Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
川沿いへ出ると、風が強くなった。ライダーは桜の肩に掛け物を寄せた。歩幅を狭め、舗装の継ぎ目を避けて進む。腕の中で、桜が顔を上げた。
「ごめんね。ずっと、重いでしょう」
「気にしないでください」
答えながら、右腕で背中を支え直す。左腕の傷は塞がりつつあった。脇腹も、出血は増えていない。だが、身体を捻るたび、修復の途中にある箇所が引き攣れた。
桜を運ぶことは出来る。戦いを続けられるかと問われれば、同じ答えにはならなかった。それでも、桜を休ませる場所を見つけるまでは止まれない。堤の道から一本入ったところに、小さな広場がある。低い庇の下に長椅子が見えた。ライダーは、そちらへ足を向けた。
背後の風が変わった。跳躍するには、桜を抱え直す必要があった。その僅かな動作をする間もなく、前方の路面へ赤い影が降りた。外套が、遅れて落ち着く。
「ライダー」
アーチャーは、武器を持っていなかった。ライダーは足を止めた。川の向こうには建物が並んでいる。高い窓からなら、堤を歩く二人は見えただろう。ここへ出る前に、見つかっていたのかもしれない。
「何の用ですか」
「二人を捜していた。凛もこちらへ向かっている」
桜の指が、ライダーの肩を握った。アーチャーはその動きを見た。
「桜の様子は」
「休ませる必要があります」
「ならば、ちょうどいい。そこで待て。凛と合流して戻る」
広場の長椅子へ、顎を向ける。ライダーは動かなかった。
「シロウの家へ、ですか」
「ああ。治療を続けるから戻ってこい、と伝言を預かっている。イリヤスフィールからもだ」
桜が顔を上げ、掛け物の端を握っていた指を少しだけ緩めた。ライダーは、その顔を覗き込んだ。
「サクラ」
桜の唇が動いたが、言葉は出なかった。やがて、顔がライダーの肩へ伏せられた。
*
「今は、話をさせないでください」
ライダーが言うと、アーチャーは頷いた。
「話せないのなら、後でいい。まず身体を診せるべきだ」
「分かっています」
「分かっていて、何処へ連れていく」
答えはなかった。間桐の家へ戻らないことだけは決めていた。その後は、休める場所を探す。桜が落ち着いてから、もう一度話す。そう言って連れ出した。
アーチャーが示した長椅子も、目の前にある。だが、そこへ座らせれば、凛が来る。桜を連れ戻す話になる。その時、桜が何を言えるのか、ライダーには分からなかった。腕の中の身体が、また強張った。祖父の声は、今ここにはない。それでも、桜はあの寝床から起き上がった時と同じように、口を閉ざしている。
「少し、時間をください」
「その間に見失えと言うのか」
「私がついています」
「その君が、誰にも告げずに連れ出した」
ライダーは言い返さなかった。自分が桜を抱えて遠ざかるほど、治療を受けられる場所からも遠ざかっている。分かっていることを言われるのは、不愉快だった。
「サクラ。あそこへ下ろします」
桜にだけ聞こえる声で告げて広場へ進むと、アーチャーは道を空けた。庇の下まで運び、桜を長椅子へ座らせる。背中に掛け物を挟み、前へ倒れないことを確かめた。桜は、両手を膝に置いていた。
左腕から桜の重みがなくなると、ライダーはようやく指を開けた。傷のある脇腹へ、空いた手を添えかける。その前に、アーチャーが近づいた。ライダーは振り向いた。
「そこで」
「何もせん」
「そこで、待ってください」
アーチャーは立ち止まった。長椅子まで、まだ距離がある。彼は桜を見ていた。ライダーが目隠しの下から見据えても、その視線を外さなかった。
「凛が来る。君にも、何があったか話してもらう」
桜の肩が、小さく跳ねた。ライダーは横へ一歩動き、アーチャーと桜の間を塞いだ。
「今は、私の判断で退きます」
「待て」
アーチャーの声が低くなった。
「これ以上、その状態で連れ回すな」
ライダーは、長椅子の向こうへ目を向けた。広場の奥は川に開けていた。上には、電線がない。もう一度歩いて立ち去ろうとしても、同じように追いつかれるだろう。
「退いてください、アーチャー」
右手に、鎖のついた杭を握る。アーチャーの両手にも、剣が現れた。
「……それが答えか」
