Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
桜の目が、音のする方へ動いた。イリヤが手を添えると、持ち上がりかけた肩が寝具へ戻る。俺は掛け物の端を離し、桜の足に引っかかっていたところを直した。
また外で音がした。今度は少し近かった。戸口へ目を向けると、セイバーが横へ動くところだった。その足元で砂利が跳ねる。そこを赤い槍が通り、何もないはずの場所で弾かれた。槍が戻り、その柄が男の手の中を滑った。次の瞬間には、槍は逆側から伸びていた。
「っ……!」
セイバーの声が聞こえた。剣を振ったのだと思った。ランサーが上体を引き、胸元を何かが掠める。青い装束の端が裂けたが、男は顔色を変えなかった。
「おっと」
軽い声とともに、槍が回った。セイバーが踏み込もうとしたところへ、赤い穂先が戻ってくる。セイバーの足が止まった時には、ランサーは別の場所へ動いていた。
俺は立ち上がりかけた身体を戻し、もう一度床へ膝をついた。今、見えたものを目で追っても、次の動きには間に合っていなかった。
「セラ。その端を持っていて」
イリヤの声がした。セラが俺のいた側へ回る。桜の手が掛け物を握り、イリヤはその指へ触れた。
「サクラ。苦しいところは、変わっていない?」
桜が小さく頷く。
俺は二人の手元を見た。それから戸口を見る。セイバーは、さっきより道場に近いところへ戻っていた。押されているのかと思った。けれど、ランサーが横へ動くと、セイバーも同じ方へ動いた。男と、この戸口の間に立つ。槍が遠ざかっても、その位置を簡単には離れなかった。
後ろに、俺たちがいた。
*
赤い槍が、低く走った。セイバーが受ける。音がして、槍先が地面を抉った。男はそれを引き抜くより先に足を動かしていた。
セイバーの脇を通る。そう見えた瞬間、庭に鎖の音が響いた。ライダーの武器が、男の向かう先へ飛んでいた。ランサーは槍の柄を返した。短い金属音。鎖が跳ね、先端の刃が横へ逸れる。だが、その一瞬でセイバーが追いついた。男の前へ踏み込む。ランサーの髪が跳ねた。見えない剣を受けた槍が、今度は押し返される。
「二人がかりか。忙しいことだな」
声に笑いが混じっていた。ライダーは答えず、右手で鎖を引いた。戻ってきた武器を受け止め、道場の角へ身を寄せる。左腕は、身体の近くから動かなかった。ランサーの目が、そこへ向いた。
「その腕じゃ、窮屈だろう」
槍先がライダーへ向く。セイバーが割って入った。槍と剣がぶつかり、二人の身体が近づいた。ランサーは肩を引いて距離を取り直す。その足が止まるより早く、ライダーが横へ回っていた。ただし、深くは追わなかった。セイバーが正面へ出たのを見て、ライダーは元の位置へ戻る。着地した時、右手が一瞬だけ脇腹へ触れた。
俺はそれを見て、歯を食いしばった。ライダーはすぐに武器を構え直した。道場へ振り向くことはなく、庭と母屋の間に目を配っている。
「リズ」
俺は戸口のそばへ寄った。
「ここから、何か飛んできそうなら教えてくれ」
「うん」
彼女は外を見たまま答えた。リズの背後にあった器を、壁際へ動かした。セイバーが戻る時、そこへ足を取られたら困る。戸の近くに置いた灯りも、少し奥へ寄せる。
*
「イリヤ。廊下の先の戸を確かめてくる。すぐ戻る」
桜のそばで、イリヤが顔を上げて頷いた。
母屋へ続く戸を開けると、廊下に冷たい空気が流れていた。奥の壊れた客間へは行けない。だが、その手前で曲がれば、無事な側の縁側へ出られる。手前の戸まで進んで引いてみると、戸は開いた。庭の脇へ下りるところにも、足を置く場所は残っていた。こちらへ回り込む敵がいないか、暗い地面と塀際を見た。俺の目では、それ以上のことは確かめられなかった。すぐ戸を閉め、道場へ引き返す。
「イリヤ。廊下の先から、横へ出られる。こっちが使えなくなったら、そっちへ」
