Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
門の方で足音がして、リズが戸口から庭へ出た。少し間を置いて、遠坂の声が聞こえた。俺は腰を浮かせた。繋いでいた手が離れる。イリヤも立ち上がり、俺と並んで戸口へ向かった。
遠坂と、その後ろのアーチャーが庭を横切ってくる。俺はさらに後ろを見た。母屋の角から、誰かが出てくるのを待ってしまった。
「桜とは、会えた」
アーチャーが言った。息が、胸へ戻ってきた。
「いたのか」
「ああ。ライダーが連れていた」
遠坂が敷居の手前で止まった。
「でも、連れて帰れなかった」
俺はもう一度、二人の後ろを見た。暗い庭には、リズだけが立っている。
「……桜は、どうしてた」
遠坂がアーチャーへ目を向けた。
「私が会った時には、意識はあった。呼びかけにも反応している。ただ、身体を起こしているのも苦しそうだった」
「ライダーが、運んでたんだな」
「川沿いで見つけた時は、抱えていた。その後、屋根のある広場の長椅子へ下ろした」
場所を聞けば、行けると思った。地図がなくても、その辺りの道なら分かる。
「今も、そこに」
「いないわ」
遠坂が答えた。
「わたしが着いた時には、もう二人とも離れていた。その後も捜したけど、見つけられなかった」
俺は戸口の柱へ手をついた。背後で寝具が動く音がした。セイバーも目を開け、こちらを見ていた。
「中で話そう」
自分でそう言って、道を空けた。イリヤが横へ寄り、遠坂を通す。アーチャーは戸口に立ったまま、庭を一度振り返った。
*
「伝言は、伝えた」
アーチャーが言った。
「治療を続けるから戻ってこい、と。イリヤスフィールが続きを診ると言っていたこともな」
イリヤの手が、膝の上で止まった。
「サクラは、聞いていた?」
「ああ。顔を上げた。聞こえていなかったとは思わん」
俺は、桜の寝床を見た。あいつは、ここにいてもいいのかと訊いた。俺が帰れとは言わないと答えた時には、頷いてくれた。それから、イリヤに身体を診てもらうことにも同意していた。
「帰りたくないって、言ったのか」
尋ねると、アーチャーは首を振った。
「桜自身の返答は、聞けなかった」
「じゃあ、ライダーが?」
「今は話をさせず、時間をくれと言っていた。凛と合流して戻るよう求めたが、応じなかった」
遠坂は、両手を膝へ置いていた。片方の指が、もう片方の袖口に触れている。外を歩いて冷えたのか、指先が赤かった。
「それで、二人はどうやって」
言いかけたところで、アーチャーがこちらを見た。
「ライダーと交戦した」
俺は顔を上げた。
「戦ったのか」
「ああ」
「連れ戻すために?」
声が強くなった。アーチャーは、目を逸らさなかった。
「その状態の桜を、さらに連れ回させるつもりはなかった。ライダーが退こうとしたので止めた」
「けど」
「私が待てと言い、あちらが武器を取った。こちらも剣を出した。そういう順だ」
こいつも、自分は何もしていないと言っているわけではなかった。
「桜は。その間、桜はどうしてた」
「長椅子にいた。途中で咳き込み、倒れかけたので、戦いはそこで途切れた」
「怪我は」
「落ちる前にライダーが支えた。私も向かったが、ライダーが近づかせなかった」
ライダーが桜を庇う姿は、俺も見ている。傷のある腕をかばいながらでも、桜の方を向いていた。だが、ここから連れ出して、休ませられずにいるのもライダーだった。
「……何があったんだよ」
アーチャーへ向けたつもりではなかった。けれど、声に出してしまった。遠坂が、膝から片手を離した。
「それを、桜から聞かないといけないわね」
俺は彼女を見た。
「ライダーにも。守ろうとしているのは分かる。でも、これでいいわけがない」
遠坂は空いた寝床を見て、それから視線を戻した。
