Fate/stay night IF BEYOND THE EVER   作:Мир

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第三 Finite Horizon
第十七話 返す手


 俺の上着をつかんでいたイリヤの指から、少しずつ力が抜けていった。イリヤはまだ顔を上げなかった。俺も背に添えた手をそのままにしていると、胸元で白い髪が動いた。

 

「……シロウ」

「うん」

 

 彼女が顔を上げると、近すぎて、かえって目を合わせにくかった。けれど、今ここで逸らすのは違う気がして、俺はそのまま待った。イリヤは俺の上着を一度見下ろした。つかんだところに皺が出来ている。その指を開いて布を撫で、直りきらなかった皺を、もう一度だけ指先で押さえた。

 

「わたしも、言うわ」

 

 その言葉だけで、心臓が妙に大きく鳴った。

 

「シロウが好きよ」

 

 俺を見て、イリヤは言った。俺はさっきまで、自分が何を伝えるかばかり考えていた。彼女が近づいてくれることは、もう知っていた。昼間も、昨日も、何度となく笑いかけてくれた。それでも、こうして言われると、分かっていたつもりのことまで、全部違って聞こえた。

 

「……うん」

 

 返事をした。何か、ちゃんと返したかった。だが、続きが出てこない。イリヤの眉が、少し下がった。

 

「そんなに黙られると、困るんだけど」

「ごめん。嬉しくて」

 

 考えるより先に出た。イリヤは口を開きかけ、そのまま閉じた。それから、俺の手を握る指に力を込めた。

 

「……それなら、いいわ」

 

 声が柔らかくなった。俺はようやく息を吐いた。イリヤも、小さく笑った。その顔を、もう少し見ていたかった。

 

 道場の中で布を絞る音がして、イリヤの目が戸へ向いた。俺もそちらを見た。セラが何か尋ね、ライダーの低い返事が続いた。慌てた声ではなかった。

 

 イリヤは俺の胸元から離れた。俺は背に添えていた手を下ろした。もう片方の手は、彼女がもう少しだけ握っていた。

 

「戻りましょう」

「ああ」

 

 一歩動こうとしたところで、イリヤがこちらを向いた。

 

「サクラのこと、わたしが診るわ」

 

 さっきまでと同じ近さで、声だけが少し変わっていた。

 

「身体に入れられたものを、ちゃんと調べる。何が出来るか、その先まで」

 

 俺は彼女を見た。

 

「いいのか」

「わたしがするって、言っているでしょう」

 

 少しだけ、いつもの言い方に戻った。

 

「シロウが、どうしたいのかも分かったわ。わたしも手伝う。あの子が目を覚ますたびに苦しむのを、見ているだけは嫌だもの」

 

 戸の向こうに桜がいた。さっき、俺に知られたくなかったと言った。ここにいてもいいのかと訊いた。その声を思い出すと、喉の奥が詰まりそうになった。

 

「……頼む。イリヤ」

「ええ」

 

 頷いてから、彼女はつないでいた手を少し持ち上げた。

 

「シロウにも、働いてもらうわよ」

「何をすればいい?」

「まず、わたしの手を空けて」

 

 言われて、掌を開いた。イリヤは、手を離す前に俺の指へ一度触れた。それから戸へ手をかけた。

 

 *

 

 道場の灯りが、廊下へ細く伸びた。セラが顔を上げる。桜の枕元には、替えたばかりの布が畳んで置かれていた。リズは使い終わった器を寄せ、ライダーのそばへ新しいものを置いている。

 

「変わりは?」

 

 イリヤが尋ねた。

 

「息は落ち着いています。少し前に目をお開けになりましたが、またお休みに」

 

 セラが答え、座る場所を空けた。ライダーは桜の横にいた。背を壁へ預け、右手を床についている。こちらへ向き直った時にも、左腕は動かさなかった。イリヤが桜のそばへ膝をつき、毛布から出ている手を取って顔を覗く。俺はその後ろから、桜の胸元が緩やかに上下するのを見ていた。さっきのように、息を吸うたび肩まで持ち上がる様子はない。

 

「サクラ」

 

 イリヤが静かに呼ぶ。桜の瞼が動いた。目が開き、少しずつ焦点が合った。

 

「もう少し詳しく、身体の中を調べたいの。触ってもいい?」

 

 桜は、すぐには答えなかった。桜の視線がイリヤから俺へ移り、そこで止まった。空いている方の手が、毛布の端を引き寄せた。俺は桜の顔を見ていた。何か言わなければと思うほど、言葉を選べなくなった。大丈夫だと言っていいのかも分からない。桜の身体に蟲が入れられていたことを、俺はさっき知ったばかりだった。

 

「シロウ。灯りを、こっちへ寄せてくれる?」

 

