Fate/stay night IF BEYOND THE EVER   作:Мир

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第二十一話 もう一つの鞘

 目を閉じても、イリヤの手の位置は分かった。右手を下から支えられ、手首には指が添えられている。少し離れたところで、セラが布を畳んだ。戸口の方では、リズが足を踏み替えていた。

 

「さっき触れたものを、探してみて」

 

 イリヤが言った。

 

「胸のあたりか」

「場所を決めなくていいわ。あなたの中に、どんな形であるかを感じて」

 

 そう言われても、普段どおりに身体へ意識を向けるのとは勝手が違う。強化する物なら、手で触れられる。壊れたところを調べる時も、目で見て、どこから力を通すか考えられた。だが、今度は自分だ。どこまでが俺の身体で、どこからが鞘なのか。その境目さえ分からない。

 

「……見つからない」

「まだ急がなくていいの」

 

 指先が、手首の内側を押さえた。

 

「わたしも見ているから」

 

 俺は頷いた。セイバーが触れた時、胸の奥が温かくなった。まずは、その感覚を思い出してみる。呼吸が深くなる。力を集めようとすると、肘のあたりが強張った。イリヤは指を動かし、俺がそちらへ意識を取られるより早く、余計な力を抜かせた。何度か、それを繰り返した。

 

 ぼんやりと、長い形が浮かんだ。見えているのか、考えているのか、自分でも区別がつかない。中へ何かを収めるものだと聞いたから、勝手に想像しているだけなのかもしれなかった。俺が知っている日本刀の鞘とも、飾り物の剣の鞘とも違っていた。

 

 金の縁。その間に広がる、深い青。形を確かめようとすると、細部まで勝手に浮かんできた。見た覚えのない装飾が、初めからそこにあったものとして収まっていく。

 

「イリヤ」

「うん」

「……何となく、分かる」

 

 声にした途端、形が遠くなりかけた。

 

「話さなくていいわ。そのまま」

 

 手首を支える指が、少し強くなった。俺は口を閉じた。十年間、自分が持っていることさえ知らなかった。それなのに、どこがどうなっているか、触らなくても分かる気がした。握ったこともないものが、手の中へ収まりそうだった。

 

「形は、見えているのね」

 

 俺は小さく頷いた。

 

「身体の中を無理に動かそうとしないで。まず、それだけを外に思い描いてみて」

 

 言われたとおりにした。身体から引き剥がすところは、考えられなかった。自分の肉と馴染んでいるものを、どうやって分ければいいのか、まるで見当がつかない。ただ、形なら分かる。俺の手に収まるところなら、思い浮かべられる。そこにあれば、セイバーへ渡せる。

 

 右手の指をわずかに曲げると、何もなかったはずの手のひらに、硬いものが触れた。

 

     *

 

「シロウ、待って」

 

 イリヤの声で目を開けた。青と金が、膝の上にあった。右手で握っている。自分が何を持ったのか、理解するまでに少し間があった。長いものの先が床へ下がりかけ、慌てて左手で受け止める。

 

 重かった。想像の中にあった時には、重さなんてなかった。表面は冷たく、金色の縁に灯りが映っていた。俺の指が動くと、その光も一緒に動いた。

 

「……出た」

 

 間の抜けた声が出た。セラが手を止めていた。戸口にいたリズも、こちらを見ている。セイバーは寝具に右手をつき、少しだけ身体を起こしかけた。痛みに眉を寄せ、また寝具へ身を預ける。それでも、俺が持つものからは目を離さなかった。

 

「セイバー。これか」

 

 問いかけると、彼女は頷いた。

 

「はい。それは――」

 

「シロウ、動かないで」

 

 イリヤの声が重なった。俺は、差し出しかけた手を止めた。

 

「痛むところは?」

「ない。急に重くなっただけで」

「胸は。息苦しくない?」

「ああ。何とも」

 

 イリヤは俺の手首に触れたまま、もう一方の手を胸元へ移した。イリヤの視線が、鞘と俺の間を行き来していた。

 

「何か、まずかったのか」

「……少し、黙って」

 

 いつもなら言い返すところだったが、今の彼女の顔を見ては何も言えなかった。

 

 俺には、膝の上の重みしか分からなかった。身体が軽くなった感じも、何かが抜けた感じもない。それがいいことなのか、悪いことなのか。

 

 やがてイリヤは、胸に添えていた手を離した。

 

「残ってる」

「何が」

「鞘よ。あなたの中に」

 

 俺は膝へ目を落とした。そこには、確かに鞘がある。

 

