Fate/stay night IF BEYOND THE EVER   作:Мир

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第十四話 影の持ち主

 卵焼きの皿には、何も残らなかった。最後の一切れを食べたセイバーが、箸を置く。イリヤは空いた皿を見てから、俺の方を見た。そのまま、少し満足そうに皿を重ねた。

 

「それ、こっちへ貰えるか」

「ええ。割らないでね」

「中身はもう、みんなで食べただろ」

「お皿のことよ」

 

 受け取って、台所へ運んだ。イリヤも小皿を二枚持ってついてくる。流しの横へ置く場所を教えると、ぴたりと重ね、濡れた手を拭いた。

 

 桜は居間に残っていた。セラに食器を渡し終えると、自分の湯呑みを両手で持ち、ゆっくり茶を飲んでいる。夕飯は食べられた。会話も出来ていた。それでも、座ったまま目を伏せる時間は、いつもの桜より少し長かった。

 

「先輩。洗うのは、わたしが――」

「もう始めちゃったから。桜は、先に風呂へ入ってきてくれ」

 

 振り向かずに答える。桜の返事は少し遅れた。

 

「……はい。では、お先に」

 

 足音が廊下へ向かった。イリヤはその方を見てから、台所の布巾を取った。

 

「わたしは、こっち?」

「うん。拭いたら、そこの籠へ。棚に戻すのは後でいいから」

 

 最初の皿を渡した。イリヤは両手で受け取り、布巾の端を折って水気を拭く。さっき自分の焼いた卵を載せていた皿だった。光にかざして一度確かめ、籠へ置いた。遠坂が台所の入口へ来たのは、その時だった。

 

「後で、少し話せる?」

「ああ。これが済んだら」

 

 彼女は頷いた。声の調子は変わらなかったが、居間へ戻る時、庭に面した戸の方を見た。俺は蛇口を少し絞った。皿の裏に残った泡を流し、イリヤへ渡す。

 

 *

 

 相談には、昨夜と同じ奥の部屋を使った。セラが桜のいる方へ戻り、戸が閉まる。アーチャーは庭側に立っていた。遠坂は地図を広げ、寺とは別の場所へ指を置いた。

 

「今夜は、間桐の家を外から見てくる。慎二が戻っているかと、あの男が一緒にいるか」

「俺も行こうか。慎二のことなら」

「顔を合わせに行くんじゃないわ。家にいるかを確かめるの。わたしとアーチャーで行く」

 

 遠坂は指を置いたまま答えた。俺は、城で見た慎二の顔を思い出す。あいつは金髪の男の後ろにいて、俺たちを見ていた。桜は、兄から連絡があったとは言っていない。慎二が戻っていても、桜に知らせていないことはありそうだった。

 

「中へは、入らないんだな」

「ええ。城で会った男がいるかもしれないもの。外から見えなかったら、それ以上は踏み込まない」

 

 アーチャーが地図の端を押さえた。

 

「戻っていると分かれば、動く先も絞れる。まずは、見える範囲で確かめることだ」

「……分かった」

 

 慎二を見つけたら、言いたいことは幾つもあった。だが、俺が門の前へ立って呼び出しても、あの男まで出てきたら話すどころではなくなる。

 

 遠坂の指が、家から離れた通りへ移った。

 

「士郎たちは、この辺りを一回りしてきて。寺とは別の方よ。町の様子を確かめて、ここで合流する」

 

 示されたのは、公園だった。イリヤと何度か会った場所だ。

 

「九時半までに、入口の街灯がある方へ。何か見つけても、二人だけで追わないで」

「三人よ」

 

 イリヤが言った。地図を覗き込み、公園までの道を指で追っている。

 

「わたしも行く。この道なら、知っているもの」

 

 遠坂が顔を上げた。イリヤは先にこちらを見た。

 

「昼間はずっと座っていたでしょう。歩けないくらい疲れたりしてないわよ」

「それは、分かってるけど」

「シロウの方は?」

 

 訊かれて、右手を開いた。昼の練習の後にあった痺れはない。夕食の支度をしている間も、足元が頼りなくなることはなかった。

 

「今は、何ともない。手も足も」

「途中で変わったら、言ってね」

 

 俺が頷くと、イリヤも地図へ目を戻した。遠坂が三人を見比べる。

 

「じゃあ、三人で。何かあったら、合流を待たずに退いて。時間を過ぎてもこちらが来なければ、一度家へ戻っていて」

「そっちもな。慎二がいたからって、無理に引っ張り出したりしないでくれよ」

「しません。今日は顔を見るだけ」

 

 アーチャーがわずかに口元を動かした。

 

「それは、よく覚えておこう」

「あなたにも言ってるんだからね」

 

 遠坂が振り向く。アーチャーは何も言わず、地図から手を離した。セイバーが公園の周りの道を確かめた。

 

「私も、今夜は戦闘を長引かせるべきではないと考えます。気配を見つけた場合も、まず周囲を見てから判断しましょう」

「肩は?」

「動きに問題はありません。ただ、使える魔力は、まだ少ない」

 

 昼間、自分の中で魔力を動かせたことを思い出した。セイバーへ渡す方は、まだ何も直せていない。

 

「頼む。何かあったら、すぐ言ってくれ」

「ええ。シロウも、私から離れないでください」

 

 セイバーが言った。俺とイリヤは、並んで頷いた。

 

 *

 

