことは、お任せください」

 

 そこまで言ってから、セラの目がイリヤへ戻った。

 

「お嬢様も、お戻りになったら必ずお声を」

「うん。分かってる」

「お疲れでも、です」

「分かってるわよ、セラ」

 

 イリヤは少し口を尖らせた。それでも、外套を脱ぐ時には自分からセラへ渡した。

 

     *

 

 夕方になり、台所で夕食の支度をしていると、桜が起きてきた。廊下で会うと、向こうから挨拶をして、髪を耳へかける。

 

「少し、寝すぎてしまいました」

「それだけ眠れたなら、よかった。気分は?」

「楽になりました。お昼より、ずっと」

 

 昼食の終わりには眠たそうだった目が、今はきちんとこちらを見ていた。足取りにも危なげはない。喉が渇いたというので、水を用意した。桜は座って、ゆっくり一杯飲んだ。

 

「夕飯、もう始めていたんですか」

「セラさんと。あとは温めるのと、野菜を炒めるくらいだ」

「じゃあ、わたしは――」

 

 立ち上がりかけた桜の前へ、リズが箸の束を置いた。

 

「サクラ。これ、お願い」

 

 桜は箸とリズを見比べた。それから、少し笑った。

 

「はい。これは、わたしのお仕事ですね」

 

 イリヤが隣へ座り、箸を二人で分け始めた。昼と同じように一組ずつ揃えるうちに、イリヤが手を止める。

 

「タイガの分は?」

「今夜は来ないって言ってたから、七人分だな」

「あの人、急に来たりするでしょう」

「……するな」

 

 桜が八組目を揃えて、少し離れたところへ置いた。

 

「念のため、ここに。いらなかったら戻せばいいですから」

「そうね。シロウ、これも覚えておいて」

「俺の家の話なんだけどな」

 

 二人は並んでこちらを見た。よく似た顔で笑っている。俺は台所へ戻り、念のため、汁の量をもう一度確かめた。

 

 食卓に料理を並べる頃には、庭はすっかり暗くなっていた。結局、藤ねえは来なかった。七人で座った食卓も、静かにはならなかった。桜が学校の課題のことを持ち出すと、遠坂がすぐに範囲を答えた。俺が何のことか分からずにいると、二人から同じところを指摘される。

 

「休校になる前に、配られたでしょう」

「薄い、二枚のプリントです。先輩、鞄へ入れていましたよ」

「ああ、あれか」

「思い出した顔じゃないわね」

 

 遠坂が言う。イリヤが箸を止めた。

 

「シロウ、宿題を忘れたの?」

「忘れたっていうか、まだ手をつけてないだけだ」

「だったら、今はまだ間に合うわ。ちゃんとやりなさい」

 

 どこか得意げな顔だった。遠坂が茶を飲み、桜は笑いながら、プリントの表に書いてあった題名を教えてくれた。そこでようやく、鞄の底に入れた紙を思い出す。

 

「夕飯の後に、一枚くらいなら出来るだろ」

「今夜は、先に用意することがあるでしょう」

 

 遠坂の声は普段のままだった。俺も頷くだけにした。桜は自分の皿へ箸を戻し、イリヤに残りの野菜を勧めている。

 

 桜は夕飯をゆっくり食べた。途中で箸が止まっても、気分が悪そうな様子ではなく、遠坂の話を聞いていただけだった。食べ終わった器を自分で重ね、リズへ渡す。

 

「おいしかったです。ごちそうさまでした」

 

 その声を聞いて、俺もやっと箸を置けた。

 

     *

 

 食器を片付け、風呂の順を決めると、家の中の人が少しずつ別の部屋へ散っていった。俺は自分の鞄を開け、例のプリントを取り出した。明日、忘れずに取りかかれるよう、目につくところへ置いておく。

 

 桜は早めに部屋へ戻ることにした。廊下で会った時には、寝間着の上に一枚羽織っていた。

 

「お休みになるのか」

「はい。まだ少し、眠くて。せっかくお布団を用意していただいたので、今日は早めに」

「うん。何かあったら、セラさんたちもいるから」

 

 頷いた桜の目が、俺が手にした上着へ向いた。

 

「先輩は、まだ出かけるんですか」

「ああ。遠坂たちと、少し用事があって」

 

