Fate/stay night IF BEYOND THE EVER   作:Мир

3 / 12
第三話 待ち合わせ

 じゃがいもの皮をむいていると、桜が横から手元を覗き込んだ。

 

「先輩。それ、ずいぶん小さくなりましたね」

 

 手元を見ると、皮と一緒に身まで削ってしまっていた。ほかのじゃがいもより一回り小さい。

 

「……少し、むきすぎた」

 

「代わりましょうか」

 

「いや、大丈夫。玉ねぎ、頼む」

 

 桜は俺の手元をもう一度見てから、まな板へ戻った。俺は包丁を持ち直し、次のじゃがいもを取った。公園で買い物袋を覗き込んでいたイリヤの顔が浮かぶ。いけない。また小さくしてしまう。今度は手元をよく見ながら皮をむいた。

 

 ちゃんとおいしくできるのかと、念を押されたばかりだ。

 

 鍋に火をかける頃には、居間から藤ねえの催促が始まった。まだ煮えていないと言うと、どれくらいかかるのかと聞き返される。十五分と答えたところで、桜が味噌汁のお椀を運んでくれた。

 

「先に、こちらをどうぞ」

 

「ありがと、桜ちゃん。士郎も見習いなさいね」

 

「鍋を急かしたって早くはならないぞ」

 

 出来上がった肉じゃがに文句は出なかった。藤ねえは大きなじゃがいもから箸をつけ、俺が席に着くまでに最初の一つを食べ終えていた。

 

「うん。今日は味が染みてる」

 

「今日は、ってなんだよ」

 

「今日も、おいしいです。ね、セイバーちゃん」

 

 話を振られたセイバーは口の中のものを飲み込んでから頷いた。藤ねえはそれで満足したらしく、もう次の肉を探していた。

 

 いつもどおりの夕飯だった。箸を伸ばす場所が重なれば譲り合い、藤ねえがその隙に取ってしまう。桜が笑って、俺も文句を言う。

 

 食べ終えて袖をまくった時、腕にしがみついてきたイリヤを思い出した。ついさっきまで、あの子ともこんなふうに話していた。

 

 食器を片付けたあと、セイバーを道場へ呼んだ。商店街でイリヤと会ったことを話すと、彼女の表情が険しくなった。

 

「バーサーカーの姿は」

 

「見なかった。二人で公園へ行って、話をしたんだ」

 

「二人で?」

 

 頷いた俺をセイバーはしばらく黙って見た。

 

「……怪我はありませんか」

 

「ない。何もされてないよ」

 

 別れ際に言われたことも伝えた。口に出してみると、公園で聞いた時よりもその言葉が重く感じられた。

 

「イリヤスフィールは、貴方を殺すつもりだと告げたのでしょう。次に会った時も同じように別れられるとは限りません」

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

 問い返され、すぐには答えられなかった。

 

 あの言葉を冗談だと思っているわけではない。けれど、ではなぜ一緒に公園へ行ったのかと聞かれたら困る。話したかったのは本当だ。だからといって、それで自分の身を守れるわけじゃない。セイバーが何を心配しているのかくらい、俺にも分かっていた。

 

「……次からは、気をつける」

 

「一人で対処しようとしないでください。私に知らせていただかなくては、守ることもできません」

 

 その夜、遠坂にも電話をした。同じ話をすると、受話器の向こうで長い溜息が聞こえた。

 

『手を組んだその日に、バーサーカーのマスターとお茶してたわけ』

 

「お茶というか、話をしてただけなんだけど」

 

『それは無事に帰れたから言えるの。途中であの子の気が変わってたら、どうするつもりだったのよ』

 

 言い返せなかった。遠坂にも警戒するよう念を押され、電話を切った。

 

 また会いたいと言ったことは、どちらにも話せなかった。

 

     *

 

 翌日は授業が終わると、鞄を持って教室を出た。

 

 校門を抜けて商店街へ向かう。夕飯の買い物を済ませたら、昨日の公園へ寄るつもりだった。

 

 イリヤが来るかどうかは分からないし、会えたとして何を話すのかも決めていない。それでも、昨日と同じ場所へ行ってみたかった。

 

 セイバーには昨夜、一人で対処するなと言われたばかりだ。遠坂にも会いに行くとは伝えていない。少し足を緩めたが、イリヤと話すなら二人で会いたかった。セイバーが一緒では、昨日みたいに笑って近づいてきてくれるとは思えない。

