Fate/stay night IF BEYOND THE EVER   作:Мир

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第四 Value Conflict
第二十四話 帰れない場所


 玄関で靴を履いていると、廊下からセラが来た。

 

「桜様がお戻りになったら、こちらでお休みいただきます。お部屋も、そのままにしてありますから」

「ありがとう。具合が悪くても、大丈夫だって言うと思うんだ。出来れば、ちゃんと横になってもらってくれ」

「ええ。承知しています」

 

 セラは答え、俺の後ろへ目を向けた。イリヤが、コートの前を留めていた。

 

「お嬢様も、お気をつけて」

「うん。留守をお願いね」

 

 セラは何かを言い足しかけたように見えたが、イリヤが顔を上げると、一度だけ頭を下げた。

 

 先に庭へ出ていた遠坂が、門の方を見た。

 

「行きましょう」

 

 俺は立ち上がった。道場に残してきた寝床のことが、頭をよぎる。今度こそ、あそこへ連れて帰れればいい。

 

 門を出る時、イリヤが隣に来た。

 

     *

 

 坂の途中で二度目に横を見ると、イリヤはすぐに気づいた。

 

「なに?」

「いや。歩くの、速くないかと思って」

「速くないわよ」

 

 こちらを見上げる赤い目に、少しだけ呆れた色が浮かんだ。

 

「さっきも訊いたでしょう」

「……そうだったな」

「シロウがそっちばっかり見てると、わたしが道を教えてあげなきゃいけなくなるわ」

 

 俺は前を向いた。足もとの道に、小さな段差があった。靴先を引っかけるほどではないが、見落としていたのは確かだった。

 

「分かった。ちゃんと前を見る」

「うん。案内、よろしくね」

 

 いつもの声に、少し息がしやすくなった。今朝聞いたことを忘れられるわけではない。それでも、ずっと顔色を見ていなければ、隣を歩けないわけではなかった。

 

 前を行くセイバーの歩みにも、乱れはない。遠坂は教会のある方を見ていた。その少し後ろを、アーチャーが歩く。

 

 言峰に何を訊くかは、家で決めてある。聖杯に何が起きているのか。前の戦争について何を知っているのか。それから、桜とライダーの行方。何も聞き出せなかった時に、次にどこを捜すか。そこまで考えかけて、俺は坂の上へ目を向けた。教会の屋根が見えていた。

 

     *

 

 門を通ったところで、セイバーの足が止まった。正面の扉が、内側から動いていた。出てくるのが言峰だと思ったのは、一瞬だった。長い髪が、扉の陰から流れた。

 

「ライダー」

 

 遠坂の声が低くなる。

 

 その隣に、もう一人いた。肩へ掛け物を羽織り、片手でライダーの腕を掴んでいる。俯いていた顔が、こちらへ上がった。

 

「桜……!」

 

 俺は歩き出していた。

 

「そこで止まってください」

 

 ライダーの言葉とともに、セイバーの腕が俺の前へ出た。

 

「シロウ」

 

 その声で、ようやく足を止めた。桜がこちらを見ている。昨夜から捜していた顔だった。

 

「先輩」

 

 声が届いた。いつもと同じ呼び方だった。それだけで、胸に詰まっていたものが少しほどけた。生きていた。昨夜のアーチャーの話ではなく、今、自分で顔を見て、返事を聞けた。

 

「桜、身体は。歩いて大丈夫なのか」

 

 桜は答えようとして、足もとを見た。ちょうど入口の段差を下りるところだった。ライダーが腰へ腕を回し、支える。桜はその腕に体重を預けてから、一段ずつ下りた。

 

 二人は、そのまま扉の前には留まらなかった。前庭の石畳を斜めに進み、建物から離れる。俺たちとの間に距離を残したところで、ライダーが止まった。桜はその肩の少し後ろにいる。教会への道を塞いだというより、こちらが近づけば、どちらへでも動ける場所を取ったように見えた。背後には芝地があり、その先で木々の枝が揺れている。

