Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
礼拝堂の扉が鳴った。風が入ったのだと、言峰綺礼は最初に思った。蝶番の音は一度だけだった。続く足音がない。祭壇の脇で足を止める。窓には、外の暗さが映っていた。その黒い面の端に、白いものがあった。
綺礼が身を引くと、短刀が頬の前を抜け、背後の壁へ突き立った。二本目は、動いた先へ来た。袖の下から黒鍵を抜き、弾く。金属音が礼拝堂へ響いた時には、白い面は窓から消えていた。
「……客ならば、正面から入るものだが」
返事はない。綺礼は祭壇から離れた。立ち止まった場所を、次の短刀が穿った。
*
暗殺者は長椅子の間を渡り、綺礼が反撃の角度を取る前に別の列へ移る。短刀はその動きに合わせて飛んできた。狙いは、すべて急所だった。
首。胸。下腹。避ければ次が来る。黒鍵で弾けば、その腕が戻るところを狙われる。
綺礼は、長椅子を一列挟むように退いた。左腕に熱が走り、袖が裂けた。浅いが、血は出た。その腕を下ろさず、黒鍵を放った。
白い面が沈む。刃は長椅子を貫き、その背を大きく割った。暗殺者は、すでに横へ動いていた。
正面から勝てる相手ではない。綺礼は黒鍵を握り直し、祭壇脇の扉へ近づいた。奥の廊下へ入れば、投擲の通る角度は減る。相手もそれを知っているのだろう。そちらへ退くたび、進路を塞ぐように短刀が打ち込まれた。
綺礼は一本を弾き、もう一本を身体を捻って躱した。右の脇が切れ、神父服の内側へ血が流れた。息を吐く。暗殺者は、こちらがどこまで動けるかを測り、その範囲を少しずつ狭くしていた。
白い面が、長椅子の向こうに現れた。黒衣の右側が、不自然に膨らんでいる。肘のあたりに、黒衣の裂け目が見えた。衣服だけの傷ではない。綺礼は、そこを見たことを顔に出さなかった。
左手の黒鍵を低く構え、奥の扉へ一歩退く。暗殺者の左手が動いた。三本の短刀。綺礼はそのうちの一本を弾き、残る二本から身を外した。扉を背にする位置まで退いた。
その瞬間、黒衣が開いた。
*
右腕だった。人の形から外れた長い腕が、長椅子の間を越えて伸びた。綺礼は扉へ肩をぶつけながら退いた。
間に合わない。左手の黒鍵を投げる。刃が黒衣へ向かった時には、異形の掌が胸に触れていた。
「――妄想心音(ザバーニーヤ)」
低い声。胸の奥を、冷たいものが通った。掌が引かれる。その指が、何かを掴むように曲がった。
綺礼は、まだ立っていた。
「……ナ」
暗殺者の面が、わずかに傾いた。綺礼は相手の手を見た。胸へ届いたのは、肉を貫く一撃ではなかった。ならば。考えが言葉になるより先に、綺礼は動いた。
投げた黒鍵が、暗殺者の右側の黒衣を長椅子へ縫い止めていた。それだけでは止まらない。黒衣が裂ける。だが、長い腕を引き戻す動きが、一度だけ鈍った。
綺礼は残る黒鍵を放ち、同時に背中で扉を押し開けた。刃が床と柱へ突き立つ。黒鍵を避けた白い面が扉の陰へ隠れる間に、綺礼は廊下へ入っていた。
左手で戸口の棚を引き倒す。木の音がした。棚が砕ける音は、その直後に来た。
綺礼は振り返らなかった。廊下の先には小さな窓がある。その手前で右へ折れ、裏の出入口へ向かう。長い腕が今しがた通った角へ叩きつけられ、壁が裂けた。
扉を開ける暇はなかった。綺礼は肩から体当たりし、留め金ごと押し破った。夜気が傷口を冷やす。裏庭の石を踏み、壁沿いに走った。背後で、短刀が石へ当たる。