 

 坂を下りてくる風が制服の襟元へ入り、肩をすくめた。空は曇っている。昨日は日が当たっていたベンチも、今日は冷えていそうだった。

 

 商店街で買い物を済ませて公園へ向かう途中、店先から漂う甘い匂いに足を止めた。

 

 鉄板の上に焼き上がったばかりのたい焼きが並んでいる。

 

 甘いものは好きだと言っていた。あんこも好きかどうかは聞かなかったが、嫌いなら俺が食べればいい。

 

「二つ、ください」

 

 受け取った袋は温かかった。買い物袋に入れると潰れそうなので、それだけ別に持って公園まで歩いた。

 

 ベンチには誰もいなかった。

 

 入口から遊具の向こうまで見渡したが、白い帽子は見つからない。俺が早く来すぎたのか、それとも今日は来ないのか。時間を決めていないのだから、考えても仕方がなかった。

 

 鞄をベンチの端に置き、その隣に座った。買い物袋は足元に下ろし、たい焼きの紙袋を膝に載せる。袋の口から薄く湯気が上がった。

 

 少し待ってみよう。

 

 そう決めてから、思ったより時間が経った。公園の外を人が通るたびに顔を上げ、イリヤではないと分かると座り直した。紙袋を包んでいた手が冷えてくる。

 

 イリヤが来たら、まず何を言えばいいだろう。

 

 昨日の最後の言葉について聞くのか。それとも切嗣のことを改めて尋ねるのか。そこまで考えて、また話したいと言った時には、こんな順番など考えていなかったことに気づいた。

 

 会えば、何か話せるだろうと思っていたのだ。

 

 昨日は向こうから次々に話しかけてくれた。それに答えているだけで、いつの間にか時間が過ぎていた。

 

「……もう少し、ちゃんと決めとけばよかったな」

 

 独り言をこぼして時計を見た。ここへ来てから三十分近く経っていた。

 

 あと少し待って、それでも来なければ帰ろう。紙袋の端を折り直し、足元の買い物袋を寄せた。

 

 結局、時計の針がもう少し進むまで待ってしまった。たい焼きも冷めてきたし、いつまでもここにいたら夕飯の支度が遅くなる。今日は会えなかったのだと諦め、紙袋を鞄の上に置いて立ち上がった。買い物袋を拾い上げ、残った荷物を取ろうとベンチの端へ足を向ける。

 

 その足が止まった。

 

 前へ出そうとした右足が動かない。靴底が引っかかったのかと思って下を向こうとしたが、首にも力が入らなかった。

 

 すぐ目の前の地面が遠い。

 

 買い物袋を持つ指は見えているのに、自分が握っている感じがしない。声を出そうとしても、喉のどこを動かせばいいのか分からなくなった。

 

 まずい。

 

 セイバーを呼ばなくては。そう思うのに、顔を上げることさえできなかった。背後に誰かがいるのか、目の前にいるのかも分からない。

 

 昨日の声が頭の中でよみがえった。

 

 何かが触れたような気がした。急に膝から力が抜けて地面が近づき、慌てて足を踏ん張った。

 

「あ、戻っちゃった」

 

 すぐ横から声がした。

 

 振り向いた拍子に、買い物袋を地面へ落としてしまった。イリヤは袋を避けて半歩下がった。俺を見上げる口元には、まだ笑いが残っていた。

 

「もう。そんなに驚かなくてもいいでしょう」

 

「イリヤ! 今、何かしただろ!」

 

「そうよ。ふふ、やっとこっちを見た」

 

 息がうまく整わない。白いコートの向こうに、あの巨人の影を探してしまった。

 

「いきなり何するんだ。動けなかったんだぞ!」

 

「動けなくしたんだもの。当たり前じゃない」

 

「そういう話じゃない!」

 

 声を上げると、イリヤも眉を寄せた。

 

「わたし、ずっとここにいたのよ。シロウが全然気づかないから待ってたのに、帰ろうとするんだもの」

 

「いたって、どこに」

 

「そこ」

 

 ベンチの脇を指さされる。ほんの数歩のところだった。

 

「隠れてたら分からないだろ!」

 