声に、失望が混じっていた。ライダーは、それに答えるための時間を使わなかった。
*
杭は、アーチャーの右肩を狙った。黒い剣が、杭の軌道を逸らす。金属が鳴った瞬間、ライダーは鎖を引き、左側へ踏み込んだ。そのまま回り込めば、長椅子への道を空けることになる。
踏み込みを途中で止めると、そこへ来た白い剣を杭の柄で受け流した。押し返す力が、脇腹へ響いた。
「っ」
息が漏れる。アーチャーの視線が、その一瞬を捉えた。次の一撃は、深く入ってこなかった。ライダーの右手を押さえる角度で、低く走る。
彼も、桜から離れた位置へ戦いを移したがっている。ライダーは二歩退き、広場の中央へ出た。アーチャーが追う。アーチャーが長椅子の方へ向き直る前に、鎖を横へ払った。彼は剣で弾いた。
ライダーはさらに退いた。左足が、広場の縁にある低い石の段へ触れる。背後は、川へ下りる斜面だった。アーチャーの刃は、すぐ前にある。この距離で刃を交え続ければ、守る位置から動けないこちらが削られる。
目隠しの下で、眼が熱を持った。封を解けば、この男も無傷では済まない。だが、ライダーが左手を上げかけた時、桜が咳き込んだ。
二人の視線が、同時にそちらへ動いた。桜の身体が、長椅子の上で前へ折れていた。立ち上がろうとしたのか、肘が座面から外れかけている。
ライダーは踏み切った。アーチャーも動いた。剣先が、ライダーの進路から外れる。桜へ駆け寄ろうとした彼の前を、鎖が走った。
「来ないでください!」
アーチャーは足を止め、剣で鎖を受けた。ライダーは桜の肩を抱き、長椅子から落ちる前に支えて姿勢を戻した。
「サクラ」
「ごめ……大丈夫、だから」
声に力がなかった。ライダーは彼女を抱き上げた。桜を座らせたまま戦い続けることは、もう出来ない。
桜を胸へ抱き寄せ、一瞬だけ左腕で支える。右手の杭を、自らの首筋へ当てる。短い痛み。血が、空へ散った。
*
血は地面へ落ちなかった。宙に描いた印が赤く光り、その内側から、白いものが夜を押し開いた。アーチャーが顔を上げる。風が、長椅子の下に溜まっていた枯葉を散らした。天馬の翼が広がった。
ライダーは桜を抱いたまま跳んだ。傷のある左腕を支えに使わず、右腕と身体で桜を包む。天馬の背へ着地し、桜を自分の前に座らせた。
「つかまっていてください」
桜は声を出せず、代わりにライダーの腕を両手で握った。
アーチャーの剣が消えた。手に、弓が現れる。ライダーは天馬の首を川へ向けた。その動きに従って、桜の身体が射線を横切った。アーチャーの弓が、一瞬止まる。ライダーはそれを見逃さなかった。
桜を狙わせるつもりはなかった。それでも、その一瞬を使った。手綱を握る。
「――騎英の手綱(ベルレフォーン)」
白い光が、天馬を覆った。天馬が大きく翼を打った。地面から離れた途端、風の向きが変わった。弓は、天馬を追っていた。だが、矢は来なかった。
ライダーは桜を抱き込み、さらに上昇した。川沿いの庇が、小さくなる。赤い外套も、その下へ沈んだ。
夜の中を、白い軌跡が走る。ライダーは速度を上げながら、桜の背を抱き込んだ。掛け物が風に持っていかれかけ、その端を手綱と一緒に押さえる。桜の顔は、ライダーの腕に伏せられていた。泣いているかどうかは、見えなかった。
*
高い建物の並びを越えてから、ライダーは何度か進路を変えた。長く飛び続けるつもりはなかった。追手の射線を外れ、地上から見通せない場所まで離れればいい。
丘の裾に、木立の切れ目が見えた。人影はない。天馬を下ろし、桜を抱いて地面へ降りる。
靴底が土を踏んだ時、左の膝がわずかに沈んだ。ライダーは、右足で支えた。桜には気づかせなかったつもりだった。だが、彼女の手が、ライダーの肩を強く掴んだ。
「……ライダー」
「着きました」
白い翼が畳まれる。天馬を還すと、風が止んだ。
桜を木の根元へ下ろし、掛け物を整える。額に触れると、まだ熱かった。ライダーは、その手をすぐには離さなかった。
追手は振り切った。治療を受けられる家も、今は遠かった。
「イリヤさんも、って」
桜が呟いた。ライダーは顔を向けた。
「……さっき、言ってたね」
それだけ言い、桜は口を閉じた。
「はい。続きを診ると」
桜は俯いた。掛け物の上に、握った手が二つ並んでいた。ライダーはその前に膝をつき、次の言葉を待った。