Fate/stay night IF BEYOND THE EVER   作:Мир

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第十三話 教えられないこと

 目が覚めた時、隣の部屋で戸の開く音がした。

 

 布団の中で一度息を止め、それから、朝だと気づく。障子が明るかった。廊下を歩いていく足音にも、急いでいる様子はない。起き上がる。昨夜のうちに着替えを出しておいたので、寝間着を畳むところまでは何も考えずに出来た。襖を開ける前に、机の上のプリントが目に入った。昨日の夕飯で、桜と遠坂に教えられたやつだ。

 

 現代社会。表の文字を読んで、指が止まった。

 

 葛木先生の声は、あまり大きくなかった。教室がうるさい時にも、声を張って言い直したりはしなかったから、皆、先生が話し始めると静かになった。

 

 その声を思い出した。紙の端を揃え、机へ戻す。廊下から、朝食の支度が出来たというセラの声がした。

 

「はい。今、行きます」

 

 答えてから、襖を開けた。

 

     *

 

 居間では、桜が小皿を並べていた。セラが鍋を運び、リズが邪魔にならないよう座布団を引いている。セイバーは庭側に座り、イリヤはまだ来ていなかった。

 

「おはようございます、先輩」

「おはよう。悪い、すっかり任せちまった」

「わたしも、今来たところです。ほとんどセラさんたちが」

 

 桜は小皿を一枚持ち上げてみせた。

 

「お皿の場所を教えたので、少しだけ、お手伝いしたことにしてもらいました」

「それは助かるよ。俺も、人に言われると場所が分からなくなる皿があるからな」

「ありますね。藤村先生がしまってくださった後とか」

 

 棚の奥に重ねてある大皿を思い浮かべた。無事に取り出すには、先に茶碗を三つ避けなければならない。藤ねえが何を考えてあそこへ置いたのかは、いまだに分からなかった。

 

 桜は笑って、自分の席へ座った。昨夜はよく眠れたという。顔色も、昨日の朝、玄関へ来た時ほど悪くはなかった。

 

 イリヤが現れたのは、俺が手を洗って戻ったところだった。入口で一度立ち止まり、全員の顔を順に見る。

 

「……おはよう」

「おはよう、イリヤ」

「もう始めていたの?」

「今から。ごはん、よそっていいか」

 

 頷いたので、茶碗を取った。少なめに盛って渡すと、イリヤは受け取ったまま俺を見た。

 

「もう少し」

「このくらい?」

「うん。そのくらい」

 

 茶碗が両手に収まる。隣で見ていたセラの肩から、少し力が抜けたようだった。

 

 朝食は焼き魚と、大根の味噌汁だった。桜が魚の身を分ける間に、セイバーが醤油を寄せる。イリヤは大根を箸でつかもうとして、いったん諦めて椀を持ち上げた。

 

「熱かったか」

「まだ食べてないわ。逃げるのよ、これ」

「丸い方をつかむからじゃないか?」

 

 自分の椀で向きを変えてみせる。イリヤは覗き込み、同じように箸を入れた。今度は持ち上がる。

 

「ほら」

「……見ていたわよ」

 

 俺が得意顔をする前に、イリヤは大根を口へ運んでしまった。そういえば、誰かに出来るところを見せたくなるのは、俺も同じらしい。

 

 食事の途中で、桜から学校の連絡を聞いた。藤ねえが今朝、電話をくれたという。今日も休校で、再開のことは改めて知らせるそうだ。

 

「先生、先輩は寝ていていいって仰っていました」

「いつ電話が来たんだ?」

「少し前です。わたしが起きてきた時に」

 

 藤ねえはもう動いていたのか。昨日までなら、起こしてくれればよかったと言っていた気がする。けれど今朝は、起きて朝食を食べられることの方がありがたかった。

 

     *

 

 食後の電話には、俺が出た。

 

『おはよう、士郎。もう起きてるわね』

「ああ。おはよう」

『寺の人たち、搬送は済んだって。言峰に確認したわ』

 

 受話器を持ち直した。

 

「一成も?」

『ええ。柳洞くんも保護されてる。まだ休ませている人はいるけど、向こうで診てもらえてるそうよ』

「……そっか」

 

 昨夜、一成の肩の下へ入った手を思い出した。あの後、ちゃんと運ばれた。今は、風の入らないところで眠っている。

 

 言葉は少し遅れて出た。

 

「よかった」

『気になるでしょうけど、今から押しかけないでよ。面会できるかも、まだ聞いてないから』

「分かってる。落ち着いたら、連絡する」

 

 遠坂は、午後にこちらへ来ると言った。昨夜の短刀のことと、俺の魔術のことを話すために。

 

「先生の方は、何か聞いたか」

 

 尋ねると、一瞬、返事が止まった。

 

『そちらはまだ。今朝、わたしが確認できたのは、運ばれた人たちのことだけ』

「……そうか」

『分かったことは伝えるわ。あんたも、一人で寺へ確かめに行ったりしないで』

「行かないよ」

 

 そう答えた。俺があそこへ戻っても、葛木先生が立ち上がるわけではなかった。

 

 電話を切る。しばらく受話器に手を置いたままになっていたが、居間から椀の重なる音がして、顔を上げた。

 

 戻ると、セイバーがこちらを見た。イリヤも箸を揃える手を止めている。

 

「昨日の人たち、運んでもらえたって。一成も、ちゃんと診てもらってる」

 

 それだけ言うと、二人は頷いた。桜が俺の方へ向き直る。

 

「昨日、柳洞先輩のところで何かあったんですか?」

「寺で、具合を悪くした人が出たんだ。一成も。助けを呼んで、来てくれた人に引き継いだ」

「それで、遅くまで……」

 

 桜は茶碗を持つ手を止めた。昨夜は用事があるとしか言わなかったことを、思い出す。

 