「見えなくても分かるでしょう、普通。シロウはマスターなんだから」

 

 普通と言われても、分からなかったものは分からない。落ち着かない手を握り、開いてみた。ちゃんと動くと確かめたところで、今度は腹の奥が冷えてきた。

 

 あのまま斬られていたら、逃げることもできなかった。

 

「……本当に、死ぬかと思ったんだぞ」

 

 イリヤは俺の顔を見た。

 

「死んでないじゃない」

 

「今はな」

 

 言い返すと、イリヤは少し唇を尖らせた。笑ってはいなかったが、自分がそれほどひどいことをしたとは思っていないらしい。

 

「だから、一人でぼうっとしてちゃ駄目なの。セイバーもいないんでしょう?」

 

 そこは否定できなかった。昨夜言われたことが、そのまま目の前で起きている。

 

 しゃがんで買い物袋を起こした。中身はこぼれていなかったが、袋の底についた砂を払う手が少し震えていた。

 

「それで。シロウは何をしてたの?」

 

 イリヤが隣から覗き込んできた。

 

「さっきから、何度も入口を見てたでしょう。誰か来るの?」

 

「イリヤを待ってたんだよ」

 

 そう答えると、イリヤは動かなくなった。

 

「……わたし?」

 

「ほかに誰がいるんだ。昨日、また来るかもしれないって言ってただろ」

 

 袋をベンチの下に置いて立ち上がった。イリヤはまだ俺の顔を見上げていた。

 

「でも、あれは」

 

「時間を決めなかったから、会えないかもしれないとは思ってたけど」

 

「そうじゃなくて」

 

 イリヤは俺の言葉を遮った。けれど、続きを口にするまでは少し間があった。

 

「昨日、帰る時に言ったこと。聞いてなかったの?」

 

「聞いてた」

 

「だったら、どうして」

 

 小さな手がコートの袖口をつかんだ。

 

「シロウ、わたしが何をしに来たか、分かってないでしょう」

 

「……全部は、分かってない。だからって、昨日話したことまでなくなるわけじゃないだろ」

 

 俺自身、うまく説明できなかった。会ったら聞いておかなくてはいけないことがあったはずなのに、こうして顔を見るとすぐには問い詰められなかった。

 

「また話したかったんだ。昨日、そう言ったから」

 

 イリヤは何か言いかけて口を閉じた。袖口をつかんでいた指を一度緩め、すぐに握り直した。

 

「……わたしは、昨日と同じよ」

 

「ああ」

 

「会ったからって、許してあげるわけじゃないんだから」

 

 頷こうとして、ためらった。何を許してもらうのかさえ、俺には分かっていない。

 

「それは、まだよく分からない。でも、俺はイリヤと戦いに来たんじゃない」

 

「わたしだって、今日は……」

 

 そこまで言ってイリヤは口をつぐみ、俺からベンチへ目を移した。鞄の上に置いた紙袋から甘い匂いがしていた。

 

「何、それ」

 

「たい焼き。食べるか」

 

 紙袋を取って差し出すと、イリヤはすぐには手を出さなかった。

 

「……わたしの?」

 

「ああ。来たら、一緒に食べようと思ってたんだ」

 

 袋の口を開く。たい焼きは片方がもう片方に少し重なっていて、湯気はほとんど上がらなくなっていた。

 

「悪い。冷めちゃったな」

 

 イリヤが指を伸ばし、袋の外からそっと触れた。

 

「……まだ、温かいよ」

 

「そうか」

 

 イリヤは紙袋を受け取ると、そのままベンチに腰を下ろした。膝に袋を載せ、立ったままの俺を見上げる。

 

「シロウのも、あるんでしょう?」

 

「ああ」

 

 隣へ座った。イリヤが少し詰めて、紙袋を二人の間へ寄せた。

 

     *

 

「どっちも同じ?」

 

 袋を覗きながらイリヤが聞いた。

 

「同じ。両方あんこだ」

 

「じゃあ、こっち」

 

 イリヤは上になっていた方を取り、尾の先まで眺めた。俺が残った一つを取ると、イリヤはそちらへ目を向けた。

 

「……なに?」

 

「別に」

 

 そう言いながら俺のたい焼きを見ている。比べてみると、こっちの方が縁に生地が多く残っていた。魚の形からはみ出して、薄い板のようになっている。

 