「次に会ったら、まず話せる状況を作る。近づけば任せてくれる、とは思わない方がいい」
遠坂は、袖口から指を離した。
「逃げた方法も、聞いておいて」
*
天馬。アーチャーがその言葉を口にした時、俺は一度、意味を確かめた。
「馬、なのか」
「翼を持っていた。ライダーは自らの血を使って呼び出し、桜を乗せた」
セイバーが、背に当てていた寝具から少し身体を起こした。
「そのまま、空へ?」
「宝具を使った。騎英の手綱、と呼んでいたな。地上を走って追える速度ではなかった」
屋根や塀を越えた、という話ではなかった。どちらの道へ出たのかを聞いても、そこに二人の足跡が続いているわけではない。
「弓は」
口にしてから、俺は言葉を止めた。だが、その天馬には桜も乗っている。
「構えた。射れば桜を巻き込む」
「……そうか」
「矢は放っていない」
俺は頷いた。
「わたしと合流してから、見失った辺りを確かめたわ」
遠坂が続けた。
「地上へ下りた場所が分かればと思ったけど、見つからなかった。ずっと空を飛んでいるとも限らないし、最初に飛んだ向きだけじゃ絞れない」
「ライダーの傷は、どうだった」
「まだ庇っていた。長く戦い続けられる状態ではなかっただろう。それでも、あの速さで離脱することは出来た」
アーチャーは、こちらを見た。
「次に会っても、傷だけを見て侮るな」
俺は膝の上で手を握った。ライダーも、桜を傷つけたくないのは同じはずだった。なのに、戻ってこない。
セラが遠坂へ水を差し出した。遠坂は一瞬、その器を見ていた。やがて受け取り、小さく礼を言って口をつけた。俺も、ようやく肩の力を抜いた。
*
「……セイバー」
水を飲み終えた遠坂が、顔を向けた。
「さっきから、普通に座ってるわね」
言われて、セイバーは自分の左肩を見た。
「傷は治りました。痛みもありません」
「治った?」
遠坂の視線がイリヤへ動いた。イリヤはセイバーの傍らを示した。寝具の上に置かれた青と金の鞘を見て、遠坂の目が細くなる。
「それ、何」
「セイバーの鞘よ。シロウの中にあったの」
「……衛宮くんの?」
俺は頷いた。
「イリヤが見つけてくれた。セイバーに触ってもらって、何なのか分かったんだ」
セイバーが、前の戦いで自分を呼ぶために使われた品だと説明する。親父が持っていたこと。俺が火事の中から助けられたこと。その二つが、体内の鞘によって繋がったのだと話すと、遠坂は少し黙った。
「それで、取り出して返したのね」
「いや。取り出そうとしたんだけど、作った」
「……何を」
「その鞘を」
遠坂は鞘を見て、俺を見た。それから、もう一度鞘を見た。
「待って。元のものは」
「まだ俺の中にあるって」
「投影した、ということ?」
「ああ。そういうつもりじゃなかったんだけど」
遠坂の手から器を受け取ろうとして、止まった。彼女は、まだそれを握っていた。
「そういうつもりじゃなかった、で済ませるものじゃないでしょう、それ」
「俺にも、よく分からないんだ。けど、セイバーが使えたから」
「使えた?」
遠坂がセイバーへ向き直った。
「はい。私の力に応じ、傷の回復を助けました」
遠坂は、今度はすぐに口を開かなかった。イリヤが、少しだけ肩をすくめた。
「わたしも、訊きたいことはあるわ。でも、繰り返させてはいないの。先にセイバーを助けられたから」
「……その判断には、賛成」
遠坂はようやく器を離した。
「士郎。痛みとか、気分の悪さは」
「ない。作って、供給の方も直してもらったら疲れたけど」
「供給も?」
イリヤが頷いた。
「元の契約で、うまく繋がっていなかったところを直したの。今は、わたしが手を添えなくても届いてる」
「シロウから、途切れずに受け取れています」
セイバーが言った。遠坂の眉間に寄っていた皺が、少し緩んだ。
「それは、よかったわ。傷だけ塞がっても、同じことを続けていたら保たないもの」
