Fate/stay night IF BEYOND THE EVER   作:Мир

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第十六話 問いにない答え

 灯りを近づけると、桜の額に浮いた汗が見えた。イリヤの指が、桜の手首へ添えられている。俺は受け取った布を持ったまま、その指と桜の顔を交互に見ていた。

 

「シロウ。そっちの布、折って」

 

 言われて、ようやく手を動かした。畳んだ布を渡すと、イリヤは桜の首元へ当てた。擦らず、浮いた汗だけを吸わせる。

 

「桜。聞こえるか」

 

 目は開かなかった。唇が動き、短い息が漏れた。イリヤが、俺の手を軽く押さえた。

 

「今は、そのまま。何度も起きようとしなくていいわ」

 

 桜へ言ってから、イリヤは手の位置を変えた。桜の指先に触れたところから、かすかな光が動く。

 

「痛いのを、少し抑えるわね」

 

 桜の指が、毛布をつかんだ。俺も息を止めた。だが、しばらくして、桜の手から力が抜けた。詰まりかけていた息を長く吐き、桜は次の息を吸った。イリヤは手を離さなかった。

 

 向こうでは、遠坂がライダーの腕に巻かれた布を外していた。セラが新しい布を受け渡す。血の染みたものが器へ落ちるたび、俺はそちらへ顔を向けそうになった。

 

「左の腕は、まだ動かさないで。脇腹も見せて」

「私は――」

「桜なら、イリヤが見てる。あなたがまた倒れたら、その横にもいられなくなるわ」

 

 ライダーは口を閉じた。桜の方へ向いていた顔を、ようやく遠坂へ戻す。セラが衝立を運んできた。ライダーの身体を覆う布を整え、傷の手当てが出来るようにする。遠坂の声が低くなり、短い言葉が続いた。

 

 俺は桜の方を見た。何があったのか。どうしてライダーが生きていて、桜のことをマスターと呼んだのか。訊きたいことを考えている間にも、桜の息は一回ずつ続いていた。それを邪魔しないように布を替えることだけが、今、俺に出来ることだった。

 

 *

 

 セイバーが戸口へ戻ってきた。

 

「周囲に、近づいてくる気配はありません。アーチャーが外を見ています」

 

 そう言って、セイバーは俺の手元を見た。使った布の入った器を持ち上げ、代わりに空の器を置いてくれた。

 

「こちらを」

「ありがとう」

 

 イリヤが、桜から少しだけ手を離した。さっきまで速かった呼吸が、少しゆっくりになっていた。熱はある。顔をしかめる時もある。それでも、息を吸おうとして身体ごと強張る様子は、ひとまず収まっていた。

 

「眠れそう?」

 

 イリヤが訊いた。桜の目が、薄く開いた。

 

「……ここ」

「道場だよ。部屋の方は、今、使えないから」

 

 俺が答えると、桜の目がこちらへ動いた。焦点が合うまでに、少し時間がかかった。

 

「先輩」

「うん」

 

 その後の声は、聞き取れなかった。イリヤが、起きなくていいと伝える。桜は俺の顔を見たまま、また目を閉じた。

 

 膝の上に置いていた手を開くと、掌には爪の跡が残っていた。そんなに強く握りしめていたことにも、気づかなかった。

 

 遠坂が衝立の向こうから出てきた。指先を布で拭い、桜の様子を見る。それから、イリヤと短く言葉を交わした。

 

「さっきより、呼吸は落ち着いたわ。熱は、まだある」

「ライダーの出血も、ひとまず抑えたわ。傷は本人の魔力で塞がり始めていたから、わたしはその手助けをしたの。けど、今は無理に動かさない方がいい」

 

 ライダーは壁へ背を預けていた。左腕は動かさず、右手だけを膝へ置いている。巻き直された布に、すぐ新しい血が滲むことはなかった。その横へ腰を下ろしたリズを、イリヤが呼んだ。

 

「リズ。あなた、その手」

 

 リズの手は、指先から袖口まで赤く汚れていた。

 

「わたしのじゃない」

 

