Fate/stay night IF BEYOND THE EVER   作:Мир

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第二十三話 空けておく席

「……今みたいには、いられなくなるわ」

 

 イリヤは、俺を見て答えた。膝の上の指が、ゆっくりと開く。

 

「英霊の魂を受け入れて、収めておく。そのためには、身体の中で使うものを増やしていかなきゃいけないの。器の仕事が大きくなれば、人間として動くために使っていた分も、そちらへ回すことになる」

「動くためって」

「こうして手を動かしたり。立って歩いたり。シロウとお話をしたり」

 

 開いた指が、もう一度閉じた。朝、箸の向きを揃えていた手だった。

 

「器が完成に近づくほど、そういうことをする余裕がなくなる。最後まで、今のわたしのまま聖杯の役目も全部果たせる、という身体ではないわ」

 

 俺は、その手を見ていた。どこかに傷を受けるという話なら、まだ想像できた。血が流れる。痛む。立っていられなくなる。昨夜、セイバーに起きたことを、俺は目の前で見ている。

 

 けれど、イリヤの話には、傷つける刃がなかった。役目を果たす。それだけで、こうして俺に答えてくれるものまで、失われていく。

 

「もう、始まってるのか」

 

 声が、自分で思ったより低かった。イリヤは首を振った。

 

「今、話せなくなりかけているわけじゃないわ。手も動くし、歩けるでしょう。朝も、ちゃんと見ていたじゃない」

「ああ。でも」

「そこは、心配しすぎないで。わたし、自分の話をしてるのよ」

 

 いつもの調子で安心させようとしてくれる。その声に、かえって何も言えなくなった。

 

 遠坂が、広げていた紙から手を離した。

 

「身体を維持することと、器を動かすことが、競合するのね」

「ええ。わたしは、その切り替えも考えて作られている。だから、サクラに起きていることを、そのままわたしの身体へ当てはめることも出来ないの」

 

 イリヤは、間桐の工房から写された紙へ目を落とした。途中で途切れた線がある。桜の身体について話す時と同じように、自分の身体についても説明している。

 

「それなら」

 

 俺は、彼女が次の説明へ移る前に言った。

 

「器として使わせなければ、いいんだよな」

 

 イリヤがこちらを向いた。

 

「そんなところまで働かせない。聖杯になんかならなくていい。戦争を終わらせて、その役目をやめられれば」

 

 そこまで言って彼女の表情を確かめながら、頷いてほしいと思った。今すぐその方法を教えてくれなくても、そうすれば助かるのだと、言ってほしかった。

 

「そうしたら、その後は、普通に暮らせるんだろ」

 

 イリヤは、すぐには答えなかった。庭の方で、鳥が鳴いた。それまでも聞こえていたはずの声が、道場の奥まで入ってくる。

 

「シロウ」

 

 彼女が呼んだ。

 

「わたしの身体は、長く生きられるようには出来ていないの」

 

     *

 

 意味が、うまく繋がらなかった。器として使えば、身体が保たなくなる。だから、使わせなければいい。そう考えたばかりだった。

 

「……聖杯に、ならなくても?」

「うん」

 

 イリヤは頷いた。

 

「戦争が終わって、器として使わなくなっても、それだけで長く生きられる身体に変わるわけじゃないわ」

「この街を出たら」

「同じよ」

 

 イリヤは、言い終えてから唇を閉じた。俺が次に何を訊くか、待っている。俺は何も言えなかった。

 

 今朝は、ちゃんと眠れたかと訊いた。寝たわよ、と返された。耳を赤くして、顔を洗ってこいと言ったイリヤを見て、俺は少し嬉しかった。朝食を食べて、桜のことが片づいたら、またああして話せると思っていた。次に一緒に出掛ける時のことも。誰にも邪魔されず、今日の食事の話だけしていられる朝のことも。何かを決めたわけではない。ただ、その先があるつもりでいた。

 

「どのくらい、なんだ」

 

 ようやく訊いた。イリヤの視線が、一度だけ下がった。

 

「いつまでって、日にちを言えるわけじゃないわ。でも、長くはない。それは分かってる」

 

 喉の奥が狭くなった。今まで、知らなかった。俺が彼女に会いに行った時も、この家へ来てくれた時も、イリヤの方は知っていた。

 

「ずっと、知ってたのか」

「自分の身体だもの」

 