 遠坂たちは、先に出た。見送った後、セラとリズに行き先を伝えた。留守の間に異変があったら、桜を連れて離れてほしい。昨夜と同じ頼みをすると、セラは電話のそばにある連絡先の紙を確かめた。

 

「承知しました。戸締まりを済ませて、お帰りをお待ちします」

「お願いします」

 

 イリヤはリズから鞄を受け取っていた。小さな箱が中へ収まるのを見て、銀の鳥のことを思い出す。彼女は留め具を閉じ、肩へ掛けた。

 

「セラ。遅くなったら、先に休んでいてね」

「それは、お帰りになってから伺います」

 

 即座に答えられ、イリヤは少し口を尖らせた。けれど、今日は言い返さなかった。

 

 桜は風呂から上がり、部屋へ戻るところだった。廊下で会うと、寝間着の上へ一枚羽織っていた。

 

「また、お出かけですか」

「ああ。町を少し見てくる。セイバーたちと」

 

 桜の目が、俺の上着へ向いた。

 

「昨日みたいに、どなたか具合が悪いんですか?」

「今は、そういう連絡じゃないよ。気になることがあるから、確かめてくるだけだ」

 

 寺のことまで、何もなかったとは言えなかった。かといって、今から何に会うのかは、俺にも分からない。桜はしばらく黙っていた。客間の戸へ置いた手が、少しだけ動いた。

 

「……分かりました。気をつけてくださいね」

「うん。桜も、今日はもう休んでくれ」

「はい。おやすみなさい」

 

 戸が閉まる。俺はその前から離れ、玄関へ戻った。出発まで、少し時間があった。セイバーが外の様子を見に行き、イリヤは靴を履いたまま上がり口へ腰をかける。俺も隣へしゃがみ、靴紐を結び直した。

 

「シロウ。帰ってきたら、もう練習しないでね」

「しないって約束しただろ」

「確認よ。昼間、すぐ続きをやりたそうだったから」

「今は、そういう気分じゃないよ」

 

 そう答えると、イリヤは俺を見た。何か言いかけて、鞄の紐を持ち直す。

 

「……じゃあ、早く帰ってこられるといいわね」

 

 俺も頷いた。セイバーが戻り、セラが戸を開けた。奥の客間の灯りは、もう消えているという。三人で玄関を出ると、背後で鍵の掛かる音がした。

 

 *

 

 町の道は、思っていたより静かだった。まだ、皆が眠ってしまう時刻ではない。家の窓にも明かりはあった。それでも、表を歩く人は少ない。いつもなら遅くまで開いている店も、シャッターが下りていた。セイバーは少し先を歩き、曲がり角ごとに足を緩めた。俺とイリヤは、その後からついていく。車が一台通ると、塀の上を三人分の影が長く滑った。

 

「ここも、閉まってるのね」

 

 イリヤが、店先を見て言った。

 

「もっと遅くまで開いてることもあるんだけどな」

「今日だけ?」

「分からない。最近、倒れる人の話が続いてるから、そのせいかもしれない」

 

 店には、営業時間を知らせる紙が貼られていた。明日のことまでは書いていなかった。寺にいた人たちの顔を思い出す。あの人たちは、今は保護されている。けれど、ほかの場所でも同じことが起きているのなら、寺から戻って、それで済ませるわけにはいかなかった。

 

「シロウ」

 

 イリヤに呼ばれた。俺が顔を向けると、彼女は目の前の道を示した。

 

「そっちを見ていると、セイバーにぶつかるわよ」

 

 前のセイバーが止まっていた。向こうの通りを確かめてから、こちらへ顔を向ける。

 

「今のところ、変わった気配はありません。こちらへ」

 

 俺は頷き、セイバーへ目を戻した。今度は前を見たまま、足を出した。細い道を抜ける。塀が低くなると、遠くに公園の木々が見えた。入口の街灯もついている。時計を見ると、待ち合わせには少し早かった。

 

「この先ね」

 

 イリヤが言った。よく知っている道へ出て、少しだけ声が明るくなったように聞こえた。昼間の公園を思い出した。ここまで来れば、ベンチの位置も、道が曲がる場所も分かる。知らない所を歩いている時には、ずっと張っていたものがあったらしい。それを緩めかけて、セイバーの背中を見た。彼女はまだ、足を止めてはいなかった。

 

 *

 

 公園の入口には、まだ誰もいなかった。街灯の下へ来て、イリヤが鞄の紐を掛け直した。遠坂たちが来るはずの道へ目を向ける。曲がり角の向こうに、人影はなかった。

 

「少し、早かったか」

「そうですね。ここで待ちましょう」

 

 セイバーが答えた。俺たちは入口から数歩だけ入り、通りを見渡せる場所で止まった。俺は公園の奥へ目を向ける。昼間にイリヤと歩いた時は、子供の声が聞こえた。今はベンチの背も、木の幹も、光の届く側だけが見えている。

 

 その向こうに、人がいた。そう思った。

 

 木の根元から、黒いものが立ち上がっていた。背の高い人間が、布を被っているように見える。風がないのに、端だけが揺れていた。歩いてきた音は、聞いていなかった。ベンチの向こうから出てきたのなら、途中で姿が見えたはずだった。けれど、どこから来たのかを考えている間にも、その黒いものは、そこにあった。

 

「セイバー。あそこに――」

「動かないで」

 