「交換するか」

 

「わたし、そんなこと言ってないでしょう」

 

「まだ食べてないから、いいぞ」

 

 差し出すと、イリヤの目がもう一度、薄い縁へ動いた。

 

「じゃあ、交換。シロウがいいって言ったんだからね」

 

 取り替えた途端、イリヤははみ出した縁を小さく折った。口に入れると薄い生地がぱりっと鳴った。

 

 俺も一口かじる。皮の下に残っていた熱が舌に伝わってきた。待っている間、手で包んでいたのが少しは役に立ったらしい。

 

「おいしい」

 

 隣から声がした。イリヤはもう一口食べ、それから俺の方を見た。

 

「シロウも、こっちがよかった?」

 

「いや。俺のもちゃんとあんこが入ってる」

 

「そうじゃなくて、ここ」

 

 指で縁を示された。

 

「好きなら食べればいいって。俺はどっちでもいいから」

 

「……ふうん」

 

 イリヤは少し考えてから端をもう一つ折り、今度は口へ運ばずに俺へ差し出した。

 

「はい」

 

「いいのか」

 

「あげるって言ってるの」

 

 受け取ると、イリヤは満足したように自分の分を食べ始めた。薄いところだけかじると、たしかに歯触りが違う。そう言うと、だからこっちにしたのよ、と得意そうに返された。

 

 最初に選んだのはそっちじゃなかっただろう。言いかけたが、せっかく分けてもらったので黙っておいた。

 

「ねえ、昨日は?」

 

「昨日?」

 

「お料理。うまくできたの?」

 

「ああ。ちゃんと作ったぞ」

 

「ふうん。お砂糖とお塩も間違えなかったんだ」

 

「あれは昔の話だって言っただろ」

 

 イリヤがくすくす笑う。食べかけのたい焼きを両手で持ち直して、続きを待っていた。

 

「藤ねえは、もっと肉を入れろって。自分で先に取っといて、なくなるとそう言うんだ」

 

「じゃあ、じゃがいもは残ったのね」

 

「残らない。そっちも食べる」

 

「よくばりね」

 

 そう言った口元にたい焼きのかけらがついていた。

 

「イリヤ、そこ」

 

 自分の口の端を指で示すと、イリヤは反対側を拭いた。

 

「取れた?」

 

「逆。そっちじゃなくて」

 

 イリヤがもう一方の口元を指で拭うと、今度はかけらが取れた。俺を見ると少しだけ眉を寄せる。

 

「そういうのは、もっと早く言ってよね」

 

「今、気づいたんだよ」

 

「シロウもついてるわよ」

 

 慌てて口元を拭うと笑われた。嘘だったらしい。

 

「からかうなよ」

 

「だって、すぐ信じるんだもの」

 

 笑いながら残りを食べ終えたイリヤに、空の紙袋を差し出した。イリヤは指についたかけらを払ってから袋を畳み、俺に渡してきた。

 

 肉じゃがのことも、藤ねえのことも、俺が昔どんな失敗をしたかも覚えていた。昨日は話が次々に変わって、俺は答えるのがやっとだった。イリヤはそんな話まで、ちゃんと聞いていたらしい。

 

「なんで、そんな顔してるの?」

 

「いや。よく覚えてるんだなと思って」

 

「昨日のことよ?」

 

「そうだけど」

 

「シロウは忘れちゃったの?」

 

 試すような目で見られたので、こちらも少し考えた。

 

「朝、起きても布団から出ないんだろ」

 

「そればっかり覚えてなくていいの!」

 

 すぐに返ってきた声がおかしくて、笑ってしまった。イリヤは不満そうに俺の袖を引いた。

 

「ちゃんと起きたわ。今日は」

 

「今日は、か」

 

「ああもう。シロウって、いやなところばっかり聞いてる」

 

「ほかの話も覚えてるよ。本を読んだり、散歩したり。セラに見つからないようにしたり」

 

「最後のは、覚えてても言わないこと」

 

 指を立てられて、分かったと頷いた。少しは機嫌が直ったのか、イリヤは俺の袖を離した。

 

「そのセラって人が、毎朝起こしに来るのか?」

 

「だいたいはね。リズの時もあるけど」

 

「リズ?」

 

「リーゼリット。もう一人、わたしと一緒に来たの」

 

