Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
幕間一 残されたもの
五人が山門を出た後も、庫裏の明かりは消えなかった。
倒れていた僧へ、繰り返し声がかけられている。まだ返事のない者もいた。毛布の端が持ち上げられ、冷えた足を覆う。廊下では、運び出す順番を確かめる声がした。
本堂には、誰も入ってこなかった。
雲が切れ、壊れた戸から月明かりが差し込んでいた。床に落ちた木片。抉れた柱。その先に横たわる男の身体には、布が掛けられていた。片方の靴だけが、その下から覗いていた。
柱の影が動いた。
月の光は、床板の同じ傷を照らしたままだった。それでも、板の継ぎ目に溜まった暗がりだけが広がっていく。
木片が、一つ見えなくなった。
転がった音はしなかった。黒い面は何も押しのけず、床を濡らすこともなく、男の足元へ届いた。靴先の輪郭が曖昧になる。次に布の端が沈み、白い皺が内側へ引かれた。
脚が消えた。
覆われた胸が、肩が、続いて沈んでいく。布の下から覗いた片手が、一瞬だけ月に照らされた。血の乾いた指は動かなかった。
床板の形は残っていた。継ぎ目も、節も、そのままに、そこにあった身体だけが失われていった。
暗がりは、男のいた場所のそばでもう一度揺れた。
紫の衣は、すでに消えていた。主へ伸ばされた腕も、短刀を握っていた指もない。けれど、そこに留まっていたものがあった。
主の傍らを離れなかった、キャスターの魂。
黒い面の縁が、大きく波打った。
内側へ窪み、また膨らむ。飲み込むものと、飲み込まれるものの境が、一度だけ白く裂けた。声は響かなかった。床の上を、光のない震えだけが走った。
庫裏で誰かが人を呼んだ。
返事があり、廊下の足音が遠ざかる。本堂へ顔を向ける者はいなかった。揺れは何度か繰り返されるうちに小さくなり、やがて見えなくなった。
月明かりが、また床の傷を照らしていた。
遺体も、白い布もなかった。
別の棟では、目を覚まさない人々へ呼びかける声が、まだ続いていた。
幕間二 地下の音
その夜、間桐邸の玄関には明かりがついていなかった。
慎二は靴を乱暴に脱ぎ、廊下のスイッチを押した。ついた灯りに目を細める。
「おい。誰かいないのか」
返事はない。台所まで行ってみたが、食卓の上は片付いていた。鍋も、皿もない。自分が帰ってきたのに、家の中では何一つ音が増えなかった。
「どいつもこいつも……」
吐き捨てた言葉に、後ろの男は反応しなかった。玄関で足を止めることもなく上がり、家の奥へ目を向けている。
慎二は男の前へ回ろうとした。昨日から、何を言っても思うような返事はなかった。強いことは分かっている。それなら、自分が使うべきだった。どこへ行くかも、誰を倒すかも、自分が決めていいはずだった。
「おい。勝手に歩き回るなよ。部屋なら上にある」
金髪の男は、慎二を見なかった。廊下を進み、地下へ続く戸の前で立ち止まる。
「不愉快な臭いだ」
「そっちは、爺さんが使ってる。おまえの部屋じゃない」
慎二の声は途中から小さくなった。男が戸を開けたからだ。
湿った空気が上がってきた。その奥で、何かが擦れ合っている。慎二には聞き覚えのある音だった。ここへ戻るたびに、聞こえないふりをしてきた音でもあった。
男は階段を下りた。止めるつもりで伸ばした慎二の手は、上着の背に届く前に引っ込んだ。
「……そっちは、行かなくていいって言ってるだろ」
返事はない。
数段下りたところから慎二が覗くと、男は地下室の入口に立っていた。湿った壁。積み上がった器具。床を覆う蟲の群れ。男の靴先へ向けて、黒い塊の表面がわずかに盛り上がる。
金色の光が開いた。
刃が突き立つ。
先に音を聞いた慎二には、何が起きたのか分からなかった。次の瞬間、床に置かれていた器具が砕け、奥の棚が内側へ折れた。砕けた石が飛び散り、潰れたものの臭いが階段まで上がってくる。
「な……何してるんだよ、おまえ!」
もう一つ、光が生まれた。
壁際を這っていたものが消し飛び、その下に隠れていた溝が露わになる。逃れようと広がる黒い流れを、続く刃が貫いた。慎二は手すりにつかまり、落ちてきた埃から顔を背ける。
音は一度では終わらなかった。奥で重いものが崩れ、細かな破片が段を跳ね上がった。慎二は腕で顔を覆った。何かを叫んだが、自分の声さえ聞き取れなかった。
ようやく音が止んだ時、地下室の景色は変わっていた。
器具の並んでいた場所は、瓦礫に埋もれていた。壁に残っていた線は大きく削られ、床の溝も途中で断ち切られている。黒いものが動いても、その先にはもう、潰れた棚と石しかなかった。
「ここは僕の家だぞ! 勝手に壊したら、爺さんが――」
男が振り返った。
慎二は口を閉じた。相手の目には、言い争いをする気配すらなかった。地下の惨状を説明するつもりも、何かを許してもらうつもりもない。
「ならば、片付けておけ」
男はそれだけ言い、階段を上がってきた。
慎二は狭い踊り場で身を引いた。肩が壁へぶつかったが、男は振り向かなかった。靴音が頭上へ遠ざかる。その音が聞こえなくなった後も、慎二はそこに立っていた。
壊された棚の下で、何かがわずかに動く。すぐに崩れた石の陰へ隠れ、見えなくなった。
どう手をつければいいのか、慎二には分からなかった。家の書物で読んだ術を思い出しても、それを動かす力が自分にないことは変わらない。
爺さんが自分には触れさせもしなかったものを、あの男は足元のごみのように壊していった。慎二は、その男の前で顔を庇うことしか出来なかった。
手すりを握る指に力が入る。
爺さんが悪い。あんなものを飼っているからだ。
そう考えて、ようやく上へ戻った。
廊下の明かりはついたままだった。壁の絵が少し傾き、床に白い粉が散っている。慎二は地下への戸を閉め、掛け金を下ろした。指についた埃をズボンで拭い、もう一度、食事の用意がないことに腹を立てた。
戸の向こうには、壊された工房が残った。
そこに、間桐臓硯の命そのものはなかった。