 返事は、俺の言葉に重なった。セイバーが一歩、前へ出る。身体を包んだ光が消え、銀の鎧が現れた。剣を握った手は、すぐには上がらなかった。俺の口の中が酸っぱくなった。腹は痛くない。夕飯に何を食べたか、思い出そうともしていない。なのに、喉が勝手に閉じて、飲み込むたび胸の奥から何かが戻ってくる。

 

 人ではなかった。顔のあるはずの場所に、何もない。身体を覆う布だと思ったものは、その内側まで黒かった。地面へつながる部分を見ようとして、目を逸らしたくなる。見ているはずなのに、どこまでが向こう側なのか分からない。身体の厚みを確かめようとすると、そこだけ、目が滑った。街灯は消えていなかった。木の幹にも、ベンチにも、さっきと同じ光が当たっていた。

 

 知っている気がした。どこで見たのかは分からない。見たことがあるとさえ、思いたくなかった。けれど、息をするたびに昔の空気が喉へ入ってくる。熱かった夜。何度拭いても取れなかった、手についた汚れ。

 

 隣でイリヤの息が止まった。

 

「……シロウ」

 

 彼女は俺を見ていなかった。黒いものを見つめ、鞄を押さえている。留め具へ伸びかけた指が、そのまま止まった。銀の鳥を取り出す様子はない。指の関節が、白くなっていた。

 

「イリヤ、離れよう」

 

 口にした自分の声が、遠く聞こえた。セイバーがようやく剣を上げた。切っ先を向けても、黒いものは動きを変えない。何かを見ているのか、俺たちに気づいているのか。それさえ分からなかった。

 

「二人とも、私の後ろへ。ゆっくり、入口まで戻ってください」

 

 もう入口のすぐそばにいる。あと数歩で、舗装された道だった。俺はイリヤへ手を伸ばしかけ、彼女が自分で足を引くのを見た。俺も一歩退く。背中を向けずに動くと、足元を見たくなった。午前中は、それでセイバーを見失った。足を大きく動かさず、もう半歩下がる。踏んだ土の感触があった。動けている。そのことを確かめた直後、黒いものの裾が揺れた。

 

 黒いものの下に、影があった。自分でも、何をおかしいと思ったのか分からない。黒いものに影があっても、不思議ではないはずだ。けれど、その影は街灯の位置に合っていなかった。木の影を横切り、土の窪みを埋めながら、こちらへ向かっている。セイバーが俺たちの方へ足を引いた。影の縁は、その横を抜けていた。剣を構える身体の脇を、地面に沿って。

 

 先が細くなった。イリヤの足元へ、向いた。

 

「イリヤ!」

 

 腕を伸ばした時には、影はもう地面を渡っていた。右手を彼女の肩へ当て、入口の方へ押した。小さな身体が街灯の根元へ動く。伸ばした腕が、彼女のいた場所へ残った。セイバーが振り向く。銀の肩が見えた。その間に、地面の黒い縁が、布を立てるように持ち上がった。

 

 右側の視界が、黒くなった。

 

 腕が、熱い。熱いのに、指が冷たい。服の上から何かを掛けられたと思った。手首から、肩まで。けれど重さはなく、右腕だけが、自分の身体のどこにつながっているのか分からなくなる。肩の下に腕がある。その当たり前のことを、頭で確かめなければ動けなかった。

 

 吐き気がした。口を開けば、腹の中のものより先に、別の何かが出てきそうだった。匂いのない泥。息を吸っているのに、胸の中が詰まっていく。

 

 イリヤは、離れた。そこだけは見えた。尻餅をついた彼女の白い髪が、街灯の下にある。なら、自分も退かなければいけない。足を引こうとした。膝が曲がり、そのまま地面へ落ちた。左手をついた。掌に砂が刺さる。左の膝も、固いところへぶつかった。痛みがした。その痛みが、自分の身体のものだと分かるまでに、一拍かかった。

 

「シロウ、こっちを見て!」

 

 声が近くなった。地面へ落ちるまでのどこかで、腕を覆っていた黒いものは離れていた。けれど、右手には力が入らなかった。セイバーが俺たちの前へ回り、剣を構えた。その背中のすぐ後ろで、イリヤが俺の上着をつかむ。引き起こそうとしているのに、俺の身体は動かなかった。

 

「……右、腕が、変だ」

「分かった。引っ張らないから。シロウ、こっちを見て」

 

 俺は左手で地面を押し、少しだけ身体を起こした。黒いものは、まだそこにある。足元の影がどこまで伸びているのか、俺にはもう見分けられなかった。

 

「士郎!」

 

 別の声が、入口から届いた。遠坂だった。俺へ向きかけた視線が、公園の奥で止まる。息を呑む音がした。隣を赤いものが通り過ぎる。アーチャーがセイバーの斜め横へ出て、剣を手にした。その動きが、一瞬止まった。顔から、いつもの皮肉な表情が消えていた。あいつも黒いものを見ていた。ほんのわずかな間の後、足をずらし、俺たちと影の間へ入る。

 

「凛、退路を」

「分かってる。士郎、聞こえる?」

 

 頷こうとした。首を動かすと吐きそうになり、代わりに声を出す。

 

「……聞こえる」

「右腕は持たないで。感覚がおかしいの」

 

 イリヤが言った。遠坂はすぐ俺の左側へ回り、肩を支えた。さっきまでは、遠坂もここにいなかったはずだ。いつ来たのか尋ねたかったが、言葉にする息が足りない。

 