「これが?」

「そちらもあるわ」

 

 イリヤが、その金色の縁を指で示した。

 

「でも、さっき調べたものは、まだ身体の中に残っているの」

 

「じゃあ、取り出せてないのか」

「ええ」

 

 イリヤは俺を見た。

 

「シロウ。あなた、これを作ったのね」

 

     *

 

「作ったって……投影か」

 

 自分で言って、膝の上の鞘を持ち直した。そういうつもりではなかった。セイバーのものを、セイバーに返そうとしていた。新しく作る必要なんてなかったし、出来るとも思っていなかった。

 

「何をしたか、覚えてる?」

「形を思い浮かべた。手にあったら、こうだろうって。それだけだ」

「途中で、身体の中から引き出す感じは」

「ない。どこを掴めばいいか、分からなかったから」

 

 イリヤが黙ってしまったので、落ち着かなくなって鞘を少し持ち上げた。

 

「……壊したわけじゃ、ないんだよな」

「壊してないわ。元のものは、そのままよ」

「なら、もう一度――」

「だめ」

 

 即座に止められた。

 

「どうしてすぐ、もう一度なの」

「今度は、ちゃんと取り出せるかもしれないだろ」

「その前に、今出来たものを確かめさせて」

 

 イリヤは鞘を見た。俺の手に添えていた指先が、金の縁をなぞる。けれど、途中で指を浮かせた。

 

「見た目だけを真似たものじゃない」

 

 小さな声だった。

 

「これを、あなたの魔力で……」

 

 俺を見る目が、いつもと違っていた。叱られる時とも、からかわれる時とも違う。何か訊きたいのに、その問いを選んでいるような顔だった。

 

「おかしいのか」

「おかしいわ」

 

 はっきり言われた。こちらが口を閉じると、イリヤは少しだけ眉を上げた。

 

「シロウが悪いことをした、という意味じゃないわよ」

 

「それは、分かってるけど」

 

 俺は鞘を見た。金属を叩いて形を整えたわけでも、塗料を塗ったわけでもない。何日もかけて作られたはずのものが、手の中にあった。形だけなら、投影はそういう魔術だ。だが、これが形だけではないのなら。

 

「セイバー」

 

 考えるより先に、彼女へ顔を向けた。

 

「これ、使えそうか」

 

 イリヤの指が止まった。セイバーは、鞘から俺へ目を上げた。

 

「触れても?」

「もちろん。セイバーに渡すために、やったんだから」

 

 寝具のそばまで、膝で寄る。セイバーが差し出した右手へ、鞘の上端を載せた。重さをすべて預けず、俺も下から支えておく。セイバーは青い面に指を触れさせ、目を閉じた。俺の手のひらに、微かな温かさが伝わってくる。彼女が目を開くと、その顔から戸惑いが少し消えていた。

 

「私に応じています」

「じゃあ」

「はい。力を通してみましょう」

 

 俺はイリヤを振り返った。彼女は、まだこちらを見ていた。

 

「……イリヤ?」

「分かったわ。今は、そちらを先にしましょう」

 

 イリヤはセイバーのそばへ戻り、首筋の傷を確かめた。

 

     *

 

 鞘を受け取ったセイバーは、右手を添えたまま静かになった。灯りに映る金色が、少し明るくなったように見えた。俺が感じていた温かさは、手を離すと分からなくなった。代わりに、セイバーがゆっくり息を吐いた。固くなっていた肩が、寝具へ沈む。イリヤが傷のそばへ指を添えた。

 

「響く?」

「……先ほどより、軽い」

 

 セイバーの左手が動いた。指を曲げては開き、それから手首を持ち上げる。さっきまでなら、肩へ伝わる動きに眉が寄っていた。今は、息を止めずに動かしている。

 

「痛みが引いています」

 

 俺は、思わず身体を寄せた。首筋にあった細い傷の線が、薄くなっていた。目を凝らしている間にも、端が見つけにくくなる。

 

「治ってるんだな」

「ええ」

 

 セイバーが答えた。その声を聞いて、膝の上で握っていた手を開いた。

 

 間に合った。そう思ってから、今夜は何度、同じことばかり考えているのだろうと思った。

 

 セイバーは傷つくたび、敵の方を見ていた。俺が何をすればいいか考えている間にも、身体を動かしていた。今は、横になったまま、自分の腕を確かめている。それだけのことが、ひどく嬉しかった。

 

「よかった」

 

 口から出ると、セイバーがこちらを見た。

 

