Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
イリヤが布の端を持ち上げると、俺は空いた手で器を寄せ、その手元を見守った。さっきまで、布が離れるとすぐ赤いものが溢れていた。セラが首の脇に残った血を拭うと、傷が見えた。傷の縁が、少しずつ寄っていた。
イリヤの指先に集まる光が、肩口へ移る。セイバーの眉が動き、床に置いた右手が握られた。
「痛む?」
「……少し」
「場所が変わったら、言って」
イリヤは短く答え、また聞き慣れない言葉を続けた。
俺はセイバーを右側から支えていた手を見た。今は、彼女の身体を押さえるほどの力は入れていない。それでも、離すのが怖かった。
「シロウ」
呼ばれて顔を上げる。
「もう、手を離して大丈夫。下に入れた寝具で支えられるわ」
「……ああ」
添えていた手を、少しずつ離した。セイバーの肩は動かなかった。俺は膝の上へ手を戻す。指についた血が、乾き始めていた。
「塞がってきたんだな」
「表面はね。でも、奥の傷まで治ったわけじゃない」
イリヤはセイバーを見た。
「まだ起きないで。もう少し、このまま診るから」
「分かりました」
返事は、先ほどよりはっきり聞こえた。それだけで、俺は息を吐いていた。セイバーがこちらを見る。何か言うかと思ったが、彼女も小さく息をついただけだった。
イリヤが手を動かす間、俺は灯りを少しずらした。自分の身体が、彼女の手元へ影を落としていた。光が傷の上へ戻る。セラは使った布を器へまとめ、新しいものを取りやすい位置へ置き直した。
庭は静かだった。戸口にいるリズの姿が見える。身体の向きを変え、母屋の方へ目を向けていた。
イリヤが、何度か短い言葉を重ねた。その声が途切れると、イリヤは衝立の向こうへ顔を向けた。
「ライダー。サクラの様子はどう?」
返事はなかった。
*
俺も衝立へ目を向けた。桜は眠ったのだろうか。ライダーがそばにいる。眠れたのなら、その方がいい。さっきは、外で音がするたびに目を動かしていたから。
「ライダー?」
イリヤが、もう一度呼んだ。今度も返事がなかった。
セラが手に持っていた布を置いた。
「見てまいります」
衝立の端へ回ったセラは、すぐに足を止めた。
「……お嬢様」
その呼び方で、俺は立ち上がっていた。
「どうした」
「お二人とも、いらっしゃいません」
言葉の意味を考えるより先に、セラの横へ出た。寝具があった。枕も、器も、さっき見たところにある。
桜だけが、いなかった。横になっていたところが、浅く窪んでいる。足元へ目を移すと、掛け物もなくなっていた。
「桜」
呼んだ。返事がない。ライダーの座っていたところを見る。そこにも誰もいなかった。
「廊下か?」
俺は母屋へ続く戸を見た。閉まっている。桜が一人で立ったとは思えなかった。けれど、ライダーが手を貸せば、少し移動することくらいは出来るだろう。そう思って戸へ向かいかけた。
「シロウ。どこへ行くの」
イリヤの声に振り返ると、彼女はセイバーの肩口へ手を添えたまま、こちらを見ていた。
「廊下を見てくる。まだ、その辺にいるかもしれない」
正面の戸口へ目を向ける。
「リズ。桜たち、そっちへ行かなかったか」
「来てない」
正面で庭を見張っていたリズが、首を振った。そちらを通っていないなら、もう一つの戸だ。
「一緒に見てくれ。廊下と、横の縁側まで」
リズがイリヤを見る。イリヤは一度、頷いた。
「離れないで。壊れた奥の部屋には入らないこと」
「分かった」
「セラ、こっちをお願い」
セラがセイバーのそばへ戻る。俺はリズと並んで、廊下へ続く戸を開けた。
*
廊下の先は暗かった。道場から洩れた灯りが、足元まで伸びている。
「桜。ライダー」
少し大きな声で呼んだ。板張りの廊下に、自分の声が返ってきた。