彼女は戸の方を見た。
「サクラを運べる?」
「通れる。戸も開いた」
「分かったわ。移る時は、みんな一緒よ」
セラも顔を上げ、通り道を確かめた。俺は戸口へ戻った。庭では、ランサーが槍を短く持ち直していた。セイバーが間合いへ入る。槍の穂先だけでなく、柄までが剣を阻んでいた。押し合うように近づいた二人の足元で、砂利が擦れる。
ランサーの膝が沈んだ。直後、槍の柄が跳ね上がる。セイバーは身体を引いた。避けたところへ穂先が戻り、その赤い先端を見えない剣が外へ弾く。
俺が息を吸った時には、もうセイバーが踏み込んでいた。男が退く。一歩。もう一歩。セイバーの剣が止まり、ランサーだけがさらに後ろへ跳んだ。
追えば、道場の前が空く。そのことを俺が考えるより先に、彼女は足を止めていた。
「つれないね。いいところだったんだが」
ランサーが槍を持ち直す。
「用件は聞いた。これ以上、付き合うつもりはない」
セイバーの肩が、一度大きく上下した。声は揺れていなかった。だが、吐いた息が長かった。俺は彼女の背中を見た。城で戦った。寺へ行った。昨夜は、あの黒いものと向き合った。今日も街を回り、帰ってからも家の外を見てくれていた。その間ずっと、俺はセイバーが動けることに頼っていた。
「ここにいる連中を守って、いつまで持つ?」
ランサーが訊いた。
「試してみるか」
セイバーの剣が、少し上がった。男は笑ったまま、彼女を見た。ライダーが道場の前へ戻る。鎖の先を地面から離し、ランサーの横へ回れる位置で足を止めた。
しばらく、誰も動かなかった。俺は自分の呼吸が聞こえるのを嫌だと思った。次に動くのはどちらなのか。見ていれば分かることなのに、どちらが動いても俺の目では追いつけない。
ランサーが、槍を引いた。
「いや。今夜は、この辺にしておくさ」
*
俺は、その言葉をすぐには信じられなかった。ランサーは道場の方を一度見た。壊れた母屋へ目を移し、それからセイバーへ向き直る。
「そう睨むなよ。見たいものは見た」
「何を」
「そいつは、こっちの話だ」
男が後ろへ下がった。ランサーは槍をこちらへ向けていなかったが、セイバーは構えを解かなかった。ランサーの足が塀際へ届く。
「追ってくるか?」
軽く訊いて、男はライダーの方も見た。
「来ないなら、それでいい。お互い、まだ仕事がありそうだ」
セイバーは返事をしなかった。ライダーも動かなかった。青い姿が跳び、塀の上へ一度足をかけて、その向こうへ消えた。赤い槍の先が夜空を横切り、最後に残った髪の影も見えなくなった。
庭に、音がなくなった。手を開くと、掌に爪の跡が残っていた。
「……行ったのか」
口にしてから、声が大きく聞こえた。
「まだ、そこにいてください」
セイバーが言った。剣を持ったまま、塀の方を見ている。ライダーが道場の脇へ寄った。左右を確かめ、戸口から中を覗く。
「サクラは」
「横になってる。さっきと、変わらない」
俺が答えると、ライダーは頷いた。セイバーが、半歩だけ下がった。塀を見たまま、身体の向きを変える。その動きが、途中で変わった。
肩が跳ねた。何かを避けるように、彼女が首を引いた。金属の鳴る音。母屋の暗がりから出た黒い姿が、セイバーに重なっていた。
「セイバー――」
呼び終わる前に、白い面が見えた。
*
人の顔ではなかった。暗がりの中で、面の眼の部分だけが黒く落ちている。その下から、細い腕が伸びていた。左手に、短い刃があった。
セイバーの身体が横を向く。剣が男の腕を押し上げ、短剣が首の前から逸れた。それでも刃の先が左の襟元を裂き、首の脇に赤い線が走った。白い面が近づく。二人の肩が触れそうになり、セイバーの左肩が下がった。黒い姿が、すぐに離れた。
「っ、く……!」
セイバーが足を踏み直す。銀色の鎧に、首の左側から肩の付け根へと赤いものが流れていた。初めは細い線に見えた。それが、セイバーの身体が動くたび広がっていく。俺は戸口へ手をついた。ライダーが庭へ向き直った。
