Fate/stay night IF BEYOND THE EVER   作:Мир

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第二話 冬の少女

 目を開けると自分の部屋だった。明るい障子を見て朝だと気づいた途端、昨夜の光景がよみがえった。降ってきた大きな刃とセイバーの袖。腹に受けた衝撃まで思い出し、布団の中で恐る恐る手を動かした。

 

 腹はあった。巻かれた包帯の上から触れると、奥の方が痛む。

 

 痛いのに、ほっとしてしまった。昨夜は、確かめるのさえ怖かった。

 

 口をすすぎ、壁に手をつきながら居間まで行くと、遠坂が座っていた。

 

「おはよう。歩けるようになったのね」

 

「遠坂。セイバーは」

 

「道場。自分の心配も少しはしなさい」

 

 指さされた座布団に腰を下ろすと腹が引き攣った。平気な顔を取り繕うより早く、遠坂の眉が寄った。

 

「桜と藤村先生には、具合が悪いって話してあるわ。今日は一日休むこと。台所にも立たないで」

 

「そこまでしなくても。飯の支度ぐらいなら――」

 

「ほら、言ったそばから。今、座るだけで痛がってたのは誰?」

 

 立つだけなら平気だと言いかけて、やめた。座布団に手をついたまま言っても、たぶん信用されない。遠坂は腕を組んでこちらを見据えた。

 

「それで。昨夜のあれは、どういうつもり?」

 

「セイバーをどかそうとしたんだ。倒れたままだったから」

 

「貴方が死んだら、そのセイバーだって困るのよ」

 

「分かってる。あんなふうに斬られるつもりじゃなかった」

 

「つもりの話をしてるんじゃないの」

 

 声を強めた遠坂は俺の腹へ目をやり、言い聞かせるように続けた。

 

「次は、生きて戻るところまで考えなさい。助けた本人が死んでどうするのよ」

 

 昨夜、隣に膝をついていた遠坂の顔を思い出した。あれからずっと、ここにいてくれたのだろうか。

 

「……悪かった。世話になったな」

 

「だったら今日は寝てなさい。それで十分よ」

 

 返事は素っ気なかったが、遠坂は組んでいた腕を解いた。腹の傷について尋ねると、ひとりでに塞がったのだという。手当てはしてくれたものの、あの致命傷を治したのは彼女ではないらしい。

 

「セイバーとのつながりが関係してると思う。普通とは、力の流れ方が違うみたいなの」

 

「俺は何もしてないぞ」

 

「でしょうね。だから分からないのよ」

 

 分からないものを当てにしないこと、と念を押された。言われなくても、もう一度あれを試す気にはなれなかった。

 

 それから遠坂は手を組まないかと持ちかけてきた。アーチャーはまだ傷が癒えていない。俺にはマスターとして足りないものが多すぎる。互いに補えるところがあるという話だった。

 

「バーサーカーがまた来たら、今のままじゃ厳しい。貴方も分かったでしょう」

 

「……ああ」

 

 白い髪の少女が目に浮かんだ。攻撃を命じた声も、最後に巨人を呼び戻した声もよく覚えている。

 

「あの子を倒すために、か」

 

「向こうが襲ってくるなら、戦うしかないわ」

 

 遠坂が正しいのは分かっていたが、すぐには頷けなかった。

 

「セイバーとも話したい。俺一人で決めていいことじゃないだろ」

 

 遠坂はしばらく俺を見た。

 

「……そうね。だったら、ちゃんと相談しなさい」

 

 帰り際にも今日は休むように念を押された。玄関で礼を言うと、遠坂は振り返らずに片手だけ上げた。

 

     *

 

 道場では鎧を脱いだセイバーが静かに座っていた。ブラウスに長いスカートという格好が昨夜とはずいぶん違って見える。

 

「もう起きてよいのですか、シロウ」

 

「少しならな。そっちは」

 

「回復はしています。ただ、もう少し休息が必要です」

 

 俺も隣へ座った。何から話そうかと迷う間もなく、昨夜のことを叱られた。

 

「戦っている間は、私の指示に従ってください。貴方まで前に出ては、守りきれません」

 

「でも、倒れてたじゃないか」

 

「それでもです。私は貴方を守るために戦っています」

 

「俺は、そのおまえが斬られるのを見てろって?」

 

 セイバーが黙ると、こちらも次の言葉が出てこなかった。助けに行ったつもりで、結局また助けられている。文句を言える立場じゃない。

 

 けれど、あの場で逃げればよかったのかと考えると、どうしても頷けなかった。セイバーは俺を守って倒れたんだ。

 

「……戦い方を、教えてくれ」

 

 そう言うと、セイバーは俺の顔を見た。

 