 セイバーの剣先の向こうで、黒いものが揺れた。

 

「来る――」

 

 思わず言った。だが、近づいてはこなかった。広がっていた影の端が、ゆっくり薄くなる。地面の石が見え、木の根が見えた。人に見えていた部分も、内側へ折れるように低くなっていく。

 

 誰も剣を振っていなかった。遠坂の手の中にも、まだ宝石が握られていた。黒い面が木の下へ重なり、そこにあった境目が分からなくなった。最後に薄く揺れた場所を見ていたが、次の瞬間には、ただの夜の地面だった。

 

「……消えた?」

 

 遠坂が言った。アーチャーは剣を下ろさない。

 

「この場を離れる。確認は後だ」

 

 セイバーも頷いた。俺が立とうとすると、両側から手が伸びた。

 

「足に、力は入る?」

 

 イリヤに尋ねられる。試してみた。膝は動いたが、体重をかけると震えた。

 

「少しなら」

「なら、少しだけでいい。こっちへ」

 

 遠坂に肩を借り、イリヤには上着を支えてもらった。二人に合わせて一歩動く。セイバーは公園の奥へ剣を向けたまま、俺たちに続いた。アーチャーは横へ回り、道の先を見ていた。入口を出た時、後ろで枝が鳴った。振り向こうとした俺の肩を、遠坂が押さえた。

 

「あっちは、二人が見てる。あんたは足を動かして」

 

 言われたとおりにした。一歩ずつ。靴底が道へ触れる感覚だけを、確かめながら。

 

 *

 

 公園が見えなくなる角まで来て、塀へ左の肩を預けた。遠坂が腰を支えたまま止まると、イリヤが上着から手を離し、俺の顔を覗いた。頬に触れた手がひどく冷たくて、驚いて顔を引きそうになった。

 

「動かないで。……わたしが冷たいんじゃないわ。シロウが熱いの」

 

 そう言われても、寒かった。背中が震えている。息を吸うたび、歯が鳴りそうになる。

 

「吐きそう?」

 

 遠坂が尋ねた。俺が頷くと、少し身体の向きを変えてくれた。咳をする。息だけが漏れ、腹の奥が痛くなった。

 

「何があったの。わたしたちが来る前に」

 

 セイバーが周囲を見ながら答えた。

 

「影が、こちらへ伸びました。私が二人を下がらせていたところへ。シロウはイリヤを押し退けて、その時に」

「本体へ触れた?」

「……下から来たやつだ。腕に、かかった」

 

 自分の声なのに、他人が話しているようだった。遠坂は右袖を確かめる。布の色は変わっていない。焼けても、溶けてもいなかった。イリヤが手首を取り、指を動かすように言った。握る。開く。見えている動きに、右手の感覚が遅れてついてくる。

 

「動くわね。どこまで触れられたか、覚えてる?」

「この辺から、肩まで。たぶん」

「ほかは?」

「左の手、擦った。左の膝も」

 

 言うと、イリヤはそちらも見た。擦り傷の方は、自分でもたいしたことがないと分かった。気持ちの悪さは、その傷から来ているのではない。

 

「帰って休ませましょう。ここで続けることじゃないわ」

 

 遠坂が言い、セイバーが俺の左側へ来た。

 

「シロウ。肩を貸します。腕を、こちらへ」

 

 身体を預けると、足の震えが少し収まった。自分一人で立とうとするのをやめただけで、ずいぶん違う。

 

「みんなも、触るなよ」

 

 俺はセイバーへ言った。何のことか、彼女はすぐに分かったようだった。

 

「ええ。あれには、近づくべきではない」

 

 アーチャーも、公園へ続く道を見ていた。

 

「身体のある人間が、端に触れただけでそれだ。我々が同じ程度で済むとは考えない方がいい」

 

 何かを知っているのか聞きたかった。けれど、アーチャーはもう道の先へ目を向けていた。

 

「凛。先を見てくる」

「ええ。遠くまでは行かないで」

 

 赤い背中が少し離れた。遠坂はすぐ俺の方へ戻り、歩き出せるか尋ねた。頷いたつもりだったが、うまく首が動かなかった。代わりに、セイバーへ寄せていた体重を少し足へ戻す。

 

「……行ける。少しずつなら」

 

 セイバーが歩幅を狭めた。俺の足が地面を離れない程度に支えてくれる。遠坂は反対側から見ていたが、俺が二歩動けたところで、少し前へ出た。イリヤが俺の右側へついた。腕には触れず、上着の背中側をつかんで、身体が傾かないように支える。俺が礼を言おうとすると、前を見て歩いて、と言われた。道の先に、家の明かりがあった。一つずつ通り過ぎる。どの家にも戸があり、窓がある。中には、今日の仕事を終えて眠っている人がいるはずだった。さっきまで俺も、その明かりを普通に眺めていた。

 

 足元に落ちた自分の影を、どうしても見てしまう。街灯から離れるたびに形が伸び、別の光の下で向きを変える。そのたび、右腕の奥が冷たくなった。

 

 家の門をくぐると、セイバーの鎧が淡い光になって消えた。肩に触れていた硬い感触が、服の布へ変わる。彼女は俺を支え直し、玄関までの段差を教えてくれた。

 

 *

 

 玄関の段差が、やけに高かった。セラが戸を開け、何かを言った。セイバーに支えられた俺を見て、すぐに声を抑える。リズが上がり口へ来て、イリヤの鞄を受け取った。

 