 何の用かまで、言えなかった。桜はしばらく俺を見ていた。いつものように、遅くならないでくださいと言われる気がした。

 

「……気をつけてくださいね」

「分かった。桜は、待ってなくていいからな」

「待っていたら、セラさんに叱られてしまいそうです」

 

 少しだけ笑って、彼女は客間の戸へ手をかける。

 

「おやすみなさい、先輩」

「おやすみ」

 

 戸が閉まった。俺はしばらくその前にいてから、上着を羽織った。

 

 玄関では、イリヤが靴の留め具を確かめていた。立ち上がると、今度は自分で外套の襟を直している。リズが鞄を渡し、セラが外套の裾から手を離した。

 

「行ってくるわ」

「お気をつけて」

「イリヤ。箱、横にしないでね」

「分かってる。二人も、サクラをお願い」

 

 セイバーが先に外を確かめた。遠坂が続き、俺も玄関を下りる。アーチャーは門の外で待っていた。

 

「エミヤ様」

 

 セラに呼び止められた。

 

「お嬢様が何か仰った時は、よくお聞きください」

「はい」

 

 早く帰ってきてくれとも、守ってくれとも言わなかった。その分、返事をしてからも言葉が残った。イリヤが俺の隣へ来る。俺は門を開けて、彼女が外へ出るのを待った。

 

     *

 

 山へ近づくにつれて、店の灯りも、車の音も減っていった。石段の下で一度足を止め、靴紐を確かめる。セイバーの姿を淡い光が包み、消えた後には銀の鎧があった。右肩を回す動きは滑らかだった。彼女は俺を見て、小さく頷いた。

 

「ここからは、私より前へ出ないように」

「ああ」

 

 セイバー、遠坂、その後ろに俺とイリヤ。アーチャーが後ろを見ながらついてくる。石段は、ところどころ湿っていた。踏む場所を選びながら上るうち、息が白くなっていく。イリヤの足音は隣で続いていた。ときどき止まって道の先を見るが、すぐにまた歩き出す。

 

 山門の屋根が見えた。セイバーが手を上げる。俺たちは最後の数段を残して止まった。

 

 誰も出てこない。こちらが知らないだけで、既に狙われているのかもしれない。柱の陰、屋根の下、両脇の木々へ目を配る。見ようとするほど、暗がりは深く見えた。

 

「待ち受けている気配はありません」

 

 セイバーが声を落とした。アーチャーも周囲を見たが、安全だとは言わなかった。

 

「門の向こうを見てみるわ。少し、待って」

 

 イリヤが鞄を開けた。銀の鳥が掌へ乗り、翼を広げる。俺は彼女の斜め後ろへ立ち、石段の下へも目を向けた。鳥は山門をくぐり、軒の陰に沿って飛んだ。イリヤが目を閉じる。

 

「……庭には誰もいない。向こうの戸が、開いているわ」

「どの建物?」

「右の、廊下がある方。奥は見えない。灯りがないもの」

 

 風が木の葉を鳴らした。鳥の戻るのを待つ数秒が、やけに長かった。銀の翼が門の陰から現れ、イリヤの掌へ降りる。彼女は目を開けて鳥を箱へ戻した。遠坂がセイバーへ合図をし、俺たちは門を越えた。

 

 境内へ入っても、物音は増えなかった。柳洞寺には、大勢の人が暮らしている。一成に手伝いを頼まれて来た時は、どこかで必ず誰かの声がした。戸を閉める音、箒で地面を掃く音。今は、そのどれもない。足元の砂利を踏む、自分たちの音ばかりが響いていた。

 

 セイバーが、開いている戸へ近づく。俺はその脇から中を見て、息を止めた。

 

 人が倒れていた。一人だけではなかった。座布団のそばにも、廊下へ出ようとしたような場所にも、身体が横たわっている。眠っているにしては、姿勢が不自然だった。

 

「一成……?」

 

 眼鏡が畳の上に落ちていた。そのすぐ向こうに、一成がいた。片腕を伸ばしたまま、横向きに倒れている。セイバーが入口から室内を見渡す。前を塞ぐものがないと確かめるのを待ち、俺は一成のそばへ膝をついた。

 

「おい、一成。聞こえるか」

 

 返事はなかった。近くで見ると胸は動いている。肩口にも首元にも、目立つ血はついていない。

 