 リズは掌を開いた。セラも、自分たち二人に怪我はないと答えた。イリヤは二人を順に見た。それから立ち、リズの手を自分で確かめた。

 

「……セラも、こっちへ来て」

「お嬢様。私どもは」

「いいから」

 

 近づいたセラの袖をつかみ、イリヤはしばらく二人の間に立っていた。何か言いかけた口を閉じ、代わりに袖を握る指へ力を込める。

 

「ちゃんと、外へ出てくれたのね」

「はい」

 

 セラが答えた。

 

「お申しつけのとおりに」

 

 イリヤは頷いた。リズが空いている手で、その背中へ少しだけ触れる。やがて、イリヤは桜の横へ戻った。セラも何事もなかったように器を取り上げたが、戸口へ向く前に、一度だけ主人の姿を振り返った。

 

 *

 

「話せるかしら」

 

 遠坂がライダーへ尋ねた。

 

「ええ」

 

 返事は、先ほどよりはっきりしていた。セイバーが戸の近くへ座る。アーチャーも外側に立ち、開けた戸越しにこちらを見ていた。

 

「桜が、あなたを召喚したのね」

「はい。シンジではありません」

 

 俺は、学校の廊下と慎二の持っていた本を思い出した。あいつの命令に従って動いたライダー。セイバーの攻撃と、その後に消えたライダーの姿。

 

「けど、慎二は、ライダーのマスターだって」

「あの本を通して、私に指示を出していました。ですが、私との契約は、初めからサクラにあります」

 

 遠坂が、低く言った。

 

「偽臣の書」

 

 ライダーは頷いた。

 

「サーヴァントへ命令する権限を、別の人間へ預けるためのものよ。慎二自身が召喚して、契約を結んだということではなかったのね」

 

 遠坂の説明を聞いても、すぐには桜の姿と結びつかなかった。家へ来て、食事を作っていた。学校で倒れた後も、まだ俺の手伝いをしようとしていた。その桜が、自分のサーヴァントを持っていた。俺が知らなかっただけで、同じ戦争の中にいた。

 

「学校で、消えたのは」

 

 俺が訊くと、ライダーはセイバーへ顔を向けた。

 

「あなたの攻撃が来た時、サクラに呼び戻されました。私は、戦闘を続けずに離れた」

 

 セイバーは少し目を伏せた。

 

「……あの時の消失は、そういうことだったのですね」

 

「桜は、ライダーを助けようとしたのか」

「はい」

 

 ライダーの返事には、ためらいがなかった。俺は、毛布の上に出ている桜の手を見た。あの時、自分も必死に動いていた。けれど、桜が何をしていたかを、俺は見ていなかった。

 

「それから、ずっと桜のそばに?」

「離れずに、というわけではありません。ですが、サクラがこちらへ来てからも、身を隠して護衛していました」

 

 セラが、器を持つ手を止めた。

 

「私どもにも、お姿を見せずに」

「サクラの望みでした。自分がマスターだと、知られたくないと」

 

 ライダーは俺たちの方を向いていた。桜が守られていたことに、ほっとした。だが、ライダーが姿を隠し、桜も自分のことを隠さなければならなかったのだと思うと、素直には安心出来なかった。

 

「学校でのことは、また聞くわ」

 

 遠坂が言った。

 

「誰が何を命じたのかも。今は、今夜のことから」

 

 ライダーは頷いた。俺も、膝の上へ手を戻した。いなくなったと思っていた相手が生きていても、学校で倒れた人たちのことまで、なかったことになるわけではなかった。

 

 *

 

 金髪の男は、庭から来たという。戸を壊した最初の一撃は、眠っていた桜へ向けられていた。ライダーが前へ出て、その後も庇いながら戦った。

 

「男の後ろに光が開き、そこから剣が出てきました。一つを避けても、後ろにサクラがいる。逃げる間を作る前に、こちらの通り道も壊された」

 

 ライダーは、自分の左腕へ触れなかった。どうやって傷を負ったのかは、その話だけで分かった。

 

「城に来た奴だ」

 

 言うと、セイバーも頷いた。

 