「いや、いきなり剣を持たせてくれっていうんじゃなくて。どこにいれば邪魔にならないかとか、俺にもできることとか。何も分からないままじゃ、また同じことになるだろ」

 

「ええ。まず、ご自分を守ることから覚えていただきます」

 

 彼女が姿勢を正し、ようやく昨夜の話から先へ進めた。サーヴァントの本当の名前を知られれば、弱点を教えることにもなる。宝具もただ強い武器というだけではないらしい。聞いておかなければならないことが幾つもあった。

 

 セイバー自身にも聖杯を必要とする理由があると聞いて、少し驚いた。俺に呼ばれたから戦っているのだと、どこかで思っていたらしい。

 

 考えてみれば、勝手な話だ。俺が呼ぶ前から、彼女には叶えたいことがあったのに。

 

「俺は、関係ない人を巻き込みたくない」

 

「私もそのような戦いは望みません」

 

 そこは同じだったので、遠坂の提案についても話してみた。セイバーも協力には利があると言ったが、互いに何を約束するのか、はっきりさせるべきだという。

 

 それからイリヤのことを尋ねた。あの夜より前にも会っていたことや、慎二の爺さんがアインツベルンという名前を口にしていたことを話すうち、セイバーの顔つきが変わっていった。

 

「その家について、シロウは何も聞かされていないのですね」

 

「誰に?」

 

 彼女はすぐには答えなかった。事情を知りたいなら教会を訪ねるように言い、俺が渋ると自分もあの神父を好んではいないと続けた。

 

「知ってるのか。昨日は外にいたのに」

 

 セイバーは目を伏せてしばらく黙り、それからこちらへ向き直った。

 

「私は前回もこの戦いに参加しています。その時のマスターが、衛宮切嗣でした」

 

 聞き間違いかと思ったが、セイバーは言い直さなかった。

 

 切嗣がマスターとして、十年前のこの町で戦っていた。

 

 俺を拾ってくれた時、あの人は何を終えてきたのだろう。

 

     *

 

 教会へはセイバーと一緒に行った。休めと言われたばかりなのは分かっている。けれど、切嗣のことを聞かされて、明日まで寝て待つことはできなかった。

 

 歩くたびに腹が痛み、坂では何度も足が遅くなった。そのたびにセイバーも歩調を緩めてくれる。扉の前で、切嗣のサーヴァントだったことは伏せてほしいと頼まれた。俺は頷き、一人で中へ入った。

 

 言峰は昨日と変わらない顔で迎えた。

 

「もう降りる決心がついたのかね」

 

「切嗣のことを聞きに来た」

 

 神父の足が止まる。

 

「なぜ、昨日は教えなかった。あの人もマスターだったんだろ」

 

「おまえが尋ねなかったからだ」

 

 悪びれもせず、そう言った。腹が立ったが、言い合いをしに来たわけではない。

 

「アインツベルンと、何があったんだ」

 

「その名まで聞いたか」

 

 言峰が語ったのは俺の知らない父の姿だった。アインツベルンに迎えられた切嗣は聖杯を得るために戦い、敵を倒すためなら卑劣と呼ばれる手段も選んだ。多くを救うために少数を切り捨てることを、自らに課していたという。

 

「そんなことを、平気でしてたっていうのか」

 

「平気でなければ、人を殺せないと思うかね」

 

 言葉に詰まった。

 

「切嗣は最後まで勝ち残った。そして、手に入るはずだった聖杯を破壊した。彼を送り出した者たちにとっては、裏切りだ」

 

「……どうして」

 

「おまえは父親から、何も聞いていないのだろう」

 

「だから、あんたに聞いてるんだろ」

 

 言峰は答える代わりに、アインツベルンがどれほど長く聖杯を求めてきたかを話した。切嗣が果たさなかった願いのために、今度はあの少女が送り出されたのだと。

 

「おまえに覚えがなくとも、向こうにはある。衛宮の名を持つマスターが現れたなら、無関心ではいられまい」

 

 まだ俺が何も知らなかった夜、坂道で声をかけてきた少女を思い出した。あれは偶然すれ違ったのではなかったのか。

 

「あの子も、切嗣を知ってるんだな」

 

「それは本人に尋ねることだ」

 

 神父はそこで口を閉じた。

 

 教会を出てもうまく頭が働かなかった。思い浮かぶ切嗣はいつも縁側に座っていて、庭を眺めながら俺のくだらない話にも笑っていた。その顔がどうしても言峰の話と結びつかない。

 

 でも、俺が知っているのはあの人が戦いを終えた後だけだった。何を話せばいいのか分からないまま、待っていたセイバーに帰ろうと声をかけた。

 

     *

 

 夕方には藤ねえと桜が来た。セイバーを紹介しようとすると、藤ねえは俺の横を素通りして彼女の顔を覗き込んだ。

 