 その穏やかな返事に、胸の中が熱くなった。そんなふうに言うな、と口にしそうになった。けれど、俺が今、初めて聞いたことを、イリヤはずっと前から知っていたのだ。俺と同じように驚いてくれと怒るのは、違う。

 

 目の前の彼女は、何も変わっていない。白い髪が肩へかかり、こちらを見る赤い目がある。昨夜、俺を座らせて、休みなさいと言った女の子が、同じ場所にいる。それなのに、目を離すのが怖かった。

 

「シロウ」

 

 イリヤの声で、息を止めていたことに気づいた。

 

「今、いなくなるって言ってるんじゃないのよ」

「分かってる」

 

 答えた声が、かすれた。分かっていない顔をしているのだろう。イリヤは少し困ったように眉を寄せたが、それ以上、笑おうとはしなかった。

 

 遠坂も黙っていた。さっきまで紙の上で動いていた指は、膝の上に置かれている。セイバーが、静かに姿勢を正した。誰も、そんなはずはないとは言ってくれなかった。

 

     *

 

「鞘は」

 

 口にしてから、俺は自分の胸へ手を当てた。

 

「昨日、セイバーは治っただろ。あれを、イリヤにも使えないか」

 

 セイバーが顔を上げた。

 

「私の鞘を、ですか」

「ああ。俺の中にも、まだある。セイバーが使った方もあるんだ。どちらかで」

 

 昨夜の傷は、浅くなかった。血で濡れた布も、苦しそうな呼吸も覚えている。鞘が働き、傷が塞がった時、もう大丈夫だと思えた。あんなことが出来たのなら。

 

「シロウ」

 

 セイバーは、俺の胸元を見た。

 

「私に起きたのは、受けた傷からの回復です。その力が、イリヤの寿命にも同じように働くと、私は答えられません」

「けど、試せば」

「士郎。先に、何を治そうとしているのか確かめましょう」

 

 遠坂の言葉に、反射的にそちらを向いた。

 

「時間がないって、今」

「だからよ」

 

 遠坂の声は、強かった。

 

「傷を塞ぐのと、身体の成り立ちを変えるのとじゃ、調べるところから違う。見当違いのことを繰り返して、イリヤまで疲れさせたらどうするの」

 

 俺は胸から手を離した。言い返す言葉が見つからなかった。

 

「……魔力が、足りないとかじゃないんだな」

 

 イリヤへ訊く。

 

「ええ。休んで、魔力が戻れば長く生きられる、ということなら、わたしもそうしているわ」

 

 昨夜、俺とセイバーを繋ぐ道を直してくれた手が、そこにあった。あの時のイリヤは、何を確かめ、どこへ意識を向ければいいのか、俺へ一つずつ教えてくれた。自分のことだけ、その手順を知らない。

 

「自分の身体なら、何が悪いか分かるんじゃないのか」

「分かることはあるわ。でも、分かっているところを全部直せるわけではないもの」

 

 イリヤは、膝に置いた手を見た。

 

「わたしだって、何も知らないから、そのままにしているわけじゃないの」

「……そうだな」

 

 急いで頷いた。まるで、俺が今、必死に探している方法を、彼女は一度も考えたことがないとでもいうような言い方だった。

 

「悪い。責めたいんじゃない」

「知ってる」

 

 イリヤは顔を上げた。

 

「シロウは、すぐ何かしようとするのね」

「何もしないで、聞いてるだけなんて」

「うん。でも、今は聞いて」

 

 そう言って、俺がまた胸へ伸ばしかけた手を、指先で押さえた。

 

「まだ、わたしの話の途中でしょう」

 

 俺は、その小さな力に従って手を下ろした。戸口にいたアーチャーが、庭からこちらへ顔を向けた。

 

「使えるものを探すのは構わん。だが、使ったことのあるものだけで答えを出そうとするな」

 

 俺はアーチャーを見た。嫌な言い方だった。けれど、あいつの視線は、俺がさっきまで触れていた胸の辺りへ向いていた。

 

「鞘のことを、諦めろっていうのか」

「それだけに賭けるなと言っている」

 

 少しして、俺は頷いた。

 

     *

 

 俺の手を押さえていた指が離れ、イリヤはいつものように両手を膝へ戻そうとした。その前に、俺は彼女を呼んだ。

 

「イリヤは、どうしたい」

 

 赤い目が、こちらへ戻った。

 