戸口へ目を向けると、アーチャーが鞘を見ていた。俺の視線に気づき、顔を上げる。
「調子に乗って、もう一つ作ろうとはするなよ」
「しない。取り出す方は、もう一度やろうとしたけど、イリヤに止められた」
「……そっちは、試そうとしたのね」
遠坂に言われ、俺は返事に詰まった。イリヤは隣で、否定しなかった。
アーチャーが、鞘を顎で示した。
「投影した時は、何を思い浮かべた。輪郭だけか。材質は。内部の構造はどうだった」
「形を思い浮かべた。それだけのつもりだったんだ」
「そのつもり、か。外形を真似ることと、中身まで再現することは違う。見た剣を一振り思い返してみろ。どこまで思い出せるか、曖昧なところを確かめるだけでも違う」
「今、作ってみろってことか」
「頭の中の話だ。出来も分からんものに、いきなり魔力を注ぐな」
遠坂が一度、アーチャーへ目を向けた。俺は空の手を見た。鞘を握った感触は思い出せる。けれど、何をどう作ったかと訊かれたら、うまく説明出来なかった。
「……分かった」
俺が頷くと、アーチャーは口を閉じた。セイバーが鞘へ手を添える。
「ただ、消耗は残っています。もう少し休めば、動けるようになるでしょう」
遠坂は頷き、今度は俺を見た。
「あなたも、休む側に入ってるのよ」
次に何を言われるかは、もう分かっていた。
*
「見つけた場所へ、俺も行ってみたい」
それでも、言った。遠坂は、すぐには答えなかった。俺の顔を見て、それから自分の膝へ目を落とす。
「わたしも、戻る前にもう一度そこへ寄ったわ」
低い声だった。
「長椅子も、川へ下りる道も見た。だから、行きたいのは分かる」
言い返そうとしていた言葉が、喉で止まった。
「でも、桜がどちらへ行ったかは分からない。同じ場所をまた見るだけなら、今、人数を増やしても変わらないわ」
「明るくなったら」
「夜に見えなかったものはあるかもしれない。その前に、持ち帰ったものを突き合わせたい」
遠坂が、畳んで置かれていた紙へ手を伸ばした。イリヤがそれを渡す。工房に残っていたものの写しだった。遠坂は広げかけた紙を膝へ置き、セラが持ってきた小さな器を覗いた。中には、潰れた蟲がある。
「何か分かった?」
「まだ、詳しくは」
イリヤが答えた。
「セイバーとシロウを診ていたから。サクラの身体にあったものと比べるなら、わたしが確かめられたところから話す必要があるわ」
遠坂は、紙と器を並べた。しばらく、蟲の形を見ていた。触ろうとはしなかった。
「地下にあったものと同じ系統かどうかは、もう少し確かめる。でも、これが桜の枕元に落ちていたのは、気になるわね」
「臓硯が、何か言ったのかな」
言うと、遠坂が顔を上げた。
「可能性はある。でも、何をしたかは分からないわ」
「桜は、ここにいていいかって訊いたんだ。いてくれって言ったら、頷いてくれた。それが、急に」
イリヤも、寝床を見た。
「診ることも、嫌だとは言っていなかったわ」
彼女の手が、紙の端を押さえた。
「身体の中にあるものも、普通の魔力の動きとは違っていた。あの影が出た時のことと、分けて考えない方がいいと思う」
今夜、俺たちが家を空けている間に起きたこと。桜を襲った男と、それを飲み込んだ黒いもの。聞いた時には別々の恐ろしさだったものが、桜の寝床の上で重なってくる。
「桜に、何が起きてるんだ」
声が小さくなった。イリヤは、こちらを見た。
「それを、確かめましょう。リンが見てきたものと、わたしが見たサクラのことを、ちゃんと並べて」
遠坂が頷いた。紙を丁寧に畳み直し、器から離す。
「少し寝て、朝に。セイバーも動けるようになれば、取れる手が増える」
俺は、まだ外へ向いていた膝を戻した。
「……分かった」
頷いてから、戸口を見る。
「桜が戻ってきたら、すぐ分かるようにはしておきたい」