「シロウ」

「いや、俺は、取り出そうとして失敗しただけなんだけど」

 

 言ってから、余計な言い方だったかと思った。セイバーは鞘へ視線を落とした。

 

「私には、助けになりました」

「……そうか」

「はい。ありがとう」

 

 俺は頷いた。イリヤが、セイバーの左肩から手を離す。

 

「すぐ大きく動かさないでね。少しずつ確かめるのよ」

「分かっています」

 

 そう言いながら、セイバーはもう上体を起こしかけていた。俺とイリヤが同時に手を出すと、セイバーは途中で止まった。

 

「座るだけです」

「その座るだけで、さっき痛がってたじゃないか」

「今は、その痛みが引いている」

「だから、ゆっくり」

 

 イリヤに言われ、セイバーは少し困った顔になった。セラが背中へ畳んだ寝具を当てる。俺が右側を支え、ゆっくりと起こした。セイバーは肩を押さえることもなく座れたが、姿勢が落ち着くと長く息を吐いた。

 

「どうだ」

「傷は、もうほとんど感じません。ただ……」

 

 彼女は膝の上の左手を見た。

 

「力が戻りきったわけではないようです」

 

 イリヤが頷いた。

 

「傷を治せても、使った魔力まで全部戻るわけじゃないもの」

 

 それから、こちらへ手を伸ばした。

 

「次はシロウの番ね」

 

 俺も、右手を出した。

 

     *

 

 今度は、目を閉じる前にセイバーの顔を見た。彼女は寝具に背を預け、鞘を傍らへ置いていた。痛みを堪えながら横になっていた相手が、こちらへ頷いてくれる。

 

「お願いします、シロウ」

「ああ」

 

 イリヤが俺の右手を取った。

 

「さっき調べたところを、繋ぎ直すわ。シロウにも、合わせてもらうから」

「どうすればいい」

「最初は何もしないで。わたしが合図してから、少しずつ」

 

 イリヤの表情が変わった。膝の上で俺の手を支える。もう一方の手が、肘より上に触れた。目を閉じると、さっきよりもはっきり、自分の内側へ意識が向いた。魔術を使う。そのために身体を切り替えるところまでは、いつもと同じだった。けれど、そこで止められた。

 

「何かを作ろうとしないで」

「……分かってる」

「強くする必要もないの。今は、セイバーに渡すだけ」

 

 渡すだけ。簡単そうに聞こえるが、その相手が自分の外にいる。どこへ向ければいいか分からず、力が胸のあたりに集まった。腕が重くなり、その先へ押し出そうとする。すぐに、手首を握られた。

 

「そっちへ押さないで。少し戻して」

「戻すって」

「止めてしまわなくていいわ。力を抜くの」

 

 息を吐いた。頭の中で、イリヤの言ったことを一つずつ繰り返す。無理に増やさない。手から押し出そうとしない。それでも、途切れさせない。

 

 イリヤの指が動くたび、内側の感触が変わった。自分では分からなかったところを、細く辿られている。時々、奥歯に力が入った。

 

「痛い?」

「少し、変な感じがする」

「どこ」

「胸から、左側。痛いっていうより、引っ張られてるような」

 

 イリヤはしばらく黙り、腕に触れる手を止めて、俺が次の息を吐くまで待った。

 

「今は?」

「……収まった」

「じゃあ、もう一度。今度は、もっと少なくていいわ」

 

 やり直した。失敗するたびに焦ったが、彼女は急がなかった。同じところを、少し違う加減で辿る。俺が先へ進もうとすると止められた。止まりすぎると、もう少しだけ続けるように言われる。

 

 そのうち、部屋の音が遠くなった。布を動かす音も、庭を吹く風も、聞こえてはいた。だが、そちらへ顔を向けたいとは思わなくなった。イリヤの声を聞き、自分の中にある力を確かめる。

 

 何度目かに、胸の奥でつかえていた感触が変わった。力を込めていないのに、少しずつ抜けていく。

 

「あ」

 

 思わず声が出た。

 

「そのまま」

 

 イリヤが言う。

 

「セイバー?」

「……届いています」

 

 目を開けかけた。

 

「まだ、こっちを見なくていいわ」

 

 イリヤの声に、瞼を閉じ直す。届いている。言われた意味を考えた途端、身体の中の感覚が乱れかけた。慌てて戻そうとすると、それさえ指で止められる。

 

「余計なことをしないの」

「……悪い」

「うれしいのは、分かったから」

 