 

 遠坂も、追って近づこうとはしなかった。

 

「中へ押し入るつもりはないわ」

「では、そこで話してください」

 

 ライダーの右手には、短い杭があった。先は下を向いている。繋がった鎖の途中が、指に掛かっていた。

 

 アーチャーは遠坂の斜め後ろで止まっていた。顔はライダーへ向けているが、時折、教会の側面にも視線が動く。

 

 俺は、もう一度桜を見た。朝の日差しの下でも、顔色は悪かった。

 

     *

 

「ここに、いたんだな」

 

 言うと、桜が小さく頷いた。

 

「昨夜、少し……休ませてもらって」

「眠れたのか」

「はい。ライダーが、いてくれたので」

 

 その言葉に、ライダーが僅かに顔を向けた。桜は一度、彼女を見た。それから、こちらへ目を戻す。

 

「先輩たちは、どうして」

「言峰に話を聞きに来たんだ。桜たちのことも、何か知らないかと思って」

 

 桜の目が、少し開いた。

 

「捜して、くれてたんですか」

「当たり前だろ」

 

 強く答えてから、声を落とした。

 

「具合も悪かったんだ。どこにいるか、分からないままになんて出来ない」

 

 桜は掛け物の端を握った。

 

「すみません」

「謝らなくていい。今、苦しいところは」

「今は……大丈夫です」

 

 言いながら、桜の身体が少し傾いた。ライダーの手が、その背を支える。大丈夫という返事を聞いたばかりなのに、こちらへ歩いてきてもらうことさえ、頼みづらかった。

 

「桜」

 

 遠坂が呼んだ。俺より静かな声だった。

 

「昨日より、つらくなってない?」

 

 桜が顔を上げた。遠坂を見て、それから、その後ろのアーチャーを見る。掛け物を握った手が、少し強くなった。

 

「遠坂先輩も……」

「ええ。今朝、みんなで話したの。あなたのことも」

 

 遠坂は、その場から動かなかった。

 

「立ってるのがつらいなら、そう言って。話をするために無理をすることはないわ」

 

 桜は何か答えかけたが、唇を閉じた。その時、教会の扉が風に押され、少し大きく開いた。ライダーの顔が、すぐそちらへ向く。

 

 入口の向こうに長椅子が見えたが、背板の一部が割れ、斜めに落ちていた。遠坂も気づいたらしい。

 

「……綺礼は、どこにいるの」

 

 ライダーに訊いた。

 

「私たちが来た時には、いませんでした」

「中のあれは?」

「すでに、あの状態でした」

 

 俺は扉の奥を見た。

 

「言峰に、何かあったのか」

「私が見たのは、残っていた跡だけです」

 

 ライダーはそう答え、桜の背へ添えた手を動かした。桜の肩が、また少し下がっていた。言峰のことは気になった。だが、目の前で立っているのもつらそうな桜を、そのままにして奥を調べには行けなかった。

 

     *

 

「桜。うちに戻ろう」

 

 俺は言った。

 

「寝るところは、そのままにしてある。昨日の診察も、まだ途中だろ。もう一度、イリヤに診てもらおう」

 

 桜が、俺の隣を見た。イリヤは一歩、俺と並ぶところへ出た。セイバーのすぐ後ろだ。

 

「サクラ。昨夜から、痛むところは変わった?」

「イリヤさん……」

「少し眠れたのは、よかったわ。でも、その後どうなったかは、まだ分からないもの。ちゃんと確かめたいの」

 

 桜は視線を落とした。俺たちの家を出ていった時のことを、気にしているのかもしれない。イリヤは返事を急がせなかった。風に掛け物の裾が持ち上がり、ライダーが指で押さえた。桜は小さく礼を言って、その手もとを見た。

 

「ライダーも、一緒でいい」

 

 俺が言うと、二人とも顔を上げた。

 

「桜を連れて帰って、一人にするつもりじゃない。傍にいてくれた方が、桜も安心するだろ」

 