「外は私が見る」
アーチャーが答えた。
「何かあれば起こす。出てきて確かめ直す必要はないぞ」
「それぐらい、任せる」
言うと、アーチャーの口元がわずかに動いた。
「そう願おう」
遠坂が立ち上がりかけて、一度動きを止めた。その目は、桜の寝床へ向いていた。
「……戻ってきたら、わたしも起こして」
アーチャーは、今度は何も付け加えずに頷いた。
*
寝具を広げると、道場はさらに狭くなった。それでも、戸口までの道は空けてある。桜の寝床も、そのまま残した。セラが衝立を動かし、休む場所を分けてくれた。リズは畳んだ寝具を運んできて、俺の前へ下ろした。
「寝る?」
「ああ。寝る」
「よかった」
俺は何か言い返そうとして、やめた。今夜、何度もそばにいてくれた相手に、寝るだけのことで心配をかけている。
「リズも、休んでくれよ」
「うん」
リズは頷き、イリヤの方へ戻った。俺は器を二つ重ねた。セラに渡すと、彼女はそれを持って廊下へ出ていく。戸の近くに、イリヤが残っていた。
「どうした」
「シロウが本当に寝るか、見てるの」
腕を組んで、こちらを見上げる。
「寝るって言っただろ」
「言うだけなら、簡単でしょう?」
困ったことに、反論が思いつかなかった。俺は畳まれた寝具を指した。
「ちゃんと敷く。そこを退いてくれたら」
「はいはい」
イリヤは少しだけ横へ寄った。布団を広げ、端を整える。いつもの部屋とは違う天井が、これから横になる場所の上にあった。そこを見ていると、イリヤが隣へしゃがんだ。
「サクラ、聞いてくれたのね」
「うん」
戻ってこいという言葉は、届いていた。
「次に会った時も、同じことを言っていいんだよな」
「いいに決まってるでしょう」
イリヤが答えた。
「帰ってきたら、続きを診るわ。今夜出来なかったからって、治療をやめたりしないもの」
「……ありがとう」
彼女は俺を見た。それから、少し眉を寄せる。
「お礼を言ってる間にも、目が閉じそうよ」
「そんなに?」
「そんなに」
自分の瞼へ触れると、確かに目の奥が重かった。桜を捜しに行くと言った時にも、この身体で歩くつもりだったのだ。俺は息を吐き、イリヤの手を見た。
「イリヤも、寝てくれ」
「わたし?」
「ずっと、誰かを診てただろ。桜も、セイバーも、俺も」
イリヤは、自分の手を膝へ置いた。
「シロウほど、ふらふらしてないわ」
「そうだけど。それと、休まなくていいかどうかは別だ」
言ってから、さっきまで自分が言われていたことだと気づいた。イリヤも気づいたらしい。小さく笑った。
「覚えたばかりなのに、もうわたしに言うのね」
「使えると思ったから」
「もう」
彼女が立ち上がり、俺もつられて立ちかけると、肩を押さえられた。
「シロウは、そこ」
「分かってる」
座り直す。イリヤの手が離れ、その指先を、俺は少しだけ握った。彼女がこちらを見る。
「おやすみ、イリヤ」
「……うん。おやすみ、シロウ」
指が握り返された。イリヤは自分の手を抜くと、衝立の向こうへ歩いていった。セラが何か尋ね、彼女の返事が聞こえる。俺も横になった。遠くで、戸を閉める音がした。
桜の顔を思い浮かべた。帰ってきたら、まず無事だったかを訊こうと思ったことを、もう一度思い出す。その時、ちゃんと目を開けられるように。掛け物を肩まで引き上げた。衝立の向こうで声が途切れ、道場が静かになった。
*
目を覚ました時には床の色が変わり、戸の隙間に細い光が差していた。一瞬、自分がどこで寝ているのか分からなかった。天井を見て、それから立てられた衝立に気づき、身体を起こす。頭の奥にあった重さは、薄れていた。手をついても、昨夜のように腕から力が抜ける感じはない。
俺は最初に、桜の寝床を見た。掛け物は畳まれたままだった。
「まだ、戻っていません」
戸口にいたセラが言った。
「……そうですか」
「お水をお持ちします」