「息はある。イリヤ、何か分かるか」

「少し待って。確かめるわ」

 

 イリヤが隣へ膝をついた。そのとき、入口でセイバーが向きを変える。

 

「奥にいます。本堂です」

 

 遠坂の視線が俺たちへ戻った。

 

「先にそちらを押さえる。ここで調べている間に攻撃されたら、この人たちも危ない」

 

 一成の呼吸をもう一度確かめた。ここに留まっていても、奥の相手が動けば巻き込んでしまう。眼鏡を拾い、踏まれない場所へ置く。

 

「……分かった。先に止める。戻ったら、一成たちを診てくれるか」

「ええ。ちゃんと診るわ」

 

 立って、戸口へ戻る。アーチャーは後ろを見たまま、道を空けた。イリヤが俺の横を通り、遠坂のすぐ後ろへつく。人の寝息から離れ、板張りの廊下へ進んだ。

 

     *

 

 本堂の戸は開いていた。先頭のセイバーが敷居の前で止まる。横から覗いた俺にも、床の黒い染みが見えた。

 

 血だった。部屋の奥から、板の継ぎ目に沿って広がっている。その中に、男が横たわっていた。顔が見えた瞬間、学校の廊下を歩く姿が重なった。

 

「葛木、先生……?」

 

 俺の後ろで、遠坂が息を呑んだ。いつもの服だった。立っていれば、何の違和感もなく教室へ入っていける格好だ。それなのに胸のあたりだけが濡れ、片手が床へ投げ出されている。一成とは違い、眠っているようには見えなかった。

 

 足が動きかけた。目の前へ、セイバーの腕が出る。

 

「近づいてはいけない。まだ、サーヴァントがいる」

 

 遺体のそばに、女が立っていた。紫の衣。深く被ったフード。その陰から、白い顎だけが見える。女は俺たちを見ていなかった。床に倒れた男を見下ろしている。右手には、不思議な形の短刀を下げていた。

 

「キャスター」

 

 セイバーが呼んだ。女の肩が、わずかに動く。遠坂が俺の袖を引いた。敷居から半歩下がり、イリヤが立つ側へ寄る。アーチャーはその反対側へ移り、開いた戸の片方を背にした。

 

 キャスターの手が上がった。まだこちらへ刃を向けたわけではない。指の中で柄が動き、曲がった刀身が月の光を拾った。その線から、目が離せなくなった。

 

 刃の形が奇妙だから、というだけではなかった。どこから力が入って、何を切るために出来ているのか。ふだん道具の中を確かめる時とは違うものが、頭の奥へ流れ込んでくる。金属の刃を見ているはずなのに、その先でほどけるものが分かった。積み重ねて結ばれた術。力を通し、形を保っている繋がり。それを、組み上げる前へ戻してしまう。

 

 頭の奥が痛んだ。セイバーが重心を落とす。踏み込もうとしている。

 

「セイバー! その短刀に触られるな!」

 

 声が本堂へ響いた。彼女は足を止めず、向きを変えた。一直線に入るはずだったところを、刃を持つ右手から遠ざかる側へ回る。

 

「あれは、魔術を壊すための物だ。契約も……俺とセイバーの繋がりまで、切られるかもしれない!」

 

 遠坂の手が胸元へ動いた。アーチャーは短刀を一度見て、俺たちを戸口からさらに離す。セイバーはすでに剣を構えていた。見えない切っ先が、キャスターと俺たちの間を分ける。

 

「その人間は、あなたのマスターですか。何があったのです」

 

 キャスターが顔を上げた。フードの下の目がこちらを捉える。今ようやく、俺たちに気づいたようだった。

 

「……今度は、あなたたち?」

 

 女の口元が歪む。

 

「二騎も連れて。ずいぶんと念を入れたものね」

「私たちは今来た。この人を、あなたが手に掛けたのですか」

 

 キャスターの顔から、笑いが消えた。声が出るまで、ほんの少し間があった。その間に、俺は彼女の左手が震えているのを見た。

 

「私が?」

 

 短刀を握る指に力がこもった。

 

「……宗一郎様を? あなたは、何も知らないくせに」

 

 最後の言葉は、ほとんど息だった。セイバーが何か言おうとした。だが、その前に、俺には聞き取れない音がキャスターの唇から零れた。短刀が衣の中へ消える。代わりに開かれた手の前で、青白い光が膨らんだ。