「急だったから、説明できなかった。ごめん」

「いえ。先輩が謝ることじゃ」

 

 彼女は少し首を振った。それから、よかったです、と言った。声が静かだったので、俺も頷くだけにした。

 

     *

 

 セイバーに声をかけたのは、朝食の片付けが済んでからだった。

 

「少し、稽古をつけてもらえないか」

 

 庭へ出ようとしていた彼女が振り向く。

 

「剣の稽古ですか」

「うん。昨日みたいな時に、自分で動けるようにしておきたい」

 

 柱の陰へ引かれるまで、俺は動けなかった。刃のことを叫べたからといって、その後もきちんと動けたわけではない。

 

「いきなり、何でも防げるようになりたいとは言わない。足を引っかけずに下がるとか、そういうところからでいいんだ」

「……分かりました。それなら、短く」

 

 セイバーは自分の肩へ一度目をやった。

 

「私も、今は長い打ち合いをするつもりはありません。途中で終えると言ったら、そこで終わりにしてください」

「ああ。頼む」

 

 道場の戸を開ける。冷えた床には、窓からの光が長く伸びていた。竹刀を二本取り、一本を渡すと、セイバーは軽く振ってから正面へ立った。

 

「構えてください」

 

 言われたとおりにする。足を開き、竹刀を上げる。胸のあたりへ向けられた先端を見ると、それだけで肩に力が入った。

 

「私が近づいたら、離れてください。今は打ち返さなくて結構です」

「下がるだけか」

「はい」

 

 簡単そうだった。そう思ったところへ、竹刀が来た。

 

 胸へ伸びる先端を見て、前の足が勝手に後ろへ動く。踵が後ろの足に当たった。身体が仰け反り、慌てて踏み直す。そこで、竹刀が服に触れた。

 

「……もう一度」

「ええ。次は足元を見ないように」

 

 見たつもりはなかった。けれど、今の一瞬、俺はセイバーの顔を見失っていた。

 

 二度目は、転びそうにならずに済んだ。三度目には胸へ届く前に距離を取れた。息を吐き、構え直そうとしたところへ先端が伸びる。

 

「うっ」

 

 今度も、触れただけだった。だが、先端を見下ろした俺の顔は、さっきより情けなかったと思う。

 

「私が止まったので、終わったと思いましたか」

「……思った」

「止まったのは私です。シロウに、もう安全だと知らせたわけではありません」

 

 セイバーは竹刀を下げた。

 

「今の退き方は悪くなかった。ですが、その直後に次の動きを忘れてしまう」

「避けられたから、ほっとしたんだな」

「ええ。それが早すぎるのです」

 

 もう一度、構え直す。握り直した竹刀の柄が少し湿っていた。まだ、まともに一度も振っていないのに。

 

 次は、退いた後も相手を見ることにした。先端ばかり追いかけると、今度は踏み込んでくる足に気づくのが遅れる。胸から目を離さないようにすると、自分の腕が固くなる。

 

「近づいた分だけ、遠くへ逃げようとしなくてもいい。大きく動けば、次に動くまで時間がかかります」

「分かってるんだけどな」

「分かっていて、出来ないところを確かめているのです」

 

 その言い方で、少し気が楽になった。出来ないたびに、何もかも間違えたことにしなくてもいいらしい。

 

 セイバーが半歩近づいた。俺も半歩下がる。そこで止まった先端から目を離さず、次にどちらへ動くかを待つ。

 

 横へ揺れた。

 

 身体がそちらへ傾きかけて、踏みとどまる。本当に来たのは正面だった。竹刀を立て、後ろへ足を引く。先端が、胸の少し前で止まった。

 

「今の形です」

 

 セイバーの声がした。

 

 思わず笑いそうになって、まだ竹刀が下がっていないことに気づく。そのまま待っていると、彼女が先に構えを解いた。

 

「……はい。ここで、一度休みましょう」

「今度は、本当に休んでいいんだな」

「ええ。私がそう言いましたから」

 

 戸口で、笑う声がした。イリヤが座っていた。膝には手拭いが載っている。俺と目が合うと、小さく手を振った。

 

「シロウ、やっと一回ね」

「いつから見てたんだ」

「足が絡まったところから」

「……最初じゃないか」

「声をかけたら、また転びそうだったもの」

 

 あの時に声をかけられていたら、きっとそちらを見ただろう。セイバーも否定しない。

 

「ずっと見てたなら、言ってくれればいいのに」

「言わなくても、上手にできたでしょう。最後は」

 

 イリヤが手拭いを差し出した。受け取り、首筋を拭く。背中にも汗をかいていることに、ようやく気づいた。

 

「あと一回、同じように出来るか試していいか」

 

 口にしてから、最初の約束を思い出した。セイバーが竹刀を片付けるところだった。

 

「今日は、ここまでです」

「……ああ。そうだった」

「出来た時の形を覚えておいてください。急いで回数を増やすことはありません」

 

 イリヤがこちらを見ていた。何か言われると思ったが、彼女は俺の胸元を指さしただけだった。

 

「同じところばかり、つつかれるのね」

「セイバーが、そこを狙ってくれてるんだよ」

「ほかのところへ来たら?」

「もっと困る」

 

 今度は、セイバーの方が少し笑った。

 

「その前に、足の動きからです」

 

 竹刀をしまい、床へ落ちた汗を拭いた。セイバーの腕に無理な動きがないことを確かめ、それから礼を言う。彼女は、また身体の具合を見て続けましょうと答えた。

 

 道場を出ると、庭がさっきより明るかった。イリヤが横から歩調を合わせてくる。

 

「最後、笑いそうになってたわ」

「そんなに変な顔だったか」

「ううん。ちゃんと見てたのねって思ったの。嬉しくても、セイバーから目を離さなかったでしょう」

 

 そのことを言われるとは思わなかった。俺は少し考えてから、頷いた。

 