「あ、俺が」
そこまで言って、止めた。セラは既に器を手にしていた。
「お願いします」
受け取って飲むと、喉が鳴った。眠れたのだと、その時になって分かった。外の音を聞いているつもりだったのに、途中から何も覚えていなかった。俺は掛け物を畳んだ。衝立の向こうに、イリヤの姿はなかった。セラに訊こうとしたところで、庭から声がした。
「もう一度、腕を上げて」
戸口へ行くと、朝の冷たい空気が顔へ触れた。セイバーが庭に立っていた。左腕を上げ、肘を曲げている。その少し前に、イリヤがいた。
「ここまでなら」
「それで、痛くない?」
「はい」
セイバーが腕を下ろした。俺に気づき、顔を向ける。
「おはようございます、シロウ」
「おはよう。……もう、動けるのか」
「ええ。昨夜より、ずっと楽です」
セイバーは、片足を引いた。見えない剣を握る両手が、身体の前へ上がる。肩が動いた。ゆっくりと構えを変え、足を踏み替える。昨夜、起き上がろうとした時のように、途中で呼吸を止めることはなかった。剣が静かに下ろされる。
「これなら、戦えます」
俺を見て、セイバーは言った。
「シロウからの供給も続いています。以前のように、自分の力を使い切るだけではありません」
その声を聞いて、ようやく庭へ下りた。
「よかった」
イリヤがこちらを向いた。
「シロウは?」
「俺も、大丈夫だ。起きた時、昨日より身体が軽かった」
「そう。ちゃんと眠れたのね」
「ああ。イリヤは」
「わたしも寝たわよ。そんなに見なくても」
イリヤが口を尖らせた。セイバーが、少しだけ笑った。
「二人とも、相手が休んだか気になるのですね」
イリヤと目が合った。彼女は先に、道場へ向き直った。
「だって、見ていないとすぐ動こうとするんだもの」
「今、見られてたのは、イリヤだろ」
「シロウ。顔、洗ってきたら?」
答えになっていなかった。けれど、イリヤの耳が少し赤いのを見て、それ以上は言わなかった。
*
朝食も、道場で取った。母屋の無事な側から必要なものを運び、寝具を寄せて空けた場所へ並べる。壊れた部屋の方へ続く廊下には、入らなかった。俺が茶碗を運んで戻ると、遠坂が座っていた。
「おはよう」
「……おはよう」
返事までに、少し間があった。まだ眠そうだったが、セイバーが歩いて入ってくると、顔を上げた。
「どう?」
「問題ありません。イリヤにも確かめてもらいました」
「そう。よかった」
遠坂は、置かれていた紙を自分の傍らへ寄せた。俺は遠坂の前に茶碗を置いた。
「食べてからでいいだろ」
「分かってるわよ」
紙は、広げられなかった。セラが椀を運び、イリヤが箸を配る。途中で俺の前を通る時、彼女は一本だけ向きの違っていた箸を揃えた。
「シロウの」
「ありがとう」
イリヤは隣へ座った。湯気が上がる。皆の前へ器が渡ったことを確かめてから、俺も箸を取った。
普段なら、ここには桜の声もある。何か足りないものはないかと訊かれて、十分だと答える。そういうやり取りが、いつの間にか当たり前になっていた。今日は、その役を俺がしようとしていた。
「セイバー。足りなかったら」
「まず、シロウも食べてください」
先に言われた。イリヤが隣で笑う。
「言われちゃった」
「……今から食べるところだ」
持ち上げた茶碗が、温かかった。口へ運び、飲み込む。身体が空になっていたことに、ようやく気づいた。
遠坂も箸を動かしていた。セラへ何かを頼む時には、さっきより声がはっきりしていた。少しずつ、食事の音が重なった。食べ終わる頃には、次にする話を聞くための力が戻ってきていた。
*
器を片付けると、遠坂が紙を広げた。アーチャーも道場へ入ってきた。戸口を背にせず、庭と室内の両方へ顔を向けられるところに立つ。セラは潰れた蟲の入った器を置き、リズと外へ出た。イリヤが紙へ身を寄せる。