 ライダーは黙っていた。杭を下げた手は、そのままだったが、桜の肩を抱く力が少し緩んだ。

 

「……セイバーさんは」

 

 桜の目が、俺の前へ向いた。セイバーが答えた。

 

「私のことなら、案じる必要はありません」

 

 桜は、それでも彼女の顔を見ていた。

 

「昨日、あんなに」

「手当てを受けました。今は、桜の身体のことを話しましょう」

 

 桜の唇が、僅かに緩んだ。

 

「……よかった」

 

 その小さな声に、胸の奥が痛くなった。自分だって、こんな状態なのに。

 

「だから、桜も帰って休もう。朝飯は、まだだろ。食べられそうなら、何か作る」

「わたしは」

 

 桜が俺を見た。掛け物を握っていた指が、ほどけた。

 

「先輩、あの」

 

 俺は頷いた。

 

「うん」

 

 桜の手が、ライダーの腕から少し離れた。

 

「桜」

 

 別の声が、その続きを止めた。

 

     *

 

 低い声は、教会の方から聞こえた。桜の手が止まっていた。こちらへ向いていた顔が、ゆっくりと扉へ戻る。

 

「どこへ行く話をしておる」

 

 俺も、声のした方を見た。入口には、誰も立っていない。だが、その下で、黒いものが動いていた。石の継ぎ目を這い、扉の陰から出てくる。一本の線に見えたものが分かれ、また別の線と重なった。

 

 蟲だった。足もとの隙間からも、壁際からも、這い出してくる。それらが、扉の脇へ集まっていた。細い身体が絡み合い、地面から盛り上がる。積み重なったものが崩れるかと思ったが、途中で形を変え、二本の足になった。

 

 声を出せなかった。目の前で起きていることを、見間違いだと思う暇もなかった。

 

 腰が出来る。曲がった背が出来る。黒い隙間が塞がり、皺のある皮膚に変わっていく。まだ指の形をしていなかったものが、胸の前で折れた。俺は息を詰めた。最後に顔がこちらを向いた時には、そこに一人の老人が立っていた。

 

「……間桐臓硯」

 

 遠坂が言った。

 

「ずいぶんと、お揃いじゃな。朝から騒がしいことじゃ」

 

 老人は、世間話でも始めるように答えた。

 

 桜の唇が動いた。

 

「お爺さま」

 

 その呼び方で、聞いた名と目の前の姿が結びついた。間桐の魔術師。桜の身体へ蟲を入れた者が、そこにいた。俺は拳を握った。

 

 ライダーは半歩動いて桜を抱える向きを変え、老人と俺たちの両方へ顔を向けられるようにした。杭の先も、地面から僅かに浮いた。

 

 臓硯はそれを見た。だが、ライダーへ近づこうとはしなかった。

 

「休める場所を見つけてやったというに、もう出ていく相談か。落ち着かぬ子じゃ」

 

 桜の指が、掛け物の端をさっきよりも深く掴み直した。

 

     *

 

「あんたが、ここへ来させたのか」

 

 俺は訊いた。臓硯の目が、こちらへ動いた。

 

「屋根のある所を教えてやっただけじゃ。来たのは桜たちじゃろう」

「だったら、もう休める場所はある。俺たちと帰ればいい」

「ずいぶんと話が早いのう」

 

 皺の寄った口もとが動く。

 

「おぬしは、桜の返事を聞いたのか」

 

 言い返しかけた。聞いていない。桜が言おうとしたところを、この老人が止めた。

 

「今、聞いてたんだ」

「ならば、聞けばよい」

 

 臓硯は桜を見た。

 

「また、あの家へ戻るのか」

 

 同じことを尋ねているはずだった。けれど、桜は俺に向けたようには顔を上げなかった。掛け物の端を見たまま、肩だけが僅かに動いた。

 

「昨夜、出てきたばかりではなかったか」

 