「その人も、イリヤの世話をしてるのか」

 

「そうよ。でも、セラみたいにあれこれ言わないわ。わたしが眠いって言うと、リズも眠いって言うもの」

 

「それで、起きられるのか?」

 

「あとでセラが来るから、大丈夫」

 

 結局、起こすのはセラじゃないか。リーゼリットはいったい何をしに来るんだ。

 

「二人とも怒られるんじゃないか、それ」

 

「リズは気にしてないよ。セラが何か言ってても、いつもあんまり変わらないの」

 

「イリヤは気にするんだな」

 

「わたしには、ちゃんと聞きなさいって言うんだもの。何か答えると、すぐお話が長くなるし」

 

 困ったものだと言いたげな口調なのに、話はなかなか途切れなかった。セラがうるさく言い、リーゼリットが返事をしない。そのたびにイリヤが間に入ったり、一緒に叱られたりするらしい。

 

「それで、イリヤは何て言ったんだ」

 

「もう分かったって言ったの。そうしたら、分かっていらっしゃるなら、って、最初から」

 

 イリヤが肩を落とす。俺にも覚えのある話だったので、つい笑ってしまった。

 

「藤ねえも言うな、それ」

 

「シロウも叱られるんだ」

 

「そりゃ、叱られることくらいある」

 

「どういう時?」

 

 楽しそうに身を乗り出されて、答えたことを少し後悔した。

 

「夜更かししたり、帰りが遅くなったり」

 

「それで?」

 

「それでって、何だよ」

 

「叱られたら、やめるの?」

 

 返事に詰まった途端、イリヤがにっこり笑った。

 

「シロウも、わたしのこと言えないんだ」

 

「……気をつけてはいる」

 

「わたしも気をつけてるわ」

 

 胸を張って言われると、それ以上は続けられなかった。昨夜セイバーに気をつけると答えたばかりだなんて、イリヤは知らない。それでも今ここに一人でいることが、返事の代わりになってしまった。

 

 風が強くなり、ベンチの下から乾いた葉が一枚転がり出た。イリヤがコートの襟に頬を埋める。

 

「寒い?」

 

「ちょっと。昨日はここ、日が当たってたのに」

 

 曇った空を見上げると、イリヤもつられて顔を上げた。

 

「雪になるかな」

 

「どうだろう。この辺は、降ってもあんまり積もらないんだ」

 

「つまんない。積もった方がきれいなのに」

 

「寒いのは嫌なんじゃないのか」

 

「雪は好きよ」

 

「余計に寒くなるぞ」

 

「見てるだけなら寒くないでしょう」

 

 家の窓から見ればいいということらしい。たしかに、それなら濡れた靴を乾かす必要もなかった。

 

「じゃあ、雪が降ったら散歩は休みか」

 

「少しなら行くわ。誰も歩いてないところ、歩きたいもの」

 

「結局、出るんじゃないか」

 

「ちゃんと帰って、お茶にすればいいの」

 

 イリヤはそう答えてまた襟元に口を埋め、帽子の下から風になびく髪を片手で押さえた。

 

「イリヤの泊まってるところは、この近くなのか」

 

「なあに、急に」

 

「寒いなら、あんまり遠くまで帰るのは大変だろ。それに、セラたちも一緒なんだよな。ホテルか何か?」

 

「違うわ。わたしの家はお城だもの」

 

「……城?」

 

「うん。森の中にあるの」

 

 町の外れに広がる山を思い浮かべた。森ならある。けれど、その中に城が建っているなんて考えたこともなかった。

 

「それって、お城みたいに大きな家ってことか」

 

 イリヤは俺を見て少し目を細め、面白そうに口元を緩めた。

 

「見たい?」

 

「見たいけど。今から行くには、遅いだろ」

 

「ここで見せてあげる」

 

 ベンチから降りたイリヤが俺の前へ回り込んだ。差し出された手を取ろうとすると、違うと首を振られる。

 

「少しかがんで」

 

「こうか?」

 

「もう少し。じっとしててね」

 

 額に指先が触れた。近づいてきた顔に驚いて体を引きかけると、イリヤは空いた手で俺の肩を押さえた。

 

「逃げないの」

 

「逃げてない。何をするのか先に言えよ」

 