 目を閉じているのに、見られた気がした。俺は口を結び、呼吸を整えた。少しずつ、身体からセイバーへ力が渡っていく。どこかを切り開かれたわけでも、何かを無理に引き出されたわけでもなかった。それなのに、身体の内側の重さが変わっていた。

 

 今まで、セイバーはこれを受け取れずにいた。それを思うと、もう少し送れないかと考えてしまう。手首に触れる指の感触が、先に浮かんだ。増やさず、そのまま続けた。

 

     *

 

「少しずつ、手を離すわ」

 

 イリヤの声がした。肘の上にあった手が離れる。次に、手首を押さえていた指が浮いた。俺は動かなかった。同じように呼吸を続け、自分の中にある流れを意識する。急に止まるかもしれないと思った。けれど、変わらなかった。

 

「セイバー」

「続いています」

 

 返事があった。イリヤはもう、俺に触れていない。それでも、渡せている。

 

「……いいわ。目を開けて、シロウ」

 

 灯りが眩しく感じた。イリヤが、すぐそばにいた。離した両手を、自分の膝へ戻している。額に、薄く汗が浮いていた。

 

「出来たのか」

「ええ。手を離しても、ちゃんと届いてる」

 

 セイバーを見る。彼女は、こちらの視線を受けて頷いた。

 

「分かります。今までとは違う」

「俺の魔力が?」

「はい。シロウからです」

 

 右手を握り、開いてみる。何かが見えるわけではなかったが、セイバーには届いているのだ。

 

 息を吐くと、肩が重くなった。

 

「あれ」

 

 姿勢を直そうとして、片手を床についた。イリヤがすぐにこちらへ寄った。

 

「気持ち悪い?」

「いや。少し、疲れただけだ」

「鞘も作ったもの。疲れるでしょう」

 

 言われて、初めて自分の額を拭った。袖が湿った。ずっと座っていただけのつもりだったが、背中にも汗をかいている。

 

「セイバーに届くようになった分、シロウも使うのよ。何も減らないと思っていた?」

「そこまでは思ってない。ただ、急に力が抜けたから」

「もっと渡そうとしなかったのは、よかったわ」

 

 イリヤが、少し満足そうに言った。

 

「ちゃんと言うことを聞けるじゃない」

 

「……それぐらい、出来るぞ」

「さっきまで、何度止めたかしら」

 

 言い返せなかった。セイバーが口元へ手を添えた。こちらが見ると、彼女はすぐに表情を戻した。

 

「シロウ。今は、これで十分です」

「本当に?」

「ええ。私にも、休む時間は必要ですから」

 

 その言葉に、少し驚いた。俺が顔に出していたのだろう。セイバーは眉を寄せた。

 

「何ですか」

「いや。セイバーから休むって言ったから」

「私も、必要な時には休みます」

「なら、よかった」

 

 今度こそ、俺も息をつけた。

 

     *

 

 セラが水を持ってきてくれた。先に俺へ差し出された器を、イリヤの方へ寄せる。

 

「イリヤも」

「シロウの分よ、それ」

「もう一つ、もらうから」

 

 セラは何も言わず、二つ目の器を俺の前へ置いた。どうやら、見越されていたらしい。

 

「ありがとうございます、セラ」

「お二人とも、座ってお飲みください」

 

 立って何かをしようとしたわけではない。まだ。俺は器を持ったまま、大人しく座り直した。

 

 イリヤが水を飲む。喉が動くところを見て、自分も口をつけた。少し温くなっていたが、飲み込むと、思ったよりも喉が渇いていたことが分かった。

 

「イリヤ」

 

 器を置いてから、呼んだ。

 

「ありがとう。鞘も、供給の方も」

「鞘を作ったのは、シロウでしょう」

「一人だったら、何があるかも分からなかった」

 

 彼女は、空になった器を両手で持っていた。

 

「イリヤが見つけてくれて、セイバーが教えてくれた。だから、出来たんだ」

「……そう」

 

 イリヤは目を伏せ、口元を少しだけ緩めた。

 

「じゃあ、ちゃんと覚えておいてね。わたし、けっこう頑張ったんだから」

「ああ。忘れない」

 

 すぐに答えると、彼女はこちらを見た。そのまま何かを言いかけて、やめた。視線が、セイバーの傍らにある鞘へ移る。

 

 俺もそちらを見た。セイバーは、左腕をゆっくり動かしていた。肘を曲げ、肩の高さを変え、そのたびに動きを止めて確かめる。セラはそのそばで見ていたが、もう、身体を支えてはいなかった。

 