「セラたちが見た姿も、攻撃の仕方も一致しています」

 

 バーサーカーを倒した男が、この家へ来た。昼にイリヤと座っていた縁側へ上がり、桜の寝ていた部屋へ武器を向けた。俺は戸口を見た。そこから先に、いつもの庭がある。今も屋根があり、廊下がある。ここなら桜が休めると、俺は思っていた。出る前に確かめた顔も、声も、その時はまだ穏やかだった。

 

「さっき、黒いものがあいつを包んだって……」

「黒いものに、飲まれました」

 

 ライダーの言葉に、俺は息を止めた。

 

「……飲まれた?」

「床へ広がってきました。影のように見えましたが、明かりの向きとは合わない。私の足元にも来たので、サクラを抱えて離れました」

 

 右腕の奥が、冷たくなる気がした。俺は手を開いた。指は、ちゃんと動いた。

 

「男は、追ってきたのね」

 

 遠坂が訊いた。

 

「サクラへ剣を向けていました。ですが、足元を覆われた。逃れようとしていましたが、黒いものが立ち上がり、そのまま」

 

 ライダーは言葉を切った。

 

「男の姿が、見えなくなりました。私は、それ以上そこには留まっていません」

 

「あなたが倒したわけではないのね」

「違います。あれからは、私も逃げた」

 

 静かな声だった。傷ついたその腕で、桜を抱えていたのだという。俺はライダーの左側に巻かれた布を見た。

 

「桜を連れ出してくれて、ありがとう」

 

 ライダーの顔が、こちらへ向いた。

 

「私は、サクラを死なせたくありません」

 

 それだけ言って、また桜を見る。俺は頷いた。

 

 セラとリズも、廊下まで黒いものが来たことは見ていた。だが、男の姿が消えるところまでは確かめていないという。二人は先に出口を開け、ライダーと桜が来るのを待っていた。

 

 アーチャーが、庭の方を見た。

 

「家の中には、異常な魔力の痕跡が残っている。今の話と合わせて、昨夜のものを疑う理由はある」

 

「どうして、ここへ」

 

 俺は尋ねた。誰も、すぐには答えなかった。遠坂がライダーへ向き直る。

 

「どこから出てきたか、分かる?」

「気づいた時には、床を覆っていました。どの場所から始まったのかまでは」

「桜は、その間、何を?」

 

 ライダーの顔が、横たわる桜へ向いた。

 

「眠っていました。呼んでも、はっきりとは目を覚まさなかった。言葉が漏れることはありましたが、私へ指示を出したことはありません」

 

 俺も桜を見た。黒いものが、この家に出た。桜を狙った男が、それに飲まれた。それが何を意味するのか考えかけて、目の前で熱に苦しむ桜の顔へ目を戻した。

 

「熱が強くなったのは、その後?」

「抱えて外へ出た頃には、身体が熱くなっていました。その前から、眠りは深かった」

 

 イリヤが、桜の手首に触れたまま顔を上げた。

 

「ここへ来る前は。間桐の家にいた時も、こうなることがあったの?」

 

 ライダーは、すぐには答えなかった。今までの沈黙とは、少し違った。次の言葉を出す前に、桜の顔を確かめている。

 

「苦しむことは、ありました。ただ、今夜と同じなのかは、私には分かりません」

 

「何をされていたか、知っている範囲で教えて」

 

 イリヤは言った。

 

「今の身体を診るのに、必要なの」

 

 *

 

「サクラの身体には、蟲が入れられています」

 

 ライダーは言った。言葉を、意味のあるものとして受け取るまでに時間がかかった。

 

「……蟲?」

「間桐の魔術のためです。臓硯が、彼女の身体に処置を加えている」

 

 遠坂の手が止まった。

 

「間桐、臓硯が」

 

 確かめるように、名を口にした。俺は二人の顔を見た。桜の家のことは知っている。門の場所も、慎二の部屋も。けれど、その名前と今聞いた話を結びつけることが出来なかった。

 

「桜の、祖父だよな」

 

 遠坂が頷いた。声は、すぐには出なかった。

 