「エミヤ様。お怪我は」

「左の手と、膝。それより、右腕の感じが――」

 

 そこで息が続かなくなった。セラの顔が近づき、俺の代わりにイリヤが答える。

 

「先に横にするわ。シロウの部屋、お願い」

 

 セラが頷いて、廊下を戻っていった。リズが俺の前へ膝をつく。自分で靴を脱ごうと屈んだ途端、腹の奥がせり上がった。

 

「動かないで」

 

 短く言われ、身体を起こした。靴紐がほどかれる。片方ずつ踵を抜いてもらう間も、どこまで足を動かせばいいのか、自分ではうまく測れなかった。

 

 家に帰った。そのはずなのに、まだ、公園の地面を見ているようだった。

 

「先輩?」

 

 廊下の奥で、戸が開いた。桜が立っていた。寝間着の上へ羽織ったものを、胸の前で合わせている。俺を見て、動きが止まった。

 

「どうしたんですか。その顔……」

「ちょっと、気分が悪くなって」

 

 身体を起こそうとしたが、またセイバーの腕へもたれた。桜の目が足元へ落ちる。ズボンの膝には土がつき、左手には乾いた血があった。

 

「怪我も、してるじゃないですか」

「転んだんだ。急に動いて」

 

 そこまでは本当だった。続きを言おうとしたが、喉がうまく動かなかった。桜は近くまで来た。手を伸ばしかけたが、先に廊下の戸を開いた。

 

「先に、お部屋へ。わたし、向こうを開けますから」

 

 セイバーが頷いた。桜が先に行き、俺の部屋の襖を広く開けた。セラが灯りをつける。掛け布団の端がめくられ、腰を下ろす場所が出来た。そこへ座るまでにも、何度か足を止めた。明るいものを見ると、目の奥が痛んだ。目を閉じかけると、イリヤの声がすぐに来た。

 

「シロウ。まだ起きていて。横になるから、少しだけ」

 

 返事をする。声になったかどうかは、自分でも分からなかった。上着を脱ぐ時、右腕を動かされて息が詰まった。イリヤはすぐに手を止める。

 

「痛い?」

「違う。引っ張られると、変なんだ。腕が、遅れてくるみたいで」

 

 上手く説明できなかった。けれど、イリヤは頷き、俺の腕を持ち上げる代わりに、布を少しずつ動かした。セラが上着の後ろを支え、袖だけがゆっくり抜けていく。

 

 横になると、天井が見えた。自分の部屋の木目だった。朝も、昨日も、同じところにあった。それだけは目で追わなくても分かった。

 

 *

 

「先輩。手を拭きましょう。お湯を持ってきますね」

 

 桜が立ち上がった。セラも桜についていき、台所の方で短く声をかけている。俺はその後ろ姿を見送り、掛け布団を握ろうとした。

 

 右の指が、布の上を滑った。

 

「何をしたいの」

 

 イリヤが尋ねた。

 

「……寒いから、引っ張ろうと思って」

 

 答えると、彼女が布団を上げてくれた。胸元まで掛かる。右腕の下には、畳んだ布が入れられた。

 

「これで、どう?」

「うん。こっちの方がいい」

 

 遠坂が額へ手を当てた。触れた手が冷たくて、思わず息を詰める。彼女は何か言いかけたが、桜が戻ってくる音を聞いて、手を離した。桜が布を持ち、セラが湯の入った器を運んできた。器が枕元に置かれる音で、俺はそちらへ顔を向ける。

 

「桜。悪い。起こしちゃって」

 

 彼女は布を絞る手を止めた。

 

「起きたことは、いいんです」

 

 声が少し硬かった。

 

「先輩が、ちゃんと帰ってきてくだされば……」

 

 言葉が止まった。桜の目は俺の左手を見ていた。手を差し出すと、掌の下へ乾いた布を入れ、汚れたところをそっと拭ってくれる。

 

「ごめん」

「謝ってほしいわけじゃ、ありません」

 

 桜は首を振った。けれど、その先をすぐには言わなかった。濡れた布の端が、掌に刺さった砂を落としていく。痛みがあった。左手は、自分の手だった。擦れたところへ触られるたび、そこが傷だとはっきり分かった。何をされても遅れてくる右腕より、その痛みの方がまだ頼りになった。

 

「……今は、ちゃんと休んでください」

 

 桜が、ようやく言った。

 

「先輩が起きなくても、ここには皆さんがいますから」

「ああ。頼む」

 

 彼女は頷いた。そばにいたセイバーが視線を落とすのが見えた。俺は何か言おうとしたが、桜が手の位置を変えてくれたので、そちらへ顔を戻した。血が落ちると、擦ったところは思ったより小さかった。赤くなった縁の間に、もう薄く塞がりかけているところがある。さっき地面へ手をついた時には、もっと深く抉れたような気がしたのに。

 

 膝はセラが見てくれた。左の裾を上げる時だけ、少し痛んだ。けれど、そこも大きく切れてはいないらしい。布が触れる感覚は、ちゃんと分かった。イリヤも、少し離れたところでセラへ手を見せていた。自分の膝も確かめてもらってから、俺の右側へ戻ってくる。

 

 部屋に人が多かった。布を絞る音。湯の動く音。衣服の擦れる音。誰も大声を出していないのに、一つずつがはっきり聞こえた。桜が布を畳んだ。新しいものに替えようとしたところで、セラがその布を受け取った。

 