「どう、って」

「身体のことも、聖杯の役目も聞いた。でも、どうしたいかは、まだ聞いてない」

 

 イリヤは、わずかに口を開けてから閉じた。説明をしていた時には、一度もなかった間だった。

 

「……シロウは、そういうことを訊くのね」

「訊くよ」

「困った顔をしているのは、シロウなのに」

「してると思う。自分でも、うまく考えられてない」

 

 正直に答えると、イリヤの目元が少し緩んだ。けれど、続く声は小さかった。

 

「今朝も、ごはんを食べたでしょう」

「ああ」

「シロウが、セイバーの分を気にして。自分も食べなさいって言われて」

 

 ついさっきのことだった。

 

「わたし、明日もそうなのかなって思ったの」

 

 イリヤは、器を片づけた場所を見た。

 

「またシロウが誰かの分を先に確かめて、わたしが隣で見てるの。きっと同じことを言われるわね、って」

「……毎回、言われるつもりはないぞ」

「そう? じゃあ、確かめなきゃ」

 

 返してから、イリヤは黙った。

 

「次のことを考えると、その次も欲しくなるのね」

 

 今度は俺を見て、言った。

 

「今日、一緒にいられてよかったって、それで終わらなくなる」

 

 喉へ上がってきたものを、飲み込んだ。俺も、おやすみを言った後には、おはようを言いたかった。

 

「わたしは」

 

 イリヤは少しだけ遠坂へ目をやった。遠坂は何も言わず、続きを待っていた。

 

「戦争が終わっても、ここで暮らしたい」

 

 膝の上の指が、服を握った。

 

「どうすればいいかは、分からないけど」

「うん」

 

 俺は頷いた。すぐに何かを約束しようとして、やめた。

 

「俺も、イリヤに生きていてほしい」

 

 彼女の目が、俺を見た。

 

「そのために、何が出来るか考えたい。どうしたいかも、聞きながら」

 

 うまい言い方ではなかった。それでも、知らなかった時に戻りたいとは思わなかった。

 

「話してくれて、よかった」

 

 イリヤは目を伏せ、しばらくして、小さく頷いた。膝の上の手は、もう服を握っていなかった。

 

     *

 

「イリヤ」

 

 遠坂が少し待ってから声をかけると、イリヤが顔を向けた。

 

「身体のこと、分かっている範囲で、あとでわたしにも教えて。ここで出来ることがあるか、確かめたい」

「……リンにも、出来ないことはあるわよ」

「分かってるわ。あなたが簡単に直せないものを、わたしが一目で直せるなんて思ってない」

 

 遠坂は、広げた紙の端を揃えた。

 

「でも、知らないままにはしたくないの」

 

 イリヤは遠坂を見て、頷いた。

 

「うん。話すわ」

 

 俺は二人のやり取りを聞きながら、紙の上へ目を落とした。聖杯。何度もその名前を聞いた。手に入れれば、願いを叶えられるというもの。そのために、人を戦わせるもの。そして、その器になる女の子が、すぐ隣にいる。

 

「……その聖杯で、助けることは出来ないのか」

 

 二人がこちらを向いた。

 

「何でも願いが叶うって、言ってたじゃないか。それなら、イリヤの身体を」

 

 イリヤは一度、遠坂を見た。

 

「アインツベルンが、何のために聖杯を用意したか。リンにも聞いてほしいの」

 

 遠坂が紙から手を離し、頷いた。

 

「聖杯は、願いを叶えるためだけのものではないわ。アインツベルンが目指しているのは、第三魔法の再現なの」

「魔法……? この聖杯戦争で?」

 

 遠坂が顔を上げた。聖杯の話をしていた時とは、声まで違っていた。

 

「魂の物質化。肉体がなくなれば消えてしまうものを、それ自身で存在出来るようにする魔法よ」

「待って。魂を物質化するって、それならサーヴァントだって」

「降霊とは違うわ。サーヴァントは、この時代の生命として生まれたものではないでしょう。魂そのものが、肉体に頼らずに生きていけるようになるの」

 

 遠坂は口を閉じ、考えるようにセイバーへ目を向けた。

 

「……魂だけで、生きるってことか」

 

 俺が訊くと、イリヤは頷いた。

 

「ただ身体から抜け出して、漂うという意味ではないわ。その魂自体が、この世界で確かな存在になる。肉体の寿命に縛られずに」

 

 最後の言葉に、思わず顔を上げた。イリヤは俺の反応を見ても、話を急がなかった。

 