「ええ。間桐の魔術師よ」

 

 イリヤも、その名は知っていると言った。だが、ライダーの話を聞く目は、初めて聞く事柄を一つずつ確かめる時のものだった。

 

「その処置を、あなたも見た?」

「私が見たのは、処置の後に苦しむ姿です。臓硯がそれを命じることも聞いています。蟲のことは、サクラ自身からも聞いている」

 

「いつから」

 

 遠坂が訊いた。

 

「私が召喚された時には、すでに。始まった時期や、入れられたものの全ては、知りません」

 

 遠坂は何も言わなかった。指先で、布の端を折っていた。一度折ったところを開き、同じ場所を折り直す。その動きが止まるまで、誰も声をかけなかった。

 

 俺は、桜の手を見た。ここへ来てからも、何度となく触れている。荷物を受け取り、茶碗を渡し、休めと言って肩へ手を置いた。その時にも、桜の中には、そんなものがあった。

 

「なんで――」

 

 声が出た。何を、誰に訊こうとしたのか、自分でも分からなかった。なぜ止めなかったのか。なぜ教えてくれなかったのか。俺の知っている桜は、いつも家へ来て、普通に笑っていたじゃないか。そのどれも、寝ている桜へ言えることではなかった。

 

「シロウ。布を、替えて」

 

 イリヤに言われた。俺は頷いた。桜の額に当てていた布を取り、別の布をイリヤへ渡す。手が震えていたので、使った布は両手で持ち直してから器へ入れた。

 

「魔術のためなら、そんなことをしていいのか」

 

 今度は、言葉になった。

 

「よくないわ」

 

 遠坂が答えた。短かった。その後で、彼女は桜の顔へ目を向けた。口元に力が入り、何かを言いかける。けれど、出てきたのは別の言葉だった。

 

「イリヤ。今、分かることは」

 

「魔力の動きがおかしいわ。入れられたものが、身体とどうつながっているか。そこから調べる必要がある。今、苦しさを軽くしただけでは、元には戻せない」

 

 イリヤは桜の腕を毛布の下へ戻した。

 

「診ることは出来る。でも、入っているものを調べないで、ただ取り出せばいいとは言えないわ」

 

「……何がつながっているか、先に確かめる必要があるのね」

 

 遠坂が言った。イリヤは頷く。

 

 俺は、桜の身体を覆っている毛布を見つめた。見えないところに、手を伸ばせない。何が苦しめているのかを聞いたばかりで、俺には、そこへ触れる方法さえなかった。

 

 *

 

「……言わないで」

 

 声がして、桜が目を開けていることに気づいた。俺は顔を近づけた。桜の視線が動き、遠坂を見てから、ライダーのところで止まる。

 

「ライダー」

「はい。サクラ」

 

 彼女が返事をした。

 

「わたし、先輩には……」

 

 喉で、言葉が止まった。

 

「知られたく、なかったのに」

 

 目が、こちらへ向いた。俺は何か答えようとして、口を閉じた。どうして、と訊くのは簡単だった。けれど、桜は今も、俺の顔を見ては目を逸らしていた。

 

「黙っていて、ごめんなさい」

 

 桜の指が、毛布の端を握った。

 

「兄さんに、ライダーを預けたのも、わたしです。わたしが――」

 

 起き上がろうとして、息が詰まった。イリヤが肩を支える。

 

「その話は、横になったままでいいわ。無理に起きないで」

 

 俺も、枕の位置を直した。桜は動くのをやめたが、まだこちらを見ようとしていた。

 

「先輩、怒って」

「怒ってる」

 

 言ってから、桜の肩が強張ったことに気づいた。

 

「違う。桜に、って話じゃない」

 

 慌てて続ける。

 

「こんなことをされて、ずっと苦しかったのに、俺は何も知らなかった。腹が立ってる。でも、今、桜に何か言わせたいわけじゃない」

 

 全部、俺の気持ちの話になっていた。桜が何を怖がっているかも聞かずに。

 

「……ここに、いても」

 

 小さく、声がした。

 

「いいんですか。もう、知られてしまったのに」

 

