Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
衝立の向こうで、先輩が返事をしていた。声が近づいたり、遠ざかったりする。誰かが布を取り、器を置く。そのたび、桜は顔を向けた。
運び込まれるセイバーの姿は少しだけ見えた。銀色の鎧には血がついていた。あんなに強かった人が、自分で歩けなくなっていた。
「サクラ」
ライダーが呼んだ。
「苦しくなりましたか」
桜は首を横へ振った。身体は熱かった。腹の奥に、鈍い重さがある。それでも、さっき息が出来なかった時よりは、ずっと楽だった。イリヤスフィールがしてくれたことは、まだ効いていた。
「セイバーさんは」
「今、イリヤスフィールが診ています」
ライダーも衝立へ顔を向けた。ライダーの脇腹に巻かれた布に、薄く血が滲んでいる。桜は手を伸ばしかけた。
「ライダーも、まだ」
「動いたので、少し。修復は進んでいますし、これ以上は滲んでいません」
ライダーの右手が、桜の手を受け止めた。
「あなたは、横になっていてください」
静かな声だった。桜は手を戻した。少し前、先輩がこちらを見て、頷いてくれた。それだけで、ここにいていいと言われた気がした。言葉にしてもらった後も、何度も確かめたくなってしまう。
秘密を知られた。それでも、先輩はここから出ていけとは言わなかった。イリヤスフィールも、嫌なものに触れるような顔はしなかった。桜の手を取り、触っていいかと訊いてくれた。お願いしますと答えた時、少しだけ、息がしやすくなった。
また、診てもらえるだろうか。セイバーの手当てが終わってからでいい。今夜すべてが変わらなくてもいいから、あの続きを。
そう思ったところで、寝具の端が動いた。
*
小さな黒いものが、布の縁を越えてきた。桜の指が止まった。ライダーの右手が、すぐに動いた。だが、考えるより先に、桜はその手首をつかんでいた。
「……待って」
声が掠れた。
蟲が、枕のそばで止まった。
『桜』
小さな声だった。声は、向こうで器を動かす音に一度かき消された。それでも、聞き間違えるはずがなかった。
『何をさせておる』
桜は息を止めた。ライダーの手首をつかんだまま、指に力を入れる。
「お爺さま」
唇だけで呼んだつもりが、声になっていた。
『よそ者に、その身体を調べさせるつもりか。誰が許した』
桜は衝立を見た。先輩がいた。見えなくても、声がする。呼べば来てくれるところにいる。それなのに、口が開かなかった。
「わたし、治して、もらいたくて」
やっと出た言葉は、祖父へ向けたものだった。
『そうか。勝手に決めたか』
蟲は動かなかった。何も触れてこない。それでも、桜の腹は固く縮んだ。あの声の後に何があるのかを、身体が覚えていた。帰る道を考えるより先に、帰った後のことが浮かんだ。
「……まだ、何も。調べるところまでは」
言い訳をしていると分かって、喉が詰まった。
『ならば、今のうちじゃ。この家を離れろ』
桜は首を振った。
「今は、セイバーさんが」
『おまえに、何が出来る』
答えられなかった。
『治療は受けるな。ここで聞いたことを、余計な者へ話すな。……分かっておろうな、桜』
最後の呼び方が、優しかった。桜はそれが、一番嫌だった。ライダーの手首を握る指から、力が抜けた。ライダーの右手が動いた。刃が、布の縁を払った。刃の腹に弾かれた蟲が床へ落ち、ライダーの靴の下で潰れた。小さな音がして、声が途切れる。桜は肩を震わせた。
「もう、声はしません」
ライダーが言った。桜は首を振った。そこにいた一匹が動かなくなっても、言われたことは消えなかった。
*
「イリヤスフィールを呼びましょう」
ライダーの声に、桜は顔を上げた。
「今のことを話せば、彼女たちも」
「だめ」
思ったよりはっきりした声が出て、桜はすぐ口を押さえた。衝立の向こうで、先輩が何かを尋ねていた。返ってきたイリヤスフィールの声は、こちらへ向けられたものではなかった。
ライダーは黙っていた。桜は掛け物の端を握った。
「言わないで。今は、呼ばないで」
「サクラ」
「お願い」
ライダーの手が、寝具の上へ戻った。
「ここなら、あなたを診る人がいます。シロウも、あなたにいてほしいと言っています」
桜は頷いた。分かっていた。だからこそ、今、ここから動きたくなかった。目を閉じて、朝まで眠ってしまいたかった。朝になって、もう一度手を差し出してもらえたら。その時には、何も考えずにその手を取れたらいいと思った。
けれど、眠っている間にも時間は過ぎる。祖父は、待つだろうか。命令を聞かなかったことにして、許してくれるだろうか。桜は膝を曲げた。掛け物の下で、足を動かす。
「ここを、出たい」
ライダーの顔が、こちらを向いた。
「今、動けば身体に響きます」
「うん」
「戻って、処置を受けられる保証もありません」
桜は答えられなかった。その言葉が、苦しかった。治してもらいたかった。まだ、治してもらいたかった。