 臓硯が続けた。ライダーの手が、桜の肩へ触れた。

 

「サクラ」

 

 桜は顔を上げ、ライダーではなく俺を見た。

 

「……すみません」

 

 唇の色が薄かった。

 

「わたし、帰れません」

 

 風が、二人の髪を揺らした。俺は一度、口を閉じた。すぐに聞き返すと、その言葉まで潰してしまいそうだった。桜の返事を待っていた。けれど、これは、さっき言おうとしていたことなのだろうか。

 

「どうして」

 

 ようやく訊いた。桜は俺から目を逸らした。教会の入口へ、ほんの少しだけ視線が動く。

 

「これ以上、ご迷惑をかけるわけには」

「迷惑なんかじゃない」

 

 今度は、待てなかった。

 

「具合が悪い時くらい、頼ってくれ。昨日のことだって、桜を追い出す話なんかしてないだろ」

「はい。分かってます」

 

 返事が早かった。言い返そうとする声ではない。俺は、次に何を言えばいいのか見つからなかった。

 

「でも……戻れないんです」

 

 桜は、もう一度言った。臓硯が、低く笑った。

 

「聞いたじゃろう。桜は帰らぬと言っておる」

 

 俺は老人を見た。

 

「あんたには訊いてない」

「本人が答えても、まだ気に入らぬか。おぬしの望む返事をするまで、聞き直すつもりかね」

 

 腹の底が熱くなった。その口で、言うのか。桜の声を止めて、顔を上げられなくして、それから返事だけを俺へ差し出してくる。

 

「桜が何か言おうとした時に、あんたが呼び止めたんだろ」

「家族が声をかけるのも、いかんというのか」

 

 臓硯は、わずかに首を傾げた。俺は桜を見た。怒鳴り合いになれば、桜の話を聞くどころではなくなる。そう思って口を閉じたのに、握った拳は緩まなかった。

 

     *

 

「桜。こっちを見て」

 

 遠坂が言った。桜の肩が、ぴくりと動いた。

 

「臓硯に何を言われたの」

 

 桜は答えなかった。遠坂は一度、息を吸った。

 

「昨日、家を出る前よ。何か言われて、それで出ていったの?」

「……わたしが」

 

 桜の声が止まる。指が、掛け物の布を擦っていた。同じところを何度も撫でている。皺は取れず、ますます細く寄っていった。臓硯は何も言わなかった。それなのに、桜は続きを話さなかった。

 

「今、答えづらいなら、ここで全部話さなくてもいいわ」

 

 遠坂が声を少し落とした。

 

「あとで聞く。だから、まず身体を」

「遠坂の娘」

 

 臓硯が口を挟んだ。

 

「他所の家のことへ、ずいぶん熱心じゃな」

「桜に話してるの。あなたの意見は、まだ聞いていないわ」

 

 遠坂の返事は鋭かった。臓硯の目が細くなる。

 

「あの身体へ手を入れて、何をするつもりじゃ。間桐の術を、どこまで知っておる」

「あなたが教えるつもりなら、今すぐ聞くわよ」

「そう都合よく、家の秘術が手に入ると思うか」

「身体を壊してまで、隠しておきたいことなの?」

 

 遠坂の手が、コートの脇へ動いた。アーチャーが僅かに位置を変えた。彼女の肩に触れはしなかったが、すぐに届くところへ近づいていた。

 

 ライダーも動いた。桜の前へ、杭を持つ手が出る。俺は思わず一歩踏み出した。

 

「待ってくれ。桜の前で」

「近づかないでください」

 

 鎖が鳴った。セイバーが俺の前へ出た。その足が石畳を踏む音に、桜が顔を上げる。

 

「やめてください」

 

 はっきりした声だった。俺たちは止まった。

 

「ここで、戦わないでください」

 

 桜は俺と遠坂を順に見てから、ライダーの腕を掴んだ。

 

「お願い」

 

 ライダーが、桜へ顔を向けた。杭の先が下がる。

 