 

「下がれ!」

 

 アーチャーの声と、床が裂ける音が重なった。セイバーの前で光が弾ける。正面から受けたはずの彼女は、その向こうへ踏み込んでいた。鎧に広がった光がほどけ、消えていく。けれど、脇を抜けた一筋は、後ろの柱を深く抉った。

 

 同じ場所には立っていられない。イリヤが袖を引いた。二人で柱の陰へ退く。俺たちがいた床へ二本目の光が走り、アーチャーが遠坂を脇へ押し出した。

 

「こっちへ来るわよ!」

 

 遠坂の手で、小さな石が砕けた。入口に薄い光の壁が張られる。ぶつかった術がそこを押し込み、戸板を吹き飛ばした。遠坂が歯を食いしばる。壁が保っているうちに、アーチャーが半歩前へ出た。いつの間にか弓を手にしている。

 

 弦が鳴った。矢はキャスターの手元を掠め、奥の板へ突き立った。女が顔を向けた。その一瞬で、セイバーはまた距離を詰めている。

 

 キャスターの腕が上がる。声にならない言葉が続き、幾つもの光が剣士へ殺到した。床が削れ、梁の埃が落ちる。セイバーの姿が見えなくなりかけて、次の瞬間には、青い裾が光の向こうへ抜けた。

 

 キャスターが後ろへ下がった。その踵が、床に投げ出された男の手の近くへ来る。女はさらに退こうとして、足を止めた。顔が下を向く。わずかな動きだったが、離れて見ている俺にも分かった。

 

「そこを……」

 

 衣の中へ手が戻った。歪な刃が、もう一度光を拾う。

 

 セイバーはその手の届く正面を避けた。肩を沈め、横へ滑り込む。短刀が振られるより早く、両腕が動いた。

 

 衣が裂けた。重いものを断つ音がして、キャスターの身体が傾く。俺は柱から離れかけたが、アーチャーが弓を下げ、空いた腕で行く手を塞いだ。

 

 キャスターは床へ片膝をついた。短刀を持つ手が下がる。その輪郭が、指先から薄れていった。

 

「……宗一郎、様」

 

 女はセイバーを見ていなかった。倒れた男へ身体を向け、空いている手を伸ばす。指が服へ触れたかどうか、俺の位置からは分からなかった。伸ばした腕が透けていく。紫の衣も、顔も、床に落ちた影も、ひとつずつ消えていく。

 

 最後まで残っていたのは、伸ばした手の形だった。

 

     *

 

 落ちてきた木片が、床で二度跳ねた。その音が止むまで、誰も口を開かなかった。

 

 セイバーが剣を下げる。遠坂は入口に残った光を解き、奥の様子を確かめた。アーチャーが周囲を見てから、ようやく俺の前の腕を退ける。俺は葛木先生へ近づいた。

 

 知っている顔だった。現代社会の授業で問題を間違えた時も、廊下で挨拶をした時も、ほとんど表情の変わらなかった人だ。その顔に、今は呼吸の動きさえない。イリヤがそばへ膝をつき、先生の身体へ手を添えた。目を伏せて確かめ、しばらくして首を振る。

 

「……もう、亡くなっているわ」

 

 分かっていた。あの傷では助からない。それでも、教室で何度も見た顔から、すぐには目を離せなかった。

 

「キャスターが、やったのか」

 

 俺が尋ねると、セイバーは遺体を見たまま答えた。

 

「分かりません。私は、疑った。ですが、見たわけではない」

 

 遠坂も、短く首を振った。

 

「傷や残ったものは確かめる。でも、あの短刀を持っていたことだけじゃ、決められないわ」

 

 キャスターが最後に伸ばした手を思い出す。俺たちは、何をしに来た連中だと思われたのだろう。答えはもう聞けなかった。

 

 一成はまだ息をしている。あの部屋にいた人たちも、待っている。

 

「一成たちの所へ戻ろう。運び出す手配も要る」

 

 イリヤが頷いた。俺は立ち上がり、来た道へ戻った。

 

     *

 

 戻った部屋では、一人の僧が低く呻いていた。まだ起き上がれないようだったが、先ほどまで動かなかった指が畳を掻いている。イリヤがその人から診た。手首を取り、額と胸元を順に確かめる。遠坂は隣の部屋へ続く戸を開け、ほかに何人いるかを見た。

