Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
倒れた棚の下を、蟲が通った。木片の間には、まだ細かな粉が残っていた。人間なら踏み越えるだけで音を立ててしまう場所も、その小さな身体には障りにならない。廊下の壁へ移り、天井近くの暗がりを進む。
礼拝堂の入口近くには、桜とライダーがいる。臓硯は、そちらへ蟲を近づけなかった。桜へ声を届けた一匹は、潰された。今は別の使いを教会の外壁から回し、内側を探らせている。
ライダーは警戒しているだろう。それでよい。桜を休ませ、外から来るものを気にかけている間は、ここを離れずに済む。
ただし、教会の主が戻る道を、あの女一人に見張らせるつもりはなかった。真アサシンの報告では、言峰綺礼は逃げた。胸へ宝具を届かせながら、仕留められなかったという。何が起きたかを、言葉だけで確かめることは出来ない。だが、獲物が死んだと思い込んだまま場所を借りるよりは、ましだった。
蟲が廊下の角へ着いた。片側には、破られた出入口がある。夜気が入り、床の上の木屑をわずかに動かしていた。そちらは既に見ている。使いを、もう一方へ進ませた。
部屋を一つ、その隣をもう一つと調べたが、二つ目の部屋にも神父の姿はなかった。
やがて、閉じた扉の下まで辿り着く。隙間から入った先で、床が途切れていた。下へ続く階段がある。蟲は、壁の継ぎ目へ移った。
*
地下は、地上より冷えていた。石の面が、緩やかに弧を描いている。小さな使いを下へ進ませると、地上から届いていた物音が遠くなった。代わりに、別の気配がある。
人間のものだった。一人ではない。臓硯は、蟲を止めた。
言峰か。だが、違う。奥にいるものは、こちらへ動いてこなかった。その呼吸の間隔も、伝わってくる魔力の乏しさも、先ほど暗殺者を振り切った人間のものとは思えなかった。
地下の聖堂を横切り、さらに奥の部屋へ入らせる。薬品の臭いがあった。水の落ちる音。壁際に並ぶものの形を確かめた時、臓硯はしばらく使いを動かさなかった。
人間が収められていた。
痩せた身体は自力で起き上がることが出来ず、周囲のものと離し難いほど密着している。薄い胸が、わずかに動いた。生きている。細い管を伝った水が、唇へ落ちる。その口が動き、声になりきらない息を漏らした。
臓硯は蟲を壁へ上げ、近くの一人だけでなく、部屋の奥まで確かめた。同じように、幾つもの呼吸が続いていた。
それらを収めるものから、力が引き出されている。生命を削り、取り出したものを供給へ回すための仕掛け。臓硯には、その用途を考えるのに長い時間は要らなかった。使うものも、収める場所も、手の加え方も、自分の工房とは違う。だが、何をされているかは分かった。命が尽きるまでを、長く引き延ばしている。部屋に響いていた細い音は、その間ずっと止まなかった。
『……ほう』
地上の暗がりに残した蟲から、低い声が漏れた。
臓硯は、供給の仕組みには蟲を触れさせなかった。今ここで壊せば、何が止まるか。手を出すのは、使い道を考えてからでも遅くはない。そう考え、使いをその縁に沿って歩かせた。
*
この部屋は、今夜作られたものではなかった。人間の身体に刻まれた時間も、それを取り巻く設備の使われ方も、一度きりの魔力補充では説明がつかない。長い間、ここから力を取っていた者がいる。教会の下に、これだけのものを隠して。言峰綺礼が知らずにいた、とは考えにくかった。
ならば、誰へ渡していた。臓硯は、今回の戦争だけを考えるのをやめた。
金色のサーヴァント。十年前にも、この街にいた英霊。今回も姿を現したあの男と、この部屋を管理する神父。結びつける余地はある。神父が、あの男へ食事を与えていたのか。それとも、この部屋には別の使い道があったのか。慎二の傍らにいたあの男が、他にも繋がりを持っていたとして、不思議ではない。
臓硯は、使いを少し戻した。部屋の入口から地下聖堂へ出る道、弧を描く階段、その上の扉。帰りの経路を、順に確かめる。
教会を空けたのは、何も失うものがなかったからか。あるいは、戻ってくるつもりなのか。宝具は胸へ届いたのに、言峰は死ななかった。その報告を思い返した。この部屋には、神父自身の心臓について答えるものはない。だが、長い間これだけのものを隠していた男なら、まだ他にも伏せたものがあるだろう。
*
教会の裏手で、黒衣が動いた。白い面が、石の上を這ってきた蟲へ向く。
『変わりは』
「神父ハ、見エヌ」
暗殺者の右腕は、黒衣に収められていた。裂けた袖には、乾いた血が残っている。
『来ぬと決まったわけではない。しばらく、そのまま見ておれ』
「追ウカ」
『今から行方も知れぬ相手を捜すより、戻るところを押さえる方がよい』
面が教会の壁へ向き、短い沈黙の後、暗殺者は頷いた。
地下に誰がいるかを、ここで詳しく話す必要はなかった。まして、桜へ聞かせる用はない。ライダーが知れば、桜を連れて動く理由を一つ増やすことになるだろう。
臓硯は、奥を調べた使いを部屋の入口まで戻した。壁と石の隙間へ潜ませ、階段に通じる方を向かせる。言峰がここへ戻れば、その反応も見られる。戻らぬのなら、隠されていたものは、こちらの手元にある。
生かしたまま、隠したまま、残しておく。いずれ、話す相手は選べる。
地上へ続く扉は、閉じたままだった。地下では、水が落ち続けていた。