「一回くらい、そういうのもないとな」

「次も見ていてあげる」

「あんまり、失敗した回数を数えないでくれよ」

「出来た方も数えるわよ。ちゃんと」

 

 そう言って、イリヤは手拭いを持った俺の腕へ、軽く指を添えた。

 

     *

 

 着替えて、水を飲んだ。縁側で汗が引くのを待っていると、イリヤが自分の部屋へ戻っていくのが見えた。

 

「イリヤ」

 

 呼ぶと、入口で振り向いた。

 

「あの本、今、見せてもらっていいか」

「城から持ってきたもの?」

「うん。前に、続きがあるって言ってたろ」

 

 イリヤはすぐには返事をしなかった。俺の顔を見てから、部屋の中へ目を戻す。

 

「いいわよ。今日は、どこにも行かなくていいの?」

「午後は遠坂が来るけど、それまでは。昼飯の支度も、まだ時間がある」

「じゃあ、来て」

 

 先に入った彼女が、窓際の机から本を取った。城では窓辺の机にあった本が、今はうちの座布団に載っている。イリヤは横を空け、そこへ座るよう手で示した。

 

 近くに座ると、肩が少し触れた。本を俺の方へ傾けてくれたので、一緒に覗き込む。

 

「このページ、覚えてる?」

「森の道と、鳥」

「そう。じゃあ、鳥は何羽?」

 

 枝に一羽いた。道の向こうにも、黒い点が二つある。鳥だと思って指さしかけたところで、ただの葉の隙間だと気づいた。

 

「一羽、じゃないんだな」

「まだ答えてないのに、変えていいの?」

「その顔で聞かれたら、変えるだろ」

 

 イリヤが笑った。指は出さず、本を持ち直すだけだった。

 

 木の根元に、嘴があった。枯れ葉だと思っていた茶色の線が、よく見ると小さな鳥の背中になっている。

 

「ここか」

「うん。見つけたわね」

「これは分からないぞ。ほとんど同じ色じゃないか」

「分かったでしょう、今」

 

 言われてみれば、そうだった。一度気づくと、もう葉っぱには見えない。

 

「この鳥は、何をしてるんだ?」

「話には、出てこないわ」

「絵にはいるのに?」

「絵にあるものを、全部書くとは限らないでしょう。そこの石も、木の根も、話には出てこないもの」

 

 イリヤが文字を指で追った。俺には読めない言葉だった。何かの名前と、文章の始まりらしいところは区別できるが、それ以上は分からない。

 

「じゃあ、上の鳥は?」

「こっちは、出てくる」

「何て書いてあるんだ」

 

 イリヤは一度俺を見てから、ページへ目を戻した。

 

「……先に言っておくけれど、シロウに分かる言葉にしながら読むんだからね。途中で急かしちゃ駄目よ」

「急かさないよ」

 

 彼女は頷き、小さく息を吸った。

 

 道に迷った子供が、木の上の鳥へ道を聞く話だった。鳥が鳴くので、その方へ歩いていく。けれど、歩くたびに別の枝から声がして、その子は同じ木の周りを何度も回ることになる。

 

「それ、道を教えてくれてるんじゃないだろ」

「まだ終わってないわ」

「悪い」

 

 イリヤは指を少し戻して、続きを読んだ。子供が腹を立てて鳥に文句を言うと、鳥はまた鳴く。返事を聞いているつもりだったのは、その子だけだった。

 

「……やっぱり、そうじゃないか」

「シロウ、黙って聞くのは苦手なのね」

「気になるんだよ。こいつ、いつ気づくんだって」

「今、気づいたところでしょう」

 

 先ほどの俺の言葉が、妙なところで返ってきた。イリヤは口元を緩め、ページを押さえ直す。

 

 次の絵では、子供が切り株に座っていた。帽子を膝へ載せ、片方の靴を脱いでいる。さっきの鳥は、別の枝へ移っていた。

 

「靴の中に、石でも入ったのか」

「足が痛くなったの」

「そんなに歩いたのかよ」

「同じ木の周りを、何回も」

 

 そう言われると、その子が急に気の毒になった。イリヤは俺の顔を見て、今度ははっきり笑った。

 

「シロウ、絵の人にも忙しいのね」

「見てるだけなら、何とでも言えるんだけどな」

「じゃあ、見ているだけにして」

「……はい」

 

 その返事がまたおかしかったらしい。イリヤは笑いを抑えるように一度口を閉じ、それから次の行を読んだ。

 

 声を聞いているうちに、本よりそちらへ目が行った。読めない文字の上を、細い指がゆっくり進む。言葉を選ぶところでは少し止まり、分かりやすい言い方を思いついた時には、こちらを見た。

 

 そのたびに、俺も続きを待った。

 

     *

 

 イリヤがページをめくろうとして、角で指を止めた。そこだけ、紙が少し折れている。爪を立てず、指の腹で軽く押さえた。

 

 城の本の部屋を思い出した。窓辺の机と、途中のページに挟まれた細い栞。あの時は、続きを聞く前に部屋を出た。

 

 窓の外へ目を向ける。見えるのはうちの庭と、道場の屋根だった。

 

「……本を読む時も、バーサーカーがそばにいたのか」

 

 口にしてから、イリヤの手が止まったことに気づいた。

 

 彼女は本へ目を落としたまま、しばらく黙っていた。

 

「そばには、いたわ」

 

 小さな声だった。

 

「読んでいる間も、どこにも行かなかったもの」

 

 俺は頷いた。俺が城へ行く前にも、イリヤはそうやって本を読んでいたのだ。言わなければよかったとも思った。けれど、そばにいた相手を、いなかったことには出来なかった。

 

「この本、持ってこられてよかったな」

「……うん」

 

 イリヤが紙の角から手を離した。俺は開いた本の下へ、自分の手を添える。重いわけではなかったが、二人で持った方が、ページが閉じずに済んだ。

 