 俺は頷いた。

 

「帰れなんて言わない。ここで休んでてくれ」

 

 桜の唇が動いた。何か言おうとして、言えない。その間も、俺は顔を見ていた。

 

「話は、聞きたい。けど、ちゃんと息が出来るようになってからでいい」

 

 桜はしばらく俺を見つめていた。それから、毛布をつかんでいた指を、少しだけ緩めた。

 

「……はい」

 

 イリヤが枕元の布を直す。桜は目を閉じた。眠ったのかと思ったが、ライダーが名を呼ぶと、小さく頷いた。

 

 俺は、顔を上げた。遠坂がこちらを見ていた。その視線が、すぐ桜へ移る。桜の肩に掛かった毛布を直してから、遠坂はゆっくり立った。

 

 *

 

「間桐の家へ行くわ」

 

 遠坂は、戸の近くで言った。アーチャーが振り向いた。俺も立ちかけたが、その前に遠坂がこちらを見た。

 

「今度は、中を調べる。桜へ何をしたのか、その道具か、記録が残っているかもしれない」

「臓硯に、会いに?」

「会えれば聞く。けれど、いるとは限らない。昨日、外から見ただけでは、分からなかったことがある」

 

 遠坂は上着を取った。

 

「桜が話せるようになるまで待って、全部思い出させるより、あそこで調べられるものを先に調べたい」

 

 袖へ腕を通す手が一度止まると、アーチャーは何も言わず、その袖口を少し引いた。遠坂は腕を通し、襟を直す。

 

「慎二がいたら、あいつにも聞くわ。金髪の男と行動していたんだから」

 

「一人で問い詰めるなよ」

 

 言うと、遠坂は俺を見た。

 

「わたしには、アーチャーがいるでしょ」

 

 いつもの調子に近かった。けれど、口元は笑っていなかった。アーチャーが、短く頷いた。

 

「調査を先にする。何者かが残っていれば、その時に判断する」

 

 俺は、イリヤの方を見た。彼女は桜の呼吸を確かめていた。俺の視線に気づくと、首を少し傾ける。

 

「さっきのように、息が乱れ続けてはいないわ。熱も急には上がっていない。でも、誰かがそばについていて」

 

「私がいます」

 

 ライダーが言った。立とうとはしなかった。ただ、桜のそばから離れるつもりもないらしかった。

 

「あんたも、身体を休めるのよ」

 

 遠坂は言った。

 

「傷はまだ治りきってないし、修復にも魔力を使うんだから」

 

 ライダーが頷く。セラが桜の枕元へ座り、リズは替えの掛け物を運んできた。

 

「家は、私が見ます」

 

 セイバーが言った。

 

「桜たちは道場に。母屋は、使える通り道を限ります。奥の部屋へは、今は近づかないでください」

 

 遠坂は庭を見た。しばらく目を離さずにいた後、こちらへ視線を戻した。

 

「士郎。ここをお願い」

「ああ。そっちも、気をつけてくれ」

 

 頷き合ってから、遠坂はイリヤへ向いた。

 

「分かったことは、持って帰るわ」

「ええ。見つけたものを、勝手に壊さないでね」

 

 遠坂は一瞬だけ、目を細めた。

 

「……分かってる」

 

 それから、桜を見た。桜は目を閉じたままだった。遠坂は声をかけずに戸口へ戻った。アーチャーが先に庭へ出る。遠坂が続いた。砂利を踏む音が遠くなり、門の方で、小さな音がした。セイバーはその音を聞いてから、道場の外へ立った。

 

 *

 

 戸が閉まると、道場の中が少し静かになった。桜は眠っていた。ライダーが名を呼び、指先が動くのを確かめる。セラは枕元で布を替え、リズは戸の近くへ腰を下ろした。俺は、使った器を持ち上げた。水はまだ残っていた。だが、その中へ布を戻す気にはなれなかった。赤く濁った底を見つめていると、イリヤが横から手を添えた。

 

「替えましょう。わたしも、手を洗いたい」

 