「あら、可愛い。士郎のお友達?」

 

「切嗣に縁のある人だよ。しばらくうちにいてもらうことになった」

 

「切嗣さんの?」

 

 藤ねえがこちらを向き、もう一度セイバーを見た。

 

「そっか。……あの人、私には何も言ってなかったなあ」

 

 少し困ったように笑った藤ねえはすぐに俺の額を指で小突いた。

 

「で、士郎。そういうことは早く言いなさいよ」

 

「だから今、言ってるだろ」

 

「遅いの。士郎は昔から、決めてから報告するんだから」

 

 それを言うなら藤ねえだって同じだ。いや、今そこを指摘すると話が長くなる。黙っていると、藤ねえはセイバーに向き直り、ここに泊まりたいのかと尋ねた。

 

「はい。私も、こちらに滞在したいと思っています」

 

「そっか。なら、遠慮しないでね」

 

 返事を聞いた藤ねえは笑ったが、俺に向き直ると学校で聞く先生の声に戻った。

 

「それでも、女の子を泊めるなら最初に相談。分かった?」

 

「……分かったよ」

 

「よろしい。じゃあ私もしばらく泊まります。士郎一人じゃ心配だもの」

 

「それは相談しないのか」

 

「お姉ちゃんですから」

 

 胸を張られた。相談しろと言った本人だけ例外とは、便利なお姉ちゃんもいたものだ。隣では桜が笑いをこらえながら、客間の布団を出してきますねと言って立ち上がった。

 

「待って、桜。俺が出すから」

 

「先輩は座っていてください。顔色、まだよくないですから」

 

「でも、夕飯ぐらいは」

 

「今日は駄目です。よくなってから、お願いします」

 

 きっぱり止められて腰を下ろした。藤ねえまで桜について行ってしまい、俺とセイバーは並んで居間に残された。

 

「……うち、いつもこんなだから」

 

「賑やかですね」

 

 言っているそばから、廊下で藤ねえの声がした。

 

「士郎ー、客用の枕ってどれ? この硬いの?」

 

「それ。足りなかったら俺の部屋にもあるぞ」

 

「じゃあ私はそっち。あれ、首が痛くなるんだもん」

 

 客用の心配をしているのかと思ったら、自分の分を選んでいたらしい。セイバーが何か言いかけたので、気にしなくていいと手を振った。

 

 桜から鍋の火を見ていてほしいと頼まれ、二人で台所へ向かった。蓋を少しずらすと味噌の匂いが広がる。廊下ではまだ藤ねえが騒いでいて、桜が笑いながら何か答えていた。

 

 切嗣がいた頃にも、こんな夕方があった。あの人なら縁側で笑うばかりで、藤ねえに枕を返せとは言ってくれなかっただろう。そう思うと少しおかしくなり、昼間の話がまた遠く感じられた。

 

     *

 

 翌朝には普通に歩けるようになっていた。セイバーには休んでもらうことにして、俺は学校へ行った。出かける前には、危険を感じたらその場を離れ、帰りも遅くならないようにと念を押された。

 

 昼休み、遠坂を呼び止めた。人の来ない階段まで移り、昨日の話の続きをする。

 

「まず、俺たち同士で戦うのはやめたい。分かったことも伝え合いたい。それと、誰かが学校や町の人を巻き込むなら、止めるのを手伝ってほしい」

 

「貴方も手伝うんでしょうね」

 

「もちろんだ」

 

 遠坂は少し考えて頷いた。

 

「当面はそれでいいわ。ただし、バーサーカーが来た時まで手加減しろとは言わないで」

 

「……分かってる」

 

「どうも、そこが怪しいのよね」

 

 疑わしそうな顔のまま差し出された右手を握り返した。

 

「それじゃ、よろしく。衛宮くん」

 

 短い握手を交わすと、昨日より少し先のことを考えられそうな気がした。少なくとも、その時はそう思えた。

 

     *

 

 放課後は商店街で夕飯の材料を買った。昨日は桜に任せきりだったから、今日は俺が作ろうと朝のうちに決めていたのだ。

 

 じゃがいもと玉ねぎに肉、それから牛乳。食べる人数が一人増えただけなのに、袋はずいぶん重い。いや、足りないと困るからと、肉を多めに買ったのは俺だ。持ち手を握り直したところで、誰かに上着の裾を引かれた。

 

「お兄ちゃん」

 

 振り向くと、すぐそこに銀色の髪があった。

 

「――っ!」

 

 とっさに後ずさると袋が大きく揺れ、少女がそれを指さした。

 

「傾いてるよ。落ちちゃう」

 

 転がり出そうな玉ねぎを反射的に押し戻し、もう一度相手を見た。白い帽子に冬のコートという格好はあの夜と同じなのに、昼の光に透ける髪はずっと柔らかそうだった。少なくとも、見えるところにあの巨人の姿はない。