「続き、どうなるんだ」

 

 少し待ってから尋ねた。

 

「その子?」

「うん。ずっと靴を脱いでたら、余計帰れなくなるだろ」

 

 イリヤは絵を見て、それから俺を見た。

 

「シロウって、本当に」

「何だよ」

「……いいわ。もう少しだけ、読んであげる」

 

 彼女の指が、文字のところへ戻った。声は先ほどより小さかった。それでも、止まった場所から、ちゃんと続きを読んだ。

 

 鳥に道を聞くのをやめた子供は、今度は自分の来た道を調べ始めた。ページの隅に、さっきの小さな鳥がまたいる。俺がそれに気づいて指を寄せると、イリヤもそちらを見た。

 

「本当ね。ここにもいたんだ」

「イリヤも知らなかったのか」

「……今日は、シロウが先」

 

 ちょっと悔しそうな顔だった。俺は指を戻し、次の言葉を待った。

 

 昼の支度を始める時刻になるまで、同じ本を覗いていた。

 

     *

 

 台所では、桜が白菜を洗っていた。

 

 水の音でこちらに気づかなかったらしい。声をかけると振り向き、昼食の支度を始めたところだと言った。まな板と包丁は、まだ使われていない。

 

「もうそんな時間か。悪い、俺がやるって言ってたのに」

「先輩たち、お話をしていらしたので。洗うくらいなら、と思って」

 

 後ろから来たイリヤが、台所を覗いた。

 

「サクラは、お昼も作るの?」

「いえ。セラさんと、先輩のお手伝いです」

 

 桜はそう言って、水を止めた。白菜をざるへ移す途中で、手を伸ばしたまま動きが止まった。流しには、まだ一枚だけ葉が残っている。

 

「桜?」

 

 呼ぶと、彼女は顔を上げた。

 

「あ、すみません。まだ一枚ありましたね」

 

 葉を取って、ざるの白菜に重ねる。それだけのことだった。けれど、いつもの桜なら、水を止める前に全部揃えている。

 

「まだ眠いのか」

「……少し。朝は、すっきりしていたんですけど」

 

 桜が手を拭いた。小さな欠伸を噛み殺してから、困ったように笑う。

 

「こんなに寝ているのに、変ですね」

「昨日までの疲れもあるんだろ。ここは引き継ぐから、座っててくれ」

「でも、あと少しですし」

 

 言いかけたところへ、セラが居間から戻ってきた。流しと、洗い終わった白菜を見比べる。

 

「ありがとうございます、桜様。こちらが済んでいれば、すぐに切れますね」

 

 自然にざるを受け取り、まな板の横へ置いた。続けて俺へ、鍋に入れる順を尋ねる。豚肉を先に軽く炒めたいと答え、俺は袖をまくった。

 

 桜はまだその場にいた。自分の手が空いてしまったことを、落ち着かなく思っているようだった。

 

「ごはんの方は、まだ――」

「今日は、うどんにしようと思うんだ。買ってあったのがあるから」

「あ、そうでした。冷蔵庫の下の」

「うん。ちゃんと食べる方で付き合ってくれると助かる」

 

 桜は俺の顔を見た。少しの間を置いて、頷く。

 

「……はい。お腹は、空いています」

 

 それならよかったと答えた。手伝ってもらうより、そう言ってくれたことの方が嬉しかった。

 

     *

 

 イリヤは居間へ戻り、桜の向かいに座った。台所からは、二人の声がときどき聞こえた。

 

「サクラは、シロウにお料理を教わったの?」

「はい。最初は、そうです」

「シロウが先生?」

「そんな大げさなものじゃないぞ」

 

 肉を返しながら言うと、二人が同時にこちらを見た。

 

「先輩、最初は結構、細かく教えてくださったんですよ。切る大きさとか、火を止める時とか」

「揃えた方が、煮える時間が同じになるだろ」

「はい。今は分かります」

 

 桜が笑った。イリヤは座ったまま、俺の手元を見ている。

 

「セイバーと同じことを言ってるのね」

「俺が?」

「まず、足の動きからって」

「料理に足は関係ないと思うけどな」

 

 言ってから、違うところを指摘されたのだと気づく。イリヤが得意そうに顎を上げた。桜も、何となく分かったような顔をしていた。

 

 白菜を入れると、少しずつ水分が出てきた。味を見て、出汁を足す。セラが人数分の器を出し、リズが盆を用意してくれる。気づけば、桜が立たなくても支度が進んでいた。

 

「イリヤ。そっちの机、少し空けてくれるか」

「ええ」

 

 湯呑みが端へ寄せられる。桜が自分の分も動かし、それから、そのまま座って待っていた。

 

 うどんを運ぶと、イリヤは湯気を避けるように顔を引いた。俺はセイバーの器へ肉を分け、最後に自分の分を持って座る。桜はもう箸を取っていた。

 

「いただきます」

 

 食べ始めると、台所で見たほど眠そうではなかった。熱い麺を少しずつ冷まし、白菜も残さず食べる。イリヤは白菜を一口噛んでから、俺の方を見た。

 

「シロウ。白菜にも、お肉の味がするのね」

「先に一緒に炒めていましたから。煮汁も、おいしいでしょう」

 

 言って、桜が笑った。俺はようやく、自分の器へ箸を入れた。

 

 食後、桜は自分から、少し横になると言った。手伝えなくてすみません、と言いかける声に、セラが食器はこちらで預かると答える。リズが客間の戸を開けて待っていた。

 

 イリヤはその後ろ姿を見送り、机の上に残った箸を揃えた。

 

「手伝いたいんだな、桜も」

 

 俺が言うと、イリヤは頷いた。

 

「シロウが、座って待っていてくれたら嬉しいんじゃない?」

「俺は待ってても、落ち着かないけど」

「じゃあ、同じなのね」

 

 そう言って、彼女は箸を盆へ載せた。

 

