Fate/stay night IF BEYOND THE EVER   作:Мир

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第十九話 空いた場所

 イリヤが布の端を持ち上げると、俺は空いた手で器を寄せ、その手元を見守った。さっきまで、布が離れるとすぐ赤いものが溢れていた。セラが首の脇に残った血を拭うと、傷が見えた。傷の縁が、少しずつ寄っていた。

 

 イリヤの指先に集まる光が、肩口へ移る。セイバーの眉が動き、床に置いた右手が握られた。

 

「痛む?」

「……少し」

「場所が変わったら、言って」

 

 イリヤは短く答え、また聞き慣れない言葉を続けた。

 

 俺はセイバーを右側から支えていた手を見た。今は、彼女の身体を押さえるほどの力は入れていない。それでも、離すのが怖かった。

 

「シロウ」

 

 呼ばれて顔を上げる。

 

「もう、手を離して大丈夫。下に入れた寝具で支えられるわ」

「……ああ」

 

 添えていた手を、少しずつ離した。セイバーの肩は動かなかった。俺は膝の上へ手を戻す。指についた血が、乾き始めていた。

 

「塞がってきたんだな」

「表面はね。でも、奥の傷まで治ったわけじゃない」

 

 イリヤはセイバーを見た。

 

「まだ起きないで。もう少し、このまま診るから」

「分かりました」

 

 返事は、先ほどよりはっきり聞こえた。それだけで、俺は息を吐いていた。セイバーがこちらを見る。何か言うかと思ったが、彼女も小さく息をついただけだった。

 

 イリヤが手を動かす間、俺は灯りを少しずらした。自分の身体が、彼女の手元へ影を落としていた。光が傷の上へ戻る。セラは使った布を器へまとめ、新しいものを取りやすい位置へ置き直した。

 

 庭は静かだった。戸口にいるリズの姿が見える。身体の向きを変え、母屋の方へ目を向けていた。

 

 イリヤが、何度か短い言葉を重ねた。その声が途切れると、イリヤは衝立の向こうへ顔を向けた。

 

「ライダー。サクラの様子はどう?」

 

 返事はなかった。

 

     *

 

 俺も衝立へ目を向けた。桜は眠ったのだろうか。ライダーがそばにいる。眠れたのなら、その方がいい。さっきは、外で音がするたびに目を動かしていたから。

 

「ライダー?」

 

 イリヤが、もう一度呼んだ。今度も返事がなかった。

 

 セラが手に持っていた布を置いた。

 

「見てまいります」

 

 衝立の端へ回ったセラは、すぐに足を止めた。

 

「……お嬢様」

 

 その呼び方で、俺は立ち上がっていた。

 

「どうした」

「お二人とも、いらっしゃいません」

 

 言葉の意味を考えるより先に、セラの横へ出た。寝具があった。枕も、器も、さっき見たところにある。

 

 桜だけが、いなかった。横になっていたところが、浅く窪んでいる。足元へ目を移すと、掛け物もなくなっていた。

 

「桜」

 

 呼んだ。返事がない。ライダーの座っていたところを見る。そこにも誰もいなかった。

 

「廊下か?」

 

 俺は母屋へ続く戸を見た。閉まっている。桜が一人で立ったとは思えなかった。けれど、ライダーが手を貸せば、少し移動することくらいは出来るだろう。そう思って戸へ向かいかけた。

 

「シロウ。どこへ行くの」

 

 イリヤの声に振り返ると、彼女はセイバーの肩口へ手を添えたまま、こちらを見ていた。

 

「廊下を見てくる。まだ、その辺にいるかもしれない」

 

 正面の戸口へ目を向ける。

 

「リズ。桜たち、そっちへ行かなかったか」

「来てない」

 

 正面で庭を見張っていたリズが、首を振った。そちらを通っていないなら、もう一つの戸だ。

 

「一緒に見てくれ。廊下と、横の縁側まで」

 

 リズがイリヤを見る。イリヤは一度、頷いた。

 

「離れないで。壊れた奥の部屋には入らないこと」

「分かった」

「セラ、こっちをお願い」

 

 セラがセイバーのそばへ戻る。俺はリズと並んで、廊下へ続く戸を開けた。

 

     *

 

 廊下の先は暗かった。道場から洩れた灯りが、足元まで伸びている。

 

「桜。ライダー」

 

 少し大きな声で呼んだ。板張りの廊下に、自分の声が返ってきた。

 