 

「消耗がひどいわ。この人は、まだ起こさないで」

「分かった。掛けるものを持ってくる」

 

 すぐそばの押し入れに布団があった。アーチャーが戸を開けて中を確かめ、俺へ毛布を渡した。俺は一人ずつ肩から掛けて回る。イリヤの指先に細い光が灯った。低く何かを囁くと、僧の荒かった息が少し落ち着く。彼女はすぐに離れず、もうしばらく様子を見てから、次の人へ移った。

 

「これで、大丈夫なのか?」

「今は落ち着いたわ。けれど、消耗は残っているの。無理に起こさないでね。ほかの人も順番に診ていくから」

 

 俺は頷いた。聞いて安心するより、毛布をもう一枚運んだ方がよかった。

 

 一成の身体を少し動かす時には、イリヤが支える場所を示した。俺が肩を持ち、彼女が頭の位置を確かめる。廊下へ半分出ていた身体を、冷たい風の当たらない所へ移した。

 

「一成。聞こえるか」

 

 瞼が動いた。それだけで、一成の手を握りそうになった。

 

「ゆっくりでいい。無理に起きなくていいから」

 

 俺が言うと、一成の唇がわずかに開いた。何かを言おうとして、息だけが漏れる。イリヤは耳を寄せ、それから俺を見た。

 

「聞こえていると思うわ」

 

 眼鏡を畳んで、一成の枕元へ置き直した。誰にも踏まれずに済んで、よかったと思った。

 

「遠坂。言峰に連絡を頼めるか。この人数じゃ、俺たちだけでは運べない」

「ええ。事情を説明するなら、あいつを通した方が早いわ」

 

 遠坂は庫裏の電話を借りた。周りに起きている人がいないことを確かめ、声を落として話す。

 

「柳洞寺。倒れている人が大勢いる。呼吸はあるけれど、かなり消耗しているわ。救護の手配をお願い。……ええ、死亡者も一人。本堂よ」

 

 相手の声は聞こえなかった。遠坂は本堂で見たことを簡潔に伝え、分からないことを聞き返されると、そこはまだ分からないと答えた。柱と床が傷んでいることも付け加える。救護に来る人には、まず庫裏へ入ってもらう。それを確かめてから、受話器を戻した。

 

「言峰が手配する。山の下から、人を向かわせるって」

「この人数を運べるんだろうな」

「だから人数も状態も伝えたの。あとは、この人たちを診てもらわないと」

 

 遠坂の声も疲れていた。俺はようやく、彼女の指に細かな傷があることに気づいた。砕いた石のせいか、飛んだ木片のせいかは分からない。布を渡すと、遠坂は一度だけこちらを見て受け取った。

 

 イリヤが次の人を診る間に、俺は押し入れから布を一枚借りた。アーチャーについてきてもらい、本堂へ戻る。葛木先生の身体へ布を掛け、端を整えた。顔が見えなくなっても、そこを離れるのには少し時間がかかった。アーチャーは戸口で待っていた。

 

 ほかの部屋にも、横たわった人がいた。セイバーとアーチャーが先に確かめ、俺たちはその後から入る。呼吸、呼びかけへの反応、身体の冷え。イリヤと遠坂が診た人を、俺は掛けた毛布と寝ている位置で覚えていった。戻ってきた部屋には、さっきより多くの息遣いがあった。

 

 年配の僧が、ようやく目を開けた。俺を見て何かを尋ねようとする。その身体を起こしきらないよう支え、助けを呼んであることを伝えた。僧は何度か瞬きをして、隣に眠る人へ顔を向ける。遠坂がそばへ座り、ゆっくり言葉を繰り返した。その間に、イリヤは手を離していた。僧の目に映るところには、もう何の光も残っていなかった。

 

 しばらくして、玄関で人の声がした。言峰の手配で来た人たちだった。遠坂が迎えに出て、倒れている人数と、まだ目を覚まさない人のいる部屋を伝える。本堂に残した遺体のことも話した。そちらは別に人を呼び、まず生きている人たちを運び出すことになった。

 

 俺も救護に来た一人を、一成のそばまで案内した。その人が膝をついて呼吸を確かめ、仲間を呼ぶ。眼鏡も一緒に持っていってほしいと頼むと、その人は頷き、落とさない場所へ置き直してくれた。その手が一成の肩の下へ回るのを見てから、ようやく場所を空けた。