 自分のことより、桜のことなら、休んだ方がいいとすぐ分かる。それでも、桜には俺と同じだけ、じっとしていられない理由があるのかもしれなかった。

 

     *

 

 遠坂が来たのは、昼食の片付けが済んでからだった。玄関で手袋を外すと、指に昨日の絆創膏が残っていた。

 

「傷、どうだ」

「もう大丈夫。水が入らなければ、気にもならないわ」

「なら、よかった」

 

 こちらの腕と顔を見た遠坂が、何かを確かめるように目を細めた。

 

「あんたは、ちゃんと休んでた?」

「朝、セイバーに稽古を頼んだ。短くな。その後は本を読んで、昼飯を作ってた」

「……忙しそうな休みね」

「今のだけ聞くと、そうなるけどさ」

 

 イリヤが廊下から来た。

 

「本は、わたしが読んであげたのよ」

「はいはい。だったら、その間は休んでたのね」

「ちゃんと見つけたものもあるんだぞ」

 

 言うと、二人に見られた。説明すると長くなりそうなので、靴を揃える手元へ目を戻す。イリヤは、あれはまだ内緒ね、と小さく言った。

 

 セラに桜の様子を聞いた遠坂は、休んでいると分かると、声を落とした。話す場所を尋ねられたので、土蔵を使おうと答える。

 

「家から少し離れてる。道具もあるし」

「じゃあ、そこで」

 

 イリヤも一緒に来た。セラには行き先を伝え、桜が起きたり、用事が出来たりしたら呼んでもらうことにした。セイバーは庭側に残り、アーチャーは土蔵の戸口で待っていた。

 

「また先に来てたのか」

「ここを使うと聞いたのでね」

 

 戸を引くと、積み上げた器具が見えた。修理の途中のものも、部品を取って片付けようと思っていたものもある。遠坂がその脇を通り、作業台の前へ立つ。

 

「座るところは?」

「今、空ける」

 

 椅子に載せた箱を退け、腰掛けを一つ運んだ。イリヤは台の端を指で撫で、ついた埃をこちらへ見せた。

 

「お客さんを呼ぶなら、先に拭いておかないと」

「悪い。そこ、普段は物を置いてるから」

 

 布で拭き、台の前へ腰掛けを寄せた。イリヤはきれいになった場所へ手を置いて確かめ、それから満足そうに腰掛けへ座った。

 

「よろしい。今日は、ここで教えてあげるわ」

「最初に話を聞くのは、わたしでしょうが」

 

 遠坂が隣へ椅子を寄せた。アーチャーは戸の脇に立ったまま、俺が退けた箱を、足に当たらないところまで押していた。

 

     *

 

「それで、昨日の短刀だけど。士郎、あれを前にも見たことがある?」

「ない」

「似た物を、切嗣さんの本で読んだとか」

「それもない。あんな形の刃物は初めてだった」

 

 思い出しながら答える。あの女が握っていた時の向きまで、頭の中に残っていた。俺は紙を一枚引き寄せ、鉛筆で形を描いた。刃の曲がるところ。柄とのつながり。描き終えて見直すと、遠坂も紙を見ていた。

 

「……ずいぶん覚えてるのね」

「形なら。何であんなふうに曲げてあるのかは分からないけど」

「それなのに、魔術を壊すって分かった?」

 

 頷いた。遠坂は俺の顔と紙を見比べる。

 

「硬いとか、鋭いとか、そういうのとは違った。魔術のつながりに刃を入れて、ほどいてしまうような……うまく言えないな」

「契約まで切れると思ったのは?」

「魔術なら、セイバーと俺のつながりにも届くんじゃないかと思った。確かめたわけじゃない」

 

 遠坂は黙って聞き、最後の言葉で頷いた。

 

「そこは分けておきましょう。見えたものと、そこから考えたもの」

 

 イリヤが紙を引き寄せる。鉛筆の線を眺めたが、短刀の名前を教えてくれるわけではなかった。

 

「シロウ、ほかの物もこんなふうに覚えられるの?」

「物による。普段直してるものなら、大体どこが悪いかは分かるよ」

「見ただけで?」

「触って、集中して。全部じゃないけどな」

 

 言ってから、遠坂の顔がおかしいことに気づいた。怒っているようにも、困っているようにも見える。

 

「何だよ」

「それができるのに、どうして強化がまともにできないのかと思って」

「俺が聞きたい」

 

 遠坂は深く息を吐いた。土蔵を見回し、壁に立てかけてあった鉄パイプを指す。

 

「いつも、何で練習してるの?」

「それも使う。刃のついた物より、失敗しても危なくないだろ」

「じゃあ、それで。普段どうやっているか、最初から見せて」

 

 短い方の一本を取り、椅子へ座った。膝の上で握る。表面の冷たさが掌へ移り、身体の熱がそちらへ逃げていく。目を閉じ、呼吸を整えた。背骨の奥へ、意識を向ける。いつもの手順だ。そこへ一本、熱いものを通していく。間違えれば戻れなくなる。毎晩、そう思う場所へ――。

 

「待ちなさい」

 

 肩をつかまれた。目が開く。遠坂が目の前にいた。

 

「何をしようとしたの」

「何って。回路を――」

「その回路を、どうするつもりだったのかって聞いてる」

 

 声は大きくなかった。それがかえって、いつもの叱り方とは違って聞こえた。説明すると、遠坂は肩から手を離した。けれど、座り直そうとはしなかった。

 

「毎回、それをしているわけ?」

「魔術を使う時は。できない日もあるけど」

 

 イリヤが腰掛けから下りた。俺の隣へ来て、腕に触れる。

 

「今は、やらないでね」

「……そんなに変なのか」

「変で済めばいいけど。リン、これは」

「ええ。まず、そっちをやめさせる」

 

 二人だけで通じていた。俺はパイプを握ったまま、遠坂を見上げる。

 