「お城を見せるって言ったでしょう。わたしがつなぐから、邪魔しないで」

 

 さっき動けなくなった感覚を思い出し、肩に力が入った。それに気づいたのか、イリヤは少し眉を上げた。

 

「……また怒るの?」

 

「先に何をするか分かってれば、そんなに怒らない」

 

「じゃあ、目を閉じて。シロウの目の代わりに、森から見えるものを見せてあげるの。それだけよ」

 

「戻れるんだな」

 

「当たり前でしょう。戻さなかったら、シロウとお話しできないじゃない」

 

 ずいぶん簡単な理由だった。それでも、肩を押さえている手の力は強くない。俺は息を吐いて目を閉じた。

 

 前髪がくすぐったい。そう思ったところで、イリヤの額が俺の額に触れた。

 

 近すぎる、と慌てた時には、もう公園の気配が消えていた。

 

     *

 

 目の前に枝があった。

 

 細い枝の先で葉が揺れ、その下には何本もの木が重なっている。ずっと遠くまで森だった。足元にあるはずの地面が、はるか下に見えた。

 

 高すぎる。

 

 何かにつかまろうとしたが、伸ばす手がなかった。腕がどこにあるのか分からず、体を縮めることもできない。それなのに、自分がいなくなったわけではなかった。

 

 見ている。俺が、ここを見ている。

 

「動こうとしないで。木は歩かないでしょう」

 

 イリヤの声がした。振り返ろうとして、今度は首がないことに気づく。見えている範囲だけが、どうしようもなく自分の全部になっていた。

 

 木々の向こうに明るい色の屋根が見えた。森が途切れたところに建物がある。大きな屋根の両側には塔が立ち、窓がいくつも並んでいた。

 

 城だった。

 

 住宅街の外れに建つ少し大きな洋館などではない。周りの木々と比べて、ようやく建物の大きさが分かった。こんなものが町の外にあったのかと驚いても、声が出なかった。

 

「見えた? 今度は、そっちに移すわね」

 

 待て、と言おうとした。口がどこにあるか分からないまま、森が消えた。

 

 白い壁と長い廊下が見える。窓の向こうには庭があり、床には曇った空の光が四角く落ちていた。

 

 さっきより低いところにいる。そう思ったが、自分の立っている場所は確かめられなかった。見える景色のどこにも、俺の足や影はない。

 

 廊下の奥から、人が二人歩いてきた。

 

 二人とも白い髪の女性だった。同じような服を着ているが、先を行く人は背筋を伸ばし、もう一人は少しゆっくりついてきている。先を歩いていた人が扉の前で立ち止まって振り返ると、後ろの人も足を止め、何か答えたようだった。

 

「前にいるのがセラ。もう一人がリズよ」

 

 イリヤの声は聞こえるのに、姿はない。俺が見ている場所にはいないと分かっていても、探そうとしてしまう。

 

「ああもう。そっちまで見に来なくてもいいのに」

 

 セラが扉を開けて、中を確かめていた。リーゼリットは外で待っている。やがてセラが戻り、何かを言いながらまた歩き出した。

 

 イリヤを探しているのだろうか。

 

 そう聞きたいのに声が出ない。二人は俺が見ているとも知らず、廊下の向こうへ歩いていった。

 

「じゃあ、戻るよ」

 

 肩を揺すられた。

 

 途端に体の感覚が戻ってきた。膝の上に手があり、靴の中に足がある。慌てて目を開くと、すぐ前にイリヤの顔があった。

 

 息を吸った拍子に胃が持ち上がり、口を押さえて前へかがんだ。

 

「……っ」

 

「あら。そんなに気持ち悪かった?」

 

 頷く余裕もなく、しばらく地面を見ていた。砂の粒や自分の靴が妙にはっきりしている。目を動かすと景色がついてきて、その感覚でまた気分が悪くなった。

 

「だから、見回そうとしちゃ駄目なのに」

 

「先に、言ってくれ……」

 

「木は歩かないって言ったでしょう」

 

「歩く話はしてない」

 

 イリヤは不服そうな顔をしたが、俺が息を整える間は黙って待っていた。肩に置いていた手を離し、代わりに上着の端をつかんだ。

 

 ようやく顔を上げられるようになった頃には、額が冷えていた。さっき触れていた小さな温かさは、もうない。

 

「……城だった」

 