「……はい」

 

 セイバーも、それ以上は進まなかった。桜は肩を落とし、息を吐いた。掛け物がずり落ちかけるのを、ライダーが押さえる。

 

 俺は、出しかけた手を下ろした。家へ帰ろうと言いに来たのに、桜に戦わないでくれと頼ませていた。

 

「悪い、桜」

 

 謝ると、桜は首を振った。何に対して首を振ったのかまでは、分からなかった。

 

     *

 

「サクラ。少し座れそうなところへ移りますか」

 

 ライダーが訊くと、桜は彼女を見上げた。

 

「まだ……ここで。先輩のお話を、聞きたいです」

「分かりました。ですが、つらくなったら言ってください」

 

 その返事を聞いてから、ライダーは俺たちへ顔を戻した。

 

「答えを急がせないでください。今のサクラに、何度も同じことを言わせたくありません」

 

 俺は唇を噛んだ。ライダーの言うことは分かる。桜の顔色は、ここへ出てきた時より悪く見えた。俺たちが問いかけるたび、返事をしなければと顔を上げる。その度に、臓硯の方を気にしていた。

 

「そうじゃ。ようやく、話の分かる者が」

「あなたにも言っています」

 

 ライダーが遮った。臓硯の口が止まった。

 

「サクラへ近づかないでください」

 

 老人はしばらくライダーを見ていた。やがて、肩を揺らす。

 

「ワシは、ここから動いておらぬが」

 

 老人は教会の入口に立ったままだった。桜へ手を伸ばしてもいない。それでも、桜はあそこを見ていた。

 

 俺は、二人の間の距離を見た。ライダーなら、桜を抱えて一度に離れられるのだろう。けれど、桜はここにいると言い、ライダーはそれを聞いて傍に立っている。俺が走っていけばいいような距離ではなかった。

 

 遠坂の手が、ゆっくりとコートから離れた。

 

「……桜。場所の話は、一度置くわ」

 

 声は落ち着いていたが、顎には力が入っていた。

 

「今、ここで身体の様子だけ確かめてもらうのはどう? ライダーが傍にいたままでいいから」

 

 桜は黙っていた。イリヤが、少し待ってから口を開いた。

 

「いきなり何かするつもりはないわ。昨日から変わったところを、教えてほしいの」

 

 桜はイリヤを見た。それから、また入口へ目を向ける。臓硯は笑っていた。

 

 桜の口が少し開いた。息だけが漏れた。俺は待った。桜の方から何か言ってくれるかもしれない。けれど、彼女はライダーの腕を握り、ゆっくりと頭を下げた。

 

「ごめんなさい」

 

 イリヤは、桜を見ていた。俺の隣で、コートの袖が小さく動いた。差し出しかけた手が、身体の脇へ戻る。

 

「……うん。聞こえたわ」

 

 それ以上、桜へ返事を求めなかった。

 

     *

 

「もう、よかろう」

 

 臓硯が言った。

 

「桜も疲れておる。今日は引き取ってもらえんか」

 

 遠坂が顔を向けた。

 

「綺礼に会いに来たのよ、わたしたちは。あなたが教会の主になった覚えはないわ」

「おらぬ者に会うことは出来まい」

「あなたが追い出したの?」

 

 臓硯は答えなかった。開いた扉の奥が、暗く見えた。その陰を、アーチャーが見ていた。

 

「凛。位置は変えるな」

 

 短く言う。

 

「分かってる」

 

 遠坂は振り返らなかった。俺も、教会へ意識を向けた。見えているのは老人一人だ。だからといって、中にほかに誰もいないと、確かめた者はいない。今ここで言峰を捜そうとして、別々に動くことは出来なかった。

 

「桜」

 

 俺は呼んだ。彼女が顔を上げる。

 

「戻ってきちゃいけないなんて、思わないでくれ」

 

 桜は、少しだけ目を見開いた。

 