「その魔法を使うために、聖杯を作ったのか」

「ええ。もっとも、わたし一人が、その仕組みを全部持って歩いているわけではないけれど」

 

 イリヤは、自分の胸元へ片手を置いた。

 

「魂を集める器と、儀式を動かす大聖杯。二つが必要なの。受け止めた英霊の魂を使って、この世界の外へ孔を開ける。そのための仕組みが、この土地に作られている」

 

 器。その言葉が出るたび、隣にいるイリヤの身体の小ささを意識した。

 

「その孔は、根源へ繋げるためのものなのね」

 

 遠坂が言った。

 

「ええ。道がないから、英霊の魂を使って開こうとしたの」

「……そういう仕組みだったわけか」

 

 遠坂は息を吐いた。

 

「遠坂も、それを目指してるのか」

「うちが目指しているのも、根源よ。あらゆるものの始まりへ辿り着くこと。けど、この儀式がどうやってそこへ届こうとしているのかは、今の話で繋がったわ」

 

 どういう場所なのか、俺には想像もつかなかった。願いを一つ叶える道具だと思っていたものには、その奥があった。

 

「じゃあ、願いが叶うっていうのは」

「その過程で集められる力だけでも、出来ることは大きいの。使う側にとっては、願望を実現するためのものにもなる」

 

 イリヤはそう答えた。俺は、彼女がさっき口にした言葉を思い返していた。

 

「第三魔法なら、イリヤの身体の限界も、変えられるかもしれないんだな」

 

 イリヤは、俺を見返した。

 

「肉体の寿命から離れるものだから。考える理由は、あるわ」

 

 胸の奥に、息が入った。どこへ向かって手を伸ばせばいいのか、初めて見えた気がした。

 

「それなら」

「でも、シロウ」

 

 イリヤの声が、続きを止めた。

 

「今の聖杯に、そのまま願いをかけることは出来ない」

 

 俺は口を閉じた。彼女の目は、真剣だった。

 

「聖杯は、汚れているの」

 

     *

 

 遠坂の顔つきが変わった。

 

「……汚れている、って。何が混じっているの」

「第三次の聖杯戦争で、アインツベルンが呼んだものよ」

 

 イリヤは答えた。

 

「アンリマユ。復讐者、アヴェンジャーとして召喚されたサーヴァント。その名前に負わされたものが、敗れて聖杯へ入った時にも、消えなかった」

「負わされたもの?」

 

 俺が訊くと、イリヤは頷いた。

 

「この世すべての悪であれ、という願い」

 

 聞いた言葉が、ひどく遠いものに思えた。この世の、すべての悪。何を指しているのか、すぐには掴めない。ただ、そんなものが望まれて作られたという話に、肌が粟立った。

 

「普通なら、倒されたサーヴァントは、その人格を失って、聖杯が扱う魔力になる。けれど、アンリマユは、一つの願いを負わされたものだった。聖杯はそれを取り込んだ時、その願いを受け入れてしまったの」

 

 遠坂が、わずかに顎を引いた。

 

「力を集める器の中に、最初から叶えようとする願いが入っている……?」

「ええ。だから、力だけを取り出して、望んだとおりに使えると思ってはいけないわ」

 

 紙の脇には、潰れた蟲の入った器がある。俺はそれを見た。

 

「桜のそばに出た、あの影もか」

「聖杯と繋がっているのなら、その汚染を考えずに調べることは出来ないわ」

 

 イリヤは、蟲ではなく工房の写しへ目を向けた。

 

「ただの魔力不足や、間桐の蟲だけの問題として扱うには、おかしなことが多い。だから、サクラがもう一つの器として使われている可能性を考えたの」

「その、アンリマユっていうものが、桜に入ってるのか」

「身体のどこに何があって、どう繋がっているのか。昨日の診察では、そこまで確かめられていないわ。公園の影は見たけれど、昨日この家に出た影は、自分では見ていないわ」

 

 イリヤは、はっきり答えた。遠坂が、アーチャーを見た。

 

「影そのものは、私も公園で見ている。サーヴァントを取り込んだという話は、ライダーから聞いた」

 

 アーチャーが言った。

 

「桜の身体で何が行われているかまでは分からん。だが、杯との関わりを調べる理由にはなる」

 