 リズが俺の前へ出る。いつもより、ゆっくり歩いていた。曲がり角の先を確かめ、進んでから俺の方を見る。その後ろについていく。廊下に面した無事な部屋を確かめた。戸を開ければ、どこかに桜が座っているような気がした。

 

 寝ているのがつらくなったのかもしれない。ライダーと話すために、少しだけ場所を変えたのかもしれない。呼べば、いつもの声が返ってくる。そう思って、もう一度呼んだ。

 

「桜」

 

 やはり、返事はなかった。

 

 床の端に、木の欠片が寄せてあった。そこを避け、角へ向かう。リズが立ち止まった。

 

「開いてる」

 

 彼女の肩越しに、外が見えた。縁側へ出る戸が開いていて、冷たい空気が入ってくる。

 

 俺はその戸を見た。ランサーが庭にいた時、自分で開けて確かめた。使えると分かって、すぐに閉めた戸だった。

 

「……こっちか」

 

 縁側へ進もうとすると、リズの手が前へ出た。

 

「待って」

 

 彼女が先に外を見た。母屋の角。塀際。縁側の下。俺には怪しいものは見えなかった。リズにも見えていないのか、それとも、俺には分からないものを確かめているのか。

 

 待っている間に、桜の姿が遠ざかっていくような気がした。

 

 リズが一歩進んだ。俺も縁側へ出る。庭に、二人はいなかった。正面の戸口は母屋の角に隠れていた。ここからなら、リズの前を通らずに外へ出られる。自分で、桜を運べる道だと確かめたのだ。

 

「桜!」

 

 塀の方へ声を投げた。

 

 どこかで、車の走る音がした。それが遠ざかると、庭はまた静かになった。リズが縁側の端へ進み、母屋の角を確かめる。俺はそのすぐ後ろにいた。

 

「見えない」

 

 俺は塀を見た。向こうに道がある。そこへ出れば、もう少し先まで見える。角を曲がれば、その先も。縁側の端へ足を寄せた時、リズがこちらを向いた。

 

「シロウ。戻ろう」

 

 俺は、すぐには答えられなかった。道場にはイリヤとセラが残っている。ここにいる間、リズも道場の正面を離れたままだ。

 

「……ああ。一度、戻る」

 

 開いていた戸を閉めた。誰もいない部屋をもう一度見ながら、道場へ引き返した。

 

     *

 

「見つからなかった」

 

 戸を開けて、俺は言った。

 

 イリヤが顔を上げる。

 

「廊下から行ける部屋と、横の縁側を見た。外へ出る戸が開いてた。でも、庭にはいない」

「声は」

「呼んだ。返事もない」

 

 イリヤの目が、俺の後ろへ動いた。リズも首を振り、正面の戸のそばへ戻った。

 

 セイバーがこちらを見ていた。俺は彼女のそばへ戻りかけ、桜の寝床へ目を向けた。やっぱり、いなかった。

 

 ほんの少し前には、そこにいた。ライダーが掛け物を直していた。桜が俺を見たから、俺も頷いた。それが最後だった。

 

「ライダーも、何も言っていなかったのね」

 

 イリヤが訊いた。

 

「ああ。近づく気配は今はないって言って、それから桜のところへ」

「その後、わたしが頼んだのよね」

 

 イリヤは口を閉じた。セイバーの肩へ添えた手を動かし、傷の端を確かめる。

 

 セラが立ち上がった。桜の寝床へ灯りを寄せ、器のそばで屈む。何かを見つけたのか、床を見たまま動きを止めた。

 

「エミヤ様。こちらを」

 

 俺も屈むと、枕に近い床の上に黒いものが見えた。小さな、潰れた蟲だった。さっきまで桜が寝ていた場所の、すぐ脇に。

 

「これ……」

 

 セラは直接触れず、使っていない布を取った。布越しに残骸を拾い、別の器へ載せる。

 

「ここに落ちていました」

 

 蟲の落ちていた場所を示す。

 

 イリヤの目が細くなった。

 

「そのまま置いておいて。あとで確かめるわ」

 

 俺は器へ目を落とした。間桐のことが、頭をよぎった。桜に入れられたもの。ライダーから聞いた話。遠坂たちが調べに行った家。

 

「桜に、何かしたのか」

 

 声に出しても、答える者はいなかった。その残骸を見たところで、いつ来たのかも、誰が潰したのかも分からない。けれど、それが桜のそばにあった。

 

 俺は立ち上がった。

 

「捜してくる」

 

     *

 

「どこを?」

 

 イリヤが訊いた。

 

「まず、家の周りだ。まだ遠くへは行ってないかもしれない」

 