 セラへ声をかけ、桜のそばについていてもらう。呼吸がまた乱れたらすぐ呼ぶように伝え、俺たちは立ち上がった。セイバーに、洗面所まで通っても大丈夫か確かめた。そこは使えるという。壊れた客間の方へは行かず、手前の廊下を通った。

 

 途中で木の破片を踏みそうになり、足を止めて廊下の端へ寄せた。桜が裸足でここを通ることもある。そう考えてから、さっきは、その桜を抱えて運んできたのだと思い出した。イリヤも足を止めていた。

 

「……家、直さないとな」

 

 俺は言った。

 

「今じゃないわよ」

「分かってる」

 

 破片を、もう一つ拾った。指へ刺さらないように持ち、割れた板の脇へ置く。俺が立つまで、イリヤは先へ行かなかった。

 

 *

 

 蛇口をひねると、いつもの音がした。濁った水を捨て、器をすすぐ。白い底が見えるまで水を流してから、縁を拭いた。イリヤはその横で、指の間まで丁寧に洗っていた。

 

「冷たい?」

「少し」

 

 タオルを渡した。彼女は両手を包み、指先を押さえる。昼間には、同じ手で紙を折っていた。上手く畳めなかったところを教えると、次は、とこちらへ顔を向けていた。その目を思い出しかけて、俺は器へ目を戻した。今、それを考えている場合ではない気がした。

 

「シロウ」

 

 呼ばれて、顔を上げる。

 

「そこは、もう綺麗よ」

 

 気づくと、器の縁を何度も拭いていた。

 

「……ああ」

 

 布を置いた。器を持ち直すと、イリヤが反対側から支えてくれる。二人で道場へ戻ると、戸のところでセラが受け取ってくれた。

 

「お休みになっています。呼吸も、先ほどと変わりません」

 

 俺は頷いた。開いた戸の隙間から、桜の顔が見える。ライダーはそのそばへ座ったまま、こちらを向いていた。

 

 戸が閉まった。イリヤは、すぐには中へ戻らなかった。道場へつながる廊下の脇で、洗った手を軽く握り、開く。俺も隣へ立った。

 

 *

 

「サクラを、どうするつもり?」

 

 イリヤが訊いた。声は、道場の中へ届かないくらい低かった。

 

「助けたい。身体に何をされたのか、ちゃんと知って、治せるようにしたい」

 

 答えると、イリヤは頷いた。

 

「二人とも回復すれば、今よりずっと手強い相手になるわ」

 

 俺は彼女の顔を見た。

 

「サクラは、マスターよ。シロウやセイバーの敵になるかもしれない。さっきまで知らなかっただけで、あの子も、この戦争に参加しているの」

 

 静かに言われた。そうだった。苦しんでいる桜ばかり見ていた。ライダーが桜を守るのは、自分のマスターだからでもある。それを聞いて、俺も分かったはずだった。

 

「それでも、助けるのね」

 

 イリヤの目が、こちらを向いた。

 

「ああ」

 

「戦おうとするなら、止める。何でそうしたいのか、話も聞く。けど、マスターだったからって、このままでいいとは思えない」

 

 イリヤは黙っていた。否定されるのかと思ったが、彼女は俺の次の言葉を待っているようだった。

 

「桜は、ずっと家に来てたんだ」

 

 俺は道場の戸を見た。

 

「俺が台所へ入る前に、もう飯の支度をしてることもあった。何か頼むと、嬉しそうに引き受ける。だから、無理してる時も、俺は頼んでいいんだと思ってた」

 

 今夜聞いたことを、思い出の一つ一つに重ねそうになる。全部、苦しかったのだろうか。笑っていた時にも、俺には見えていなかったものがある。それでも、笑顔の全部が嘘だったとは、思いたくなかった。

 

「今朝も、俺に座ってろって言った。その前は、自分が座れって言われてたのに」

 

 思い出すと、声が少し変わった。

 

「そういうふうに、また言ってほしい。痛いなら痛いって言って、何もしないで休めるようにしたいんだ」

 

 イリヤは頷いた。

 

「シロウにとって、大切な人なのね」

「うん」

 