 俺は、膝の上で手を握った。桜は、自分が何をされたか知っているのだろうか。知らずに苦しんでいたのだろうか。家へ戻ると、あいつが食事の支度をしていた。俺が具合の悪さに気づいた時には、大丈夫だと言った。

 

 今朝、イリヤが普通に歩いていたことと、長く生きられることが別だと知ったばかりだった。桜が返事をして、笑っていたからといって、それで何も起きていなかったことにはならない。

 

「それじゃ、願いを叶えるどころか」

 

 言葉を切り、イリヤへ向き直った。

 

「その聖杯に、イリヤまで使わせることになるじゃないか」

 

 イリヤは目を逸らさなかった。

 

「わたしは、聖杯のことを何も知らずに、ここへ来たわけではないもの」

「知っていて、器になるつもりだったのか」

 

 声が強くなった。イリヤの唇が、少しだけ引き結ばれる。

 

「そのために作られたのよ、わたしは」

 

 俺は、言い返そうとした。そんなことは理由にならない。イリヤが死んでいいことにはならない。けれど、彼女は俺が口を開くより先に、続けた。

 

「でも、今、シロウと何をするか話しているのは、わたしでしょう」

 

 赤い目が、こちらを見ていた。

 

「ここで暮らしたいって、言ったばかりなのに」

 

 俺は息を飲んだ。自分の役目を説明した声だけを聞いて、その前に、ためらいながら話してくれたことを追い越していた。

 

「……ああ。聞いた」

 

 俺は言った。

 

「ちゃんと、聞いた」

 

 イリヤはしばらく俺を見てから、少しだけ肩の力を抜いた。

 

     *

 

「その汚れを、取り除くことは出来ないのか」

 

 今度は、答えを急がせないように訊いた。イリヤは考えた。遠坂も、口を挟まなかった。

 

「取り除けたら、何が残るか。それをどう動かせるか。確かめなきゃいけないことがあるわ」

「今ここで、やり方を教えてくれとは言わない。けど、調べることは出来るんだろ」

「調べることは、出来る」

 

 イリヤは頷いた。

 

「ただ、わたしが器だからって、聖杯に起きていることを全部見られるわけじゃないの。好きなところを止めて、元に戻せるわけでもない」

 

 遠坂が、俺を見た。

 

「汚染をどうにか出来るか、その後でイリヤを助けられるか。それは、一度に答えの出る話じゃないわね」

「分かってる」

 

 言ってから、首を振った。

 

「……いや。全部は分かってない。でも、順番に確かめなきゃいけないのは分かった」

 

 イリヤが俺を見ていた。

 

「その先に何が出来るかも、調べたい。イリヤが聖杯として働かなくて済むだけじゃなくて、その後も生きていけるように」

 

 俺は、その二つを一緒にしていた。戦争を終わらせる。危ない役目をやめさせる。そうすれば、いつもの暮らしへ帰れると思っていた。けれど、帰る場所を空けておくだけでは、足りない。

 

「シロウ」

 

 イリヤが、俺の袖へ触れた。

 

「第三魔法が何かを知っていても、それをわたしのためにどう使えばいいか、今、答えを持っているわけじゃない。それでも?」

「それでも、調べる」

 

 答えると、彼女の指が止まった。

 

「だって、イリヤも知らないなら、一緒に探せばいいだろ」

 

 イリヤが、一度瞬きをした。その横から、遠坂の声がした。

 

「そこは、わたしも入れてもらえるかしら」

 

 振り向くと、遠坂は少し眉を上げていた。

 

「さっき、知らないままにしたくないって言ったばかりなんだけど」

「……頼む」

 

 俺が頭を下げると、遠坂は一瞬、言葉に詰まった。

 

「そうやって、いきなり真面目に返されると困るんだけど」

「真面目に頼んでる」

「分かってるわよ」

 

 彼女はイリヤを見た。

 

「桜のこともある。あなたの知っていることは借りたいし、わたしの知っていることは話す。その方が、確かめられることも増えるでしょ」

 

 イリヤは、俺の袖から指を離した。

 

「ええ。よろしく、リン」

「こちらこそ」

 

 遠坂は答え、紙の折り目を指で押さえた。その向こうに、空いた寝床が見えた。

 

 桜を連れて帰りたい。イリヤと、この先も一緒にいたい。どちらを思っても、今、足りないものがあった。

 

「桜を見つけないとな」

 

 声に出すと、遠坂が頷いた。

 