 青い鞘は、寝具の上に置かれている。俺の手で作ったものが、そこにある。元になったものは、まだ俺の中にあった。

 

「変ね」

 

 イリヤが言った。

 

「何が?」

「キリツグがシロウに渡したものが、今度はセイバーを助けるなんて」

 

 彼女は、鞘を見ていた。

 

「それも、もう一本になって」

 

 俺は膝の上へ手を置いた。

 

「親父も、びっくりするだろうな」

「するかしら」

「どうだろう。……あの人、驚いてても、分かりにくい時があったから」

 

 言いながら、あの家に帰ってきた切嗣の顔を思い出した。俺が直したものを見ても、出来た料理を見ても、最初はぼんやりしていた。それから、少し遅れて笑った。

 

 今の鞘を見せたら、何と言うのだろう。褒めるのか、危ないことをしたと叱るのか。それとも、そんなことが出来たんだね、と他人事のように感心するのかもしれない。どれもありそうで、どれも、もう確かめられなかった。

 

「……そういう顔も、わたしは知らないわ」

 

 イリヤが言った。俺は彼女を見た。責める声ではなかった。けれど、何でもない話として流していい声でもなかった。

 

「うん」

 

 何か説明を足しかけて、やめた。イリヤは膝の上で指を組んだ。しばらく、セイバーの鞘を見ていた。

 

「セイバーの傷が治ったのは、よかった」

 

 やがて、彼女はそう言った。

 

「……ああ」

「それは、よかったわ」

 

 俺は頷いた。イリヤの右手が、床に下ろされた。俺の手の、すぐ隣だった。指先が触れたので、自分の手を少し開く。彼女は顔をこちらへ向けないまま、その隙間に指を置いた。

 

     *

 

「シロウ」

 

 セイバーに呼ばれ、顔を上げた。

 

「少し、立ってみます」

 

 俺は手を動かしかけた。イリヤの指が、こちらの指に引っかかる。彼女を見てから、もう一度セイバーを見た。セラが、すぐそばにいる。すぐ手を貸せる位置だ。

 

「……ゆっくりな」

「はい」

 

 セイバーは右膝を立て、床に手をついて身体を持ち上げた。今度は、途中で止まらなかった。足が床を踏み、背筋が伸びた。

 

 鎧のないセイバーが、そこに立っていた。庭で剣を振るっていた時とは違う。腕も下ろしているし、足を大きく開いてもいない。それでも、自分の足で立っていた。左の肩を、ゆっくり後ろへ引く。

 

「痛みはありません」

 

 イリヤが頷いた。

 

「なら、今はそこまで」

「……剣を握る程度なら」

「それは、もう少し休んでから」

「セイバー」

 

 俺も呼んだ。彼女はこちらを見て、それから小さく息を吐いた。

 

「分かりました。二人がかりでは、仕方ありませんね」

 

 セラが寝具を直す。セイバーは自分で腰を下ろした。その動きが滑らかなことを確かめてから、俺も床についた手の力を抜いた。

 

「シロウもよ」

 

 イリヤに言われた。

 

「分かってる。今から走っていったりしない」

「そう。よく出来ました」

 

 彼女は、繋いだ手を小さく揺らした。俺は口を開きかけ、閉じた。戸口で、リズがこちらを見ていた。

 

「セイバー、座れた」

「ああ」

「シロウも、座ってる」

 

「俺は最初からだろ」

 

 リズは一度だけ頷き、庭へ向き直った。イリヤが隣で笑った。こんなふうに笑う声を、今夜はずいぶん長く聞いていなかった気がした。俺も少しだけ笑い、それから桜の寝床を見た。

 

 枕と、畳んだ掛け物。遠坂たちは、まだ帰ってこない。見つかっただろうか。ライダーは、桜を休ませられただろうか。訊ける相手がいないことが、今は苦しかった。

 

「シロウ」

 

 イリヤの声に、隣を見る。

 

「戻ってきた時、あなたまで倒れていたら困るでしょう」

「……そうだな」

 

 俺は足を崩した。手を繋いだままでは、少し座りにくかった。イリヤがこちらへ寄り、二人の間にあった器をセラの方へ渡す。肩が触れた。

 

 セイバーが鞘をそばへ寄せ、静かに目を閉じる。戸口にはリズがいた。俺は、桜の寝床から目を離した。

 

 戻ってきたら、まず、無事だったか訊こう。責める言葉より先に。それから、何があったか聞こう。

 

 手の中の指を握り直すと、イリヤが同じだけの力で握り返した。俺はその手を離さず、門の方へ耳を澄ませていた。

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