 

     *

 

 俺たちが寺を出た時、月は雲の向こうへ入っていた。庫裏では、来てくれた人たちが救護を続けている。一成は最後に声をかけた時、ほんの少し顔をこちらへ向けた。それを思い出して、ようやく息を吐く。

 

 山門の前で、セイバーが俺の隣へ来た。

 

「先ほどの警告、助かりました」

「短刀のことか」

「はい。あの力を知らずに接近していれば、違う結果もあり得た」

 

 自分の手を見る。何かを持って戦ったわけではない。あの刃を見て、頭の中に流れてきたものを叫んだだけだった。それでも、今夜は間に合った。

 

「……声が届いて、よかった」

 

 セイバーが頷いた。遠坂は短刀について何か言いかけ、イリヤと俺の顔を見て口を閉じた。

 

「詳しい話は、帰ってから。まず山を下りましょう」

 

 先にセイバーが石段へ足をかける。遠坂が続き、アーチャーは門の向こうをもう一度見た。イリヤはまだ境内へ顔を向けていた。

 

「イリヤ。帰ろう」

 

 呼ぶと、こちらへ向き直った。

 

「……ええ」

 

 差し出した手へ、彼女の手が重なった。冷たかった。しっかり握り、段差を一つずつ下りる。木の根が石を押し上げているところでは、彼女も足元を見て歩いた。後ろから、アーチャーの足音が追いついてくる。

 

 家ではセラたちが待っている。桜は、まだ客間で眠っているだろう。帰ったら、起こさないように戸を開けようと思った。その手順を考えながら歩いても、床へ伸ばされた白い手が、何度も目の前へ戻ってきた。

 

     *

 

 家の門まで戻る頃には、夜も更けていた。イリヤが手を離す。俺が戸へ手をかけるより先に、内側から鍵の外れる音がする。セラが開けてくれた隙間から、玄関の明かりが細く伸びた。

 

「お帰りなさいませ」

「ただいま。遅くなって、すみません」

 

 声を落として答える。セラは一人ずつ顔を確かめ、最後にイリヤの前へ膝をついた。鞄を受け取り、外套の袖口についた土へ目を留める。

 

「お怪我は」

「ないわ。少し寒かっただけ」

「お湯を用意してあります。先に手を温めてください」

 

 イリヤは頷いた。靴を脱ぐ動作は、山へ向かった時よりゆっくりだった。リズが差し出した手につかまり、玄関を上がる。

 

「桜は?」

「お休みです。こちらでは、変わったことはありませんでした」

 

 それを聞いて、胸のあたりがようやく緩んだ。セイバーが俺の後から上がり、遠坂は玄関の隅で指に巻いていた布をほどいた。血は止まっているが、細い傷に汚れが残っている。

 

「救急箱、持ってくる」

「大したことないわよ」

「それなら、すぐ済むだろ」

 

 遠坂は言い返しかけ、何も言わずに布を畳んだ。

 

 居間では明かりを一つだけつけた。遠坂が手を洗って戻るまでに箱を開け、小さな絆創膏を出す。セイバーにも肩の具合を尋ねたが、新しく傷めた様子はなかった。ただ、座ると長く息を吐いた。俺は彼女の前にも温かい茶を置いた。

 

 イリヤは湯呑みを両手で包んでいた。セラが隣へ座り、外套を畳んでいる。誰も、すぐには寺の話を始めなかった。湯の注がれる音と、絆創膏の包みを開く音がした。

 

 膝の下には畳がある。分かっているのに、ときどき手をついて確かめたくなった。寺の床は、もっと冷たかった。

 

「士郎」

 

 遠坂が絆創膏の端を押さえながら言った。

 

「あの短刀のこと、明日、もう少し聞かせて。どうして分かったのかも」

「……説明できるかどうか、分からないぞ」

「分かったことと、分からなかったことを聞きたいの。今、答えを作らなくていいわ」

 

 廊下を確かめた遠坂が、さらに声を落とす。

 

「あれは、普通に見て分かるものじゃないから」

 

 手の中の紙屑へ目を落とした。あの歪んだ刃は、まだ目を閉じれば浮かんだ。何を断つために作られたのか。分かった瞬間に恐ろしくなって、考えるより先にセイバーを呼んでいた。