リズが俺の前へ出る。いつもより、ゆっくり歩いていた。曲がり角の先を確かめ、進んでから俺の方を見る。その後ろについていく。廊下に面した無事な部屋を確かめた。戸を開ければ、どこかに桜が座っているような気がした。
寝ているのがつらくなったのかもしれない。ライダーと話すために、少しだけ場所を変えたのかもしれない。呼べば、いつもの声が返ってくる。そう思って、もう一度呼んだ。
「桜」
やはり、返事はなかった。
床の端に、木の欠片が寄せてあった。そこを避け、角へ向かう。リズが立ち止まった。
「開いてる」
彼女の肩越しに、外が見えた。縁側へ出る戸が開いていて、冷たい空気が入ってくる。
俺はその戸を見た。ランサーが庭にいた時、自分で開けて確かめた。使えると分かって、すぐに閉めた戸だった。
「……こっちか」
縁側へ進もうとすると、リズの手が前へ出た。
「待って」
彼女が先に外を見た。母屋の角。塀際。縁側の下。俺には怪しいものは見えなかった。リズにも見えていないのか、それとも、俺には分からないものを確かめているのか。
待っている間に、桜の姿が遠ざかっていくような気がした。
リズが一歩進んだ。俺も縁側へ出る。庭に、二人はいなかった。正面の戸口は母屋の角に隠れていた。ここからなら、リズの前を通らずに外へ出られる。自分で、桜を運べる道だと確かめたのだ。
「桜!」
塀の方へ声を投げた。
どこかで、車の走る音がした。それが遠ざかると、庭はまた静かになった。リズが縁側の端へ進み、母屋の角を確かめる。俺はそのすぐ後ろにいた。
「見えない」
俺は塀を見た。向こうに道がある。そこへ出れば、もう少し先まで見える。角を曲がれば、その先も。縁側の端へ足を寄せた時、リズがこちらを向いた。
「シロウ。戻ろう」
俺は、すぐには答えられなかった。道場にはイリヤとセラが残っている。ここにいる間、リズも道場の正面を離れたままだ。
「……ああ。一度、戻る」
開いていた戸を閉めた。誰もいない部屋をもう一度見ながら、道場へ引き返した。
*
「見つからなかった」
戸を開けて、俺は言った。
イリヤが顔を上げる。
「廊下から行ける部屋と、横の縁側を見た。外へ出る戸が開いてた。でも、庭にはいない」
「声は」
「呼んだ。返事もない」
イリヤの目が、俺の後ろへ動いた。リズも首を振り、正面の戸のそばへ戻った。
セイバーがこちらを見ていた。俺は彼女のそばへ戻りかけ、桜の寝床へ目を向けた。やっぱり、いなかった。
ほんの少し前には、そこにいた。ライダーが掛け物を直していた。桜が俺を見たから、俺も頷いた。それが最後だった。
「ライダーも、何も言っていなかったのね」
イリヤが訊いた。
「ああ。近づく気配は今はないって言って、それから桜のところへ」
「その後、わたしが頼んだのよね」
イリヤは口を閉じた。セイバーの肩へ添えた手を動かし、傷の端を確かめる。
セラが立ち上がった。桜の寝床へ灯りを寄せ、器のそばで屈む。何かを見つけたのか、床を見たまま動きを止めた。
「エミヤ様。こちらを」
俺も屈むと、枕に近い床の上に黒いものが見えた。小さな、潰れた蟲だった。さっきまで桜が寝ていた場所の、すぐ脇に。
「これ……」
セラは直接触れず、使っていない布を取った。布越しに残骸を拾い、別の器へ載せる。
「ここに落ちていました」
蟲の落ちていた場所を示す。
イリヤの目が細くなった。
「そのまま置いておいて。あとで確かめるわ」
俺は器へ目を落とした。間桐のことが、頭をよぎった。桜に入れられたもの。ライダーから聞いた話。遠坂たちが調べに行った家。
「桜に、何かしたのか」
声に出しても、答える者はいなかった。その残骸を見たところで、いつ来たのかも、誰が潰したのかも分からない。けれど、それが桜のそばにあった。
俺は立ち上がった。
「捜してくる」
*
「どこを?」
イリヤが訊いた。
「まず、家の周りだ。まだ遠くへは行ってないかもしれない」
