Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
桜は眠っていた。ライダーは部屋の外で、その呼吸を聞いていた。浅くなっては、しばらくして元に戻る。身じろぎをする音はあっても、起き上がる気配はなかった。
廊下の先を白い服の女が通った。客間の前で足を止めたセラは、音を立てずに襖を少し開いた。中へ入って桜の様子を確かめ、掛け物を直すと、廊下へ戻って襖を静かに閉じた。
台所の方では、リズが器を片付けていた。五人が出ていった後の家にも、まだ人の動く音があった。水を止める音。戸を閉める音。桜が目を覚ませば、誰かがすぐに応じるだろう。ライダーは、気配を抑えたまま動かなかった。
庭の方で、小石を踏むごく短い音がした。ライダーがそちらへ向いた時には、男はもう縁側の外に立っていた。金色の髪が見えた。こちらを見る目に、迷いがない。
リズが台所から顔を出した。セラも振り向く。二人の前で、庭側の戸が砕けた。金属の切っ先が、桜の寝ている部屋へ向かっていた。
*
ライダーは、桜をかばう位置へ飛び出した。投じた杭の鎖が張り、飛来した刃の横腹を打つ。軌道がわずかに逸れ、切っ先が柱へ食い込んだ。木が裂ける音がした。
「桜様!」
セラが部屋へ駆け込む。リズが続き、桜の身体を抱き起こした。桜は目を開けなかった。呼ばれても、眉が動くばかりだった。
「退け。用があるのは、その娘だ」
男が言った。桜へ向ける目には、汚れたものを見つけたような嫌悪があった。
ライダーは返事をせず、杭を引き戻した。背後には桜がいる。ここで身を躱せば、刃はそのまま彼女のところまで届く。
男の後ろに光が開き、何本もの刃が現れた。
ライダーは一つを弾き、もう一つへ鎖を掛けた。引くより早く、三つ目の刃が左の腕を裂いた。衝撃で身体が傾く。足を止めずに向きを変え、桜へ伸びる刃を鎖で逸らす。その間に、続く一撃が脇腹を裂いた。滴った血が、畳の縁を濡らす。
背後で、木の落ちる音がした。廊下へ通じる戸口に、折れた長い木材が斜めに倒れていた。先へ進もうとしていたセラが足を止め、リズが桜を布団へ下ろす。
「私がサクラを。出口を開けてください」
ライダーは言った。セラは、その姿を見た。つい先ほどまで、家のどこにも見かけなかった女だった。けれど今は、桜をかばって立っている。
「リズ。そちらを」
リズが倒れた木材へ手をかけた。持ち上げ、壁際へ押し退ける。セラは出来た隙間を抜け、台所の先の戸へ走った。
ライダーは桜へ片手を伸ばした。
「サクラ。起きてください」
肩に触れても、桜の身体には力が入らなかった。唇だけがわずかに開く。
「……せん、ぱい」
ライダーは、もう一度名を呼んだ。返事を待つ時間はなかった。
*
男が砕けた木を踏んで部屋へ入り、眠ったままの桜を見下ろした。手の中に、別の剣があった。
ライダーは桜の背と膝の下へ腕を入れた。左の傷が開き、指先まで血が伝う。それでも、抱き上げた身体を落とさなかった。
床が、暗かった。初めは、男の影だと思った。だが、明かりの位置と合わない。倒れた戸の下からも、畳の継ぎ目からも、黒いものがつながっていく。
ライダーの足元へ、その縁が来た。触れる前に、身体が拒んだ。桜を抱え直し、床を蹴る。踏み切った場所を黒いものが覆った。着地したのは、廊下へ続く敷居の上だった。
「こちらです!」
セラの声がした。リズが戸を押さえ、通り道を空けている。ライダーはそちらへ動いた。
背後で、金属が鳴った。男は、まだ桜へ向かっていた。剣先が上がり、その背後にも光が増える。ライダーは桜が壁の陰に隠れるよう、身体を捻った。
次の刃は、来なかった。
「――何だ」
男の足が、止まっていた。黒いものが、男の足首へ絡んでいる。それだけではなかった。男が踏み入った部屋の床は、もう見えなくなっていた。
男が後ろへ足を引く。黒い面が、立ち上がった。ライダーは、桜を抱えたまま身を低くした。男の背後に開いた光が一度揺れた。切っ先が向きを変えるより早く、黒いものは男の腰を、肩を覆っていった。
「貴様――」
伸びた腕が見えたが、それもすぐに見えなくなった。黒い面の中に、男の輪郭が消える。最後に残った金色が沈み、男の背後に開いていた光も消えた。
桜は、ライダーの腕の中にいた。目は閉じたままで、誰の名も呼ばなかった。ライダーは、それ以上確かめようとはしなかった。
「外へ」
声を出し、足を動かす。廊下の端にも、黒いものが届きかけていた。リズが身を引く。ライダーは床へ広がった部分を越え、開かれた戸を抜けた。夜気が顔へ当たった。桜の身体を抱いている腕だけが、ひどく熱かった。
*
勝手口を出て、家の脇を回った。セラが先へ走り、リズが後ろを確かめる。ライダーは塀の切れ目を抜けたところで、一度足を止めた。家の中は見えず、男が追ってくる音も、刃が飛ぶ音もなかった。
「もう少し、離れます」
ライダーは言った。セラが頷き、通りから身を隠せる路地の方へ動いた。そこまで来ると、リズが外套を脱いで地面へ広げる。
桜を下ろした時、ライダーの左腕から力が抜けた。リズが肩を支えた。ライダーはその手を押し返そうとしたが、自分の血で手が滑った。
「血、止める」
短い声がした。リズは、セラが持ち出した布を裂き、ライダーの腕へ巻いた。ライダーは片手で脇腹を押さえながら、桜の顔を見ていた。頬が赤く、さっき部屋で眠っていた時とは違う。呼吸も速くなり、身体へ掛けられた布が、小刻みに動いている。
「サクラ」
呼ぶと、桜の指が少し曲がった。何を聞いているのかは、分からなかった。
リズは家の方を見た。ライダーは立とうとした。桜を連れて、もっと遠くまで行かなければならないのか。それとも、ここで戻りを待つべきなのか。判断に迷う間にも、腕から血が落ちた。ライダーは桜の手へ触れた。
「お嬢様たちへ連絡を取ります。少しの間、こちらを」
セラが、紙を取り出した。通りの向こうに、公衆電話があった。足早にそこへ向かい、戻ってきた時には、唇が固く結ばれていた。
「遠坂様のお宅へかけましたが、どなたもお出になりません」
セラは紙を開き直し、別の番号を指で探した。その時、通りの向こうから足音がした。ライダーは顔を上げた。リズが立ち、セラは塀の端から道を覗いた。白い髪が、街灯の下へ入ってきた。
「お嬢様!」
セラが、通りへ駆け出した。