「……ここにいたら、また、調べてもらうことになるから」
言ってから、ライダーの顔を見ることが出来なくなった。自分で望んだことを、今は怖がっている。それでも、ここで寝て待っていることが、もう出来なかった。桜は床へ手をついた。身体を起こすと、目の前が暗くなった。息を吸い、背中を丸める。腹の奥で重いものが動くようで、指先に力が入らない。ライダーが支えた。
「一人では、動かないでください」
ライダーの右腕が背中へ回ると、桜はその腕につかまった。
「一人で、行くから。ライダーは、ここに」
「それは出来ません」
すぐに返ってきた。桜は顔を上げた。自分の腕をつかむ桜の手を、ライダーは外さなかった。
*
衝立の向こうで、セイバーが何かを言った。先輩の声が返る。その声に、桜は身体を戻しかけた。呼べばいい。すぐそこにいるのだから。
桜は唇を開いた。けれど、名前を呼ぶ前に祖父の声が戻ってきた。余計な者へ話すな。声はもう聞こえていなかった。思い出しているだけだと分かっていても、喉は動かなかった。
ライダーは、しばらく桜を支えていた。
「……間桐の家へは、戻りません」
静かに言った。
「あなたを一人にはしない。ですが、あの家へ連れて帰ることには従えません」
桜は目を伏せた。
「うん」
祖父はこの家を離れろと言ったが、戻れとは言っていない。そんな言葉の隙間を探している自分が、情けなかった。けれど、ライダーの言葉には縋りたかった。
「ここを離れたら、一度休める場所を探します。その後のことは、また話しましょう」
桜は頷いた。ライダーが掛け物を持ち上げる。肩へかけられた掛け物を、桜は自分で引き寄せた。さっき先輩とイリヤスフィールが広げていたものだった。
「先輩たちには」
ライダーの手が止まった。
「……今は、言わないで」
返事がなかった。桜は彼女を見た。ライダーは衝立へ顔を向けていた。向こうからは、布を替える音が続いている。桜は待った。自分が頼んでいることが、ひどいことだというのは分かっていた。それでも、取り消せなかった。
「今、呼ぶのはやめます」
ようやく、ライダーが言った。
「ですが、このままでいいとは思っていません」
桜は、また頷いた。それ以上、言えることがなかった。
*
立つと、床が冷たかった。ライダーの右腕につかまり、足を出す。一歩進んだだけで、寝具が遠くなった。
桜は振り返った。枕があった。さっきまで自分の頭を載せていたところが、少し窪んでいる。その横には、使いかけの器が置かれていた。ここへ戻れば、まだ横になれる。
ライダーは桜が動くのを待っていた。向こうで、先輩がイリヤスフィールへ返事をした。桜は、もう一歩を踏み出した。
正面の戸には、リズが立っていた。庭へ身体を向け、暗い母屋の方を見ている。ライダーはそちらへ行かず、廊下へつながる戸へ向かった。取っ手が、ゆっくり動く。衝立の向こうでは、セラが灯りを寄せていた。イリヤスフィールの声が短く続き、先輩が何かを受け取る音がした。
戸が開いた。桜はライダーと一緒に廊下へ出た。振り返っても、先輩の姿は見えなかった。戸が閉じていく。道場の灯りが、細くなった。
*
廊下の端には、木の欠片が寄せてあった。真ん中だけが空いている。桜はそこを歩いた。足を滑らせないように、下ばかり見ていた。ライダーの手が、背中から離れなかった。曲がり角の手前で、膝に力が入らなくなった。立ち止まると、ライダーも止まった。
「ここからは、抱えます」
「でも、腕」
「落としません」
それだけ言って、ライダーは屈んだ。身体が床から離れる。抱き直した時、ライダーの息が詰まった。桜は顔を上げたが、ライダーは何も言わなかった。桜は少しでも重くならないようにと、自分の腕を彼女の肩へ回した。
廊下の先の戸が開いた。外の空気に触れると、頬が冷えた。ライダーが掛け物の端を直し、足まで覆ってくれる。無事な側の縁側から、庭へ下りた。正面の灯りは、母屋の角に隠れていた。ライダーが一度止まり、周囲を確かめた。桜も耳を澄ませたが、戦いの音はもうしなかった。虫の声も、祖父の声も聞こえなかった。それでも、戻れなかった。
庭の脇を進み、塀へ近づく。
「少し揺れます。つかまっていてください」
桜は腕に力を込めた。身体が浮き、塀の向こうに道が見えた。着地の衝撃で腹が痛み、桜は息を止めた。ライダーがすぐ立ち止まり、抱え方を変える。
「大丈夫ですか」
桜は頷こうとして、やめた。
「……少し、待って」
「はい」
ライダーは待ってくれた。桜は息を吐いた。塀の向こうに、屋根が見える。まだ近かった。呼べば、聞こえるかもしれないくらいに。桜は顔を伏せた。
「もう、行ける」
ライダーが歩き始めた。先輩へ何も言っていないことが、足音のたびに重くなった。ここにいていいと言ってくれた。それなのに、いなくなってしまう。
掛け物を握ると、端に折り目が残っていた。桜はそれを崩さないように持った。家の角を曲がるまで、顔を上げられなかった。