 

「いつも道具の中を見る時とは、違った。見ようと思ってから、分かったんじゃないんだ」

「そう。そこも、明日ね」

 

 遠坂はそれ以上を尋ねなかった。アーチャーも口を挟まず、開いていた廊下の戸を静かに引いた。

 

 セラたちには、寺で人が倒れていたこと、救護を引き継いでもらって帰ってきたことを話した。亡くなった人がいたことも。セラは俺の顔を見て、やがて小さく頷いた。イリヤの湯呑みへ湯を足す時も、何かを尋ねることはなかった。

 

 しばらくして、リズが小さな布をイリヤへ差し出した。イリヤが受け取ろうとして手を伸ばすと、先に指先を拭われる。

 

「ここ、汚れてる」

「自分で出来るわよ」

「うん。もう終わった」

 

 リズは布を畳んだ。イリヤは自分の手を見てから、少しだけ頬を緩める。

 

「……ありがとう」

 

 その声を聞いて、俺も茶を飲んだ。湯はまだ熱かった。飲み込むと、喉の奥に残っていた冷たさが少しずつ薄れた。

 

     *

 

 遠坂が立ち上がったのは、湯呑みが空になってからだった。アーチャーを呼び、帰る支度をする。門まで送ろうとしたら、玄関で止められた。

 

「そこまででいい。あんたも休みなさい」

「門くらいなら」

「こちらは二人いる。自分の家の戸を閉めておけ」

 

 アーチャーに言われて、足を止める。遠坂は手当てした指を軽く曲げ、外へ向き直った。

 

「明日の朝、電話するわ。何かあったら、そっちからも」

「ああ。今日は助かった」

「……お互いさまでしょ」

 

 門の閉まる音を聞いてから、玄関の鍵をかけた。居間へ戻ると、セイバーはすでに部屋へ行くところだった。

 

「シロウ。今夜は、もう休みましょう」

「うん。セイバーも、ありがとう」

 

 彼女は短く頷いた。何かを言い足そうとして、やめたようにも見えた。俺もそれ以上は尋ねず、廊下で別れた。

 

 イリヤは自分の部屋の前にいた。戸の向こうでは、セラが寝具を整えている。窓際の机に、小さな箱が置かれていた。鳥をしまった箱だ。その隣の本も、午後に見た時と同じ場所にある。

 

「シロウは、もう寝る?」

「手を洗って、着替えたら。イリヤも休んでくれ」

「ええ。今夜は、セラがここにいるから」

 

 俺は頷いた。イリヤが部屋へ入ろうとして、足を止める。

 

「あの人。シロウのお友達」

「一成か」

「うん。最後に、シロウの方を見ていたわ」

「……ああ」

「声、聞こえていたと思う」

 

 畳の上で動いた瞼を思い出す。助けに来てくれた人へ場所を譲る時、一成は確かにこちらへ顔を向けた。

 

「イリヤが診てくれたからだ。ありがとう」

「まだ、ちゃんと起きたわけじゃないもの」

「うん。でも、助かった」

 

 イリヤは少し困った顔をした。それから、俺の手へ指を伸ばす。触れた指先は、山を下りる時より温かかった。

 

「……おやすみ、シロウ」

「おやすみ」

 

 手が離れた。彼女は部屋へ入り、戸を閉める前にもう一度こちらを見た。俺が自分の部屋へ向かうと、ようやく戸が動いた。

 

 着替えて布団へ入ってからも、目が冴えていた。誰かが廊下を歩く音に、身体が勝手に緊張する。セラの声がして、息を吐く。

 

 寺で見た人たちは、もう運ばれただろうか。一成の眼鏡は、毛布と一緒に持っていってもらえただろうか。託した相手が頷いたことを思い出して、天井から目を離す。

 

 葛木先生は、もう教室へ来ない。

 

 そう考えると、また目が冴えた。いつもの顔も、床へ投げ出された手も、同じくらいはっきり浮かんだ。その手へ伸びた白い指も。

 

 布団の中で寝返りを打った。自分の手を開いて、閉じる。誰も掴んでいないのに、山道で繋いだ手の感触が残っていた。

 

 家の中の足音が、止んだ。

 

 もう一度、目を閉じた。

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