桜は、あんな状態だった。少し起き上がるだけでも苦しそうだった。一人で歩くなら、まだその辺に。そこまで考えて、ライダーの姿が浮かんだ。
庭を横切った速さ。ランサーの前へ飛んだ鎖。左腕をかばっていても、彼女は俺よりずっと速く動いていた。遠坂は、ライダー自身の魔力で傷が塞がり始めていると言っていた。痛みが残っているからといって、桜を連れては動けないと決めつけられなかった。
「それで見つからなかったら」
イリヤの声がした。
「……間桐の家。帰ったのかもしれない」
「そう言っていたの?」
「言ってない。でも、他に」
行きそうな場所を考えた。学校。いつもの道。桜が買い物をする店。こんな夜に、あの状態で行きそうな場所は思いつかなかった。間桐の家には、遠坂たちが行っている。もし桜が戻れば、遠坂たちと会えるかもしれない。けれど、あいつらが今どこを調べているのかも、桜が本当にそちらへ向かったのかも、俺は知らなかった。
「だったら、少しでも捜した方がいいだろ」
自分の声が強くなった。
「ここで待ってる間にも、桜は」
「シロウ」
イリヤは俺を見た。
「あの面をつけた敵も、まだいるかもしれないわ」
俺は戸口を見た。白い面が、暗がりから出てきた時のことを思い出す。あの一瞬で、セイバーの首元から血が流れた。
「リズに、一緒に来てもらえば」
言ってから、リズを見る。彼女は戸口からこちらを見ていた。さっきも、俺より先に角を確かめてくれた。
「リズまで遠くへ行ったら、ここの警戒は誰がするの」
イリヤはセイバーへ目を戻した。
「セラには、わたしの手伝いもある。わたしも、今はここを離れられないわ」
それは、分かっていた。庭へ出た時も、廊下を歩いた時も、誰かが先に周りを確かめてくれていた。そうしてもらわなければ、俺は次の角が安全かどうかさえ分からなかった。
それでも、足は戸口へ向いていた。
「……俺だけでも」
「シロウ。単独では、行かないでください」
セイバーの声に振り向くと、彼女は横になったまま俺を見ていた。
「敵の姿を見つけてからでは、間に合いません」
短く言って、息をつく。それ以上、話そうとはしなかった。俺は彼女のそばへ膝をついた。
「分かってる。だから、セイバーは休んでてくれ」
口にすると、ひどく勝手な言葉に聞こえた。俺が出ていけば、彼女は本当に休んでいられるだろうか。庭で剣を下ろした時、セイバーはライダーの方を見ていた。今、ライダーもいない。俺は床についた手へ力を込めた。
「桜も、まだ苦しそうだったんだ」
さっきより、小さな声が出た。
「横になってるだけでも、つらそうで。あのまま外にいるなんて」
「わたしも、まだ診るつもりだったわ」
イリヤは手元を見たまま言った。
「楽に出来たところがあるだけで、治療は終わっていないもの。あのまま出てほしくなんてなかった」
俺は彼女を見た。桜へ手を差し出したのも、触れていいかと訊いたのも、イリヤだった。
「……悪い。分かってる」
イリヤは少しだけ目を上げた。
「うん」
それから、またセイバーの傷へ目を戻した。
*
しばらく、誰も何も言わなかった。
セラが器を動かす。さっきの蟲を入れた器は、治療に使うものから離して置かれていた。
俺は桜の寝床を見た。
「ライダーは、桜を守ってた」
口にすると、イリヤがこちらを見る。
「さっきも、桜のいる方へランサーを通さなかった。だから、一緒なら」
そこで言葉が止まった。一緒なら、大丈夫なのか。そう思って、傷を負ったライダーにまた全部を任せていいのか。
「でも、いなくなる前に、一言くらい」
なぜ言ってくれなかったのか。呼んでくれれば、振り向けた。セイバーのそばを離れられなくても、声は聞けたはずだった。
「何があったのかは、まだ分からないわ」
イリヤが言った。
「ライダーに聞けていないもの」
桜が出ていきたいと言ったのか。それとも、ここにいられない何かがあったのか。どちらを考えても、桜の顔が浮かんだ。最後に目が合った時、俺はただ頷いただけだった。もう一度声をかけていれば、何か言ってくれただろうか。