「あんたは毎回、身体の一部を無理やり魔術のために使おうとしてるの。元から持っている回路を動かすのと、同じじゃない」

「元からって……俺にも、あるのか」

「あるわよ。あるのに、その使い方を覚えずに、別の場所へ道を通そうとしてる。これまで無事だったから、次も平気だと思わないで」

 

 言い終えてから、遠坂は口を閉じた。もう少し強く言いたかったのを、飲み込んだように見えた。

 

「切嗣さんに、そう教わったの?」

 

 イリヤの手が、腕の上で止まった。

 

「親父から、魔術のことは教わった。ただ、ずっと横で見てもらってたわけじゃない。自分でやるようになってからは、これで合ってると思ってた」

 

 イリヤを見る。彼女は俺の腕へ視線を落とし、何かを考えていた。やがて、俺の袖を少し上げる。

 

「じゃあ、今から違うやり方を覚えればいいわ」

 

 細い指が、手首の内側へ置かれた。

 

「せっかくわたしたちがいるのに、同じことを続けるつもり?」

「それは、教えてもらえるなら助かるけど」

「なら、ちゃんと聞いて。できない時は、できないって言うのよ」

 

 パイプを台へ置いた。遠坂も椅子を近くへ寄せ、腰を下ろす。背骨へ意識を向けるのはやめるよう言われ、まず何もしないまま座った。ただ座っているだけなら簡単だと思ったが、魔術の練習をしている時には、そうでもないらしい。集中しようとすると、身体がさっきの続きを始めたがった。

 

「そこ。いつもの方へ戻ってる」

「……分かるのか」

「顔に出てるわ。歯を食いしばって、息まで止めて」

 

 言われてみれば、顎に力が入っていた。吐いた息が、自分でも驚くほど長かった。

 

 遠坂の指が、俺の手へ触れた。

 

「少しだけ、こちらから流す。自分で力を足さないで。今あるものが反応する感覚を、覚えて」

 

 頷く。皮膚の下へ、冷たいものが触れた気がした。冷たいと思った直後には、熱に変わっていた。腕の奥が、きつく引かれる。思わず肩が動いたが、遠坂の指はそれ以上の力を送ってこなかった。

 

 いつものように、背骨へ無理やり道を通そうとする痛みとは違った。自分では気づかなかったところが、触れられたために輪郭を持つ。その奥まで追おうとすると、手首を押さえられた。

 

「追いかけない。今は、それだけ」

 

 イリヤの声だった。止まる。遠坂の指が離れると、熱もすぐに薄れた。けれど、さっきまで何も感じなかった場所に、何かがあったという感覚だけは残っている。

 

「分かった?」

「あったのは。使えるかどうかは、まだ」

「それでいいわ。じゃあ、今度は自分で切り替えてみて」

 

 言葉にすると、簡単だった。実際には、どこへ手を伸ばせばいいのか分からないものを探すのに似ていた。熱のあった場所を思い出そうとするほど、いつもの痛みが欲しくなる。あれがあれば、始めたのだと分かるからだ。

 

「シロウ、こっちを見て」

 

 イリヤに呼ばれた。赤い目が近くにある。

 

「できた時、何が変わった?」

「……熱くなった。それと、腕の中に何か通ったような」

「じゃあ、さっきの痛い方は要らないでしょう。違うものまで、一緒に思い出さなくていいの」

 

 目を閉じ、さっき感じた場所へ意識を向けた。何も起こらない。力を足そうとして、やめる。遠坂の指が触れていたところを見ても、そこには普通の皮膚しかなかった。

 

「もう一度、やってもらってもいいか」

「ええ。今度は、離した後もすぐに自分で何とかしようとしないで。残った感じを覚えて」

 

 短く、もう一度だけ。熱が引いてからも、俺は目を閉じたままでいた。何かを突き刺す時の覚悟を作るのではなく、さっき動いたものを思い出す。頭の奥で、固いものがわずかに動いた気がした。

 

 指先が熱くなった。

 

「止めて」

 

 遠坂の声に、さっき切り替えた感覚を戻す。指先へ向かっていた熱が途切れた。心臓は速く打っているが、背中を裂くような痛みは来なかった。

 

「……今のか?」

「ええ。今度は、そのまま止めていられるか確かめて」

 

 両手を膝へ置いた。何も起こらない。息を数えるうち、指先の熱さも消えた。遠坂が頷いた。俺は笑いそうになって、まだ何も強化していないことを思い出す。

 

「変な顔ね、シロウ」

「いや。これだけでいいのかと思って」

「これだけを、毎回できるようにするのよ。さっきみたいに無理をする方が、偉いわけじゃないんだから」

 

 イリヤはそう言って、俺の手を見た。指を開いても、もう震えてはいなかった。

 

「これで、セイバーにも魔力を渡せるようになるのか」

 

 遠坂に尋ねると、彼女は首を振った。

 

「供給の方は、まだ何も直してないわ。あんたの中で魔力を動かすのと、セイバーまで通すのは同じじゃない。まずは、自分の力をきちんと扱えるようにすること」

「……そっか。まだ、そっちもあるんだな」

「ええ。だから今、使い方を覚えるの」

 

 俺は頷いた。イリヤが、置いてあったパイプを手元へ戻してくれる。

 

 二度目は、すぐにはできなかった。三度目に感覚を取り戻し、今度は持った物へ意識を向ける。鉄の厚み、内側の空洞、切り口に残った傷。何年も練習に使ってきたパイプの構造は、目を閉じている方がよく分かった。

 

 そこへ、細く力を通す。

 

 途中で流れが乱れた。反射的に押し込もうとして、イリヤに指先で手首を叩かれる。

 

「足さないの」

 

 止めた。パイプは冷たいままだった。遠坂が受け取り、確かめる。

 