「ありがとうございます。あとは、こちらでお預かりします」

「でも、まだ」

「わたしもいるから」

 

 遠坂が言った。

 

「桜は休んでいて。何かあったら呼ぶわ」

 

 桜は遠坂の顔を見た。返事をする代わりに、俺へ視線を戻す。

 

「先輩」

「……うん。今夜は、もう寝る」

 

 言うと、彼女はようやく立った。襖のところで、もう一度足が止まる。

 

「何かあったら、呼んでください。すぐ、来ますから」

 

 俺は頷いた。桜がそれを確かめてから、セラと一緒に廊下へ出ていく。遠くで客間の戸が動き、足音が一つ、こちらへ戻ってきた。

 

 *

 

 襖が閉まった。外にはリズが残り、アーチャーは家の周囲を確かめに出ていた。セイバーは庭側の戸に近いところへ座った。イリヤが俺の右手を取り、掌を上へ向ける。

 

「さっきより、分かる?」

 

 指先が、手の甲に触れた。

 

「うん。触ってるところは」

「自分で動かすと?」

 

 指を曲げた。見えている動きと、感じている動きが、まだ少しずれていた。

 

「動く。けど、まだ変だ」

 

 イリヤは頷き、肘の下の布を直した。

 

「今は、自分で魔力を動かそうとしないでね。昼間の続きをしても、これが戻るわけじゃないから」

 

 言われるまで、腕の中の感じを確かめようとしていた。昼に動かせたところを探せば、どこが変なのか分かる気がしたのだ。だが、今は指の曲がり方さえ、よく分からなかった。

 

「……分かった」

 

 力を抜く。イリヤの指が、手首から少し上へ移った。目を伏せ、しばらく動かずに確かめている。遠坂は俺の反対側へ座り直し、呼吸が落ち着くのを待った。

 

「何に触ったのか、見ていたわね。セイバー」

「はい。ただ、あれが何かは、私にも」

「分かってる。見た範囲だけ、聞かせて」

 

 セイバーは少し顔を上げた。

 

「本体の足元から、黒いものが伸びました。地面を渡り、私の脇を抜けた。二人を下がらせているところでした」

 

 そこで一度、言葉が止まる。

 

「イリヤの方へ、来た」

 

 俺が言うと、遠坂がこちらを見た。

 

「そう見えたのね」

「ああ。足のところへ。それで、押したんだ」

 

 イリヤの手が、少しだけ止まった。

 

「俺の腕に、かかった。下から、持ち上がってきて」

「本体の方へ行ったわけじゃない?」

「違う。あれは、ずっと向こうにいた」

 

 遠坂がセイバーへ目を向ける。彼女も頷いた。

 

「わたしたちが来た時には、もう士郎は倒れていた。そこまでの動きは、見ていないの」

 

 遠坂の声は低かった。言葉を選ぶように、一つずつ続ける。

 

「けれど、奥に立っていたものと、地面に広がっていたものは見たわ。消えた時も、こちらから何かしたわけじゃない」

 

 俺は頷いた。宝石を握ったままの遠坂の手を思い出す。セイバーも、アーチャーも、剣を向けたままだった。倒したのではない。自分たちが何をするか決めるより先に、向こうがいなくなった。

 

「寺の、キャスターと関係があるのか」

「今の段階では、分からないわ。町で起きていることも、あれを見ただけで全部つながったことには出来ない」

 

 遠坂は首を振った。

 

「だから、今夜はここまで。もう一度見に行って、確かめるのはなしよ」

 

 言われても、立ち上がれる気はしなかった。俺は天井へ目を戻した。黒いもののいた場所が、その木目に重なりかける。隣で、イリヤが俺を呼んだ。

 

 *

 

「少し、楽になるようにするわ。腕を動かさないでね」

 

 俺が返事をすると、イリヤは低く何かを唱えた。その手の下で、かすかな熱が動いた。黒いものに触れた時の熱とは違った。触れている指のところから来る。そこから、手首へ。どこに触れられているかが分かった。指が、一度勝手に縮んだ。

 

「そのまま。握らなくていいわ」

 

 力を抜いた。腕の下の布を感じる。肩の重さは残っていたが、指先が勝手に遠くへ離れていくような感じは、少しずつ薄れた。息を吐く。イリヤは手を離さず、もうしばらく同じ場所に触れていた。それから、指を開いてみるように言う。

 

 開いた。今度は、自分が動かしたところに、右手があった。

 

「……少し、ましになった」

「うん。まだ、そのままにしていて」

 

 イリヤが手の位置を直した。俺も、それ以上を尋ねず、腕を布の上へ預けた。廊下で、声がした。アーチャーだった。遠坂が襖のところへ行き、短く何かを尋ねる。声を抑えていても、部屋が静かなので聞こえた。

 

「近くに、追ってきたものは?」

「今見た範囲にはない。外は、引き続き見ておく」

「お願い。わたしも今夜は、ここにいるから」

 

 足音が離れた。遠坂は戻ってきて、俺が起きているのを確かめた。

 

「今夜は泊まるわ。セラさんには、わたしから話しておく」

「悪い。何度も」

「話すのは明日でいいから」

 

 布団の端を直しながら言われた。俺は頷いた。遠坂が立つ前に、思い出したことがあった。

 

「慎二は」

 

 彼女が、もう一度こちらを見る。

 