低い塀を越えたところで、左腕から力が抜けかけた。右手で身体を支え、地面へ降りる。正面の道には出なかった。建物の陰を使い、斜面へ続く木立の中へ入った。
呼吸が荒い。神父服を押さえる掌が濡れていた。足を止めれば、追いつかれる。綺礼は、暗がりの先へ進んだ。
*
追跡が途切れたのは、暗殺者が道を変えた時だった。人間の後を、同じ経路で追う必要はない。塀を越え、木々の上を抜け、斜面へ回り込む。神父が通るはずの場所に、身を伏せた。
だが、足音は来なかった。途中で、別の道へ逸れたのか。暗殺者は待つのをやめ、地面へ降りた。踏み荒らされた草。塀の近くに落ちた血。その先の痕跡は、乾いた土と石に紛れていた。
白い面が、闇を見渡す。右腕の傷から、少しだけ血が流れていた。腕を使ったことで、閉じかけていた傷口が開いている。だが、動けないほどではない。
問題は、獲物の胸だった。届いた。確かに、掴んだ。それでも、あの心臓は応じなかった。暗殺者は右手を握った。あの空虚な感触は、まだ残っていた。
塀の下で、枯葉が動いた。
『どうした。戻らぬと思えば』
老人の声がした。暗殺者は、葉の間を這う蟲へ顔を向けた。
「逃ゲタ」
『殺したのではないのか』
「否。胸ニ、届イタ。ダガ、死ナヌ」
『外したか』
「違ウ」
右手を開く。
「心臓ガ、変ダ。手応エガ、ナイ」
蟲が石の上で止まると、しばらく声が途絶えた。
『……あやつめ』
低い呟きが、葉ずれに混じった。
『傷は負わせたか』
「負ワセタ」
『ならば、遠くへ行かぬかもしれぬな』
暗殺者は顔を上げた。闇の中に、神父の姿はない。
『もうよい。今は戻れ。教会を使う』
「神父ハ」
『戻ってくれば分かるようにしておけ。殺せたと思い込むよりはましじゃ』
蟲が動き出した。
『正面だけ見るでないぞ。あやつの家なのだからな』
暗殺者は右腕を黒衣へ収めた。木々の間へ、その姿が消えた。
*
綺礼は、斜面を下りきる前に足を止めた。道の灯りから外れた場所だった。木の幹に背を預け、神父服を開く。脇の傷は、浅くはなかった。だが、臓器へ届いてはいない。脇と左腕の傷を押さえ、呼吸を整える。
教会へ戻るには、同じ斜面を登る必要がある。戻ったところで、あの暗殺者とまた戦うことになるだけだった。
ランサーを呼び戻すことも出来る。綺礼は、その考えを退けた。今夜、教会を守るために残る手札を晒す必要はない。向こうがそこを欲するのなら、ひとまず明け渡しておけばよかった。
あの腕は、呪いだった。胸に触れた冷たさを思い返し、綺礼は傷のない胸元へ掌を置いた。己の心臓が普通の人間のものではないことを、改めて確かめさせられた。
「……間桐臓硯か」
姿は見ていない。だが、今ここへ刺客を送る理由のある者を考えれば、候補は多くなかった。綺礼は服を閉じた。
教会の屋根が、木々の間に見えていた。その窓に灯りはない。左腕を押さえながら、綺礼は再び歩き始めた。
*
桜が、小さく咳をした。ライダーは、その背中へ手を添えた。
「水があればいいのですが」
「ううん……大丈夫」
桜は口元を押さえていた。喉が一度、引き攣れた。次の咳は、少し深かった。ライダーが身を寄せた時、桜の指の間から黒いものが落ちた。掛け物の上に、細い蟲がいた。ライダーの手が止まった。桜の身体に、まだ残っていたのだ。
『桜』
声がした。桜の指が、口元を覆ったまま動かなくなる。ライダーはその顔を見た。先ほどまでの戸惑いが、怯えに変わっていた。