 イリヤに呼ばれた。

 

「ああ」

 

 立って、灯りを持ち直した。桜の目へ直接当たらないように向きを変える。セラが衝立を動かしていた。先ほどまでライダーの処置に使っていたものを、桜の寝床と俺の立つ場所の間へ置く。

 

「ここで、よろしいでしょうか」

「もう少し、こちらへ。顔は見えるようにして」

 

 イリヤの声に合わせてセラが角度を変えると、桜の肩から下が隠れた。俺のいるところからは、枕と、横を向いた顔だけが見えた。

 

「今、起きなくていいわ。嫌なことがあったら、そのまま言って」

 

 少し間を置いて、桜の声がした。

 

「……お願いします」

 

「うん」

 

 イリヤが答えた。俺は灯りを置き、少し下がった。桜の指が毛布を離したかどうかは、もう衝立の向こうで見えなかった。

 

 *

 

「ライダー。あなたは、サクラの顔が見えるところにいて」

 

 イリヤが言った。

 

「私に出来ることは」

「様子が変わったら教えて。いつものあの子を知っているのは、あなたでしょう」

 

 ライダーが、壁から少し背を離した。

 

「分かりました」

 

 右手を使って身体をずらす。桜の枕元へ近づこうとして、その途中で動きが止まった。布の巻かれた脇腹へ、右手が触れる。

 

「動かなくていい」

 

 俺はそばへ行った。

 

「こっちを空けるから。そこから見えるようにする」

 

 置かれていた器を持ち上げ、替えの掛け物をリズへ渡した。ライダーと桜の間を片付けると、ライダーはそれ以上動かずに済んだ。

 

「……ありがとうございます」

「腕も、まだ痛むんだろ」

「動かせますが、まだ無理は利きません。今は休ませておきます」

 

 ライダーはそう答え、桜へ向いた。巻かれた布に、新しく血が滲んではいなかった。俺は器を持って戻った。イリヤが、衝立の端からこちらを見た。

 

「空のものは、そこへ。使った布を入れた方と離しておいてね」

「分かった」

 

 床へ置こうとして、手を止める。

 

「イリヤ。これから、何をするんだ?」

 

 彼女は桜へ一言声をかけてから、こちらを向いた。

 

「まず、調べるための支度よ。サクラの魔術回路と、入れられた蟲がどう繋がっているのか、一つずつ確かめるの」

 

 静かな声だったが、眠りかけている桜にも聞こえる大きさだった。

 

「そこが分かれば、手を加えていいところを選べる。早く楽にしてあげたくても、見つけた順に取り出すわけにはいかないもの」

 

「身体まで、傷つけるからか」

「ええ。蟲を取り除けても、サクラの回路を傷つけたら困るでしょう。だから、先に繋がりを調べるのよ」

 

 言い切って、イリヤは桜の方へ顔を戻した。俺は器を置いた。

 

「手が足りなかったら、言ってくれ」

「今も、足りていないわよ」

 

 すぐに返ってきた。

 

「そっちの布を、セラに。重ねたままじゃ取りにくいから、一枚ずつにして」

 

 言われて、膝をついた。畳まれていた布を一枚ずつ分ける。血のついたものを見て動けなくなった時にも、イリヤに同じように声をかけられた。今度は、言われた分だけでなく、次に使う一枚まで揃えておけた。セラがそれを受け取る。

 

「こちらへ置いてください。お嬢様のお手元に近い方から使います」

「ここでいいですか」

「はい。ありがとうございます」

 

 受け取った布を、セラはイリヤのすぐ手元へ置いた。俺は残りの布も揃えた。セラが一枚取るたび、その分を補っていく。

 

 *

 

 リズが、戸口のそばに積んであった寝具を持ち上げた。

 

「どこ」

「壁際へ寄せてくれ。戸の前は、空けておきたい」

 

 俺が答えると、リズはそちらへ運んだ。両腕で抱えたものを床へ下ろし、端が通り道へ出ないように押し込む。

 

 俺も立って廊下へつながる戸を少し開けると、セイバーが外からこちらを見た。

 

「桜の様子は」

「落ち着いてる。これから、イリヤが詳しく診てくれる」

 

 セイバーは道場の中を見た。衝立の向こうから、セラが短く返事をする声が聞こえた。

 

「では、こちらは私が」

「頼む。何かあったら、すぐ呼んでくれ」

 

 セイバーは頷いた。その肩越しに、母屋の暗い部分が見えた。閉じた戸と、閉じることの出来なくなった戸。その先は見通せない。俺は、使える廊下の方へ目を移した。

 

「この通り道は、大丈夫なんだよな」

「はい。奥へは入らず、こちら側を使ってください。今は必要な物を取りに行く場合も、声をかけて」

「分かった」

 