「通ったところと、そうでないところがあるわね。全体を一度にどうにかしようとしてる」

「構造は分かるんだけど」

「それは見ていて分かった。だから、次はそれを壊さずに使う方」

 

 戸の脇で、アーチャーが小さく息を吐いた。

 

「行き詰まるたびに、力ずくで進むのが癖になっているらしい」

「……見てるだけなら、黙っててくれ」

「見ているだけで済んでいるうちに、直すことだ」

 

 言い返しかけたが、今の俺には分が悪かった。遠坂まで、そこは同感ね、と頷いている。もう一度だけ、試した。物の形を読むところまでは同じだった。そこから力を通し、さっき流れが乱れたところへ来る前に、一度止める。もう一度、細く流す。大した変化はなかった。それでも、失敗した途端に全部が分からなくなることはなかった。

 

「今日はそこまで」

 

 遠坂が言った。俺はパイプを台へ置いた。置いてから、二人がこちらを見ていることに気づく。

 

「何だよ」

「今度は、あと一回って言わなかったのね」

 

 イリヤが笑った。午前中の話を遠坂に詳しく聞かれる前に、俺は水を取りに行くと言って立った。足が少し頼りなくて、椅子の背へ手をつく。

 

「座ってなさい。持ってくるから」

 

 遠坂に座り直させられた。彼女が外のセイバーへ声をかける間、イリヤは俺の手を取っていた。指を開くよう言われ、言われたとおりにする。

 

「しびれる?」

「少し。でも、いつもよりずっと楽だ」

「そう。だからって、夜に一人で続きをしないでね」

 

 彼女は手を離さないまま、俺の返事を待った。しないよと答えると、ようやく指をほどいた。

 

     *

 

 休憩の後、もう一度やってみる代わりに、紙へ書いておくことにした。

 

 始める時の感覚。途中で、何が違ったのか。終える時に、どこへ力が残ったのか。書いてみると、さっき説明したつもりだったことが、ひどく曖昧だった。

 

「熱い、だけじゃ、後から見ても分からないな」

「どこが、どんなふうに熱かったのかしら」

 

 イリヤが横から覗いた。俺は腕の内側を指し、鉛筆でその場所を書き足す。

 

「最初はここ。いつものやり方だと、もっと背中の方から来るんだけど」

「じゃあ、それも書いておいて。今日は、そっちへ戻りそうになったんでしょう」

 

 言われたとおりにする。遠坂は少し離れたところから紙を見て、順番が混ざっている場所だけを直した。

 

「名前を覚えれば出来るってものじゃないけど、自分が何をしたかは分かるようにしておきなさい」

「うん。……考えてみると、今までそういうの、あんまり残してなかったな」

「毎晩やってたんでしょう?」

「やってた。失敗したら、もう一度やればいいと思ってたから」

 

 遠坂が眉を上げた。何か言われる前に、俺は続きを書いた。イリヤは隣で、書き忘れたところを一つずつ指摘してくれた。

 

 鉛筆を置く頃には、指先の違和感は薄れていた。自分で手を開き、握る。何度か確かめてから、紙を畳んで道具箱へしまった。

 

「もう平気かしら」

「うん。足の感じも戻った」

 

 イリヤに答え、今度はゆっくり立ち上がった。ふらつきはなかった。遠坂が先に戸を開け、庭の明るさへ目を細める。

 

「結構、時間が経ったわね」

 

 土蔵へ入った時には戸口に落ちていた日差しが、今は向こうの庭へ移っていた。

 

     *

 

 居間には、セラが茶を用意してくれていた。桜はまだ休んでいるという。セイバーが席を空け、俺たちが座ると、リズが菓子の皿を寄せた。

 

 イリヤは煎餅を一枚取り、二つに割った。少し大きい方を自分の皿へ置いてから、小さい方を俺へ渡す。

 

「はい。生徒の分」

「分け方にも、差があるんだな」

「先生の方が疲れることもあるのよ」

「それなら、わたしにも半分ちょうだい」

 

 遠坂が手を出した。イリヤは自分の皿を見て、それから、まだ何枚も残っている菓子の皿を見た。

 

「リンは、そこから取ればいいでしょう」

「せっかく先生の分を分けてくれたんだから」

 

 イリヤは少し迷い、自分の半分をさらに割った。遠坂の皿へ載せ、自分のところには小さくなった欠片が残る。

 

 俺が笑うと、すぐにこちらを見た。

 

「シロウのも半分にすれば、同じね」

「誰に渡すんだよ」

「セイバー。朝の先生でしょう」

 

 隣のセイバーへ目を向ける。彼女は少し驚いた顔をしたが、差し出した半分を受け取ってくれた。

 

「ありがとうございます」

 

 とても真面目な返事だったので、今度は遠坂が笑いを堪えた。結局、四人の皿には、同じくらいの大きさの欠片が一つずつ載った。元の一枚から随分遠回りをした気がしたが、茶と一緒に食べるには、ちょうどよかった。

 

 イリヤが煎餅を齧る。その指は、少し前まで俺の手首に触れていた。紙に書く時には、何度も同じところを確かめてもらった。

 

「イリヤ。さっきは、助かった」

 

 言うと、彼女は顔を上げた。

 

「ちゃんと分かった?」

「全部じゃない。でも、前とは違うところまでは」

「じゃあ、また教えてあげる。次は、今日より上手に説明してね」

 

 その言い方がおかしくて、今度は隠さず笑った。イリヤも、湯呑みを持ちながらこちらを見ていた。

 

     *

 

 夕方になって、桜が起きてきた。

 

 居間へ顔を出し、もう夕食の支度が始まっていると知ると、少し困った顔をした。けれど、昼のようにすぐ台所へ入ってこようとはしなかった。

 

「何か、わたしにも出来ることはありますか」

「味を見てくれるか。煮物、少し薄いかと思って」

 

 小皿へ分けると、桜は席について一口食べた。しばらく考え、それから首を振る。

 