 それは、はっきりしていた。何も知らない相手が倒れていても、放ってはおけない。けれど、桜だからこそ思い出すことがある。朝の声も、台所に立つ背中も、言い返してくる時の顔も。そこへ戻ってほしかった。

 

「わたしも、そうだと思ったわ」

 

 イリヤが言った。少し間があった。

 

「……じゃあ、シロウは、サクラのことが好きなの?」

 

 *

 

 俺は、すぐには答えられなかった。助けたいかと訊かれた時には、言葉が出た。大切かと訊かれても、同じだった。今の問いだけは、その続きとして頷いてはいけない気がした。

 

「好きって」

 

 言いかけて、止まった。イリヤの目を見れば、何を訊かれているのかは分かった。分からないふりをしても、彼女は見逃してくれないだろう。

 

 いや。今、見逃されてしまう方が、嫌だった。

 

「イリヤは、桜を助けるのが嫌なのか」

 

 口にした直後、違う、と思った。彼女はさっきまで、桜の手を取っていた。息が苦しそうになるたび確かめ、俺が動けないでいる間にも、痛みを軽くしようとしてくれた。

 

「わたし、そんなことを訊いているんじゃないわ」

 

 イリヤの声は、強くはなかった。

 

「サクラが苦しいことも、シロウが助けたいことも、見ていれば分かるもの」

 

 そこで一度、言葉が途切れる。

 

「わたしが知りたいのは、あなたが、あの子をどう思っているのかよ」

 

 俺は彼女の顔を見た。答えを待つイリヤは、指先で自分の袖の端をつかんでいる。

 

「……ごめん。今のは、俺の言い方が悪かった」

 

 イリヤは、小さく頷いた。俺は息を吸った。

 

「桜は、大切だ。助けたい。それは、今言った通りで」

 

 その先が、うまく出てこなかった。イリヤは待っていた。目を逸らさないまま、けれど、続きを急かすこともしなかった。俺は今日の午後を思い出していた。肩へ寄りかかられたこと。手を握り返した時の顔。セラに、もう少しここにいさせてほしいと口を挟んだこと。頬へ触れた、一瞬の柔らかな感触も。あの時、自分が何を考えたかを、今さら別の理由に変えることは出来なかった。

 

「昼間」

 

 俺は言った。イリヤの指が止まる。

 

「イリヤと座ってた時、俺、何もしなくていいのが嬉しかったんだ」

 

 変な言い方だった。すぐに言い直そうとしたが、イリヤは黙って聞いていた。

 

「いつもなら、まだやってないことを考える。片付けとか、直しかけのものとか。今日だって、夜に調べることは決まってた」

 

 俺は自分の手を見た。

 

「けど、あの時は、もう少しあそこにいたかった。イリヤがこっちへ寄ってきたら、離れなくていいと思った」

 

 彼女が、少しだけ目を伏せた。

 

「……わたしが、勝手にくっついたんでしょう」

「俺も、手を握った」

 

 言うと、赤い目がこちらへ戻った。

 

「そう、だったけど」

「嬉しかったから。イリヤが、俺といたいと思ってくれてるのが」

 

 言葉にすると、顔が熱くなった。今まで分かっていなかったわけではない。彼女が近づいてくるたびに嬉しかった。それを、その場だけのことにしていた。手を離す時も、何も言わなければ、言わなくて済んだ。

 

 けれど、今それをしてしまえば、目の前で答えを待っているイリヤに、昼間のことまで、一人で考えさせることになる。

 

「俺、イリヤがどう思うか、気になるんだ」

 

 顔を上げた。

 

「魔術を教わって、少し上手くいくと、まず見てほしくなる。俺が教える方だと、上手く出来るかより、イリヤが楽しいかどうかが気になって」

 

 紙を畳んでいた指を思い出した。出来た、と笑った時、俺まで嬉しくなった。難しいものも教えろと言われて、もっと折り方を覚えておけばよかったと思った。

 

「船を作るって言ったのも、また一緒にやりたかったからだ。明日も、ああいう顔を見たいって」

 

 イリヤは動かなかった。

 