 

「ちゃんと歩けるんだ。よかった」

 

 ほっとしたように笑われて、すぐには言葉の意味を呑み込めなかった。あの夜、俺を斬らせたのはこの子だ。その子が今は、俺が生きていたことを喜んでいるように見える。

 

「……イリヤ?」

 

 笑顔が止まった。

 

 赤い瞳がまっすぐに俺を見た。少し開いた唇は何も言わないまま閉じた。その顔が急に心細そうに見えて、俺まで慌ててしまう。

 

「あ、悪い。イリヤスフィールだったな。勝手に短く呼んで」

 

 答えがない。まだ間違えているのかと、頭の中でもう一度長い名前を確かめた。

 

「……お兄ちゃんは?」

 

「え?」

 

「名前。わたしは教えたのに、お兄ちゃんはまだでしょう?」

 

 そういえば名乗っていなかった。あの夜はそんな余裕もなかったのだ。

 

「士郎。衛宮士郎だ」

 

「シロウ」

 

 少女は確かめるようにその名前を繰り返し、少し首を傾けた。

 

「シロウ……うん、呼びやすいね。気に入ったから、それにする」

 

「それにするって、俺の名前なんだけど」

 

「わたしはイリヤでいいよ。さっきみたいに呼んでね、シロウ!」

 

 言い終えるより早く腕に抱きつかれ、買い物袋が跳ねた。慌てて腕を上げても、イリヤはしがみついたまま離れない。

 

「わ、待て! 袋、落とす!」

 

「あはは。シロウったら、さっきからそればっかり」

 

「抱きついてくるからだろ!」

 

 腕を引くと、むしろ面白がってますますくっついてくる。通りかかった人に見られて、ようやく商店街の真ん中にいることを思い出した。

 

「離れろって。とにかく、一回」

 

「……なによ」

 

 どうにか腕を抜くと、イリヤはあからさまに不満そうな顔をした。こちらが悪いことをしたみたいではないか。

 

「何しに来たんだ。こんなところで戦うつもりか?」

 

「戦いたいの?」

 

 声は大きくならなかった。けれど、見上げてくる目はもう笑っていない。俺は腕を動かせなくなった。

 

「いいよ。シロウがそうしたいなら、ここで殺してあげる」

 

 脇を自転車が通り過ぎ、店先からは呼び込みの声がしていた。周りは何も変わっていないのに腹の奥がひやりとする。この子は本気で言っている。

 

「そんなこと頼んでない! 俺だって死ぬのはご免だし、ここには人がいるだろ」

 

「じゃあ、変なこと言わないで。今日はお話しに来たのに」

 

 イリヤはつまらなそうに唇を尖らせた。もうさっきの目ではなかった。

 

「……話?」

 

「そう。セラに見つからないように、わざわざ出てきてあげたんだから。シロウも、もう少し喜んだら?」

 

「セラって誰だ」

 

「うちにいる人。すぐあれこれ言うの。今はいいでしょう、そんなこと」

 

 ああもう、とイリヤは小さく足を踏み鳴らした。

 

「わたしとお話しするのは、嫌なの?」

 

 俺が答えに迷っていると、イリヤの顔が曇った。

 

「……嫌なら、帰るよ。だって、嫌われたくないもの」

 

 俺から目をそらしたきり、もう上着の裾にも触れてこない。さっきまであれだけ強引だったのに、返事を待つ間はやけにおとなしかった。

 

 セイバーがいたら止めるだろう。遠坂にも何を考えているのかと怒られるに違いない。けれど、この子とは俺も話したかった。切嗣のこともあの夜のことも、まだ何も分かっていない。それに今の顔を見ていると、追い返す気にはなれなかった。

 

「嫌だとは言ってない。俺も、イリヤとは話したかったんだ」

 

「ほんと?」

 

 ぱっと顔を上げたイリヤは俺が頷くともう笑っていた。

 

「じゃあ、あっち! 公園があったの。早く行こう、シロウ!」

 

「待てって。袋を持ち替えるから」

 

 今にも走り出しそうなイリヤを止め、荷物を左手にまとめた。彼女が片方の袋へ手を伸ばしたので、触れる前に持ち上げた。

 

「重いから、これは俺が持つ」

 

「じゃあ、こっちをもらうね」

 

 空いた右手を捕まえられた。

 

「それ、荷物じゃないぞ」

 

「うん。こっちがいい」

 

 イリヤはそのまま俺の手を引いて歩き出し、振り返った。

 

「ほら、シロウ!」

 

 名前を呼ぶのがずいぶん楽しそうで、つられて俺も足を速めた。

 

     *

 