「今、うまく話せなくても、それで帰る場所がなくなるわけじゃない。俺は、部屋を片づけたりしないから」

 

 返事はなかった。掛け物を握っていた指が、一度だけ動いた。何が彼女を止めているのか。まだ、聞けていなかった。

 

「聞こえんのか、小僧」

 

 臓硯の声がした。

 

「桜は帰らぬと言っておるぞ」

 

 俺は顔を上げた。

 

「聞こえてる」

 

 自分でも、驚くほど低い声だった。

 

「だから、桜に言ったんだ。あんたに返事を頼んだんじゃない」

 

 臓硯の目が、俺を見た。その隣で、扉が小さく軋んだ。

 

 俺は桜から離れたくなかった。連れて帰れなかったから、またあとで。そう言ってこの坂を下りることは、出来そうになかった。

 

     *

 

「ずいぶん、サクラの返事が気になるのね」

 

 イリヤが言った。臓硯へ向けた声だった。

 

「黙っていても、あなたが続きを言ってあげるの?」

 

 老人の目が動く。隣で、イリヤが赤い目をまっすぐ臓硯へ向けている。

 

「アインツベルンの娘か。おぬしまで、他所の家の娘に手を貸すとはな」

「昨日から、そのつもりだったわ」

 

 イリヤは答えた。

 

「身体を診るところで、話が止まってしまったの。わたしは、その続きをしたいだけ」

「間桐のことは、間桐に任せておけばよい」

「あなたに任せた結果が、今のサクラなの?」

 

 臓硯は、笑みを消さなかった。だが、返事は少し遅れた。

 

「若い者は、途中で物事を決めつけたがる。おぬしは、この娘の何を知っておるのじゃ」

「昨日、診られたところだけよ。だから、続きを確かめたいって言っているでしょう」

 

 イリヤの声は変わらなかった。

 

「分からないところは、あなたに聞けば教えてくれる?」

「それを知って、どうする」

「苦しんでいるところを、少しでも楽に出来るか考えるわ」

 

 臓硯は、遠坂、アーチャー、セイバーとこちらを見渡した。俺のところで視線を止めず、またイリヤへ戻る。

 

「おぬしが、そこまでしてやることか」

「わたしが、そうしたいの」

 

 俺はイリヤを見た。イリヤは臓硯の次の言葉を待ち、その目を見返していた。朝、道場で自分の身体について話していた時と、同じ横顔だった。けれど、俺へ教えてくれた時の柔らかさはない。

 

「まったく。器の方が、余計なことを覚える」

 

 臓硯の呟きに足を踏み出しかけると、イリヤの指が袖へ触れた。それだけで、俺は止まった。

 

 彼女はこちらを見なかった。

 

「マキリ」

 

 静かに呼んだ。

 

「家のことだと言うなら、あなたも答えて」

 

 遠坂がイリヤを見た。イリヤは臓硯から目を離さない。

 

「サクラの身体に、何をさせようとしているのか。わたしたちは、その話をしているのよ」

「知ったような口を」

「聖杯のためでしょう」

 

 臓硯の口が止まった。桜が、顔を上げた。イリヤは、そちらを一度見た。桜は黙って、二人の会話を聞いている。

 

 何が桜の身体へ入れられ、どこへ繋がっているのか。今朝、俺たちが確かめきれなかったことを、目の前の老人は知っている。イリヤは、その老人へ向き直った。

 

「わたしたちが調べようとすると、邪魔をする。サクラが何を答えるかも、そばで聞いている。そうまでして、続けたいことがあるのでしょう?」

 

 臓硯は答えなかった。

 

 イリヤの指が、俺の袖から離れた。

 

「サクラをこんなふうにしてまで、聖杯に何を願うつもりなの?」

 

 前庭を渡る風が、足もとの枯葉を運んだ。桜の隣で、ライダーが教会の入口を見ていた。俺も、臓硯の顔から目を離さなかった。

 

 臓硯の口もとに残っていた笑いが、ゆっくりと消えた。

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