「昨日、そばにいてくれって頼んだ時には、怖かったからだと思ってた。もちろん、それもあったけど」

 

 喉が、少し乾いていた。

 

「今日は、怖くなくても、いてほしかった」

 

 ようやく、そこまで言えた。イリヤの唇が、わずかに開いた。

 

「……シロウ」

 

 呼ばれて、俺は頷いた。

 

「だから」

 

 そこで、また止まりそうになる。ここまで言ったのに、最後だけ、別の言葉へ逃げたくなった。会いたいとか、楽しかったとか。それも本当で、今までなら、それだけで済ませられた。けれど、イリヤは、何を訊いているのかを教えてくれた。

 

「好きだ。イリヤのことが」

 

 *

 

 イリヤは、何も言わなかった。返事のない時間が、聞こえなかったのかと思うほど長く感じられた。だが、その目は俺を見たままで、袖をつかんでいた手だけが、ゆっくり開いた。俺は、もう一度何か言おうとした。

 

「待って」

 

 小さな声だった。口を閉じる。イリヤは目を伏せた。息を吸って、顔を上げかけ、もう一度下を向く。いつもなら、言い返せなくなるのは俺の方だった。彼女が次の言葉を出して、俺はそれについていく。今は、そうではなかった。

 

「……今、わたし、変な顔をしていると思う」

 

 イリヤが言った。

 

「変じゃないよ」

「すぐに答えないで」

 

 そう言われ、黙った。白い髪の間から見える耳が、赤かった。頬も、さっきより赤くなっている。彼女はそれを隠すように少し横を向いたが、俺から離れようとはしなかった。

 

「シロウは、分かって言っているのよね」

 

 訊かれた。

 

「うん」

「わたしが、どういう意味で聞いたかも」

「分かってる」

 

 返事をすると、イリヤは俺を見た。その目の端が、少し光っていた。

 

「……もう一度、言って」

 

 息を吸った。さっき言えたからといって、今度は簡単に出てくるわけではなかった。それでも、彼女が聞きたいと言った。

 

「イリヤが、好きだ」

 

 今度は、顔を見たまま言えた。イリヤは頷いた。ほんの小さく、一度だけ。それから、手を伸ばした。俺の上着へ触れかけた指が、途中で止まる。いつものように袖を引く代わりに、俺の手の前へ掌を差し出し、そのまま待っていた。

 

 俺は、その手を取った。洗ったばかりの指先はまだ少し冷たい。包むように持つと、彼女の指も、ゆっくり曲がる。

 

「昼間は」

 

 イリヤが言った。

 

「わたしが、先に持ったのよ」

「うん」

「今は、シロウからね」

 

 俺は頷いた。イリヤはつないだ手を見ていた。

 

 道場の中で、器を置く音がした。俺は一度、戸へ目をやった。セラの静かな声がして、ライダーが何か答える。呼ばれたわけではなかった。イリヤも、同じ方を見ていた。手は、離さなかった。

 

「……桜を助けたいのは、本当だ」

 

 俺は言った。イリヤがこちらを向く。

 

「今、言ったことも、本当だから」

 

 イリヤは少しの間、俺を見つめた。

 

「うん」

 

 返事があった。

 

「ちゃんと、聞いたわ」

 

 つないだ手に、少し力が入った。俺は息を吐いた。言えたことにほっとして、急に自分がどんな顔をしているのか、分からなくなった。

 

 イリヤが、空いている手で俺の上着をつかんだ。近づいてくる。昼間のように、不意をつく動きではなかった。こちらを見てから、そっと額を胸元へ寄せた。俺は空いている手を、彼女の背へ置いた。イリヤの身体が、ほんの少し震えた。

 

「寒いか」

 

 訊くと、イリヤは小さく首を振った。

 

「違うわ」

 

 声が、俺の胸元から聞こえた。それから、少し間があった。

 

「……嬉しいの」

 

 俺は、彼女の背に置いた手を動かせなくなった。イリヤは顔を上げなかった。握った指だけが、もう一度、俺の指を確かめるように動く。俺も、その手を握り返した。

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