 商店街から少し入ったところに小さな公園があった。遊具にも砂場にも人はいない。イリヤは日の当たるベンチを見つけると、俺の手を離して駆けていった。

 

「ここにしよう。シロウはこっちね」

 

 隣の座面を叩いて呼ばれ、買い物袋を足元に置いて座った。何か言うのかと待ってみても、イリヤはこちらを見てにこにこしているだけだった。

 

「……それで、何の話だ?」

 

「なにが?」

 

「俺に話があるんだろ。何か聞きたかったんじゃないのか」

 

「別に。シロウとお話ししたかっただけよ」

 

 早くも言葉に詰まった。俺と話したかった、というところまでは分かる。で、その先はどうするんだ。

 

「用がないのに、俺を探してたのか?」

 

「……駄目なの?」

 

 イリヤの笑顔が消えた。

 

「用がないと、来ちゃいけない?」

 

「いや、そういう意味じゃない。悪い、言い方が変だった」

 

 しまった。話したくて来た相手に、何をしに来たんだと聞いてどうする。これじゃ、来るなと言ったみたいじゃないか。

 

「ただ、まだお互いのことを知らないだろ。いきなり変なことを聞くのもどうかと思って」

 

「……じゃあ、わたしから聞いてもいい?」

 

「ああ。答えられることなら」

 

「シロウは、わたしのこと好き?」

 

 息が詰まった。

 

「な、なんだよ、いきなり!」

 

「聞いていいって言ったくせに」

 

「そういう質問だとは思わないだろ! だいたい、一昨日斬られたばっかりなんだぞ。それで好きかって聞かれても――」

 

「あれは、シロウが飛び出してくるからじゃない!」

 

 イリヤも声を上げた。

 

「わたしはセイバーと戦ってたのに。シロウなんか、バーサーカーにかなうわけないでしょう!」

 

「だからって、あのまま見てられるか。目の前で斬られそうだったんだぞ」

 

「そんなの、知らない!」

 

 ぷいと横を向いたイリヤはコートの端を握り、言いたいことを呑み込むように唇を噛んだ。

 

「……止めたの、わたしなのに」

 

 その小さな声で、俺も言葉を止めた。それで全部済むわけじゃない。けれど、話をしようとついてきたのは俺だ。好きかと聞かれて、いきなり斬られた話を持ち出してどうする。嫌いだと言ったも同然じゃないか。

 

 そんなことを言いに来たわけじゃなかった。

 

「イリヤ」

 

 返事がないので、横を向いたままの顔に話しかけた。

 

「嫌いって言いたかったんじゃないんだ。まだ知らないことばっかりだけど、今みたいに話せるなら、仲良くなりたいとは思ってる」

 

 イリヤがゆっくり振り向いた。黙って見つめられると、言った俺の方まで落ち着かなくなる。

 

「……本当だぞ。そうじゃなきゃ、ここまで来ないって」

 

「ほんとう?」

 

「ああ。だから、その――」

 

 続きを言う前に、イリヤが腕へ飛びついてきた。

 

「わっ!」

 

「じゃあ、いい! シロウがそう言うなら、許してあげる!」

 

 嬉しそうに肩までくっつかれて、こちらはベンチから落ちそうになった。空いた手を背もたれについて、どうにか体を支えた。

 

「だから、急に来るなって」

 

「今度は袋、持ってないでしょう?」

 

「そういう問題じゃない!」

 

 言い返してもイリヤは満足そうにしていた。俺が座り直すと、その分だけ詰めてきて結局また肩がくっついた。

 

「……そんなに寄らなくても、逃げないぞ」

 

「うん。じゃあ、このままでいいね」

 

 話が逆だと思うのだが、もう言い返す気もなくなった。隣で機嫌よく揺れている白い帽子を見て、こっちも背もたれに体を預ける。

 

     *

 

「何か飲むか」

 

 公園の入口にある自動販売機を指さして尋ねると、イリヤもそちらへ目を向けた。

 

「飲む! 甘くて温かいのがいい」

 

 立ち上がるとイリヤもついてきたが、販売機の前に着いても腕を離してくれなかった。

 

「小銭を出すから、ちょっと離してくれ」

 

「こっちの手があるじゃない」

 

「財布がこっちのポケットなんだよ」

 

「もう。先に出しておけばよかったのに」

 

 そんな無茶を言ってから、ようやく腕を離してくれた。ココアの缶を渡すと、イリヤは両手で包み、頬を寄せかけたがすぐに離した。

 

「あつい」

 

「出てきたばっかりだからな。少し冷ましてから飲めよ」

 

「知ってるわ。確かめただけ」

 

 イリヤは缶を持つ指の位置を少しずつずらしながらベンチに戻り、座ると缶を膝に置いて飲み口を開けた。今度は慎重に一口飲んで、ほっと息をつく。

 