「まだ、こんなものを」
ライダーは手を伸ばした。
『休ませる場所を教えてやろうというのに、気の早いことじゃ』
蟲を掴む直前で、指を止めた。桜がこちらを見た。
「……お爺さま」
『丘の上の教会へ行け。今なら使える』
ライダーは蟲を見下ろした。
「神父は」
『席を外しておる』
「あなたが、外させたのですか」
返事の代わりに、低い笑い声がした。
『桜を抱えたまま、夜通し歩くつもりか。冷たい土の上よりは、屋根のある場所がよかろう』
ライダーは周囲へ顔を向けた。木立の向こうに、坂を上る道が見えた。街の灯りは、下にある。
桜の身体は熱い。だが、掛け物の外へ出ている指は冷えていた。
「間桐の家へは、戻しません」
『教会と言っておる』
蟲が、掛け物の折り目を越えた。ライダーは、進もうとする蟲を指で押さえた。
「休む場所は、私が確かめます」
指先へ力を込めた。蟲が潰れた。声は途切れた。桜が目を伏せた。
*
ライダーは手を拭ってから桜の口元を確かめたが、血は出ていなかった。桜は、唇を強く結んでいた。
「苦しいところは」
「……もう、平気」
「サクラ」
呼ぶと、桜が顔を上げた。涙は出ていなかった。ただ、何かを謝る前の顔をしていた。ライダーは先に言った。
「教会へ行ってみます。中を確かめて、休めるようなら」
桜はすぐには頷かなかった。
「ライダーは」
「私も、少し休む必要があります」
今度は、隠さずに言った。桜の目が、ライダーの左腕へ落ちた。ライダーは左手を差し出した。
「ですが、休んだ後のことまで、あの人に決めさせるつもりはありません」
「……うん」
桜の手が重なった。ライダーは立ち上がるのを手伝おうとして、途中でやめた。桜の膝は、まだ身体を支えられそうになかった。
「抱えます」
桜は、自分からライダーの肩へ腕を回した。今度は、何も謝らなかった。
*
教会の前に、人影はなかった。ライダーは石段の下で立ち止まり、建物を見上げた。風が木の枝を揺らしている。
礼拝堂の正面へ近づくと、扉が僅かに開いていた。片手で押す。中は暗かった。
「サクラ。少し、ここで」
戸口の内側へ桜を下ろした。壁に背を預けさせ、すぐ手の届くところに立つ。長椅子の背が割れている。壁には刃物が刺さった穴があり、奥の扉は開いたままだった。床に、血が落ちていた。ライダーは、その跡を見た。
席を外している。老人は、そう言った。ライダーは桜へ振り返った。彼女は目を閉じかけていたが、ライダーが動くと、すぐに顔を上げた。
「誰か、いる?」
「見えるところには、誰もいません」
奥へ通じる扉を見据え、しばらく待つ。足音はしない。誰かが動く気配も、今は掴めなかった。
ライダーは、入口に近い無事な長椅子を確かめた。そこへ桜を運び、掛け物を広げてから横にして、肩と足先を覆った。桜の手が、ライダーの腕を離さなかった。
「ここで、いいのかな」
「今は休んでください。何かあれば、すぐに出ます」
ライダーは長椅子の端へ腰を下ろした。正面の戸にも、奥の廊下にも目を向けられる位置だった。右手には、杭を握っていた。桜は、その手を見た。
「少しだけ」
「はい」
返事をすると、桜はようやく腕から手を離した。指を掛け物の下へ戻す。目を閉じるまでに、何度か、呼吸を整えた。
ライダーは動かなかった。桜の息が少しずつ長くなる。礼拝堂の床には、乾きかけた血が残っていた。ライダーはその向こうの暗がりを見つめ、右手の柄を握り直した。