「だから、そう言ったじゃない」

 

「あんなに大きいとは思わなかったんだよ。本当に、あそこに住んでるのか」

 

「そうよ。シロウが見たのは、ほんの少しだけだけど」

 

 イリヤが得意そうに胸を張る。その顔を見て、俺もようやくベンチの背もたれに寄りかかれた。

 

「今の、俺はどうなってたんだ?」

 

「ここに座ってたわよ」

 

「そうじゃなくて。森にいたし、城の中も見た。けど、手も足も動かせなかった」

 

「シロウの体は、最初からここにあるもの。動かせる手足が、あっちにあるわけないでしょう」

 

 イリヤが隣へ戻ってきた。俺の顔を覗き込んでから、さっきより少しゆっくり話す。

 

「今のは意識の転移。シロウが自分の目から受け取ってるものを、森の木や、お城の壁からのものにつなぎ替えたの。だから、そっちが見えたんだよ」

 

「……俺が木になったんじゃなくて、木の方から見えるものを見てたのか」

 

「うん。自分の目で見てるつもりになるから、最初は変な感じがするけど」

 

「変どころじゃなかったぞ。体がどこにあるか、分からなくなった」

 

「でも、戻ってきたでしょう?」

 

 上着の端を軽く引かれた。

 

「揺すったり、何か刺激があれば、体の方が呼び戻すわ」

 

 肩を動かしてみる。さっきの景色を思い出しながらでも、ちゃんと腕が上がった。

 

「最初に動けなくなったのも、今のやつか?」

 

「違うわ。あれは魔力で縛っただけよ。それくらい、自分で解けなくちゃ」

 

「……じゃあ、今の転移の方は? 相手にかけたら動けなくできるだろ」

 

「シロウみたいに、目を閉じて待っててくれる相手ならね」

 

 簡単に言われて、返す言葉がなくなった。

 

「普通は抵抗するもの。今はシロウが邪魔をしなかったし、あそこはわたしの森だからできたの。誰にでも、どこへでも、同じようにできるわけじゃないわ」

 

「そうか。それに、殴ったりしたら戻っちゃうのか」

 

「ええ。だから、攻撃に使うには当てにならないの。離れた場所を調べたり、人形に意識を移して動かしたりする方が役に立つわ」

 

 切嗣に少しだけ教わった魔術と、目の前の少女がやってみせたことには、ずいぶん隔たりがあった。こんなふうにも使えるのかと考えながら、もう一度公園を見渡す。

 

 公園の外には歩いてきた道が続き、町の向こうには森がある。歩けばどれだけかかるかも分からない距離を、俺はベンチに座ったまま見てきたのだ。

 

「すごいな、イリヤ」

 

 そう言うと、イリヤは少し目を丸くした。

 

「……遅いわよ」

 

「え?」

 

「最初に言うの。そういうことは」

 

「最初は、吐きそうだったんだよ」

 

「知ってる。でも、もう平気でしょう?」

 

 俺が頷くと、イリヤは満足そうに笑い、つかんでいた上着を離して座り直した。

 

「ほかにも、見せてあげられるけど」

 

「今日はいい。これ以上やったら、たい焼きがもったいない」

 

 イリヤが吹き出した。

 

「もう。せっかく、わたしが教えてあげてるのに」

 

「教えてもらう方にも、準備がいるんだ」

 

「座って、目を閉じるだけじゃない」

 

「それが大変だったんだよ、今は」

 

 また笑われたが、もう一度と額に手を伸ばしてくることはなかった。

 

     *

 

 風が少し弱くなっていた。雲の切れ間から光が落ちたが、ベンチの前の地面を照らしただけで、すぐに消えた。

 

 俺は砂の上の自分の靴を眺めた。つま先に力を入れると、思ったとおりに動く。もう気分は悪くないが、確かめずにはいられなかった。

 

「さっきの二人、イリヤを探してたのか?」

 

「たぶんね。いつも探すんだもの」

 

「帰ったら叱られそうだな」

 

「まだ遅くないわ。ちゃんと帰るんだから、大丈夫」

 

 そう言ってから、イリヤは俺の顔を見た。

 

「シロウこそ、いいの?」

 

 公園の時計へ目を向けた。今から帰って支度をすれば、夕飯には間に合いそうだった。

 