 桜は、あんな状態だった。少し起き上がるだけでも苦しそうだった。一人で歩くなら、まだその辺に。そこまで考えて、ライダーの姿が浮かんだ。

 

 庭を横切った速さ。ランサーの前へ飛んだ鎖。左腕をかばっていても、彼女は俺よりずっと速く動いていた。遠坂は、ライダー自身の魔力で傷が塞がり始めていると言っていた。痛みが残っているからといって、桜を連れては動けないと決めつけられなかった。

 

「それで見つからなかったら」

 

 イリヤの声がした。

 

「……間桐の家。帰ったのかもしれない」

「そう言っていたの?」

「言ってない。でも、他に」

 

 行きそうな場所を考えた。学校。いつもの道。桜が買い物をする店。こんな夜に、あの状態で行きそうな場所は思いつかなかった。間桐の家には、遠坂たちが行っている。もし桜が戻れば、遠坂たちと会えるかもしれない。けれど、あいつらが今どこを調べているのかも、桜が本当にそちらへ向かったのかも、俺は知らなかった。

 

「だったら、少しでも捜した方がいいだろ」

 

 自分の声が強くなった。

 

「ここで待ってる間にも、桜は」

「シロウ」

 

 イリヤは俺を見た。

 

「あの面をつけた敵も、まだいるかもしれないわ」

 

 俺は戸口を見た。白い面が、暗がりから出てきた時のことを思い出す。あの一瞬で、セイバーの首元から血が流れた。

 

「リズに、一緒に来てもらえば」

 

 言ってから、リズを見る。彼女は戸口からこちらを見ていた。さっきも、俺より先に角を確かめてくれた。

 

「リズまで遠くへ行ったら、ここの警戒は誰がするの」

 

 イリヤはセイバーへ目を戻した。

 

「セラには、わたしの手伝いもある。わたしも、今はここを離れられないわ」

 

 それは、分かっていた。庭へ出た時も、廊下を歩いた時も、誰かが先に周りを確かめてくれていた。そうしてもらわなければ、俺は次の角が安全かどうかさえ分からなかった。

 

 それでも、足は戸口へ向いていた。

 

「……俺だけでも」

 

「シロウ。単独では、行かないでください」

 

 セイバーの声に振り向くと、彼女は横になったまま俺を見ていた。

 

「敵の姿を見つけてからでは、間に合いません」

 

 短く言って、息をつく。それ以上、話そうとはしなかった。俺は彼女のそばへ膝をついた。

 

「分かってる。だから、セイバーは休んでてくれ」

 

 口にすると、ひどく勝手な言葉に聞こえた。俺が出ていけば、彼女は本当に休んでいられるだろうか。庭で剣を下ろした時、セイバーはライダーの方を見ていた。今、ライダーもいない。俺は床についた手へ力を込めた。

 

「桜も、まだ苦しそうだったんだ」

 

 さっきより、小さな声が出た。

 

「横になってるだけでも、つらそうで。あのまま外にいるなんて」

「わたしも、まだ診るつもりだったわ」

 

 イリヤは手元を見たまま言った。

 

「楽に出来たところがあるだけで、治療は終わっていないもの。あのまま出てほしくなんてなかった」

 

 俺は彼女を見た。桜へ手を差し出したのも、触れていいかと訊いたのも、イリヤだった。

 

「……悪い。分かってる」

 

 イリヤは少しだけ目を上げた。

 

「うん」

 

 それから、またセイバーの傷へ目を戻した。

 

     *

 

 しばらく、誰も何も言わなかった。

 

 セラが器を動かす。さっきの蟲を入れた器は、治療に使うものから離して置かれていた。

 

 俺は桜の寝床を見た。

 

「ライダーは、桜を守ってた」

 

 口にすると、イリヤがこちらを見る。

 

「さっきも、桜のいる方へランサーを通さなかった。だから、一緒なら」

 

 そこで言葉が止まった。一緒なら、大丈夫なのか。そう思って、傷を負ったライダーにまた全部を任せていいのか。

 

「でも、いなくなる前に、一言くらい」

 

 なぜ言ってくれなかったのか。呼んでくれれば、振り向けた。セイバーのそばを離れられなくても、声は聞けたはずだった。

 

「何があったのかは、まだ分からないわ」

 

 イリヤが言った。

 

「ライダーに聞けていないもの」

 

 桜が出ていきたいと言ったのか。それとも、ここにいられない何かがあったのか。どちらを考えても、桜の顔が浮かんだ。最後に目が合った時、俺はただ頷いただけだった。もう一度声をかけていれば、何か言ってくれただろうか。