その時、男の右側で何かが開いた。腕だ。それまで短く見えていたものが、関節のところからほどけていく。長さが合わない。腕の先にあると思っていた部分が、さらに先へ折れ曲がった。
白い面の奥から、掠れた音がした。
「貰、ウ」
伸びた手が、セイバーへ走った。槍のように、まっすぐ。俺にはその行き先が分かった。胸だった。
止めろ、と声を出そうとした。だが、セイバーはもう動いていた。左足が地面を踏み、剣が下から返った。風が鳴った。
伸びていた腕が、急に曲がった。男が引いたのか、剣に弾かれたのか。その一瞬は、はっきり見えなかった。赤いものが散り、長い手がセイバーの胸へ届く前に跳ね上がる。白い面が仰け反った。
「ギ……!」
短い声。セイバーが、さらに剣を返した。男は地面すれすれに身体を伏せ、後ろへ跳んだ。引き戻した右腕には手が残っていた。細長い指が曲がり、黒い衣の前へ折り畳まれる。その腕から、血が落ちていた。
セイバーの剣は、まだ男へ向けられていた。追いついたライダーが、男と道場の間へ立つ。鎖が短く鳴った。男の面がそちらへ向く。セイバーが一歩進んだ。
「来るなら、来い」
声を聞いて、俺はようやく息をした。男は答えなかった。右腕を引いたまま、母屋の方へ身を滑らせる。セイバーの剣がそちらへ動いた時には、もう黒い姿は崩れた戸の陰に入っていた。
ライダーは一歩踏み出しかけ、足を止めた。道場を背にした位置から、暗がりを見据えた。白い面は、二度と出てこなかった。
*
「セイバー!」
俺は庭へ下りていた。彼女は、すぐには振り向かなかった。母屋の陰へ剣を向けたまま、少しずつ下がってくる。
「近づか、ないで。まだ」
言葉が途切れた。鎧を伝って、血が落ちていた。地面に点が出来る。セイバーが下がるたび、その点が増えた。俺は足を止めた。見えていないところへ入れば、また彼女に守らせる。そう分かっていても、目の前で血が流れるのを、ただ見ていることには耐えられなかった。
「ライダー」
声をかけた。
「あいつは、どこにいる」
「姿を消しました。ですが、まだ近くに潜んでいるかもしれません」
ライダーは暗がりを見たまま言った。
「こちらは、私が見ます。セイバーを」
最後まで聞く前に、俺は駆け寄った。セイバーの膝が折れた。右側からセイバーの身体を受け止める。思ったより重かった。立っている時には、こんなふうに重さを預けられたことがなかった。
「シロウ、下がって」
「下がる。一緒にだ」
セイバーは剣を持つ手を上げようとした。その腕が止まる。左の首元から、また血が流れた。俺は息を呑んだ。
「動くな。今、運ぶから」
「リズ、そちらを」
イリヤの声がした。振り向くと、イリヤも戸口から出ていた。リズが俺たちのそばで屈み、セイバーの身体がさらに傾く前に、その背と脚を支えてくれた。イリヤは傷を見て、眉を寄せた。
「中へ。セラ、場所を空けて」
「用意しております」
道場から返事があった。イリヤは布を傷へ当てた。白い布の端が、すぐに赤くなる。
「セイバー。聞こえるわね」
「……はい」
「そのまま、わたしたちに任せて。剣は、もう下ろしていい」
セイバーの目が庭へ動いた。ライダーが、こちらへ一度だけ顔を向けた。
「今は、私がいます」
セイバーの手から、少し力が抜けた。リズがセイバーの身体を持ち上げる。俺も右側を支え直した。イリヤが歩幅を合わせ、傷へ布を当てたままついてくる。道場の前には何も置いておらず、戸も開いていた。さっき空けたところを、俺たちはそのまま通った。
*
セラが広げた寝具へ、セイバーを下ろした。その寝具は、桜の寝床から少し離れたところにあった。衝立のこちら側に灯りが寄せられ、使っていない布が並んでいる。イリヤが膝をついた。
「鎧を解いて。出来る?」
セイバーが頷く。鎧の銀色が薄れた。残った服の肩口が、血を吸っていた。俺はその赤さを見て、手を離しかけた。