「家にいたわ。窓際へ出てきたのを、二人で確かめた」

「あの男も、一緒に?」

「そちらは確認できなかった。家の中までは見ていないわ」

 

 俺は目を閉じかけ、また開けた。慎二は戻っていた。桜は今日、ここで兄のことを話さなかった。知らないままなのかもしれない。

 

「桜に、言った方が」

「明日、話しましょう。今から起こしても、まだ教えられることは少ないもの」

 

 あいつが家にいると伝えたら、桜は帰らなくていいのかと考えるかもしれない。俺は、今の状態では、その話もちゃんと聞けなかった。

 

「……分かった」

 

 頷くと、遠坂は立ち上がった。イリヤに、何かあればすぐ呼ぶよう告げ、廊下へ出る。セイバーは、まだ座っていた。

 

「シロウ。私は――」

「連れて帰ってくれて、ありがとう」

 

 先に、そう言った。彼女が何を言うつもりだったのか、最後まで聞いたわけではない。けれど、俺が飛び出した後で、また誰かが謝るのは聞きたくなかった。セイバーはしばらく黙っていた。やがて、布団の上の俺の手へ目を落とす。

 

「……それなら、今は休んでください。家のことは、私たちが見ています」

「ああ」

 

 短い返事を聞いてから、彼女も立った。庭側の戸を確かめ、襖を閉めて出ていった。

 

 *

 

 イリヤは、まだ俺の手を持っていた。廊下では、遠坂とセラが話している。寝具の場所を尋ねる声と、リズの短い返事がした。家の中は、いつもの寝支度とは違う順番で動いていた。

 

「イリヤも、もう――」

 

 言いかけると、赤い目がこちらを向いた。

 

「わたしが、何?」

「……疲れただろ」

「疲れたわ。シロウが重かったから」

 

 返事に困った。俺が黙ると、イリヤは手元へ目を落とした。

 

「右の腕を持ったら駄目だと思って。でも、上着を引っ張るだけじゃ、起こせなかった」

 

 地面に膝をついた時のことを思い出す。上着をつかむ指。何度も聞こえた、俺を呼ぶ声。

 

「聞こえてたよ」

「……最初、返事がなかったでしょう」

 

 すぐに言われた。

 

「腕が変だって言った後も、顔は上げなかった。目が開いているのに、わたしを見なかった」

 

 イリヤの声は静かだった。怒鳴られるより、何を言えばいいか分からなかった。

 

「最初は、声が出なかったんだ。腕のことを言うのがやっとで、顔を上げようとしても、うまく動けなくて」

 

 言い終えると、彼女は少し唇を結んだ。

 

「そう」

 

 手首へ添えられた指が、一度緩む。

 

「……でも、わたしの声は分かったの?」

「聞こえては、いた。途中から、近くで呼んでるのも分かった」

 

 そう言うと、イリヤが顔を上げた。

 

「本当?」

「うん。こっちを見てって」

 

 彼女は頷いた。それからもう一度、俺の手を見た。外套は脱いでいた。服の袖口に少し土が残っていて、そこだけが、まだ外から戻ってきたばかりみたいだった。

 

「わたし、ちゃんと下がろうとしていたわ」

 

 不意に言った。

 

「セイバーが言った通りに。あれから離れるつもりだったの」

「見てた。イリヤが、先に足を引いたから」

「それなのに、シロウが倒れて」

 

 言葉が止まった。イリヤは俺の指を一度開かせ、動くところを確かめた。もう必要のない確認だったのかもしれない。けれど、俺もその通りにした。

 

「ごめん。心配かけた」

「……怖かったのよ」

 

 さっきより小さな声だった。

 

「あれを見た時も、怖かった。でも、シロウが動かなくなった時は、何をしたらいいのか、すぐには分からなかった」

 

 彼女の指が、手の甲へ重なる。

 

「持てるところを探して、起こそうとして。それでも、顔を上げないから」

 

 俺は天井から目を離し、イリヤの顔を見た。彼女はそれに気づいて、少しだけ眉を寄せる。

 

「今は、見てる」

 

 上手い言葉ではなかった。言ってから、もっと何かあっただろうと思った。それでも、イリヤはすぐに目を逸らさなかった。

 

「……ええ。今はね」

 

 返事を聞いて、息を吐いた。

 

 *

 

 しばらく二人で黙っていた。布団の中は、少しずつ温まっていた。吐き気も、さっきほど近くにはない。右腕には重さが残っているが、どこへ置いてあるのかは分かる。

 

「今は、もう大丈――」

「まだ、寒いんでしょう」

 

 遮られた。イリヤは、布団をつかもうとした俺の手を見ていた。

 

「大丈夫って言って、わたしを部屋へ戻して。それで、安心すると思う?」

 

 答えられなかった。寝れば治ると、たぶん考える。指を動かして、さっきより動けば安心する。誰もいなければ、立てるかどうかも試したかもしれない。

 

「今、わたしが見ているの。まだ変なら、ちゃんと言って」

「……右腕が、少し重い。吐き気は、さっきよりましになった」

「寒いのは?」

「まだ、少し」

 

 イリヤは頷いた。布団の肩口を直し、隙間を塞ぐ。俺の手は、もう強く握られていなかった。ただ、離すつもりもないらしい。

 

「イリヤの方は。押した時に、転んだろ」

 

 尋ねると、彼女は自分の膝へ一度目をやった。

 

「どこも怪我をしていないわ。さっき、セラにも見てもらった」

「痛くは?」

「ない。手も、ちゃんと動くでしょう」

 