「ええ。もう一度、身体を診てもらわないと」

「診るわ」

 

 イリヤの返事に顔を向けると、彼女は先回りするように俺を見た。

 

「何よ。昨日の続きでしょう。身体の話をしたら、わたしまで何もさせてもらえなくなるの?」

「そんなことは」

 

 言いかけて、少し詰まった。無理をしてほしくない。その気持ちは、さっきよりずっと強くなっていた。だが、俺が驚いたからといって、イリヤが急に動けなくなったわけではない。

 

「……出来ることは、頼みたい。無理な時は、言ってくれ」

「シロウもね」

 

 すぐに返ってきた。俺は頷くしかなかった。

 

 セイバーが、そこで口を開いた。

 

「私も同行します。桜を保護する際に、また戦いになる可能性はあります。イリヤが桜を診られるよう、私たちで場所を守りましょう」

 

 昨夜とは違い、その声に苦しさはなかった。腕は自然に膝へ置かれている。肩を庇う仕草もない。俺がそちらを見ていると、セイバーは頷いた。

 

「今朝、確かめたとおりです。戦えます」

「ああ。頼む、セイバー」

 

     *

 

「教会へ行きましょう」

 

 遠坂はそう言って、畳みかけていた紙をもう一度手元に置いた。

 

「言峰に、聖杯のことを聞く。桜たちについて何か掴んでいないかも、確かめたい」

「あいつが、知ってるかな」

「少なくとも、監督役よ。この街の戦争で、何が起きているかを聞く相手ではあるわ。特に、前の戦争のこと。聖杯の状態についても、わたしたちが知らないことを知っている可能性はある」

 

 俺は、イリヤを見た。

 

「話を聞くのは、いいと思うわ」

 

 彼女は答えた。

 

「ここにあるものだけで、これ以上のことを決めるのは難しいもの」

「ただし、訊くことは決めておく」

 

 遠坂が続けた。

 

「こちらの事情を、最初から何もかも説明する必要はないわ。まず聖杯について、あいつが何を知っているのか。それから桜とライダーの行方」

 

 イリヤの身体のことまで、すぐに話すつもりはないのだと分かった。俺も、その方がいいと思った。

 

「桜が行きそうな場所に、教会は入るのか」

「それは分からない。だから、捜す手を増やすためにも訊くのよ」

 

 俺は頷いた。昨夜と同じ場所をもう一度歩く以外に、取れる手が出来た。

 

「五人で行くのね」

 

 イリヤが確かめると、遠坂は頷いた。

 

「ええ。昨夜は、離れている間にここを襲われた。今度は、話せる人と守れる人を、一緒に動かしたい」

 

 アーチャーが、壁から身体を離した。

 

「途中で手掛かりを見つけても、一人で走り出すなよ」

 

 こっちを見ていた。

 

「分かってる」

「ならばいい」

 

 言い足そうとして、やめた。昨日も、誰かが来て、手を貸してくれた。それでここまで来ている。イリヤを助けることだけ、急に一人で出来るようになるはずがなかった。

 

 遠坂が、今度こそ紙を畳んだ。

 

「出る前に、セラたちにも話しておきましょう。桜が戻ってきた時のことと、ここの様子を見てもらうこと」

 

 俺は、空いた寝床へ目を向けた。

 

「あれは、そのままでいいよな」

「ええ」

 

 遠坂は、すぐに答えた。

 

「戻ってきたら、使えるようにしておいて」

 

 その声を聞いて、頷いた。遠坂が立ち上がる。セイバーも続き、戸口でアーチャーと言葉を交わした。庭へ出た遠坂が、セラを呼ぶ声がした。

 

 イリヤは、まだ隣に座っていた。俺も、立てずにいた。

 

     *

 

 紙を広げていたところに、朝の光が差していた。さっきまで隠れていた床の傷が見える。戸口では、セイバーがこちらを一度振り返った。それから、庭へ目を戻す。

 

 俺は、膝の上の手を開いた。何をするかは決まった。教会へ行く。桜を捜す。聖杯について聞く。そうやって次の仕事が並ぶと、身体は動かせる気がした。

 

 それでも、イリヤが長く生きられないと言った時の声は、胸に残っている。行き先を決めたからといって、薄れてはくれなかった。

 

「シロウ」

 

 イリヤに呼ばれ、顔を向けた。

 

「さっきよりは、息をしてるわね」

「……そんなに、ひどかったか」

「うん」

 