 

 考えても、そこから先へは進めなかった。俺は戸口のリズへ顔を向けた。

 

「遠坂たちが戻ったら、すぐに捜してもらおう」

 

 口にするまでに、少し時間がかかった。今すぐ自分が走り出す方が、気持ちだけなら楽だった。けれど、道の先に二人がいなければ、俺は次の道へ行く。その先でも見つからなければ、また別の方へ。

 

「俺たちが見たことを、先に伝える。捜す場所を決める時に、少しでも役立つように」

「ええ」

 

 イリヤが答えた。俺はセラを見た。

 

「最後に桜を見たのは、セイバーに皆がいるかって訊かれた時だ。ライダーも、ちゃんとそばにいた」

「はい」

「その後は、こっちへ戻った。それから先は、見てない」

 

 セラは頷いた。俺が桜から目を離していた間、セラもセイバーの処置を手伝っていた。リズは正面にいた。誰に訊いても、廊下の戸が開くところは見ていないと言う。

 

「桜の掛け物も、なくなってる」

 

 俺は寝床を示した。

 

「外へ出る戸は、俺が確かめたあとに閉めた。さっきは開いてた。それも伝えてくれ」

「承知しました」

 

 セラはそう答えたあと、こちらを見た。

 

「戻られた時には、エミヤ様からもお話しください」

 

 俺は一度、口を閉じた。まだ、出ていくつもりに見えたのかもしれない。

 

「ああ。ここにいる」

 

 言って、床についた手の力を抜いた。

 

     *

 

 リズは正面の戸のそばで、外を見ていた。

 

 俺は衝立の向きを少し変えた。廊下へ続く戸が、部屋の中からも見えるようになる。桜が寝ていたところも、さっきよりよく見えた。枕も寝具も、そのままだ。

 

 使いかけの器へ手を伸ばし、やめた。まだ、片づけたくなかった。

 

「セラ。替えの掛け物、一枚もらえるか」

 

 彼女は壁際に重ねた掛け物から、一枚を取ってくれた。受け取り、桜の枕の横へ置く。戻ってきた時、すぐ使えるように。俺はそれを広げかけたが、寝る場所を空けておこうと思い直して、畳んだままにした。

 

「リズ。こっちの戸も、気にしてくれ」

「うん」

 

 彼女が立つ位置を少し変えた。俺も廊下の戸を確かめる。きちんと閉まっている。誰かが開ければ、今度は見える。

 

 セイバーのそばへ戻ると、イリヤが肩に当てていた布を外すところだった。首筋から肩へ続く傷は、細い線を残して閉じかけていた。俺は膝をついた。

 

「さっきより、いいのか」

「傷は落ち着いてきたわ」

 

 イリヤが答えた。今度は、新しい布をすぐに押し当てることはしなかった。傷の周りへ指を添え、セイバーの顔を見る。

 

「痛みは?」

「軽くなっています。ただ、身体が……」

 

 セイバーは右手を少し動かした。

 

「まだ、重い」

 

 俺はその手を見た。剣を振っていた手だった。今も動く。拳も握れる。それでも、さっき庭に立っていた時のような力は感じられなかった。

 

「休んでいて。続けて診るわ」

 

 イリヤは言った。俺はセイバーの右側へ座った。魔力の供給がうまくいかないことは、前から知っていた。セイバーが自分の力だけで身体を保っていることも。そのうえで、俺は何度も彼女を戦わせてきた。傷が見えなくなれば、また頼れる。今度も、そんなふうに考えかけていたのかもしれなかった。

 

「シロウ」

 

 セイバーが呼んだ。

 

「ここにいるよ」

 

 俺は先に答えた。彼女は俺を見て、ゆっくり息を吐いた。

 

 イリヤが肩口へ手をかざす。セラはそばに膝をつき、必要なものを寄せていた。リズは外を見ている。

 

 俺は廊下の戸へ目を向けた。開かなかった。

 

 少し前まで、桜もこの部屋にいた。ここにいていいと、俺は言った。治してもらおうと、一緒に掛け物を広げた。何が足りなかったのか。何を言えばよかったのか。桜がいないところで考えても、答えは返ってこなかった。

 

「シロウ、灯りをもう少し」

 

 イリヤが言った。俺は顔を戻した。

 

「こっちでいいか」

「うん。ありがとう」

 

 彼女の手元を照らすように、灯りを寄せた。

 

 桜の寝床は、そのままにしておいた。

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