 戸を閉めた。リズがこちらを見ていた。俺が廊下を指すと、彼女も頷いた。

 

「こっち。覚えた」

 

 道場には、普段なら置かない物が並んでいた。寝具、布、器。人が横になり、その脇へ別の人が座っている。戸口までの通り道の幅を確かめると、ようやく、ここで誰がどう動けるかが分かった。

 

「シロウ。その灯り、もう少しだけ」

 

 イリヤに呼ばれ、戻った。灯りを動かす。彼女は桜の腕の近くへ手をかざし、影の落ち方を見ていた。

 

「そこ。ありがとう」

 

 顔を上げて、俺を見た。さっきのことが、まだ胸に残っていた。イリヤの口元が、わずかに緩んだ。

 

「手、離していいわよ。灯りの方」

 

 俺は慌てて手を放した。

 

「……ああ。もう、動かないな」

「うん」

 

 それだけ言って、イリヤは桜へ向き直った。俺は耳が熱くなるのを感じながら、空いた器を引き寄せた。桜の呼吸が聞こえる。イリヤはその間隔に合わせるように、少し待ってから手を動かした。袖口を邪魔にならないところまで上げ、セラへ何か短く伝える。俺は、彼女の手元へ影を落とさない位置に座り直した。

 

 *

 

 外で、足音が止まった。セイバーが歩いていたのだと、その時になって気づいた。顔を上げるより先に、ライダーが戸を見た。桜のそばへ置いていた右手を、ゆっくり引く。

 

「イリヤ」

 

 呼びかけると、彼女もこちらを見ていた。戸が開いた。

 

「近づいてきます」

 

 セイバーの声は低かった。

 

「サーヴァントです。全員、中に」

 

 俺は立ち上がりかけた。セイバーの視線が、そこで俺を止める。彼女は庭の方へ向き直った。戸の隙間から冷たい空気が入ってくる。俺には、外に何がいるのか分からなかった。母屋の屋根も、庭の木も、さっきと同じ形で暗がりに沈んでいる。なのに、セイバーの立ち方が変わっていた。両手の間に、見えない剣がある。

 

「……ランサー」

 

 その名を聞いた途端、背中が冷えた。学校の夜が、頭をよぎる。赤い槍。目で追えなかった動き。胸の奥へ通った痛みまで思い出し、息を吸うのが一瞬遅れた。イリヤが桜へ掛け物を戻した。

 

「セラ。今はここまでよ。そばについていて」

「はい」

 

 イリヤは桜の手を寝具の上へ戻し、呼吸を確かめた。使うつもりだった布を脇へ置き、衝立の端から外を見る。

 

「まだ、蟲に手を加える術は始めていないわ。運ぶ時も、わたしがついているから。慌てないで」

 

 俺を見て言った。俺は頷いた。喉が、うまく動かなかった。

 

「シロウ」

 

 もう一度呼ばれた。

 

「こっちを見て」

 

 イリヤへ顔を向ける。

 

「サクラの足元にあるものを、退けて。運ぶことになったら邪魔になるでしょう」

「……分かった」

 

 俺は器を持ち上げた。落としそうな気がして、両手で持った。床を濡らさないように壁際へ寄せる。さっきリズが空けた通り道へ、もう一度目をやった。今、そこには何もなかった。

 

 *

 

 ライダーが立った。右手で床を押し、片膝を立てる。立ち上がりきる直前、身体がわずかに傾いた。俺は思わず手を伸ばしたが、彼女は自分で姿勢を戻した。

 

「待て。傷が」

「分かっています」

 

 声は、落ち着いていた。ライダーは桜を見た。

 

「ここまで通すわけにはいきません」

 

 イリヤが彼女の左腕と脇腹へ目を向けた。

 

「セイバーが前へ出るわ。あなたまで、遠くへ行かないで」

「そのつもりです」

 

 ライダーは戸口を見た。

 

「あちらへ注意を向けさせて、別の方から入ってくるかもしれない。私は、ここへ近づく道を見ます」

 

 俺は、止めようとした手を下ろした。道場の壁は、槍を止めてくれるわけではない。桜のすぐ横へ座っていても、目の前まで来られてからでは間に合わないことがある。ライダーは、イリヤへ向き直った。

 

「サクラを、お願いします」

「ええ。あなたも、戻ってきて」

 

 短い返事の後、ライダーが桜のそばへ屈んだ。

 

「サクラ。少し、外を見てきます」

 

 桜の瞼が動いた。

 

「……ライダー」

「ここには、イリヤスフィールたちがいます。すぐそばです」

 