「……そろそろ帰らないとな。寄り道が長くなっちゃったし、夕飯も作らなきゃ」

 

「待ってたから?」

 

「それもあるけど、俺が好きで待ってたんだから。イリヤのせいじゃないよ」

 

 イリヤは膝の上の手に目を落とした。何か言いかけたようだったが、そのままコートの裾を払ってベンチから降りた。

 

「じゃあ、わたしも帰る」

 

 俺も空の紙袋を買い物袋にしまい、鞄と一緒に持ち上げた。ベンチの下に置いていた袋の底は冷えている。持ち手を握り直すと、一歩先でイリヤが振り返った。

 

「シロウ」

 

「ん?」

 

 返事をしても、イリヤはすぐには続けなかった。帽子の縁に手をやり、直すところもなさそうなのに少し引っ張った。

 

「……明日も、来る?」

 

 小さな声だった。

 

「ここに?」

 

「うん」

 

 イリヤは頷き、俺から目を離さなかった。昨日、また会えるかと聞いた時には、もっと得意そうにしていたのに。

 

「来るよ」

 

 返事をすると、帽子に触れていた手が止まった。

 

「本当に?」

 

「ああ。ただ、ずっとここにいると寒いしな」

 

 イリヤの顔が少し曇った。俺は言い方を考え直して続けた。

 

「明日は、うちに来ないか」

 

「……おうち?」

 

「俺の家。ここからそんなに遠くないんだ。お茶ぐらいなら出せるし」

 

 イリヤは目を見開いて俺を見つめ、小さく息を吸った。

 

「わたしが、行ってもいいの?」

 

「だから誘ってるんだろ。イリヤの家も、見せてもらったしな」

 

「でも、シロウのは」

 

 言いかけて、イリヤが口を閉じた。

 

「俺のは、普通の家だよ。あんな城と比べられたら困るけど」

 

 少し待つと、イリヤはゆっくり首を振った。

 

「……比べてないわ」

 

「そうか。なら、来いよ。俺が普段どんなふうにしてるか、気になるんだろ」

 

 イリヤの口元が動いた。こらえるように唇を結んだが、次に顔を上げた時にはもう笑っていた。

 

「行く!」

 

 返事と一緒に袖をつかまれた。昨日のように飛びついてくるのかと身構えたが、イリヤはつかんだ袖を一度引いただけだった。

 

「うん。行ってあげる。シロウが、どうしてもって言うなら」

 

「そこまでは言ってないぞ」

 

「言ったようなものよ」

 

 きっぱり言い切られて、訂正するのを諦めた。

 

 セイバーには、帰ったら話さなくてはいけない。昨日のこともあるから、簡単に頷いてはくれないだろう。イリヤにも、うちでは戦わないと約束してもらう必要がある。それでも、今の誘いを取り消すつもりにはなれなかった。

 

「明日も学校があるから、終わってからになるけど。今日と同じくらいの時間に、ここでいいか。家まで案内するから」

 

「いいよ。じゃあ、先に来た方が待ってるのね」

 

「ああ。今度は隠れるなよ」

 

「シロウが、ちゃんと気づけばいいんでしょう?」

 

「見つからなかったら、帰っちゃうぞ」

 

「駄目。明日は、おうちに行くんだから」

 

 袖を引く手に力が入った。あんまり真剣な顔だったので、帰らないよと答えた。そこでようやく指が緩んだ。

 

「……約束だからね」

 

「ああ。学校が終わってから、今日と同じくらいに。このベンチで」

 

 もう一度確かめると、イリヤは大きく頷いた。

 

 袖を離して数歩進み、思い出したように振り返る。

 

「シロウ、お茶は甘くなくてもいいよ」

 

「そうか?」

 

「その代わり、お菓子は甘いのにしてね!」

 

 返事を待たずに駆け出していった。公園の出口でもう一度だけ手を振るので、荷物を片手にまとめ、空いた手を上げた。

 

 今日はイリヤの方から、明日も会いに来るかと聞いてくれた。

 

 俺もベンチを離れた。帰ったら話さなくてはいけないことがある。夕飯の支度も、まだ何もしていない。

 

 その前に、台所の棚を確かめておこうと思った。

 

 客用の湯呑みはしばらく使っていない。どこにしまってあるのか、すぐには思い出せなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。