「このままで、おいしいです。もう少し煮たら、味も入ると思いますし」

「そっか。ありがとう」

 

 皿を受け取る。昼より眠そうな様子が薄れていたので、少しは眠れたのかと尋ねた。

 

「はい。途中で一度起きたんですけど、その後も眠れました」

「気分は?」

「今は、大丈夫です」

 

 そう言って、桜は水の入った湯呑みを手にした。俺は鍋へ戻り、蓋を少しずらした。

 

 その隣で、イリヤが卵を見ていた。

 

「これ、どうするの?」

「卵焼き。煮物が出来るまでに、焼こうと思って」

「わたしも、卵なら焼けるわよ」

 

 顔を上げた彼女は、少し得意そうだった。

 

「目玉焼き?」

「ええ」

「今日は巻く方なんだ。やってみるか」

 

 イリヤは俺と卵を見比べた。居間にいた遠坂まで顔を向ける。

 

「シロウが、教えてくれるの?」

「さっきまで、教わってたからな。こっちなら俺も教えられる」

「……いいわ。やってみる」

 

 セラが来て、イリヤの袖をまとめた。イリヤは手を洗い、俺の隣へ立つ。焼き台の前を空けると、イリヤは少し背伸びをした。

 

「高かったか」

「見えるわよ。これなら」

 

 卵を溶くところから始めた。箸を細かく動かすと、白身が切れずに残る。俺が一度代わって、大きく往復させてみせると、イリヤも同じように動かした。

 

「ああ、そっか。全部を混ぜようとしすぎたのね」

「そう。泡立てなくていいんだ」

 

 出汁を足し、熱した卵焼き器へ最初の分を流した。薄く広がった卵の表面に、泡が膨らむ。イリヤがすぐ箸を出したので、そこは潰していいと教えた。

 

「もう巻く?」

「もう少し。端が離れるようになってから」

 

 待つ間に、表面が変わっていく。イリヤは目を離さず、端が少し反ったところで箸を入れた。

 

 真ん中が破れた。

 

「……シロウ」

「うん。今のは、俺も少し早く言った。こっちを寄せて」

 

 半分崩れた卵を、奥へまとめる。イリヤの口が少し尖った。

 

「形が、変になったわ」

「まだ最初だから。中へ巻き込めば、分からなくなるよ」

「分からなくなればいいの?」

「食べた時においしければ、そこはいい」

 

 言うと、イリヤは俺を見た。それから、卵焼き器へ視線を戻した。

 

「だったら、次はちゃんと巻く」

 

 二度目は、俺が少しだけ卵焼き器を傾けた。焼けた卵の下まで液を通し、今度は待つ時間を取る。イリヤが手前へ返すと、丸まった卵が一段動いた。

 

「あ、出来た」

「うん。そのまま、もう一回」

 

 次は少し斜めになった。それでも、崩れずに巻けた。イリヤがこちらを見る。朝、道場で出来た時の自分も、こんな顔をしていたのかもしれなかった。

 

「出来たでしょう」

「見てた。今のは、ちゃんと」

 

 彼女が笑う。火を止めてからも、箸を持った手をすぐには下ろさなかった。

 

     *

 

 出来上がった卵焼きは、片側が少し太かった。

 

 まな板へ移して、落ち着くのを待つ。人数分を用意するにはもう少し要るので、残りは俺が焼いた。イリヤは横から、最初の一巻きをじっと見ていた。

 

「シロウ。今、早くなかった?」

「最初に流す量が、さっきより少ないから」

「……そういうことも、先に言って」

「悪い。説明するのって、難しいな」

 

 居間から、遠坂の笑う声がした。

 

「分かった? 教えればすぐ伝わるってものでもないのよ」

「午後のことは、反省してるって」

「いま反省したの?」

 

 イリヤまで言うので、俺は卵を返すことに集中した。ここで失敗すると、あとで何を言っても聞いてもらえなくなりそうだった。

 

 食卓へ並べる時、イリヤは自分の焼いた方を少し手前へ置いた。切ってみると、中の巻き方は不揃いだった。けれど、火はきちんと通っている。

 

「こっちが、わたしの」

 

 座ってから、イリヤが指で示した。

 

「じゃあ、そちらからいただきますね」

 

 桜が一切れ取った。イリヤの目が、その箸についていく。

 

「……どう?」

「おいしいです。出汁も、ちゃんと入ってます」

 

 桜はそう言って、もう一口食べた。セイバーも自分の皿へ取り、頷く。セラはイリヤの顔を見てから、ようやく箸を伸ばした。

 

 遠坂が手を伸ばすと、イリヤが少しだけ皿を押さえた。

 

「何よ。わたしは駄目?」

「いいけど。一つ、残しておいて」

 

 視線が俺へ来た。

 

「先生の分?」

 

 遠坂が言った。イリヤはちょっと考え、それから頷く。

 

「そう。今度は、シロウの」

 

 俺が取るまで、彼女は箸を持ったまま待っていた。一切れを皿へ移し、口へ運ぶ。真ん中の崩れたところにも出汁が染みていて、柔らかかった。

 

「うん。おいしい」

 

 言うと、イリヤはようやく自分の分を食べた。

 

 俺より少し長く噛んで、断面を見直す。それから、もう一口食べた。朝の大根より、ずっと簡単につかめたらしい。

 

「次は、同じ太さにするわ」

「じゃあ、次も一緒にやろう」

 

 イリヤの顔が上がる。

 

「教えてくれる?」

「うん。もう一回、食べたいし」

 

 そう言ってから、鍋に残した煮物のことを思い出した。俺が席を立とうとすると、リズがもう取りに行っていた。桜が空いた皿を寄せ、セラが受け取る場所を空ける。

 

 イリヤは俺の隣で、残った卵焼きを箸でつまんだ。

 

「じゃあ、約束ね」

 

 俺は頷いて、茶碗を持ち直した。

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