「……うん」

 

 気に入ったらしい。温かい缶を両手で包み直し、もう一口だけ飲んだ。

 

「そういうの、好きか」

 

「好き。シロウのは?」

 

「お茶」

 

「それは見れば分かるわ。好きで選んだのかって聞いてるの」

 

「ああ。甘いのも嫌いじゃないけど」

 

 イリヤは俺の缶をもう一度眺め、何やら納得したように頷いた。

 

「お兄ちゃんは、お茶が好きなんだね」

 

 ただお茶を選んだだけなのに、そんなふうに覚えられると妙に照れくさかった。イリヤは俺がお茶を飲むのを見届けると、今度は足元の袋を覗き込んだ。

 

「これは、全部シロウが買ったの?」

 

「そうだよ」

 

「いっぱいあるのね。帰ったら、みんなで食べるの?」

 

「そのままは食わないぞ。作るんだ。今夜は肉じゃが」

 

「シロウが?」

 

「ほかにも作ってくれるやつはいるけど、今日は俺の番」

 

 イリヤは袋と俺を見比べた。

 

「ふうん。じゃあ、ちゃんとおいしく出来るのね」

 

「なんで確認するんだ」

 

「だって、材料をこんなに買って、失敗したら大変でしょう?」

 

「肉じゃがぐらい、失敗しないって」

 

「言ったわね」

 

 にっこり笑われた。今の返事はしっかり覚えておくつもりらしい。

 

「料理が得意なの?」

 

「得意っていうか、毎日やってるからな。食べなきゃしょうがないし」

 

「毎日? 学校にも行って、これも買って?」

 

「それはどこの家でもやってるだろ」

 

「シロウの話をしてるの」

 

 缶の向こうから少し睨まれて、俺の一日のことを聞きたいのだと気づいた。

 

「だいたいはな。朝は桜が来て手伝ってくれる」

 

「サクラ?」

 

「学校の後輩。料理を教えてたんだけど、今じゃ俺が教わることもある」

 

「へえ。それで、お兄ちゃんの先生は?」

 

「先生?」

 

「シロウに教えた人。最初から上手だったわけじゃないでしょう」

 

「最初は本を見たり、店の人に聞いたりだな。失敗もした」

 

「やっぱり」

 

 楽しそうに言うので、昔の話だぞと付け加えた。

 

「ご飯を焦がしたり、煮すぎたり。あと、砂糖と塩を間違えたことがある」

 

 イリヤが目を丸くした。

 

「食べたの?」

 

「味見で気づいたから、全部は」

 

「その時、どんな顔した?」

 

「そんなことまで覚えてないよ」

 

「きっと、こう」

 

 イリヤは眉を寄せて唇をきゅっと結び、何かに耐えるような顔を作ったかと思うと、ぷっと吹き出した。

 

「……似てないぞ」

 

「見てないんだから、シロウにも分からないじゃない」

 

 言われてみればそうなのだが、納得するのも悔しかった。俺が返事に詰まるとイリヤは声を立てて笑い始め、揺れる肩につられて缶まで傾いた。

 

「こぼれるって」

 

 缶に手を添えると、イリヤは笑いながら両手で持ち直した。

 

「もう、面白いこと言わないで」

 

「言ってない。全部そっちがやったんだろ」

 

 それがまたおかしかったらしく、イリヤはなかなか笑いやまなかった。あまりに楽しそうなのでこっちまで笑ってしまい、結局ほかの料理の失敗も話すことになった。

 

 普段はどんなものを作るのか、学校には毎日行くのか。イリヤは次々に聞いてきた。答えるたびに別のことが気になるらしく、話はあちこちへ飛んでいった。

 

「じゃあ、今日の学校は何があったの?」

 

「授業があって、昼飯を食って……ああ、一成に呼ばれたな」

 

「イッセイって?」

 

「友達。生徒会の仕事をしてるんだ」

 

「呼ばれて、どうしたの?」

 

「棚の扉が外れかけててさ。蝶番のネジを締め直してきた」

 

 イリヤがぱちぱちと瞬きした。

 

「それは学校のお仕事?」

 

「いや。放っとくと危ないし、俺がやった方が早かったから」

 

「……シロウって、学校に何をしに行ってるの?」

 

「勉強だよ」

 

「本当に?」

 

 ここで疑われるとは思わなかった。仕方なく今日の授業についても話してみたが、黒板に書かれた式を思い出して説明するうちに、イリヤの相槌はだんだん減っていった。

 

「それ、難しかった?」

 

「普通。得意な方じゃないけど」

 

「じゃあ、棚のお話の方がいい」

 

「勉強の話をしろって言ったのはイリヤだろ」

 