「シロウ、そのまま」
イリヤが言った。
「急に支えを外さないで。そこへ、畳んだものを入れるから」
セラが寝具を畳み、俺の手の下へ差し入れた。セイバーの身体の重さがそちらへ移るまで待って、俺は少しずつ腕を抜いた。
指に、血がついていた。自分のものではない。分かっているのに、手を見てしまった。
「セイバー」
呼ぶと、彼女の目がこちらへ動いた。
「息は。苦しくないか」
「大丈夫、です」
声がいつもより細かった。イリヤが傷の近くへ指を添えた。
「喋るのは、少し待って。まず、傷を落ち着かせるわ」
セイバーの唇が閉じた。イリヤは布を当てる位置を変え、空いている手を肩口へかざした。短い、聞き慣れない言葉が続く。指先に、細い光が集まった。セイバーの眉が寄る。俺は思わず身体を乗り出した。
「イリヤ、今のは」
「傷を塞いでいるの。痛みも抑えるけれど、まだ動かさないで」
彼女は手元から目を離さずに答えた。
「セラ、こっちの布。シロウは、右側を支えていて」
俺はセイバーの右肩と背へ、もう一度手を添えた。セラが新しい布を渡し、使ったものを器へ移した。布を替えるわずかな間に、傷が見えた。首の脇から、肩の付け根へ。それ以上は、見ていられなかった。俺はセイバーの顔へ目を戻した。彼女の目は開いていた。俺を見ている。
「あいつは」
思わず声が出た。
「さっきの、面をつけた奴は、何だったんだ」
セイバーの目が、わずかに細くなった。
「近づくまで……気配が」
そこで息をついた。
「今は、いいわ」
イリヤが言った。
「その話は、あとで聞けるわ。シロウも、今は待って」
俺は口を閉じた。セイバーが小さく頷いた。その拍子に肩が動き、イリヤの指が止まる。
「返事も、目だけでいいから」
少し強い声だった。けれど、傷に添えた手は動かなかった。
*
戸口で、ライダーの声がした。
「近づく気配は、今はありません」
俺は顔を上げた。ライダーが道場の内側へ入ってきた。武器は下げていたが、すぐにはしまわなかった。セイバーの様子を見てから、桜の方へ向かう。
「ライダー。サクラを見ていて」
イリヤが言った。
「呼吸や熱が変わったら、すぐに教えて。わたしは、まずこちらを診るわ」
「分かりました」
ライダーが衝立の向こうへ入り、桜の名を呼ぶと、小さな返事があった。
「……怪我、は」
「新しくは、負っていません。横になっていてください」
桜が何か言ったが、その先は聞き取れなかった。リズが戸口へ戻る。
「外、見てる」
イリヤは手を止めずに顔だけ上げた。
「遠くへ行かないでね。変なものが見えたら、追わずに呼んで」
「うん」
リズは正面の戸の脇へ立った。俺はセイバーへ向き直った。傷へ当てた布が、さっきほど急には赤くならなくなっていた。それでも、イリヤは手を離さない。セラも次の布を手に、差し出す時を待っている。
「止まったのか」
小さく訊いた。
「流れる量は減ったわ。でも、まだよ」
イリヤが答える。
「傷が塞がっても、すぐには起こせないわ。魔力もかなり消耗しているもの」
セイバーが目を閉じた。俺は身を乗り出しかけたが、彼女はすぐに目を開けた。息を整え、こちらを見た。
「シロウ。皆は」
「いる。桜も、ライダーがついてる」
答えて、俺は衝立の端から向こうを見た。桜が横になっていた。ライダーがそのそばへ座り、掛け物を直している。桜の目がこちらを向いたので、俺は小さく頷いた。それからセイバーを見る。
「だから、今は休んでてくれ。こっちは、俺たちがやる」
セイバーは何か言おうとした。イリヤが彼女の肩へ触れたまま、首を横へ振る。今度は、セイバーも口を閉じた。
俺は彼女の右側へ座り直した。庭にあった剣の音はもう聞こえず、代わりに布を替える音がしていた。セイバーの呼吸が、すぐそばで続いていた。イリヤが新しい布へ手を伸ばす。俺はその一枚を取り、彼女の空いた手へ渡した。