考えても、そこから先へは進めなかった。俺は戸口のリズへ顔を向けた。
「遠坂たちが戻ったら、すぐに捜してもらおう」
口にするまでに、少し時間がかかった。今すぐ自分が走り出す方が、気持ちだけなら楽だった。けれど、道の先に二人がいなければ、俺は次の道へ行く。その先でも見つからなければ、また別の方へ。
「俺たちが見たことを、先に伝える。捜す場所を決める時に、少しでも役立つように」
「ええ」
イリヤが答えた。俺はセラを見た。
「最後に桜を見たのは、セイバーに皆がいるかって訊かれた時だ。ライダーも、ちゃんとそばにいた」
「はい」
「その後は、こっちへ戻った。それから先は、見てない」
セラは頷いた。俺が桜から目を離していた間、セラもセイバーの処置を手伝っていた。リズは正面にいた。誰に訊いても、廊下の戸が開くところは見ていないと言う。
「桜の掛け物も、なくなってる」
俺は寝床を示した。
「外へ出る戸は、俺が確かめたあとに閉めた。さっきは開いてた。それも伝えてくれ」
「承知しました」
セラはそう答えたあと、こちらを見た。
「戻られた時には、エミヤ様からもお話しください」
俺は一度、口を閉じた。まだ、出ていくつもりに見えたのかもしれない。
「ああ。ここにいる」
言って、床についた手の力を抜いた。
*
リズは正面の戸のそばで、外を見ていた。
俺は衝立の向きを少し変えた。廊下へ続く戸が、部屋の中からも見えるようになる。桜が寝ていたところも、さっきよりよく見えた。枕も寝具も、そのままだ。
使いかけの器へ手を伸ばし、やめた。まだ、片づけたくなかった。
「セラ。替えの掛け物、一枚もらえるか」
彼女は壁際に重ねた掛け物から、一枚を取ってくれた。受け取り、桜の枕の横へ置く。戻ってきた時、すぐ使えるように。俺はそれを広げかけたが、寝る場所を空けておこうと思い直して、畳んだままにした。
「リズ。こっちの戸も、気にしてくれ」
「うん」
彼女が立つ位置を少し変えた。俺も廊下の戸を確かめる。きちんと閉まっている。誰かが開ければ、今度は見える。
セイバーのそばへ戻ると、イリヤが肩に当てていた布を外すところだった。首筋から肩へ続く傷は、細い線を残して閉じかけていた。俺は膝をついた。
「さっきより、いいのか」
「傷は落ち着いてきたわ」
イリヤが答えた。今度は、新しい布をすぐに押し当てることはしなかった。傷の周りへ指を添え、セイバーの顔を見る。
「痛みは?」
「軽くなっています。ただ、身体が……」
セイバーは右手を少し動かした。
「まだ、重い」
俺はその手を見た。剣を振っていた手だった。今も動く。拳も握れる。それでも、さっき庭に立っていた時のような力は感じられなかった。
「休んでいて。続けて診るわ」
イリヤは言った。俺はセイバーの右側へ座った。魔力の供給がうまくいかないことは、前から知っていた。セイバーが自分の力だけで身体を保っていることも。そのうえで、俺は何度も彼女を戦わせてきた。傷が見えなくなれば、また頼れる。今度も、そんなふうに考えかけていたのかもしれなかった。
「シロウ」
セイバーが呼んだ。
「ここにいるよ」
俺は先に答えた。彼女は俺を見て、ゆっくり息を吐いた。
イリヤが肩口へ手をかざす。セラはそばに膝をつき、必要なものを寄せていた。リズは外を見ている。
俺は廊下の戸へ目を向けた。開かなかった。
少し前まで、桜もこの部屋にいた。ここにいていいと、俺は言った。治してもらおうと、一緒に掛け物を広げた。何が足りなかったのか。何を言えばよかったのか。桜がいないところで考えても、答えは返ってこなかった。
「シロウ、灯りをもう少し」
イリヤが言った。俺は顔を戻した。
「こっちでいいか」
「うん。ありがとう」
彼女の手元を照らすように、灯りを寄せた。
桜の寝床は、そのままにしておいた。