 俺の目の前で、空いている方の手を開いてみせた。

 

「そっか」

 

 息が抜けた。イリヤはその顔を見て、少しだけ口元を動かした。

 

「そういう顔、すると思った」

 

 責める声ではなかった。

 

「……助けてくれたのは、ありがとう」

 

 イリヤは目を伏せた。

 

「でも、それでシロウが戻ってこなくなったら、わたし、何も言えないじゃない」

 

 言葉が出なかった。助かったからよかったと、俺は考えていた。考えて、それで終わりにしかけていた。

 

 イリヤが助かったことは、今も嬉しい。けれど、あの時、地面から起き上がれなかった俺の顔が、彼女にはどう見えていたのか。そこまでは、考えていなかった。

 

 手の上へ重なった指を見る。今度は、その手をどけようとは思わなかった。

 

 *

 

 セラが替えの湯を持ってきた。イリヤは礼を言い、もう少しここにいると伝えた。セラは座布団を寄せ、彼女が足を崩せるようにする。部屋の明かりも一つ落としてくれた。

 

「遠坂様は、隣のお部屋にいらっしゃいます。何かございましたら、すぐにお呼びください」

「ええ。ありがとう、セラ」

 

 戸が閉まった。廊下で、遠坂が何かを尋ねる声がした。セラが答え、足音が離れていく。俺は、暗くなった天井を見ていた。目を閉じれば、またあの黒いものが出てくる気がした。身体のどこに腕があるのか分からなくなった感覚は、思い出そうとしなくても戻ってきた。指に力が入った。

 

「シロウ」

「……ん」

「そんなに握らなくていいわ。ここにいるから」

 

 自分の手を見た。いつの間にか、彼女の手をつかんでいた。ゆっくりほどくと、イリヤは離れかけた手を追うように、掌を重ね直した。

 

「これでいい」

 

 指先が温かかった。夕飯の時には、卵焼きの皿を押さえていた手だった。午後には、俺の手首に触れていた。さっきは、地面から起こそうとしてくれた。今は、その手が布団の上にあった。

 

「……頼む。もう少し、ここにいてくれ」

 

 言ってから、彼女の顔を見た。イリヤはすぐには答えなかった。俺の目を見て、それから、重ねた手を見た。

 

「うん。いるわ」

 

 短い返事を聞いて、ようやく目を閉じた。隣で布の動く音がした。手は、離れなかった。

 

---

 

## 幕間 灯りのある窓

 

 間桐邸の上階に、明かりがあった。凛は通りの曲がり角で足を止めた。門へは近づかず、塀の向こうの窓を見る。隣家の軒から落ちる影が、こちらの足元まで届いていた。

 

 アーチャーは少し後ろに立っていた。凛と同じ窓を見てから、道路の反対側へ目を移す。車が一台通り過ぎた。光が二人のいる場所を外れ、先の道へ消える。

 

「二階か」

 

 凛が声を落とした。

 

 少し開いたカーテンの隙間に、しばらくして人影が立った。明かりを背にした顔が横を向く。窓から離れかけ、室内の何かへ腕を伸ばす。その時、顔に光が当たった。

 

「慎二ね」

「ああ」

 

 慎二は部屋の奥へ引っ込んだ。窓の明かりは消えなかった。凛は門へ視線を動かし、それから、もう一度上階を見る。

 

「戻っているのは、確かね」

「いつからかは分からんがな」

「ええ。今、ここにいる」

 

 言い直して、凛は息を吐いた。玄関の戸は閉じていた。人が出入りする様子はない。

 

「あの男は?」

「見える範囲にはいない」

 

 それ以上を、アーチャーは言わなかった。凛も頷くだけにした。城で見た男の姿を思い出すと、塀の内側へ入って確かめるつもりにはなれなかった。

 

 上階で、慎二がもう一度窓際へ来た。何かを苛立たしげに動かしている。口も動いたが、閉じた窓を通して、その声までは届かなかった。誰に話しているのか、それとも一人で何かを言っているだけなのか、凛には分からなかった。

 

 カーテンが引かれる。最後に腕の影が横切り、部屋の中は見えなくなった。

 

「……本人に聞けば、早いんだけどね」

「顔を見るだけ、と聞いている」

 

 アーチャーの返事に、凛は横を向いた。

 

「覚えてるわよ。行くなんて言ってないでしょう」

 

 言い終える前に、もう足は来た道へ向いていた。アーチャーが周囲を確かめるのを待ち、門から離れる側の道へ入る。

 

 *

 

 合流場所へ向けて、予定していた道を戻っていた。時計を見る。約束の時刻には、まだ少し間がある。士郎たちの方が先に着いているかもしれない。凛は歩調を緩めず、次の角へ向かった。

 

 塀が途切れ、公園の木々が見えた。枝の間に街灯の光がある。もう一つ角を曲がれば、入口へ出る。

 

 アーチャーが、急に顔を上げた。

 

「どうしたの」

 

 返事を待つ間に、凛も足を止めた。寒さとは違った。外套の下まで、何かが触れたように思えた。皮膚の上に何もないことを、手で確かめたくなる。

 

 その先から、人を呼ぶイリヤの声がした。

 

「アーチャー!」

 

 凛が呼ぶより先に、赤い背中が動いていた。凛も地を蹴った。公園へ続く角が、目の前まで来る。指はもう、胸元の宝石に触れていた。

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