 ライダーは桜の顔を確かめ、立ち上がった。今度は、左側をかばう動きを隠さなかった。右手に武器を持ち、戸口へ向かう。イリヤがリズへ目を向けると、リズは戸を支えて道を空けた。俺も、その脇へ寄った。セイバーがライダーへ一度だけ目を向けた。

 

「道場の守りを、頼めますか」

「ええ。ここは通しません」

 

 その返事を聞いて、セイバーは庭へ向き直った。

 

「外へは出ないでください、シロウ」

 

 セイバーが振り返らずに言った。

 

「分かってる」

 

 返事をしながらも、足は前へ出そうになった。セイバー一人を前へ出している。続いていくライダーも、さっきまで手当てを受けていた。だが、後ろでは桜が寝ていた。イリヤとセラがいる。二人が桜を支えるなら、他の物を持つ手が要る。通り道を空け、桜を運ぶのを手伝う人間も必要だった。俺は敷居の内側で止まった。リズが、俺の横へ立った。

 

「ここ、いる」

 

 大きな声ではなかった。

 

「ああ。頼む」

 

 俺たちは、外へ続く戸を開けたまま、両側へ退いた。

 

 *

 

 庭の向こうに、男がいた。青い装束と、長い赤い槍。見覚えのある姿だった。塀の内側へ下りたところなのか、足元の枝が、まだ揺れている。男は槍を肩へ預け、壊れた母屋を見ていた。

 

「ずいぶん派手にやられたな」

 

 近所で屋根でも壊れたような口ぶりだった。セイバーは庭へ出ていた。道場と男の間に立ち、見えない剣を構えている。

 

「何をしに来た、ランサー」

「様子を見にな。まだ戦える奴がいるかと思ってよ」

 

 槍を担いだまま、ランサーはセイバーから、戸口を出たライダーへと目を移した。

 

「おまえも、こっちにいたのか」

 

 ライダーは返事をしなかった。セイバーより後ろ、道場の角へ回り込む道を遮るところに立つ。左腕を引いたまま、右手の武器を低く構えた。垂れた鎖が地面へ触れ、小さく鳴った。ランサーは、その立ち方を見ていた。

 

「歓迎はしてくれそうにねえな」

「用が済んだのなら、立ち去れ」

 

 セイバーが言った。男は笑った。それからこちらを見ると、俺と目が合った。

 

「小僧。しぶとくやってるじゃねえか」

 

 喉の奥が強張る。

 

「あんたに、心配される覚えはない」

 

 言ってから、声が思ったより低く出たことに気づいた。

 

「そいつはもっともだ」

 

 ランサーは、少しも気を悪くした様子がなかった。セイバーが半歩動き、俺とランサーを結ぶ線の上へその背中が入った。

 

「おまえの相手は、私だ」

 

「分かってるさ」

 

 槍が、肩から下りた。それだけで、庭の広さが変わったように感じた。男はまだ遠くにいる。セイバーとの間にも、踏み込むだけの距離がある。だが、その槍の先がどこまで届くのか、俺には分からなくなった。ランサーが足をずらす。セイバーも動いた。ランサーの視線が、一瞬だけセイバーの脇を通った。道場の角へ続く道を塞ぐように、ライダーが右足を置き直す。鎖が地面を離れた。

 

「……なるほどな」

 

 ランサーが何を見たのかは、分からなかった。

 

 次の瞬間、赤い線が走り、金属のぶつかる音が道場まで響いた。俺は肩をすくめた。見えない剣に弾かれた槍が、すぐ別の角度へ戻っていく。セイバーの足元で砂利が散り、ライダーが道場の前へ一歩寄った。

 

 後ろで、桜の短い声がした。振り向くと、イリヤが枕元にいた。起き上がろうとした桜の肩へ手を添え、静かに話しかけている。

 

「横になっていて。ライダーは、すぐ外よ」

 

 もう一度、外で音がした。リズが身体を低くし、戸口の先を見ていた。俺はその横から下がった。庭と桜を交互に見ようとして、どちらも見えていなかった。

 

「シロウ。そこの掛け物を取って」

 

 イリヤに呼ばれた。

 

「ここを離れることになったら、身体を冷やしたくないわ」

 

 壁際へ寄せておいた掛け物を取った。今度は、迷わず手が届いた。イリヤのそばへ運び、桜の足元から広げる。イリヤが反対側を受け取った。二人で端をそろえ、桜を動かす時にすぐ包めるよう、余った部分を外側へ折り返した。イリヤの指が、掛け物の向こうで止まった。顔を上げると、彼女も俺を見ていた。

 

「そこに、いてね」

「いる。運ぶ時は、俺がこっちを支える」

 

 彼女は頷き、桜の方へ向き直った。外で、槍と剣がぶつかった。俺は掛け物の端を押さえたまま、桜の呼吸を確かめた。

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