「シロウが何をしてるかって聞いたの。どんなお勉強かじゃないわ」

 

 それは難しい注文だ。考え込んでいると、イリヤはココアを飲みながら楽しそうに俺を眺めていた。

 

「じゃあ、イリヤは普段、何をしてるんだ?」

 

「なあに。今度はわたしに仕返し?」

 

「俺ばっかり話してるだろ。そっちの話も聞かせてくれよ」

 

「いいけど。シロウみたいな失敗はしないわよ」

 

 イリヤは少し考えてから、空いた手の指を折り始めた。

 

「本を読んだり、お散歩したり。セラに捕まらないようにしたり」

 

「最後のは日課なのか」

 

「だって、すぐ見つけるんだもの。どこへ行くんですか、お一人では困ります、帰る時間をおっしゃってください、って」

 

 背筋を伸ばして低い声を作るので、俺も思わず姿勢を正してしまった。イリヤはそれを見てくすくす笑う。

 

「似てる?」

 

「知らない人だぞ」

 

「それでも、どんな人か分かるでしょう?」

 

「……心配してるんじゃないか。その人も」

 

 イリヤが横目でこちらを睨んだ。

 

「シロウ、会ったこともない人の味方をするの?」

 

「味方っていうか、黙って出てきたら、そりゃ探すだろ」

 

「じゃあ、シロウも探す?」

 

「俺の知ってるところから急にいなくなったらな」

 

 イリヤは俺を見つめたまま少し黙り、それから体を寄せて声をひそめた。

 

「……じゃあ、見つけてもセラに言っちゃ駄目よ」

 

「なんで俺まで隠すんだ。帰ってやれよ、心配してるなら」

 

「またセラの味方する! シロウは、わたしとお話ししてるんでしょう!」

 

「分かった、分かった。帰る時間は自分で決めるんだな」

 

「そうよ。ちゃんと分かってるんだから」

 

 イリヤが顎を上げた。その隙に公園の時計へ目をやると、すぐに袖を引かれた。

 

「なに? もう帰るの?」

 

「いや。何時かと思って」

 

「だったら、まだいいでしょう。もう少しお話をしようよ」

 

「何の話だ? 料理の失敗なら、もう十分話したぞ」

 

「じゃあ、うまくできた時の話。みんな、なんて言ったの?」

 

 真っ先に浮かんだのは藤ねえの顔だった。うまくいった料理はたいてい、おかわりの要求と一緒に覚えている。

 

「藤ねえなら、次はもっとたくさん作れって」

 

「それだけ?」

 

「いや。うまいとは言うんだけど、おかわりが来るまで箸を持って待ってるからな」

 

 イリヤが吹き出した。そのまま続きを待っているので、俺も時計から目を戻す。夕飯の支度にはまだ間に合うし、話せることはもう少しありそうだった。

 

     *

 

 風に吹かれた葉が砂場の端を転がっていった。いつの間にか日向の位置も変わり、ベンチの前にあった影が靴の先まで伸びていた。

 

 イリヤは藤ねえの話を気に入った。朝は起こしに来たはずなのに居間で寝てしまうとか、肉の大きさを比べる時だけ目がいいとか。そんな話をするたびに続きをせがまれた。

 

「その人、先生なのよね?」

 

「学校じゃ、ちゃんとやってる。……たぶん」

 

「たぶんなんだ」

 

「家にいる時は、少し違うんだよ」

 

「シロウも?」

 

「俺?」

 

「学校と、おうちと。違う顔してる?」

 

 言われて考えてみたが、自分ではよく分からなかった。

 

「そんなに変わらないと思うけど」

 

「じゃあ、今もいつもどおりなの?」

 

 確かめるように顔を覗き込まれ、近さに驚いてつい後ろへ引いた。

 

「あ、また逃げた」

 

「近いんだよ。普通にしてれば聞こえるだろ」

 

「さっきは、もっとくっついてたのに」

 

「あれはそっちが勝手に――」

 

 言いかけた俺を見て楽しそうに笑っている。わざと近づいてきたらしい。

 

「シロウって、すぐ分かるんだね」

 

「イリヤだって分かりやすいぞ」

 

「わたしが?」

 

「笑ったり怒ったり、忙しいじゃないか」

 

 イリヤは口を開けたまま俺を見返し、急に背筋を伸ばして澄ました顔を作った。

 

「そんなことありません。シロウが勝手に困ってるだけです」

 

 さっきまでとの違いがおかしくて笑うと、澄ました顔はすぐに崩れた。

 

「もう、なによ。笑わないで!」

 

「悪い。今のがちょっと、面白かった」

 

「面白くないもん!」

 