「この空いているところは、壊れていて読めなかったのね」
「ええ。繋がっていたらしいところだけ、位置が分かるようにした。途中の形は足してないわ」
遠坂は書き込みの一つを指した。
「ここも、壁が落ちていた。残った部分から写せたのは、これだけ」
俺には、線と記号にしか見えなかった。イリヤは紙を少し回し、指で端を押さえた。すぐには何も言わず、途中で切れた線を目で辿っている。
「桜に何をしたか、分かるか」
尋ねると、イリヤは首を振った。
「これだけでは、全部は分からないわ」
「……そっか」
「でも、何を比べればいいかは分かる。リン。蟲が残っていた場所も教えて」
遠坂が答える。床のどちら側に残骸が多かったか。破壊された部分と、まだ形を留めていた部分。紙の上へ置いた指が、そのたびに動いた。アーチャーが、遠坂の見ていなかった場所の様子を補う。イリヤは潰れた蟲を見た。地下にあった残骸そのものは、ここにはない。遠坂たちが見たものと、目の前のものを比べるにも、聞かなくてはならないことがあった。
「間桐の魔術と繋がっていると考えて、調べるべきだわ」
しばらくして、イリヤはそう言った。
「でも、この一匹が何をさせたかは、別ね」
「桜を連れ出したのが、この蟲だとは言えない?」
「声を聞いた人も、動いていたところを見た人もいないでしょう」
俺は頷いた。遠坂が、器を紙の脇へ寄せる。
「身体に蟲を入れたのは臓硯だと、ライダーは言っていた。桜が苦しんでいたことも聞いてる。それは動かないわ」
指が、紙の上へ戻った。
「ただ、今の桜に起きていることが、間桐の魔術だけで説明出来るのか。そこを、はっきりさせたい」
イリヤは、ゆっくり頷いた。
「わたしも、そこが気になってる」
*
「ライダーは、影の出どころまでは見ていないと言っていた」
アーチャーが言った。俺は顔を向けた。
「床へ広がっているのに気づき、桜を連れて離れた。その後、追ってきた金髪の男が飲まれた。本人の説明は、そこまでだ」
「桜から出たところを、見たわけじゃないんだよな」
「ああ」
遠坂が、紙から手を離した。
「でも、桜の身体の異常と、あの影の出現を、無関係とも言えない。公園で見たものがこの家にも出た可能性が高いし、襲撃の後には桜の熱も強くなっている」
俺は思わず、母屋の方を見た。ここからは、壊れた部屋は見えない。影は、俺たちの留守に来た。桜はその時、眠っていた。
「もし、桜と繋がってたとしても。桜が、自分でやったってことにはならないだろ」
「ええ」
遠坂はすぐに答えた。
「ライダーも、桜から指示は受けていないと言っていたわ。その点を変えるつもりはない」
責めるようなことを言ったつもりではなかった。けれど、俺の声には力が入っていた。膝へ手を下ろすと、イリヤがこちらを見た。
「サクラが何を知っているかは、本人にも聞かないとね。でも、その前に、身体で何が起きているかを考えましょう」
「……分かった」
イリヤは紙へ目を戻した。
「昨日、最初にサクラへ触れた時、魔力の動きがおかしいと言ったでしょう」
「ああ」
「入れられたものが、身体とどう繋がっているか。どこまで手を加えていいか、それを詳しく調べるつもりだった。ランサーが来て、そこまで出来なかったけれど」
俺は、使われないまま脇へ置かれた布を思い出した。
「だから、診て確かめたことと、今から考えることは分けて聞いて」
彼女は俺と遠坂を順に見た。
「サクラが、別の聖杯として使われているとしたら」
言葉の続きを、すぐには受け取れなかった。
「……聖杯?」
イリヤは頷いた。
「蟲で身体を変えられていること。魔力の異常。そばに現れて、サーヴァントを飲み込んだ影。その三つを繋げて考えるなら、その可能性があるわ」
遠坂は黙っていた。驚いていないわけではなかった。紙を押さえていた指が、少し曲がっている。