 俺は一度、深く息を吸った。イリヤが見ていたので、少しだけ気まずかった。

 

「今も、平気にはなってない」

「知ってるわ」

「イリヤが普通に話してるから、俺もちゃんと話さなきゃって思うんだけど」

 

 そこで言葉が止まった。イリヤは、急かさなかった。

 

「何をしてても、さっきのことを考える」

「……うん」

「俺、昨日も、次のことばっかり考えてた。桜が落ち着いたらとか、セイバーが治ったらとか。そうしたら、ちゃんと話せるって」

 

「昨日も、ちゃんと聞いたわよ」

 

 イリヤはそう言って、少し目を伏せた。

 

「……好きだって言ったことか」

「うん」

「それは、今日も変わってない」

 

 声を落とすと、彼女がこちらを見た。

 

「今朝、ごはんを一緒に食べられて、嬉しかった」

 

 口にすると、ひどく簡単なことだった。

 

「桜がいなくて、家もあんなになってて。喜んでる場合じゃないって思うけど、それでも、隣にいてくれたのは嬉しかった」

 

 イリヤの目が、少し大きくなった。

 

「わたしも、さっき言ったでしょう」

「ああ。だから、俺も言っておこうと思って」

「シロウって、変なところで律儀なのね」

「嫌だったか」

「そんなこと、言ってないわ」

 

 少しだけ強く返されて、俺は頷いた。イリヤは目を伏せた。白い髪が頬へ落ち、それを片手で払う。俺は、その動きを見ていた。

 

 何か特別なことをしてほしいわけではない。朝、寝癖を直すところを見たり、食べたいものを訊いたり。用事もないのに名前を呼んで、なに、と返してもらったり。そういうことが、この先も続いてほしかった。

 

「俺は、これからもイリヤと一緒にいたい」

 

 言うと、彼女が顔を上げた。

 

「どんな方法があるか、今の俺には分からない。でも、長く生きられないって聞いて、その先を考えるのまでやめたくない」

 

 イリヤの唇が、少し動いた。俺は続きを待った。

 

「……わたしだけ、生きていればいいって話にはしないでね」

 

 小さな声だった。

 

「シロウがいなくなったら、一緒じゃないもの」

 

 何かを言い返そうとして、口を閉じた。さっきまで俺は、助ける方法のことばかり考えていた。必要だと言われたら、自分に出来ることを差し出すつもりだった。それを何もかも見抜かれたようで、息が詰まった。

 

 イリヤは、俺の返事を待っていた。

 

「……ああ。俺もだ」

 

 ゆっくり答えた。

 

「俺も、イリヤと一緒に生きていたい」

 

 今度は、彼女が頷いた。少し下がっていた肩が、上がる。

 

「うん。それなら、いいわ」

 

 そう言った顔を見て、俺はようやく手を伸ばした。イリヤの手の隣へ、自分の手を置く。彼女はそれを見てから、俺の指へ触れた。待っていると、指が重なった。

 

「わたしも、考える」

 

 イリヤが言った。

 

「知っていることを、もう一度。分からないことは、リンにも聞く。シロウにも、ちゃんと話すわ」

「うん」

「だから、分かったふりをしないでよ。シロウ、さっきから難しい顔で頷いてるけど、魔法の話は全部分かったわけじゃないでしょう」

「……それは、そうだ」

「やっぱり」

 

 イリヤが、少し笑った。

 

「訊いて。教えてあげるから」

「頼む。何度か、同じことを訊くかもしれない」

「それは、シロウの覚えが悪いってことにしておくわ」

「厳しいな」

「だって、先生が悪いことには出来ないもの」

 

 指が、握り返された。俺も、小さく笑った。

 

 庭から、遠坂の声が聞こえている。セラが答え、リズの足音が廊下へ向かった。もう少ししたら、俺たちも立たなくてはならない。その間も、イリヤの時間は過ぎていく。握っている手が温かいからといって、その先まで大丈夫だとは言えなかった。

 

 それでも、その手を取ったまま、俺はイリヤを見た。

 

「帰ってきたら、また一緒に食べよう」

 

 彼女は一度俺たちの手へ目を落としてから、顔を上げて頷いた。

 

「うん。わたしの席、空けておいてね」

「隣でいいか」

「そこがいい」

 

 返事を聞いて、頷き返した。朝の光の中で、イリヤの指が、もう一度俺の手を握った。

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