 抗議する顔を見て、また笑ってしまった。悪かったと謝っている間にイリヤもつられて笑いだす。やがて頬にかかった髪を払い、今度は自分から次の話を持ち出した。夜道で会った時には、こんなに忙しく表情の変わる子だとは思わなかった。

 

 話は買い物袋の中身から学校へ続く坂の長さに移り、いつの間にか、寒い朝に布団から出るのはどちらが得意かという話になっていた。

 

「わたしは、起こされる前に起きてるわ」

 

「それは偉いな」

 

「出るかどうかは、別だけど」

 

「起きてないのと一緒じゃないか」

 

「違うもの。ちゃんとおはようって言うもの」

 

 起こしに来たセラが困るところを想像して、また笑ってしまった。イリヤは俺の笑いが収まるのを待って、得意そうに胸を張った。

 

「ね。用事なんかなくても、話せるでしょう」

 

「……ああ。そうだな」

 

 最初に用事を尋ねたのが悪かった。何を話せばいいのか迷っていたのが、ずいぶん前のことに思える。二人の缶はとっくに空になっていたが、イリヤはまだ缶を膝に置き、両手の間でゆっくり回していた。

 

 あの家では、この子にもこんな話をする相手がいるのだろうか。そう考えた途端、教会で聞いた言葉が戻ってきた。

 

 聖杯を求めて長い間待ち続けた家から、この子は来た。その家を裏切ったという俺の父親について、まだ何も聞けていない。

 

 さっきまでは尋ねるのを忘れていた。今は口にすればこの時間が変わってしまう気がする。それでも知らないままにはしておけなかった。

 

「イリヤ」

 

「ん?」

 

 すぐに顔を上げてくれた。名前を呼ぶだけでこちらを見て、俺の話を待っている。そのことを今さら意識して、言葉が少し出しづらくなった。

 

「切嗣って、知ってるか。衛宮切嗣」

 

 缶を回していた指が止まった。

 

 イリヤは俺を見たまま動かなかった。何かを思い出そうとする様子も、聞き返す気配もない。返事を待つ時間が、それまでとは違って長く感じられた。

 

「知らない」

 

 短い声だった。

 

「そんな人、知らないわ」

 

 ベンチから降りたイリヤはコートの裾を払った。その手つきはさっきと変わらず、俺が何か言う前に顔を上げた。

 

「もう帰るね。夜になる前に戻らないと、バーサーカーも待ってるし」

 

 低くなった日を見て俺も立ち上がり、空き缶を捨てて買い物袋を持った。数歩先ではイリヤが帽子を直している。何か声をかけなくてはいけないと思ったが、切嗣についてもう一度尋ねることはできなかった。

 

「また、会えるか」

 

 イリヤが振り向く。

 

「……わたしと?」

 

「ほかに誰がいるんだよ」

 

 イリヤは少し黙っていたが、今度はちゃんと俺の顔を見た。

 

「そんなに、また会いたい?」

 

「ああ。会いたいから聞いたんだ」

 

 イリヤは目を見開き、帽子の縁を引っ張った。口元が少しほころんで、それを隠すように顔をそらす。

 

「……ふうん。じゃあ、明日も気が向いたら来てあげる。シロウはちゃんと見つけてね」

 

「ああ」

 

 返事を聞くとイリヤは頷き、公園の出口へ歩き出した。もう一度切嗣のことを聞く機会はあるだろうか。俺は袋を持ち直しながら、その小さな背中を見送った。

 

 その背中が止まった。

 

「シロウ」

 

 さっきと同じ呼び方だった。俺は顔を上げた。

 

「キリツグは、知ってるよ。知らないって言ったの、嘘」

 

「イリヤ……?」

 

 半分だけ振り返った少女が帽子の下から赤い目をこちらへ向けた。

 

「聖杯を手に入れるのは、わたしのお仕事。でも、それだけじゃないの」

 

 言葉が途切れた時、コートの袖からのぞく手が目に入った。さっきまで俺の袖をつまみ、帰るなと引き止めていた手だった。

 

「わたしは、キリツグもシロウも殺してやりたいの」

 

 風の音がした。

 

 イリヤは言葉が届いたことを確かめるように、しばらくこちらを見ていた。何も返せないまま背を向けられた。呼び止めたかったが、知らなかったことが多すぎて何から聞けばいいのか分からなかった。

 

 白い帽子が公園の出口へ遠ざかっていく。俺がまた会いたいと言った時も、あの子は今の言葉を胸の中に持っていたのだろうか。

 

 買い物袋の持ち手が指に食い込んでいた。握り直しても、指の付け根に痛みが残る。俺を殺してやりたいと言った声が、まだ耳に残っていた。

 

 それなのに、明日も会えるかと尋ねたことは取り消したくなかった。

 

 公園の出口で銀色の髪が一度だけ光り、俺はその姿が見えなくなるまで立っていた。

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