「間桐が、器を作ったということ?」
「ええ。サクラの身体を使って」
「待ってくれ」
俺は二人の間へ声を入れた。
「聖杯って、願いを叶えるものだろ。どうして、それが桜の身体なんだ」
イリヤがこちらを向いた。自分の使った言葉が俺に伝わっていないと、その時、気づいたようだった。
「シロウが思っている聖杯と、今わたしが言った器は、少し分けて考えた方がいいわね」
紙から手を離し、自分の膝へ置く。
「サーヴァントは、負けると姿が消えるでしょう。その後、魂はどこへ行くと思う?」
答えようとして、止まった。バーサーカーが消えた時のことを思い出した。あの大きな身体が、もうイリヤの後ろにはいない。そこから先を、俺は考えられていなかった。
「……元のところへ、戻るんじゃないのか」
「この戦争では、その魂を受け止めるものが用意されているの。それが、わたしの言う聖杯。小聖杯と呼ぶ器よ」
セイバーが、静かにイリヤを見ていた。俺はセイバーの顔を見てから、またイリヤへ向き直った。
「それを、桜にさせてるっていうのか」
「その疑いがある。あの影がサクラと繋がっていて、サーヴァントを取り込んでいるのなら」
「桜が、そんなことを覚えていなくても?」
「本人が望んでいるかどうかと、身体に何をさせられるかは、同じではないわ」
声が、胸の奥に残った。寝ている桜。苦しそうに呼吸をして、目を覚ますたび、誰かの顔を確かめていた。自分の中で起きていることを、本人が知らないのだとしたら。
「止めないと」
俺は言った。
「そんなことを続けさせちゃ、だめだ」
遠坂が頷く。
「だから、見つけて保護する必要がある。何をされたのか、もう一度、身体を診なきゃいけない」
「蟲を取れば、止まるのか」
イリヤは、すぐには答えなかった。
「入っているものを取り除けたら、それで何もかも元どおりになるとは、まだ言えないわ。身体の方が変えられているかもしれない。何と繋がっているのかも、調べる必要がある」
「……昨日、言ってたのは、それか」
「昨日は、まだそこまで決めていなかった。今も、全部確かめたわけじゃないの」
イリヤは、俺の顔を見た。
「でも、ただ熱を下げて、眠れれば大丈夫とは思っていないわ」
俺は頷いた。簡単には済まないと聞くのは、怖かった。それでも、何が分からないのかを話してくれる方がよかった。
*
遠坂が、紙を少し引き寄せた。
「間桐の処置と、聖杯の器。その両方を考えて調べる必要があるのね」
「ええ。ただし、サクラがわたしと同じ作られ方をしているとは限らない。そこを取り違えると、助けるつもりで壊してしまうわ」
イリヤは、自然にそう言った。俺は、頷きかけて止まった。
「……同じ?」
イリヤがこちらを見る。遠坂の手も止まった。今の言葉を、頭の中でもう一度繰り返した。サクラが、わたしと。
「イリヤの身体と、比べてるのか」
「ええ」
声は変わらなかった。
「わたしの身体は、聖杯になるために作られたものだから」
俺は彼女を見ていた。白い髪が、肩へ落ちている。朝食の箸を配っていた手が、今は膝の上にあった。昨夜は、その手が俺の手首を支えていた。
桜の苦しさを軽くした。セイバーを診て、俺に何をすればいいか教えた。イリヤの声を聞きながら、身体の中へ意識を向けた時のことまで、はっきり覚えていた。
「アインツベルンは、今回の器をわたしにしたの」
イリヤが言う。
「だから、わたしが知っていることは話せるわ。間桐がサクラに何をしたのか、比べながら考えることも出来る」
俺を安心させるつもりも、あったのかもしれない。けれど、俺はもう、紙へ目を戻せなかった。
「イリヤ」
「なに、シロウ」
返事は、いつもの声だった。その声を聞いて、喉の奥が少し詰まった。
「その器として働いたら……身体は、どうなるんだ?」
イリヤは膝の上に置いた手を見てから、俺へ顔を上げた。